2010年07月10日

龍馬が愛した可愛い姪 坂本春猪

po_harui.gif坂本春猪は天保十四年、坂本龍馬の長兄・権平(龍馬伝では杉本哲太)とその妻・千野(龍馬伝では島崎和歌子)の娘として生まれる。龍馬は叔父にあたるが八歳しか歳が離れておらず妹のように接してした。(龍馬伝では春猪役にAKB48の前田敦子)現在確認できる手紙は二通残っているがどれも龍馬が春猪を茶化すような文面で尚且つ愛情のこもった手紙になっている。手紙の内容は面白く春猪の顔のあばたを金平糖の鋳型のようだといったり、長崎から西洋のおしろいを贈る約束をしたり、また春猪がかんざしをねだったりと仲の良い兄妹のようだった。文久三年、春猪は土佐藩家老山内下総の家来・鎌田実清の次男・清次郎を婿養子に迎える。その後、元治元年に長女・鶴井を慶応元年に次女・兎美を生んだが夫・清次郎は脱藩して長崎の龍馬の元へ走り海援隊に入隊する。しかし、清次郎は使い物にならず龍馬は姉・乙女に「何も思惑のなき人」と低評価の手紙を出し土佐へ帰るように説得する。明治三年に土佐に戻った清次郎は脱藩罪で禁足となるが直ぐ赦免され坂本家を離れ実兄が亡くなった為に実家の家督を継いで三好賜と改名(後に清明)したために妻の春猪も三好登美と名を改める。その後、三好家の長男として譲をそして長女を亀代を生む。夫・清次郎はその後自由民権運動に傾倒するが広島に移って逝去する。春猪は坂本家の長女・鶴井(この時はもう鶴井は亡くなっている。)の夫で坂本家を継いだ直寛(坂本直寛は龍馬の姉・千鶴の次男で高松太郎の弟、坂本家を継いで自由民権運動家だったが北海道開拓の為一族を率いて北海道に移り住んだ)を頼って北海道に移り住むが直寛の後妻とあわずに土佐へ帰る。その後、三好家で生んだ亀代が後妻に入った税務官吏・楠瀬済の家で晩年を過ごし大正四年に逝去する。享年七十一歳・・・・
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2010年07月09日

坂本龍馬の現地妻 お元・お蝶・お徳

坂本龍馬の恋人だった平井加尾や婚約者の千葉佐那、妻になった楢崎龍など龍馬の愛した女性は有名ですが、長崎丸山芸妓のお元の生年没日は伝わっていない。肥前の国茂木(現・長崎県茂木町 びわで有名な所)の出身で丸山芸妓の数ある中でも特に琴や三味線がうまく、よく気の付く美貌の持ち主だったといわれている。龍馬ははじめ亀山社中(後の海援隊)の本部のある小曽根乾堂の屋敷でお龍と共に住んでいたが諸事情(紀州藩船衝突事故の処理など)によってお龍を下関の豪商・伊藤助太夫の屋敷に預けていた。妻・お龍がいなくなって身軽になった龍馬は丸山芸妓のお元と暮らし長崎での多忙な生活の安らぎの場とした。また、亀山社中が船を失い経営難に陥った打開策として龍馬は土佐藩参政で龍馬ら元土佐勤王党の宿敵・後藤象二郎との会談(清風亭会談)の席で後藤は龍馬の緊張を溶かす為にお元を同席させたといわれている。その後、龍馬は後藤と意気投合し二人で京都に向けて出航(船中八策)し京都近江屋で暗殺されてしまうまでお元は龍馬と会うことはなかった為、その後の詳細はわかっていない。また、龍馬は長崎滞在時代に錦路という芸者とも深い関係になったといわれているが詳しくは不明。他に龍馬は京美人で公家の腰元をしていたお蝶という女性を江戸へ連れて行き江戸浅草蔵前町に居を構えて現地妻としたと土佐勤王党の同志・大石弥太郎は回顧録で語っているし、また土佐にいたころ(平井加尾と交際中?)に高知城下の漢方医・岩本里人の娘・お徳という女性と深い関係になったといわれている。お徳は中村小町と評判の美貌で龍馬は結婚を申し込んだがあっさりと断られたという。(お徳はその後、美貌を聞きつけた山内容堂公の側女・音丸の付け女中となり容堂のお手付きとなるも回りからの嫉妬の為に暇をとって大坂に出て水戸藩士・野村信之と結婚するが夫と死別後は故郷の高知中村に戻り昭和十四年、九十七歳の長寿を全うしたという。この時代、倒幕のために多忙を極めた偉人達は各地で現地妻を持っていて心の拠り所にすると共にその地の情報収集などに利用したといわれている。西郷隆盛は京都滞在中、お虎という丸々と太った祇園の芸妓を贔屓にしていたが料亭で下働きをしていた巨漢のお末という女性に一目惚れ、その女性を妾としその体型から「豚姫」と呼ばれたという。また、大久保利通は京都祇園の料亭一力亭の主人・杉浦治郎右衛門の娘で杉浦勇(おゆう)という女性を愛人とし、四人の男子を産ませている。
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2010年07月05日

龍馬の兄貴分でよき理解者 溝渕広之丞

MizobuchiHironojo.jpg溝渕広之丞は文政十一年、土佐国土佐郡江ノ口村の郷士(下士)の家にに生まれる。(龍馬より八歳年上だった。)嘉永六年、江戸へ剣術修行に出る坂本龍馬に同行して江戸へ出る。(一説には溝渕は先に江戸の千葉道場に入門していたが一旦土佐に帰っていて龍馬の父・八兵に頼まれて江戸へ同道したといわれている。)溝渕は千葉道場で剣術修業をする一方で軍学家の佐久間象山塾に入門して西洋砲術を習う。また、龍馬にも佐久間象山を紹介して入門をさせ砲術や蘭学を学んだという。しかし翌年には吉田松陰の米国軍艦密航事件に連座し投獄された。その後、脱藩した龍馬とは接触なく溝渕は土佐藩で勤勉に砲術の修行を重ねた。慶応二年、溝渕は藩命によって長崎に赴き砲術や舎密学(せいみがくと読み今でいう化学)の修行に励み時勢探索なども行った。この時期に龍馬も長崎で亀山社中を創設し滞在していたので溝渕と龍馬は久しぶりの再会となり溝渕は長崎での竜馬の活動を支えた。また、龍馬の紹介で長州藩の桂小五郎と面会を果たしかつて土佐勤王党粛清弾圧によって時勢に乗り遅れていた土佐藩と長州藩の接近に尽力した。あるとき溝渕は龍馬と共に長崎の道を歩いていると前方から来る土佐藩海軍幹部の武藤某に気づき身を隠した。溝渕はそんな龍馬をいぶかり問い質したところ脱藩者の胸中を記した手紙を貰う。溝渕はその手紙を武藤に見せ理解を求め長崎に来ていた土佐藩参謀の後藤象二郎との会談を画策する。元土佐勤王党を弾圧粛清し親友の武市半平太をしに追いやった後藤を恨んでいた竜馬と土佐藩の身分制度に固執し下士である坂本龍馬を虫けらくらいにしか思っていない後藤とを長崎清風亭で合わせることにした。龍馬としても亀山社中の経営に行き詰まり資金難で困っていたし後藤象二郎も時勢に乗り遅れた土佐藩の挽回の為、薩摩藩や長州藩に顔の効く龍馬と手を組むほうが得策との利害関係が一致した。清風亭会談には場を和ませる為に龍馬の馴染みの丸山遊郭の芸者・お元を同席させるなどの配慮を見せた。龍馬と後藤は意気投合し後の船中八策に繋がる。坂本龍馬にとっても資金難の亀山社中から土佐藩の援助により海援隊として再出発をきった人生の転機を溝渕広之丞が担ったといえる。慶応三年、藩命により溝渕は土佐藩に帰国して藩の持筒役として藩兵に砲術を指導し下士から上士となる?。(身分制度に厳しい土佐藩ではこれは事実とは考えにくい)維新後は隠棲し三ヵ月ほど会計士を務めるが辞任したあと養子を迎えて以後四十年間隠遁生活をおくる。享年八十一歳で生涯を終えた。維新後の生活に弟分の龍馬の暗殺が影響しているかもしれないが土佐の三伯といわれる後藤象二郎・板垣退助・佐々木高行よりも溝渕広之丞のほうがはるかに維新の立役者だったのかも知れない。
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2010年06月27日

龍馬が母と慕った寺田屋の女将 お登勢

o0240032010465758648.jpgお登勢は文政十二年、近江国大津(現・滋賀県大津市)で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれる。十八歳で京都伏見の船宿・寺田屋六代目伊助に嫁ぐが伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったという。寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗船宿(伏見の船宿は淀川から三十石船で航行する乗客の食事代や手数料、宿泊料で生計を立てていた。)で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿であったがお登勢はこの船宿を一人で切り盛りをしていた。また、お登勢の接待目当ての客も多く早くから薩摩藩の定宿になっていたという。元治元年、夫伊助は放蕩が祟り三十五歳の若さで没すると一男二女を育てながら更に五人の捨て子を自分の子供と隔てなく育て上げたという。生来の性格から頼まれたことは嫌とはいわず身分の隔てなく面倒を見た(特に尊王攘夷の志士達を多く匿い幕府には危険人物と見なされた)為に入牢させられかけた。文久三年、薩摩藩尊王派(主に精忠組)の暴発前に島津久光の命によって鎮撫使を差し向けた事件(寺田屋騒動)の折にはお登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には通常商いを始めたという。薩摩藩は多額の迷惑料を支払ったが騒動で亡くなった有馬新七ら九人の法要を行わなかった。お登勢は九人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養した為に薩摩藩士達に信頼され、当時幕吏に狙われていた坂本龍馬の庇護を頼まれた。(当時の薩摩藩は幕府側の立場的に伏見藩邸に龍馬を置いとけなかった。)禁門の変後、京都の半分は焼け出された。この時龍馬はお登勢に行く場所の無い楢崎龍の面倒を頼んだといわれている。お登勢は快くお龍の面倒を見お龍をお春と呼んでわが娘のように可愛がった。また、龍馬もこの寺田屋を我が家のように出入りしお登勢の実子・殿井力の懐述によれば龍馬が居るだけでお登勢は生き生きとして匂い立つ湯王だったといい龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んでいたらしい。龍馬が二階に居る時はお登勢の子供達はよく遊びに上がり龍馬の面白い話を聞いたという。慶応二年、幕府の捕方による寺田屋襲撃の時にはお登勢は捕方によって屋外に連れ出されどうすることも出来なかったがお龍の機転によって怪我を負いながらも逃走した。龍馬はお龍と共に薩摩の船で鹿児島へ渡った後もお登勢とは書簡のやり取りが続き龍馬は残してきたお龍の母や妹達の世話を頼みお登勢はそれに答えて生活の援助をしたという。龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護していた。明治十年、お登勢は四十九歳の若さで亡くなった。龍馬は「学問のある大人物也」と高く評価し勝海舟は大胆かつ繊細な人物と書き残している。
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2010年06月09日

龍馬と親交の深かった土佐上士 佐々木高行

Takayuki_Sasaki_cropped.jpg佐々木高行は文政十三年、土佐国吾川郡瀬戸村(現・高知県高知市)に土佐藩上士・佐々木高順の次男として生まれる。通称は三四郎として幕末を駆け抜ける。生前に父親を亡くし苦境の中、国学を鹿持雅澄に学び(同門で土佐勤王党の武市半平太と知り合う)麻田勘七に剣術を習った。二十五歳の時に江戸へ遊学に出て安井息軒らに学んで視野を広げた。(鹿持雅澄や安井息軒らに学んだことで勤王思想に目覚めたと思われる)遊学を終え土佐に帰った高行は郡奉行、普請奉行、大目付を経て大監察に任命される。大監察時代は土佐勤王党とたびたび会談を持ち武市半平太と親交を深めた。(佐々木は上士でありながら尊王思想を持ち同門の武市に理解があった。)しかし、八月十八日の政変以後公武合体派が力を持ち佐幕派の山内容堂は土佐勤王党の弾圧を始めた為に佐々木は次第に勤王党と距離をとり始めた。だが幕府による長州征伐が起こると藩主・山内豊範が妻(長州藩主・毛利敬親の娘)を離婚しようとした時には佐々木は猛反対し土佐藩と長州藩の絆を辛うじて守った(
後に離婚して上杉家の娘を継妻とした)。また、坂本龍馬との出会いは長崎で龍馬の亀山社中の経営不振に陥った時で土佐藩が援助することになった為(この時から海援隊と改名し土佐藩の交易及び海軍の役目も負う)、佐々木は海援隊を監督する立場で長崎に赴任する。龍馬とは大変気が合い佐々木の下宿先によく龍馬が泊まりに来たらしい。この時期から再び佐々木に勤王意識に火がつき海援隊の勤王派を援助、京都留守居役時代には中岡慎太郎の陸援隊の屯所を藩に無断で提供したり彼等の信頼を得て薩土盟約や大政奉還の助言を土佐藩山内容堂に進言した。また、坂本龍馬の紹介により長州藩の桂小五郎と面会したり中岡慎太郎の口利きで岩倉具視と協議したという。龍馬と中岡の暗殺後、佐々木は一時的に海援隊を預かり戊辰戦争時、一部海援隊士を率いて長崎奉行所を占領するなど倒幕に尽力した。明治維新を迎えると佐々木は参議、司法大輔を務め明治四年に岩倉使節団の一員として欧米各国を視察した。帰国後は侍補に就任(幕末の佐々木三四郎の思想であった天皇親政に動き出す)、薩長による門閥政治を批判し谷干城や元田永孚と共に「天皇親政運動」を主導して伊藤博文らの排除に動いた。しかし、薩長閥の巻き返しによる明治十四年の政変で敗れ侍補を辞任した。その後、佐々木は明治天皇の信任が厚く天皇の意向によって参議兼工部卿に就任した。工部卿時代には電話創業の必要性を知り発議するなど先見的運動を起こす。明治十七年、維新以来の功績により伯爵を授かり土佐三伯(板垣退助、後藤象二郎)の一人に数えられる。翌年から内閣制度が始まると閣外に出て宮中顧問官、次いで枢密顧問官に就任。この時期、大正天皇をはじめ皇子、皇女の養育係主任を務めた。明治二十九年、関係者の強い要望によって当時経営状態が悪化していた皇典講究所(後の国学院大学、日本大学、近畿大学)の第二代所長に就任して経営再建に尽力した。明治四十二年に侯爵を拝命するが翌年、八十歳で病没する。佐々木高行は天皇親政派の政治家として薩長門閥政治を批判しながらも「薩長門閥派VS自由民権派」の対立による国内分裂を防ぐ為に調整役に務めた優れた政治家であった。
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2010年06月08日

龍馬の親友で槍の達人 三吉慎蔵

miyoshi.jpg三吉慎蔵は天保二年、長州支藩長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男・友三郎として長府横枕に生まれた。天保八年に田辺惣左衛門の養子となったが後に復籍する。嘉永二年に萩の明倫館に入学、長州本藩の師範・小幡源左衛門から宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け名前を慎蔵と改める。安政四年、長府藩士・三吉十蔵の養子となり藩主・毛利元周の近侍扈従役として江戸へ随従する。江戸では江川太郎左衛門について西洋砲術を学び文久三年、馬関の外国船砲撃事件で大砲鋳造掛御締方兼精兵隊肝煎に就任する。慶応二年、長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬と知り合った。慎蔵は京都の情勢を探るよう長府藩主の命を受け龍馬とともに馬関を出発し入京する。伏見の寺田屋で龍馬と会談中に伏見奉行所捕方百数十人の襲撃を受ける。後に龍馬の妻になるお龍の機転によって脱出し龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦、左手指に重傷を負う。慎蔵は得意の槍で応戦しながら龍馬を材木小屋に隠し単身薩摩藩邸に走り龍馬の危機を知らせ助けた。薩摩藩に匿われた龍馬とお龍、三吉慎蔵らは大坂から薩摩藩の軍艦・胡蝶丸に乗って鹿児島を目指した。途中、下関で慎蔵は下船し藩主に京都の情勢を報告した。慎蔵は寺田屋の功により長州藩主・毛利敬親より刀を下賜され長府藩からは二十石の加増、同藩目付役に任ぜられた。第二次長州征伐が始まると慎蔵は長府藩五番大隊軍監兼応接、六番遊撃大隊軍監に就任した。高杉晋作の指揮の下で幕府軍小倉藩と戦い勝利した。慶応三年、いろは丸事件の解決のため長崎から土佐に向かう途中に寄港した龍馬は海鮮問屋の伊藤家にお龍、君枝姉妹を預けもしもの後事を託した遺書らしき内容の書を親友・三吉慎蔵に残した。龍馬の死後、約束通りにお龍、君枝姉妹を実家に引取って面倒を見、龍馬の希望通りに妹君枝を海援隊士・千屋寅之助に嫁がし、お龍を土佐の坂本家に送り届けた。(後にお龍は坂本乙女と気が合わず家を飛び出す)維新後は豊浦藩(長府藩)権大参事を務めた後、長府藩主毛利家の家扶となり上京、廃藩置県後は毛利家家扶のまま北白川宮家御用掛として出仕し北白川宮家家扶後に家令として明治二十三年まで務め辞任。毛利家当主・元敏の帰郷に伴い慎蔵は長府江下に居を移す。明治三十四年に三吉慎蔵は病没、享年七十一歳・・・三吉家は代々法華寺に墓所があるが藩主・元敏より功山寺に墓所を給う。慎蔵はそれほど藩主の信頼が厚い人物であったと推測される。
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2010年03月01日

吉田東洋を暗殺した男 那須信吾

po_nasu.jpg那須信吾は文政十二年、土佐藩家老の深尾和泉守重良の家臣・浜田宅左衛門光章の三男として生まれる。六歳の時に父が病死してからは兄・金治充美(田中光顕の父)に養育される。信吾は当初医学を志し主家である深尾家典医主座・山崎燮堂に弟子入り剃髪し信甫と名乗る一方で剣術を古沢八右衛門に学び身の丈六尺(182cm)を生かし見る見る力をつけ「天狗様」とあだ名されるほどだったという。更に修行を積むため高知城下に出た信吾は坂本龍馬が通っていた日根野道場に通うようになる。(この頃に坂本龍馬の人柄に惚れ傾倒したと思われる。)安政二年、梼原村の郷士・那須俊平に見込まれ俊平の娘・為代と結婚し婿養子に迎えられる。那須俊平は土佐藩随一の槍の名手で多くの門弟を抱える道場を構え信吾も稽古に励んだという。その後、信吾は武市半平太の道場に入門し勤王思想に傾倒していき文久元年に土佐勤王党が結成されるとこれに加盟する。(吉田東洋暗殺実行犯としてその名簿からはずされている)文久二年、土佐藩の暗愚を痛切に感じていた坂本龍馬は脱藩を決意し、先に脱藩したが武市瑞山に報告する為戻っていた沢村惣之丞と共に高知城下を出発し梼原村に到着、那須屋敷にて一泊した。翌朝、信吾は父・俊平と共韮ヶ峠まで道案内をして脱藩を助けた。信吾はその一ヵ月後、武市瑞山の命により吉田東洋暗殺の実行部隊に選抜され安岡嘉助、大石団蔵らと共に吉田東洋を待ち伏せる。吉田は藩主・山内豊範の参勤交代前の最後の講義の為、酒肴が振舞われほろ酔い気分で下城、自宅付近で襲撃したという。東洋暗殺に成功した信吾はあらかじめ旅支度をしていた為にすぐさま脱藩して長州藩領に入った。下関の白石正一郎邸にて養父・俊平に暗殺の詳細やその後のことを手紙に書き送った。(表向き、俊平は信吾の行動を非難したが密かに槍術免許皆伝書を授け交流を続けたという。)白石邸を出た信吾は船で讃岐、兵庫を経て大坂の長州藩邸に潜伏し吉村寅太郎と合流した。文久三年、攘夷親征の為孝明天皇の大和行幸が計画されると京都方広寺にて天誅組を結成する。首領に元侍従・中山忠光が就き吉村寅太郎が総裁、信吾は監察役に就任する。土佐脱藩浪士が多数参加し後の海援隊士・池内蔵太らも加わった。天誅組は京を出立し天領である吉野七万石の五條代官所を襲撃、代官の鈴木源内らを殺害し近くの桜井寺に本陣を構えた。しかし、公武合体派の巻き返しによる八月十八日の政変で大和行幸の延期が決まる。今更引っ込みがつかなくなった天誅組はそのまま戦いを続け朝敵とみなされ幕府による追討令が出されてしまう。賊軍となって孤立した天誅組は奮戦を続けるが劣勢に追い込まれ那須信吾は鷲家口で槍を振るって戦うが敵兵に狙撃され戦死する。享年三十五歳・・・養父である那須俊平は信吾が戦死した後、土佐藩父・山内容堂ら公武合体派の巻き返しで土佐勤王党が壊滅状態となり吉田東洋暗殺の追及が激しくなった。暗殺に那須家が関わっているとの噂が広がり周りの者達の説得もあって俊平は脱藩を決意、長州藩に匿われる。その後、他の志士達と共に京都に出て蛤御門の変では得意の槍をふるって戦うが鷹司邸前にて溝に足を取られたところを越前藩兵に首をとられたという。
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2010年01月19日

武市半平太が愛した妻・富子

tomiko2.jpg武市富子は天保元年に土佐藩郷士・島村源次郎の長女として城下の新町田淵に生まれる。弟には後に土佐勤王党に加盟した島村寿太郎がおり、父・源次郎の弟で叔父の島村寿之助は土佐勤王党の参謀となった。また、従兄弟の島村外内、衛吉兄弟は土佐勤王党員、叔母(父・源次郎の妹)佐尾子は坂本龍馬の父・八平の実家・山本家へ嫁ぎ山本琢磨を生んだ(山本琢磨は江戸で龍馬や半平太に助けられた)為に龍馬とも遠縁になる。富子の実家・島村家は武市家と同じくらい裕福で富子の妹は上士の一之瀬源兵衛(留守居組)に嫁ぎ後に源兵衛は上士では三人目の土佐勤王党員になった。(土佐勤王党は武市、坂本龍馬ら下士や庄屋、足軽など身分の低い者らで構成)嘉永二年に十九歳で武市家へ嫁ぎ半平太の祖母と共に暮らし始めた。嘉永三年に半平太は仁井田吹井の屋敷を引き払い富子の実家の近く、高知城下新町田淵に移り住んだ。坂本龍馬がよく武市家へ遊びに来たとき尿意を催した龍馬ははだしで庭に駆け下り小便をした為、庭が臭くなるとたえず小言を言ったという逸話が残っている。また、振る舞い柿の話も残っており、坂本龍馬はお盆に乗せてある柿を無浅慮にかぶりつきヘタの渋い所も平気で平らげた、面白いので知らぬ顔をして見ていると次の柿からは自分で美味しい所だけ切り取って食べていた、中岡慎太郎は龍馬とは正反対で礼容を崩さず柿をすすめても「かたじけのうござる。」というだけで柿には一切手をつけなかった。吉村寅太郎に至ってはすすめられるまま手をつけおせいじを交えながら美味しそうに食べていたという人間観察評を語り残した。吉村寅太郎が子供が出来ない半平太を心配し富子を説得して実家に帰し、その間に容姿のいい女性を何人も女中として武市家へ送り込んだという。しかし、半平太は女中には一切手をつけず寅太郎の策略に気づき叱り飛ばしたという。半平太は誠実で武士の妻としての心得を説く半面、大変やさしくつけこまやかな心配りを見せた京都で公卿相手に活躍中でも半平太は絹地の着物を買うときには土佐にいる富子に手紙を送り何かに理由をつけて富子に弁明している。この状況から普段から半平太は富子の尻に敷かれ、家計は富子が握っていたことが解る。こんな幸せな生活も十四年で終わり、文久三年に武市半平太は投獄されると富子は足掛け三年もの間毎日三食欠かさず弁当を作り南会所の牢獄へ届け心の慰みとして花やホタルなども届けたり手紙や歌の交換を牢番を通して行われた。また、富子は半平太が投獄された日から畳では寝ず板の間に冬でも布団を使わず、夏は蚊帳をかけないという生活を続け夫と辛苦を共にしたという。慶応元年、夫・半平太の切腹が決まると富子は手縫いの着物と裃、乗り物などを届け弟の島村寿太郎と甥の小笠原保馬に介錯を頼み遺体が駕篭に乗って帰ってくると一年九ヶ月の再会となった。夫・半平太の切腹に伴い、士族籍剥奪と家禄打ち切りとなり家財も没収された富子は新町田淵の屋敷を手放し城下の長屋に引っ越した。裁縫と羽子板の押絵で生計を立て細々と暮らしたという。(富子の押絵は出来栄えがよく評判になり売れたという。)明治十年、ようやく特旨が出て夫・半平太の名誉が回復され、明治二十四年に武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎の四人に正四位が贈られが養子に迎えていた半太は日露戦争にとられ一人四畳半の長屋での生活が続いた。明治三十九年に宮内大臣を務めていた元土佐勤王党の田中光顕(当時の名は浜田辰弥)が富子を探し当て一家を遇した。田中は東京に出来た瑞山会の支援も受け戦争から帰国した半太に医師免許を取らせ故郷の梼原村で開業させた。富子と移動するとき田中は富子を馬に乗せ自分は大臣の身でありながら徒歩で付き添ったという。それほどまでに田中は武市半平太に傾倒し尊敬していたという。この頃になると富子の生活も幾分かは楽になりお酒も多少嗜むようになった、お酒が入ると富子は三味線を弾きよさこい節を唄ったという。大正六年に波乱の人生に幕を引いた。享年八十六歳・・  武市半平太・富子夫妻には実子が無く土佐勤王党の党員・岡甫助の子・永次郎を養子に迎えたが色々な事情から離縁となり紆余曲折の末、富子の弟(島村寿太郎とは別)の笑児の地縁によって明神睦衛という人が半太と改名して養子に入り武市家を継いだ。
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2010年01月08日

土佐勤王党創始者 武市瑞山

20090104215944.jpg武市瑞山は通称・武市半平太といい文政十二年、土佐藩郷士・武市正恒の長男として土佐国吹井村(現・高知市仁井田)に生まれる。半平太の代には郷士(下士)の中でも上士に準ずる白札郷士であった。半平太は九歳の時に叔母・菊の嫁ぎ先である土佐藩を代表する国学者の鹿持雅澄の開いた私塾・古義軒に入門、その後叔父門下の徳永千規について国学、南学を習う。剣術は一刀流の千頭伝四郎や麻田勘七に学び免許皆伝を授かる。西洋砲術の大家であった徳弘薫斎にも入門して坂本龍馬や龍馬の兄・権平と共に学ぶ。(徳弘には日本画も手ほどきを受けた。)弘化二年、父母の急を聞き城下より帰郷、母の看病を昼夜を問わず続けたという。しかし、その甲斐もなく父の死後、一月後に母の他界したため、家督を相続し白札郷士として出仕する。半平太は残された祖母を安心させる為に妻を娶ることにし、父母を看取った医師・楠瀬小枝の縁を通じて島村富子と結婚する。その後、吹井村の屋敷を閉め祖母と妻を連れて城下の新町田淵に移り住み剣術道場を開く。門弟には岡田以蔵らが居り、後の土佐勤王党の母体となる(剣技や指導力が藩庁に認められ各地に出張教授に出向き中岡慎太郎なども門下に加える)。その後、藩庁の許可を得て江戸に剣術修行に出て江戸三大道場の一つ鏡心明智流の桃井春蔵の門下となり塾頭も務める。半平太は江戸で長州藩の桂小五郎や高杉晋作と交流を持ち次第に尊皇攘夷思想に傾く。桃井道場の内弟子で半平太の妻・富子の遠縁の山本琢磨の紹介で坂本龍馬と江戸で再会、(山本琢磨は坂本龍馬とも親戚筋)山本琢磨が江戸で起こした強盗事件の後始末で龍馬と半平太は急速に親しくなったという(お互いあだ名で龍馬の背中の毛が多いことから「あざ」半平太の顎が張っていることから「あぎ」と呼び合った。)山本琢磨は酒に酔って道ですれ違った相手と喧嘩になり相手が置いていった時価十両の懐中時計を質屋に売り飛ばす事件が発覚、これが土佐藩庁に知れて切腹の危機に面したが半平太と龍馬がお金を出し合い弁償し琢磨を逃亡させた。)その後、江戸修行期限の一年が過ぎた半平太は再度修行延長を願い出るが祖母が体調不良と知るや直ぐに帰藩した。万延元年に祖母が八十九歳で他界し喪が明けると直ぐに藩庁に西国遊学の許可を得る。許される半平太は岡田以蔵や島村外内(富子の叔父の子)らを引き連れて備前・美作・長州・九州を歴訪し帰藩する。嘉永六年、ペリーの黒船が浦賀に来航し開国を迫ると大老の井伊直弼は朝廷が反対する日米通商条約を無断で調印しさらに将軍継承問題に関与していた土佐藩主山内容堂らを隠居謹慎処分とした。(安政の大獄)藩命で江戸で砲術修行をしていた大石弥太郎はこの問題に憤り、土佐の半平太に手紙を送った。半平太は直ぐに剣術修行の名目で藩の許しを得て江戸へ出て水戸藩士や長州藩士らと国事について相談、各藩の藩主を擁立して入京し尊王攘夷を朝廷の命で実行するように迫ることを誓って帰藩する。帰藩した半平太は同志を募り土佐勤王党を結成する。しかし、下士だけではどうすることも出来ないと悟り、上士の中でも尊王思想を持つ谷干城や福岡孝弟と面会し協力を仰いだ。土佐藩の参政・吉田東洋と面談し時世を説くが土佐藩と薩摩や長州藩とは立場が違うといって退けられる。半平太は長州藩の萩に坂本龍馬や吉村寅太郎を派遣し書簡のやり取りをした。そこで薩摩藩の島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛することを聞き、そのことに便乗して挙兵しようとの企てに久坂玄瑞は決起に加わることを告げられる。吉村は佐幕派の土佐藩を脱藩して加わろうと決意し帰藩、半平太に共に脱藩を勧める。しかし半平太は土佐一藩挙げての勤皇を目指し単独の脱藩を拒絶、吉村にも藩に留まるように説得するが吉村の決意は固く、賛同する沢村惣之丞等と脱藩、数日後に土佐藩の限界を感じた坂本龍馬も脱藩し多くの土佐勤王党同志は離脱する。しかし、土佐一藩勤王の決意が固い半平太は起死回生の為、旧藩主・山内豊資を擁する一派を味方につけることに成功、土佐藩政から吉田東洋派を一掃する計画を企てる。半平太の命で吉田東洋暗殺計画が進められ那須信吾らが吉田東洋暗殺に成功、藩政は半平太の息のかかった保守派が人事を進め、吉田東洋派の後藤象二郎や福岡孝弟らが排除された。しかし所詮身分の低い下士では藩政を動かすことが出来ず朝廷の力を借りて藩主・豊範を入京させ土佐勤王党の目的は一応は達成した。藩主・豊範に従って入京した半平太は他藩応接役となり多くの勤皇志士たちと交わる一方で開国論者や公武合体派を「天誅」という暗殺行為に関与した。(半平太は吉田東洋を暗殺することによって土佐藩政を牛耳ることが出来た為、暗殺を最高の手段と思い込み岡田以蔵たちを只の暗殺道具としか見なかった。)この頃、朝廷はなかなか攘夷を決行しない幕府に業を煮やし三条実美を督促勅使とし副勅使に姉小路公知を東下させることにした。土佐藩主・豊範は勅使警護として江戸を目指したが土佐勤王党もこれに随行、半平太も「中柳川左門」という名で姉小路に従った。江戸では藩父・山内容堂と七度程面会し帰京、半平太は下士では異例の留守居組に昇進したが、藩父・容堂の謹慎がとけ京都会議準備の為に入京すると状況が一変する。京都で横行する「天誅」など過激な活動をする軽格の藩士達に政治活動自粛を申し付けた。半平太は危機感を覚え藩父・容堂に面会して土佐勤王党加盟者百九十二名の血盟書を提出して勤王党の決意を熱く訴えたが藩父・容堂は土佐へ帰国し半平太も帰国するように命じる。帰藩前に容堂が政治活動自粛令を出した後に土佐勤王党幹部の平井収二郎(加尾の兄)、間崎哲馬、弘瀬健太は土佐藩政改革の実現の為、青蓮院宮に令旨を出してもらうように働きかけた。このことが容堂の耳の入り、平井収二郎は役を解かれ土佐に護送される。半平太は容堂に助命を願い出るが聞き入れられず勤王党幹部三人に切腹を命じ、更に勤王党に行動の自重を命じた。その頃、京都では会津藩、薩摩藩ら公武合体派の八月十八日の政変により長州藩と尊攘派公卿を追放、公卿・中山忠光を盟主とし多くの土佐浪士が参加した天誅組に討伐令が出た。朝廷中心の政治を目指し倒幕に加わった土佐勤王党の吉村寅太郎も朝敵とみなされ戦死してしまう。尊皇攘夷派が力を失う一方で公武合体派は京で尊攘過激派の追捕令が出された為、土佐藩も土佐勤王党への弾圧が始まる。文久三年、藩父・山内容堂は吉田東洋暗殺の嫌疑で土佐勤王党同志を次々と捕縛し半平太も投獄される。しかし半平太は下士ながら留守居役で上士と同じ扱いを受け拷問されることはなかったが、同志達が投獄された山田獄舎は劣悪な環境のうえ暗殺の自白を迫る厳しい拷問が繰り返された。勤王党同志は硬く口を閉ざし拷問に耐えたが土佐藩は吉田東洋と関係の深い後藤象二郎、板垣退助らを加え厳しさを増した。元治元年、数々の暗殺実行に手を染めた岡田以蔵が京都で捕縛され土佐藩に護送されると厳しい拷問に耐えられず自供を始めた。半平太はまだ捕まっていない同志を守る為に南会所の牢内から岡田以蔵を毒殺するように指令を出す。以蔵の家族の反対で計画は中断したが、半平太の実弟・田内衛吉が拷問に耐えられずこの毒薬を飲んで自害した。また、半平太の妻・富子の従兄弟の島村衛吉が拷問の末に獄死、半平太は大変なショックを受ける。慶応元年、自供無しで結審し岡田以蔵は打ち首獄門、多くの同志も斬首となったが半平太は「徒党を組んで人心を煽動し主君に対する不敬行為を働いた」という罪状で上士並みの切腹と決まった。慶応元年五月、半平太は体を清め特別な計らいとして裃着用を認められた。介錯には妻・富子の実弟・島村寿太郎と甥の小笠原保馬が務めた。半平太は今まで誰もやったことがない三文字の切腹で武士の気概を見せ絶命した。享年三十六歳・・・・  維新後木戸孝允(桂小五郎)が酒席で山内容堂に「なぜ武市瑞山を斬ったのか」となじったことがあったが容堂は「藩令に従ったまで」と言ってうつむいたまま黙ったという。また山内容堂は酒に酔うと「武市すまぬ」と独り言をよく言ったとも伝えられている。歴史に「もしも」が許されるならもし武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎ら多くの下士たちが維新後も生き続けていたら明治政府は薩長の門閥政治ではなく土佐藩から実力のある多くの政治家を排出できたはずである。
posted by こん at 09:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

坂の上の雲 秋山好古と妻

yosihuru_p0.jpg秋山好古は安政六年、伊予松山藩士。秋山久敬の三男として生まれ、幼名を信三郎という。秋山家は徒士(かち)という士分ではあるが足軽(士分ではない)より一つだけ格上の低い身分であった。弟に連合艦隊参謀の秋山真之がいる。好古は松山では正岡子規の叔父・加藤恒忠と並ぶ秀才と言われた。慶応二年、八歳のときに藩校・明教館に入学するが家が貧しく生活費を稼ぐ為に学校へは通わず銭湯の風呂焚きをしながら独学で勉強したと言われる。(松山藩は幕末には幕府側に立って長州征伐にも積極的に参加した為、戊辰戦争では隣の土佐藩に攻められ莫大な賠償金を払わされた。その為に藩士は勿論、好古の父・平五郎久敬ら徒士、足軽などは貧窮を極めた。)明治八年、十七歳のときにただで勉強できる学校が出来たと聞いた好古は大坂に出て臨時教師をしながら年を偽って師範学校の入学試験を受け合格する。(当時、明治新政府は教育を重視奨励し多くの学校を設立する。しかし、教師の数が追いつかず旧士族を教師として雇おう考えて大坂に教師養成学校と言える師範学校を設立した。だが十九歳からの入学であった為、好古は年齢を偽って入学を果たした。)創設したばかりの師範学校は卒業規定はまだ設けられておらず学力によって卒業が認められたので好古は夢中で勉学に励み一年で卒業し同郷の先輩・和久正辰が主事を務めていた愛知県立名古屋師範学校の付属小学校に赴任した。和久もまた松山藩の秀才と言われた人物だが伊予松山藩は新政府の薩長土藩の敵であったため賊軍扱いを受けていくら優秀でも出世の道はなかった。新政府は明治八年に中央軍の強化養成を目的とした陸軍士官学校を東京に創設した。この学校は能力によっては薩長出身者並みに出世が出来、しかも学費はただ、衣食住すべてが支給される上に給料も貰えると聞いた和久恒忠は自分は三十歳前で年齢的に無理だがまだ若い好古にはいい条件だと説得、好古も東京行きを決意した。明治十年、上京した好古は陸軍士官学校を受験しみごと合格、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の中から騎兵を選択した。理由は砲兵と工兵は学ぶことが多く、卒業には四年かかるが歩兵と騎兵は三年で卒業でき少尉になって給料も増えるからだったと言う。また、好古は日本人離れした美男子で背が高く、手足が長い為に馬を載る時に馬の胴をしっかりと閉めることが出来るので上官に勧められたとも云われている。明治二十一年に陸軍士官学校を卒業した好古は少尉に任官され東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長となった。(後の制度改革で師団となる。)この時に勤務地に近い旧旗本・佐久間家の離れを借り下宿した。後に好古の妻となる多美は佐久間家のお嬢様であった。しかし、当時は身分制度がまだ根強く残り佐久間家が将軍の直属の臣に対し好古は伊予松山藩の家臣家柄であった為、将軍家から見れば陪臣の身分であった。明治十六年に騎兵中尉に任官し陸軍大学へ入学、日本陸軍に大きな影響を与えたと云われるドイツのヘッケルの教育を受ける。(日本陸軍は士官学校時代フランス式陸軍を学んでいたが、大学設立に当たり適任者が居らず、当時世界の最先端を行っているドイツ陸軍からヘッケルを招いた。)明治十九年、大学を卒業した好古は東京鎮台参謀として騎兵大尉に任官し翌年に旧松山藩主・久松定謨(さだこと)のフランス留学に随行するよう指名される。しかし、日本陸軍はドイツ式へと移行しているときでもあり自分がフランス留学から帰国した時に孤立してしまうことを恐れたが元殿様の指名を無下に断れず自費でフランス留学を決意する。しかし、留学中のサンシール士官学校で学んだフランス式馬術の優秀さに驚き、見た目を重視するドイツ式馬術の欠点が良く見えた。明治二十三年にフランス視察に来た陸軍中将兼内務大臣の山県有朋に馬術のみはフランス式を採用するように好古は進言し山県は好古に一任した。明治二十四年帰国した好古は騎兵第一大隊の中隊長になる。その後まもなく陸軍士官学校と幼稚舎の馬術教官を務め、翌年には「騎兵監」の副官となり陸軍少佐に昇進する。フランス留学中に父・平五郎久敬が死去した為、母の貞子を東京に呼び寄せ四谷の信濃町に一軒家を構える。「最後の古武士」と言われた好古は私生活では質素で廻りにことには無頓着であった。あるときに家のお金が紛失する出来事があった、犯人は女中であることがわかると「原因は家のことを取り仕切る主婦がいないことにある」と母や友人が結婚を勧めるが好古は一向に結婚する意志を示さない。この話を聞いた上京した当時下宿していた旧旗本の佐久間正節は「秋山好古は実に聡明で義理堅い男」と惚れ込んでいたこともあって一人娘の多美(下宿当時十歳であったがこの時、二十四歳になっていた。)との縁談が進んだ。はじめは結婚する気がなかった好古も多美を大変気に入った母・貞の進めもあって「母がよければそれでいい」といって明治二十六年に結婚し騎兵第一大隊長になる。翌年には日清戦争が勃発し騎兵第一大隊長・陸軍騎兵中佐として従軍し帰国後は陸軍乗馬学校校長、翌年に騎兵大佐に昇進して陸軍騎兵実施学校長に就任、翌年に陸軍獣医学校校長を兼務する。明治三十三年、第五師団兵站監に異動となり義和団事変制圧の為、出征し軍司令官山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に就任、その後司令官に異動。明治三十六年に騎兵第一旅団長に就任し第二軍として日露戦争に出征する。(編成は旅団だが実際は歩兵と砲兵を編入した支隊であって支隊本体と他三支隊からなり秋山支隊と呼ばれた。)緒戦から偵察や側面援護として活躍、ロシア最強といわれたコサック騎兵の突撃を阻止した。特に沙河会戦の後、膠着状態だったが黒溝台の会戦では日本軍の最左翼の広範囲を守備していた僅か八千の秋山支隊にロシア第二軍全軍十万の兵が攻撃を加える。数の上では圧倒的に不利だった秋山支隊だが巧みな戦術でこの地を死守し「日露戦争最大の危機」と言われたこの戦いを勝利に導いた。その後、秋山好古は「日本騎兵の父」と讃えられた。天奉会戦後の翌年に乃木希典第三軍司令官より感状を受ける。その後、明治四十二年に陸軍中将に昇進、大正四年に近衛師団長となり翌年に陸軍大将に昇る。大正九年に陸軍教育総監兼軍事参事官となり日本陸軍最高幹部の一人に加えられた。ついに秋山好古は幕末江戸幕府側についた賊軍の藩士の子として明治維新後の差別を受けながら薩長出身者以上の出世を果たし特旨をもって従二位を叙位された。(元帥位に推す話もあったがこれは固辞した。)翌年にはすべての栄誉を捨てて軍を離れ好古の強い希望により故郷の松山に帰り北予中学(現・松山北高校)の校長に就任した。(退役陸軍大将としては異例の格下げ人事を希望した。)昭和五年に校長を辞任した後若い頃からの酒好きにより糖尿病が悪化、心筋梗塞を起こして東京陸軍軍医学校にて永眠する。享年七十二歳・・妻の多美は好古に嫁いでからの三十五年間、軍務の為にほとんど家に帰らなかった夫を支え、姑の貞に自慢の嫁と言わしめ家庭を守り続けたという。


日常から離れた極上の休日【JTB】露天風呂付客室
posted by こん at 11:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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