2010年12月04日

秋山真之の妻 秋山季子

photo_sueko01.jpg秋山季子(すえこ)は愛知県豊田(三河国挙母藩)出身の宮内省御用掛(書画鑑定士)稲生真履(まふみ)の三女として生まれ華族女子学校に通う才媛であったという。姉の夫(義兄)海軍少佐(後に大佐)青山芳得に連れられて築地の水交社の催しで八代六郎大佐(後に海軍大将で大臣になった)に気に入られ自分の部下の秋山真之との縁談を持ちかける。しかし季子の父・真履は「軍人には娘はやらぬ」と一度は断ったが婿の青山芳得から真之の優秀さや人柄の良さを聞き縁談を承諾し真之三十六歳、季子は二十一歳の結婚となった。明治三十六年、水交社での結婚式で媒酌人には維新の功労者で土佐三伯の一人・佐々木高行侯爵が務めたという。二人の間に五人の子供を儲けたが真之が五十一歳の若さで急逝した為、真之の兄・好古が季子と五人の子供の面倒を見たという。長男・大(ひろし)は仏教美術研究に没頭し「現世信仰の表現としての薬師造像」や「古代発見」の著書を残すが早世、次男・固(かたし)は季子の姉夫婦(青山芳得大佐夫婦)の養子となり、三男の中(ただし)は真之が最期を迎えた別邸を提供してくれた友人の山下亀三郎(山下財閥創始者)の山下汽船取締役となり財閥解体後の山和商船の社長となる。次女の宣子(たかこ)は海軍中佐・大石宗次の妻となりその長女が現・民主党衆議院議員の大石尚子さんです。
posted by こん at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月29日

龍馬暗殺の指揮をした京都見廻組与頭・佐々木只三郎

sasakitadasaburow242.jpg佐々木唯三郎(只三郎)は天保四年、会津藩与力・佐々木源八の三男として会津若松にて生まれる。長男・勝任は父の実家・手代木家を継いだ会津藩公用人・手代木直右衛門、次男の主馬が佐々木家を相続して只三郎と源四郎は部屋住みとなる。嘉永六年、会津藩は幕府により品川第二砲台の警備を命じられ唯三郎は陣将隊当番として勤務するが安政の大地震で砲台は崩壊して番小屋が延焼したという。唯三郎が二十七歳の頃、親戚の旗本で幕府御書院番与力・佐々木矢太夫の養子となって江戸へ出て講武所の剣術師範に任命される。(唯三郎は幼少の頃から会津藩伝来の「会津五流」の一派である神道精武流を学び「小太刀日本一」といわれる腕前であった。)文久二年に将軍家茂の上京警護の為に幕府は清河八郎の策を受けて浪士組を募集し唯三郎は講武所剣術師範から浪士組取締出役に任じられ京へ下る。しかし、京都に着くと清河は朝廷より攘夷決行の勅をいただき自分に賛同する浪士を引き連れて横浜へ出立し残った浪士組が新撰組(一説によると後ろ盾を失ったこの浪士組を京都守護職の会津藩に仲介したのも佐々木唯三郎といわれている。)へとなっていく。(清河ははじめから将軍警護を口実に幕府を騙していた。)唯三郎は江戸へ戻ると老中・板倉勝静から清河暗殺の命を受け麻布一之橋で速水又四郎(浪士取締出役)ら数人と暗殺を果たす。一旦、唯三郎は講武所師範に戻った後、元治元年に幕府は京都の尊攘派過激浪士取締り強化の為に旗本の次男、三男を集め見廻り組を結成した。佐々木唯三郎は与頭として京都に赴任し二条城の北の松林寺に妻と共に住む。蛤御門の変には見廻組として出動、新撰組と同じく京都の治安維持に務める(しかし、新撰組の活躍と比べ見廻組はエリート意識が強く大きな手柄は残っていない)(佐々木唯三郎は当時家禄は千石を貰い大和守となっていた。)唯三郎ら見廻組は京都奉行所が捕縛に向かった寺田屋において二名の捕吏を射殺した坂本龍馬を執拗に追っていた。慶応三年、唯三郎は見廻組隊士の今井信郎、桂隼之助、渡辺一郎(篤とは別人とも同一とも言われている)高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎らを率いて醤油商・近江屋の二階に潜伏していた坂本龍馬と同席していた中岡慎太郎に「十津川藩士」と偽って面会を求め家屋内戦を想定して小太刀の達人を選抜して踏み込んだといわれている。慶応四年、妻と京で生まれた一子・高を江戸へ帰した後、見廻組隊士2百名を率いて鳥羽街道を北上中に薩摩藩兵に阻まれ鳥羽・伏見の会戦となる。(この時、見廻組は遊撃隊に改名)唯三郎は淀川を挟んで八幡の堤で奮戦中に敵のミニエー銃の弾丸が腰に被弾して動けなくなり大坂から葵の家紋入りの長持に入れて紀州和歌山に運ばれたが紀三井寺の旅館で三十六歳の生涯を閉じた。辞世の句「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」は鳥羽・伏見の戦いのなか酒屋に飛び込んで酒代がわりに襖にこの句を書いたといわれている。自分の死支度の為に金百両を所持していたが連れていた部下の酒代や博打、女買いに使い果たし紀三井寺山腹の滝の坊に葬られ近年に会津の武家屋敷に移された。
posted by こん at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕府 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月21日

坂の上の雲 日本海軍中将・秋山真之@

saneyuki_p0.jpg秋山真之は慶応四年(明治元年)に伊予松山藩の下級武士・秋山平五郎の五男として生まれ幼名は淳五郎という。幼馴染の親友・正岡子規(本名は升・ノボルといい後に常規)が上京に影響を受け明治十六年に愛媛第一中学(現・松山東高校)を五年で中退し上京する。上京後は進学予備校だった共立学校(現・開成高校)で受験英語を勉強し翌年に正岡子規らと共に大学予備門(現・東大教養学部)に入学する。太政大臣になる夢を持って東京帝国大学進学を目指したが秋山家の経済的事情から予備門を退学し海軍兵学校(17期生)に入学をする。入学時は14番目の成績だったが次第に頭角を現して二学年末からは首席となり短剣一腰と優等章を受けた。(親友・正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉らは帝国大学文学部に進んだ)真之は明治二十三年に海軍兵学校を首席で卒業し少尉候補生として「比叡」に乗艦して経験を積み和歌山串本沖のエルトゥールル号遭難事件にも従事した。その翌年に巡洋艦「高千穂」また翌年に「松島」の航海士、同じ年に海軍少尉となり砲術練習艦「龍驤」に乗艦して分隊士、日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦して偵察活動などの後方支援に参加、戦後は海軍水雷学校に入学して水雷術を学ぶ。卒業後、横須賀水雷艇団第二水雷艇隊府付となりその後報知艦「八重山」に乗艦して海軍大尉に昇任して分隊長となった。明治三十年、真之は十三年間中断されていた留学生派遣が再開するとその候補に選ばれる。しかし公費留学は認められず私費留学となりアメリカへ留学するが米海大に入学を拒否された為、ワシントンに滞在していた海軍大学校校長で軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に励む。このときに起こった米西戦争の観戦武官としてアメリカ海軍の作戦及び実戦を真直で監察し報告書「サンチェゴ・デ・クーパーの役」(アメリカ海軍がキューバ港を閉塞する作戦で後の日露戦争の時に旅順港閉塞作戦に影響を与えた)を提出する。翌年にイギリス駐在となりその年に帰国を果たし海軍少佐に昇進。明治三十五年に海軍大学校の教官、翌年には「すゑ」と結婚する。明治三十七年に海軍中佐となり第一艦隊参謀、日露戦争時に連合艦隊司令長官・東郷平八郎の下で作戦参謀に抜擢され第一艦隊旗艦「三笠」に乗船、日露戦争では旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦を立案し大成功を収め、バルチック艦隊迎撃作戦では丁字戦法を立案して日本海海戦で大勝利に導いた。連合艦隊解散後は「三笠」の副長、「秋津洲」「音羽」「橋立」「出雲」「伊吹」の各巡洋艦の艦長を歴任して海軍大佐に昇任。大正元年に軍令部に異動して同三年に海軍少将となる。大正五年に第一次世界大戦を視察する為にヨーロッパに渡りイギリス、フランス、イタリア、アメリカを歴訪後に帰国し第二艦隊の水雷指令官となるも体調が優れずに辞職、海軍将官会議議員という名誉職に就く(海軍中将に昇任)が同年に虫垂炎を患い療養したが翌年に腹膜炎を併発して小田原の山下亀三郎の別邸で死去した。享年四十九歳・・・秋山真之は好奇心が旺盛で大学校教官時代に同僚だった佐藤鉄太郎の勧誘で「天晴会」に入会して経典の研究をはじめ晩年には心霊や宗教研究に没頭し日蓮宗に傾倒、当時勢力を伸ばしていた新興宗教の「大本教」に入信して部下と共に綾部詣を行った。しかし、要人宅を訪れた真之の失言により「大本教」に対する信頼を失ったといわれている。(どういう訳か真之は大地震の予言を行って大騒動となったというが出口王仁三郎(聖師)の予言とも浅野和三郎の予言とも言われ真之は巻き込まれたに過ぎないとも云われているが定かではない)その後、仏教の研究に戻り生涯を終えている。東郷平八郎は秋山真之を「智謀湧くが如し」と称えてその優秀さに舌を巻き多くの作戦を彼に一任したがその優秀さゆえに「戦況を幻で見た」とか「戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知を超えた力を感じた」といって宗教研究にのめり込んだといわれている。秋山真之や兄の好古たち優秀な人材が明治政府において軍人としてしか活躍できなかったというと一説には出身藩の松山藩の影響が大きかった。伊予松山藩は伊勢国桑名藩から転封として松平定行が十五万石で入封したが親藩の為に幕末の長州征伐において先鋒を務めて占領した周防大島において略奪、暴行、虐殺を行ったという。このことが維新後に長州閥が元松山藩士仁冷遇した原因といわれている。(維新後は松平姓から久松姓に変わった)太政大臣を目指して上京した真之にとっては不運であった。
posted by こん at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

土佐の高知のはりまや橋で♪♪ 修行僧純信とお馬

tosakikou_fig09.gif
晩年のお馬さん
(高知グランドホテル蔵)

よさこい節でお馴染みの♪土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た♪で有名な坊さんとは様々な説がありますが五台山竹林寺の修行僧で慶全という坊さんが寺のふもとで洗濯業をしていた母親の手伝いで寺に洗濯物を届けにきていたお馬という髪の毛の赤みかかった頗る美人の女の子(当時十七歳)に一目惚れをしたという。(お馬の父親は鋳掛屋をしていた)若い二人は恋仲となったが修行僧を厳しく指導する立場にいた竹林寺南の坊の純信という僧に諌められる。お馬は次第に若い慶全よりも当時三十七歳の純信に惹かれていった。純信も二十歳も年下の美しい女性に溺れて三角関係になってしまった。慶全はお馬の心が純信に向いていると焦り彼女の心を繋ぎとめる為にかんざしを贈る。安政元年の頃で安政の大地震で土佐でも大きな被害が出て復旧作業でみんなが忙しく動き回っていた次期にお坊さんがはりまや橋南詰にあった「橘屋」という小間物屋でかんざしを買ったという噂が高知中に広まったという。純信はこれ幸いと慶全を竹林寺から追放し三角関係にけりをつけた。しかしこれを恨んだ全慶は「じつわかんざしを買ったのは純信だ」と噂をばら撒いた。このことが土佐藩の耳に入り純信は破戒僧として取調を受けるが実際に純信はお馬と関係を持っていたのは周知の事実なので言い訳も出来ず謹慎処分となりお馬も寺への出入りを禁じられた。安政二年、どうしてもお馬を忘れられない純信は深夜にお馬を連れて駆け落ちをする。(京都を目指したとも高松の知人を頼ったとも云われている定かではない)僧侶に変装したお馬と共に北山の関所を抜けて讃岐の国琴平まで行き高知屋という旅籠に宿泊中土佐藩が差し向けた追手に捕まり連れ戻される。純信は拷問を受けた後、高知城下三箇所で面縛(さらし者にされること)3日間と藩外追放となりお馬は面縛3日間と安芸川以東に追放となった。(つながれさらし者になった美しいお馬さんを一目見ようと黒山の人盛りになった伝えられている。)純信は伊予国の川之江の塩屋の三軒家・川村亀吉(土佐出身の人)の世話で井川家の寺子屋で教鞭をとった。一方お馬は安田村神峯登り口の旅籠「坂本屋」で奉公することになったが純信がお馬の肌恋しさに行商に変装して国境を越えて会いに来た。お馬を伊予に連れ帰ろうとしたがお馬は拒絶したとも役人に見つかったとも云われ純信は再度国外追放となりお馬もまた高岡郡須崎の庄屋へお預けとなる。その後お馬は庄屋の勧めで土地の大工・寺崎米之助と結婚し二男二女を設けて幸せに暮らしたという。一方、純信のほうはまだお馬に未練があったらしく川村亀吉宅を訪れた河田小龍にお馬への手紙を託した。だが小龍はお馬の幸せそうな家庭を見て手紙を渡さず自分の家の障子に張ったという。純信は亀吉亡き後消息が分からなくなったが後に郷土家の調査で中田与吉と名を変えて結婚、一男一女を設けて愛媛県美川村で慶翁徳念和尚として明治二十一年に生涯を終えたという享年六十九歳、お馬の方は長男徳太郎が家業の大工を継いで上京し陸軍御用大工となったのを機に一家で東京へ移住し明治三十六年に六十六歳の幸せな生涯を閉じたという。いつの時代も男のほうがいつまでも別れた彼女に未練を残し女のほうは別れた男を綺麗さっぱり忘れて次の幸せを探す生き物である。・・・
posted by こん at 16:00| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月11日

幕府を庇い続けた 土佐藩主の山内豊信こと容堂

YAMANO~1.JPG山内容堂は本名は山内豊信といい文政十年に土佐藩主の山内家の一門連枝(土佐山内家には東、西、南の各屋敷と追手屋敷の分家があった)である南屋敷山内豊著(とよあきら)とその妾の子として生まれる。南家山内家は一門ではあるが僅か千五百石の分家で本来ならば土佐藩主になれる立場ではなかった。しかし、嘉永元年に第十三代藩主・山内豊煕が江戸在府中に急死してしまい急遽末期養子という形で次弟の山内豊惇が十四代藩主に就任が決まったがまだ将軍お目見えが済まぬ僅か十二日後に山内豊惇も急死してしまった。山内豊惇の末弟に豊範(後に十六代藩主になる。)がいたが三歳だったので分家の豊信(当時二十二歳)に白羽の矢が立った。しかし14代山内豊惇の死があまりにも早すぎた為に末期養子が認められずに本来ならば土佐藩は良くて「国替え」悪くすれば「御家断絶・領地没収」となるところを第十三代藩主・山内豊熈の妻・智鏡院の実兄である薩摩藩若殿(当時はまだ藩主になっていなかった)島津斉彬や斉彬の大叔父の福岡藩主・黒田長溥、斉彬と深い交流のあった(親友)宇和島藩主・伊達宗城ら外様大名の働きがけがあり幕閣の中心人物だった阿部正弘(島津斉彬と親友)が異例である山内豊信の土佐藩襲封を許可した。(山内豊惇は死んではおらず病気の為に隠居を願い出て豊信を養子として認める)この時の負い目が後の討幕運動に消極的行動をとったといわれる。山内豊信は藩主となったが十二代藩主だった豊資が隠居しているとはいえ土佐藩に絶大な影響力を持っていた。しかし、飾りだけの藩主になることを嫌った豊信は門閥や旧重臣を退けて半ば強引に革新派「おこぜ組」の吉田東洋を参政職という新たな役職を設け旧門閥に繋がる家老を排除した。また側用人に謹厳実直な小南五郎右衛門を抜擢し西洋軍備導入や海防、文武官設立など様々な藩政改革を断行した。また山内豊信は越前福井藩主・松平春嶽や宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬らと交流を持ち「幕末の四賢侯」と称され老中首座・阿部正弘の幕政改革に関わった。しかし、次期将軍継承問題で四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らと一橋家の慶喜を推していた阿部正弘が死去した後に大老職に就いた井伊直弼(次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推していた)と対立し大老の地位を利用して一橋派の弾圧(安政の大獄)を開始し斉昭、宗城、春嶽らと共に山内豊信に謹慎命令が下った。豊信はこれに憤慨して隠居願いを出し土佐藩主を前藩主の弟・豊範に譲り名を山内容堂(水戸の藤田東湖の薦め)と改名した。容堂は他の賢侯(島津斉彬は志し半ばで死去)と共に公武合体を勧めていたが井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達に暗殺されると勤王派が力を持つようになった。謹慎中に土佐藩では尊王攘夷運動が加熱して白札組(身分は郷士だが上士に準ずる扱い)の武市半平太率いる土佐勤王党が台頭し容堂の腹心である吉田東洋と対立しこれを暗殺して土佐藩門閥派と結んで藩政を掌握し長州藩と連携して勤王攘夷的立場を全国に知らしめた。しかし、八月十八日の政変で佐幕派が復権し容堂も謹慎が解かれて土佐藩に帰ると藩政を掌握し左幕的立場を持って公武合体を推進する。また吉田東洋暗殺犯の追及を始め、土佐勤王党の大弾圧を開始して武市半平太を切腹させ捕縛を逃れた有能な志士達は脱藩する。一方、京都では八月十八日の政変で尊攘派を一掃したが(七卿落ち)政務を任せる有能な人材がない朝廷は雄藩大名を招集して合議制参与会議を開いて意見を聞くことにした。容堂は元治元年に朝廷から参与に任じられ上京したが参与会議で徳川慶喜と薩摩藩島津久光が激しく対立し嫌気がさした山内容堂は病気を理由に欠席を続け崩壊してしまう。その後の長州征伐にも土佐藩は参加せず国許で吉田東洋の甥の後藤象二郎や福岡孝悌、板垣退助ら若手官僚を登用して軍事整備や殖産興業に務め国力増加を図った。また、坂本龍馬や中岡慎太郎ら土佐脱藩浪士の仲介によって薩長同盟が結ばれ長州藩に大量の最新銃器が入ったことや将軍・家茂の急死もあって第二次長州征伐は幕府の敗北に終わった。幕府は権威を失墜し時勢は「倒幕」へと傾きつつあった。慶応三年、薩摩藩の主導で四侯会議が開かれたが薩摩藩と将軍慶喜の対立で決裂、容堂も病欠を続け、以前の参与会議のように崩壊してしまう。雄藩合議制では話が進まぬと見た薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は武力倒幕へと方向を変えていく。あくまで徳川幕府を守ろうとしていた山内容堂であったが土佐藩若手参政の後藤象二郎や板垣退助たちは土佐勤王党壊滅によって時勢に乗り遅れたことを痛感し坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩土盟約を締結して土佐藩自体は倒幕へ傾いていった。(山内容堂だけは藩主就任時の恩義や関が原以来の山内家の成り立ちを考えて徳川家を擁護したが時勢の流れに抗えなかった。)一方、坂本龍馬は自分たちの尽力で犬猿の仲だった薩摩と長州を仲介したが両藩が武力倒幕へ進むにつれて日本が内戦状態になることを懸念して土佐藩を利用することを考え、土佐藩は薩長の流れに追いつく方法を模索していた為に坂本と土佐藩参与の後藤象二郎の利害が一致し長崎で龍馬と会談の席をもつ。後藤は後に龍馬の「船中八策」を取り入れて山内容堂に徳川慶喜に大政奉還を進言するように説得する。薩長による武力倒幕を懸念していた容堂は大恩ある徳川を守りたい一方で朝敵となることを恐れてこの案を受け入れ老中・板倉勝静を通して慶喜に建白した。徳川慶喜はまだ幼い朝廷では政権担当能力がなくいずれは徳川家が再度政治を任せられるであろうと考えて雄藩諸侯会議を設けてその議長に慶喜が立つという条件付で幕府は承諾、大政奉還となった。日本の内戦の回避と徳川家の温存が叶い土佐藩の功績が大と成ったので容堂は上機嫌だったという。しかし、薩摩藩は藩兵3千人を率いて上京、摂政・二条斉敬ら幕府擁護派の御所立ち入りを禁止した上で小御所にて各雄藩諸侯を招集した山内容堂も泥酔状態で遅参したが主導権は薩長両藩と岩倉具視ら討幕派が握り王政復古の大号令となった。新政権樹立と天皇親政のもと摂政、関白、将軍職の廃止と総裁、議定、参与の三職を新設するなど親幕府派公卿の発言権を奪った。山内容堂は徳川家擁護に終始し徳川慶喜中心の列侯会議を要求したが泥酔状態の為「一部の公卿が幼沖(まだ幼い)の天子(当時、明治天皇は数え十六歳)を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と大声で怒鳴った。これを聞いて岩倉具視は「天子を捉まえて幼沖とは何事か、大失言であるぞ」と詰め寄った。一旦休憩に入った時に薩摩藩の西郷隆盛は「短刀一本あればことは済み申す。」と言ったことを伝え聞いた容堂は命の危険を感じその後の発言が出来なくなったという。慶応四年、戊辰戦争が勃発すると容堂は自ら藩兵百名を率いて上京するが藩兵にはこの戦には参加するなと厳命、あくまで徳川擁護の姿勢を貫いた。しかし、土佐藩軍指令官を務めた板垣退助は薩長に後れを取ることを嫌い率先して倒幕に加わり江戸へ向けて進軍し土佐軍は功名を立てた。維新後、山内容堂は内国事務総裁に就任するがかつての家臣や身分が低かった者とは馴染めずまた堺事件の責任をとるという理由で明治二年に辞職しまた、堺事件とは戊辰戦争中に幕府は賊軍となり形勢不利とみた徳川慶喜以下旧幕府側の大名が大阪城を棄て幕府側兵士を残したまま江戸へ逃亡した為に泉州堺の警備を任されていた土佐藩兵が新政府に無断で上陸してきたフランス海兵数十名が堺の町を徘徊し乱暴狼藉を繰り返した為に土佐藩兵は水兵たちに帰艦するように説得するが言葉が通じずにもみ合いとなった。仕方なく藩兵は発砲しフランス人水兵十一名を殺害する。この事件により神戸に滞在中のフランス公使は莫大な賠償金と土佐藩兵二十名の処刑を申し入れてきた。土佐藩兵の隊旗を奪って逃走し先に発砲したのはフランス水兵だったにも関わらず理不尽な申し入れをしてきたが新政府は日本の国力を考えてこれを承諾してしまう。山内容堂は新政府の立場を配慮し小南五郎右衛門を派遣して堺事件の関係者二十九名の内二十名をくじ引きで決めさせて堺の妙国寺にて刑が執行され土佐藩士が次々と切腹が行われた。中には自分の腸を引きずり出してフランス軍艦長に投げつける壮絶な切腹もあったという。十一人目の切腹が終わったところでフランス側から切腹の中止を申し入れてきた為に残り九名の切腹は取りやめとなり助命された(フランス軍艦長があまりにも壮絶な切腹の為恐怖を覚えたとも侍達の仕返しに恐れたとも言われている。)以後、体調不良を理由に刑法官知事を打診されるがこれを辞退、王政復古の功により権中納言に任じられ議定職に就任、学校知事を兼任するが政治に参加する意欲がなく新政府の方針に不満を持っていたという。戊辰戦争の戦功により賞典録四万石、王政復古の功により五千石を終身下賜され多くの肩書きを持っていたがその後すべてを辞職して橋場の別邸にて十数人の妾を囲って日に三升の酒を煽り当時の人気役者・市川団十郎一座を貸切って豪遊を繰り返した。家令が諌めると容堂は「昔から大名家が倒産した例がない。俺が先鞭をつけてやる」と豪語し一向に改めようとしなかった。また、新政府の中で只一人気のあった木戸孝允(桂小五郎)を私邸に招いて酒を酌み交したがその時には土佐藩には薩摩、長州のような人材がいないことを嘆き武市瑞山を切腹させたことや坂本龍馬を冷遇したことを悔やんだという。容堂は明治五年、長年の酒が体を蝕み脳溢血を起こして半身不随となって二度目の発作で帰らぬ人となった。享年四十六歳・・・
posted by こん at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月08日

坂本龍馬の理想の家庭 坂本千鶴と高松順蔵

坂本龍馬には一人の兄と三人の姉がいた。兄は坂本家を継いだ権兵、長姉が千鶴、次姉は栄といい柴田作左衛門に嫁いだが離縁され自害したといわれる。(龍馬の脱藩が原因で柴田家に責任が及ぶのを懸念して離婚したという説もある)三姉が乙女で龍馬がよく懐いた姉でとも師とも同志とも思える信頼を置いた。ここで記述する長姉の千鶴は龍馬より十九歳年上で龍馬が生まれたときには既に高松順蔵に嫁いでいて龍馬が幼い時からよく高松家のある安田浦に遊びに行ったという。高松順蔵は文化四年に土佐藩郷士・高松益之丞の長男として生まれる。祖父の高松弥三衛門から教えを受けたが、やがて江戸へ出て経書や歴史、儒学など様々な教養を身につけた。剣は長谷川流居合術を習得し名人の域に達したという。また、壬生水石のもとで書画や篆刻を学び和歌などを嗜み諸国を巡りながら多くの歌人や学者と交わったといわれる。八歳で継いだ家督を末弟の勇蔵を養子に迎え家督を譲り(次弟はオランダ医学を学び濤亭と名乗り開業医となる)、号を高松小杢と名乗り悠々自適な生活を送り私塾を開いて近在の壮士教育に務めた。龍馬の人生においても順蔵の思想に多大な影響を受け、またこの私塾から中岡慎太郎や後の海援隊士・石田英吉らを輩出した。剣の腕前でも土佐一の剣豪として藩主だった山内容堂の剣術指南の招聘を三度にわたって固辞し権力に阿るを嫌った。(ある城下から自宅に帰る途中の赤岡という所で悪さを働く上士の子弟が順蔵めがけて猛犬を放った。猛犬は吠え立てながら順蔵の目前で足を止め身動きしなくなったので悪ガキたちは順蔵が通り過ぎた後に犬に近づくと犬の胴と首が真っ二つに切り離されていたというが誰一人順蔵が抜刀するところを見ていなかったという。)龍馬をこの順蔵を慕い安田にある順蔵宅に時折立寄りひなが縁側から見える太平洋を眺めていたり姉・千鶴は龍馬を大変可愛り龍馬が江戸へ剣術修行へ出た時にはお守りを贈ったという。龍馬は京都寺田屋に居候を決め込んだ時には姉・乙女に手紙で「まるでここは安田の順蔵さんの家にいるような居心地だ」といって順蔵宅と懐かしんだ。順蔵は安芸を愛し地域の若者達にも大きな影響を与え中岡慎太郎をはじめとする勤王志士達を育てた人物であったという。明治九年に七十歳の生涯を閉じた・・・
posted by こん at 11:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

誰が坂本龍馬を殺したか?2 渡辺篤

watanabe_atsushi.jpg坂本龍馬が近江屋で暗殺したことを自供した今井信郎(前述)は共犯者として七名の見廻り組を供述したが今井以外は既に戊辰戦争で戦死していた為に官軍はこれ以上の追及は出来ず結局今井をただの見張り役として処理した。(西郷隆盛の口添えがあり今井の言葉を鵜呑みにせざる終えなかった)しかし三十三年の時が過ぎ「近畿評論」の取材には自分が龍馬を殺害したと供述を変え、他の仲間についていまだ存命の者の名は明かせないといっていた。また時が流れ大正四年に死の床についていた一人の剣客が身内の者に坂本龍馬殺害を告白した。その剣客は渡辺篤(見廻り組時代は渡辺一郎と名乗り、今井が自供し既に戦死していた渡辺吉太郎とは別人物)といい天保十二年に京都二条城御門番組与力・渡辺時之進の長男として生まれ、京都所司代御門番組見習となり西岡是心流剣術を修め十八歳で免許皆伝、他に円明流剣術や無辺流槍術、荻野流砲術、日置流弓術、大坪流馬術など様々な武芸を修めたという。元治元年、二条城上覧試合に出場し将軍・徳川家茂から白銀五枚を賜り、同年に京都文武場剣術指南となる。蛤御門の変には二条城の警備を担当し慶応三年にその腕前を買われ京都見廻り組に編入し肝煎に昇格する。そして見廻り組与頭の佐々木只三郎の招集によって龍馬暗殺の為に近江屋に向かったといいその後暗殺成功の恩賞として十五人扶持を賜ったという。しかし、渡辺篤の告白と先の今井信郎の供述には数々の矛盾点があり信憑性を疑われた。今井の供述にはない世良敏郎なる人物の名があがったが後年調べた資料に世良なる人物が実際に見廻り組に在籍していた。(渡辺の話によると世良敏郎なる武芸未熟な者が刀の鞘を忘れたので自分が世良に肩を貸し刀を自分のはかまの中に隠しながら酔った振りをして帰ったと具体的な内容だったという)話は少しずれたが渡辺は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで敗れ大和、紀州を経て江戸へ逃れた。維新後は薩摩藩の口添えで奈良県警の監察官になり後に本部長に昇進する。晩年は京都に戻って剣道場を開き後進の育成に努め大正四年、死の床についた時に弟・渡辺安平と愛弟子・飯田常之助を呼び件の告白をおこなったという。しかしこの時期は第一次坂本龍馬ブームが続いており売名当為だという評判が立ったといわれている。(第一次坂本龍馬ブームとは維新から明治前期には土佐藩脱藩者の坂本龍馬はほとんど無名でその功績は世に知られていなかったが日露戦争が懸念され世界最強といわれたバルチック艦隊の攻撃を恐れていた時、明治天皇の后である昭憲皇后の枕元に背が高く総髪で白装束の侍が現れ私は日本海軍を守護する者なりといって日本の勝利を誓ったという。翌朝に皇后は田中光顕を呼びこの事を尋ねたのでもしやと想い坂本龍馬の写真を見せた。皇后は写真を見るやこの人物ですといったので一躍龍馬ブームが巻き起こったという。(田中光顕は土佐藩出身なので坂本龍馬を売り込んで土佐藩の名を高める為に仕組んだといわれているが田中光顕は陸援隊幹部で中岡慎太郎の信奉者だったので名前を出すなら中岡慎太郎の写真を出すべきだろうと思う。・・・)
posted by こん at 16:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 幕臣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月03日

誰が坂本龍馬を殺したか? 今井信郎

imai.gif坂本龍馬の暗殺には諸説があり未だに確実なことは解っていないといわれています。一説によると龍馬のよき理解者であり最も信頼する薩摩藩の西郷隆盛が命令を出したという説、(薩摩藩は武力による倒幕を主張したが龍馬は日本人同士の殺し合いを嫌い大政奉還から王政復古と無血倒幕を目指したので西郷は龍馬が邪魔になったという説で実際に近江屋付近で鹿児島弁を話す侍が多数いたとの証言もあったという)また、土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬の船中八策の大政奉還論を自分だけの手柄とするため龍馬の暗殺を命じたという説(しかし、船中八策を書いた時には龍馬と後藤のほか数名の海援隊士が同席していたので龍馬一人を殺したところで無駄)、また新撰組説や新撰組から分離した高台寺党一派(新撰組はこの時高台寺党の伊東甲子太郎暗殺を計画中で龍馬にまで手が廻らなかったといわれた。)、紀州藩説(いろは丸事件の報復)など様々ですが幕臣京都見廻り組の佐々木只三郎らが一番有力とされたが当時幕府は坂本龍馬を殺害してはならないと各幕吏に通達していたといわれ定かではない。前置きはここまでとして龍馬の暗殺を自供した今井信郎は天保十二年、三十五俵取旗本・今井守胤の子として江戸湯島天神下に生まれた。十歳で御中間として出仕、十八歳で直心陰流の榊原健吉に弟子入りし二十歳で免許皆伝(片手打ちという独自の技を編み出したが某水戸藩士との試合で相手の頭蓋骨を叩き割り死なせてしまった為に師匠から以後この技の使用を禁止された)となり講武所剣術師範を拝命する。二十三歳で神奈川奉行所取締役・窪田鎮章の配下となり鎮章の父・窪田鎮勝から扱心流体術という柔術を習う。慶応三年、龍馬が暗殺される僅か一ヶ月前に遊撃隊頭取として上洛し京都見廻組に編入された。今井自身の供述によると見廻組与頭・佐々木只三郎の指揮の下、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、結城無二三ら七名が近江屋に向かったという。(今井自身は見張り役で実際に二階へ斬り込んだのは渡辺吉太郎、桂隼太郎、高橋安次郎の三人だと供述するも実行犯に名指しされた三人は鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争で既に戦死していたため真実かどうかは不明、その後の明治三十三年の近畿評論の取材に対して自分が実行犯だと供述を変えている)今井信郎は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで斬り込み隊として参戦するが敗北、江戸へ戻って古屋佐久左衛門が隊長を務める「衝鋒隊」(鳥羽伏見で戦死したかつての上司・窪田鎮章が率いていた十二連隊の残兵と十一連隊の残兵で組織)の副隊長として函館戦争(函館政府では海陸裁判役兼軍監に推された)まで戦い抜いた。しかし、明治三年、五稜郭陥落後に降伏し先の坂本龍馬暗殺を供述した。処刑を覚悟した今井だが薩摩藩の西郷隆盛の助命嘆願により禁錮刑を受けると獄中では大鳥圭介に英語を教わったという。(この西郷の口添えが西郷が龍馬暗殺の黒幕説を疑わせた)明治五年、函館降伏者の赦免が始まると今井も釈放される。今井は旧幕府の転封先の静岡に移住し静岡城の敷地内の藩校を払い下げてもらい私学校を設立、英語や数学、農業を教えたが軍事教練も行った為に静岡県庁に怪しまれた。今井は速やかに学校を県庁に無償で献納したので県庁は感心して官吏として今井を雇い入れたという。明治九年、十等出仕の伊豆七島巡視を命ぜられたが翌年に西南戦争が勃発すると今井は依願退職して東京に出る。今井は衝鋒隊時代の部下を集め警視徴募隊一等中警部心得となると部下を率いて九州に乗り込み官軍としてではなく命の恩人で西郷に合流しようと考えていたが出発前に西郷自決の報を受け部隊は解散、警部の職を辞しては静岡県榛原郡初倉村に帰農し村長として牧ノ原台地で他の幕臣達と開墾に励む。この頃、静岡にキリスト教の宣教師が盛んに布教活動を行っていたがこのことを不愉快に思っていた旧士族たちは宣教師を斬ろうと話し合った。今井はその斬り役に選ばれ宣教師に会うがこの言葉に感銘を受けキリスト教に入信し以後静かな余生を送った。大正七年に脳卒中によりその生涯を終えた。享年七十八歳・・・坂本龍馬の養子となった元海援隊の高松太郎(養子後は坂本直)もキリスト教に改宗し龍馬の法要に今井信郎を招待した
というが今井が本当に暗殺犯ならどういう気持ちで龍馬の墓前に立ったのか今では知るよしもない。
posted by こん at 16:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕臣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月02日

亀山社中の母 大浦慶

okei.jpg大浦慶は文政十一年、長崎油屋町の油商・大浦屋当主・太平次(婿養子)と跡取娘佐恵の長女として生まれる。まだ幼いお慶は跡取娘として賀古市郎右衛門の次男・大五郎を婿養子に迎えともに育ったが大五郎が十九歳で亡くなってしまうお慶がまだ九歳の時であった。幕末の動乱期、油の専売権は薄れ外国からの油が大量に入り始め大浦屋は廃業の危機を迎えた。更に追い討ちを掛けるように安政十四年、出来鍛冶屋町より発生した火事が全戸五百二十六棟を全焼する大火となり大浦家もその被害をうけたうえに火事場のドサクサに紛れて金目の物を持ち出した父・太平次が遊女と駆け落ちしてしまった。お慶は弱冠十六歳で大浦屋再興の決心をし翌年蘭学の修行に長崎にきていた島原の庄屋の息子・幸次郎を婿養子に迎えるが気に入らず祝言の翌日に手切れ金を払って追い出したという。祖父の薫陶を受けた小曽根屋(後の海援隊の支援者)やいろいろな人の支援で路地売りをはじめ、また遊女に化けて長崎出島に入り行商なども行った。嘉永六年、大浦屋出入りの鄭に付けて貰った若い通訳嗣品川藤十郎の協力により出島在留のオランダ人テキストルに談判して佐賀の嬉野茶をイギリス・アメリカ・アラビアの三国へお茶の見本を送ってもらう。三年後の安政三年、イギリスの貿易商ウィリアム・オールトが来航しテキストルに託したお茶の見本を見せアメリカ向けに大量の注文をした。嬉野茶だけでは足りず九州一円からお茶をかき集めた一万斤(約6トン)をアメリカへ送った。これが日本茶貿易の先駆けとなり以後十年間大浦慶は莫大な富を得て大浦家再興を見事果たした。大浦慶の名声は長崎中に知れ渡り坂本龍馬や大隈重信、松方正義らと交流が始まり志士達から「肝太おっかあ」と呼んで親しんだという。特に坂本龍馬とは武器商人グラバーを介して知り合い亀山社中設立の際には多額の資金援助を行い龍馬とともに来た陸奥宗光の才能に惚れ込み担保に陸奥を貰い受けたいと申し入れたという。明治維新になると志士達は潮の引くようにお慶のそばから離れ、鎖国時代は長崎が日本唯一の貿易港だった時代は過ぎお茶の大産地の静岡に近い横浜港にその座を奪われ始めた。(釜煎り製茶の九州茶に対し静岡の蒸し茶の方が外国人に好まれたともいわれている。)長崎の日本茶貿易の衰退を予感していたお慶は新しい商取引を模索し始めていたころの明治四年、熊本藩士・遠山一也が通詞・品川藤十郎がお慶を訪ねてきた。熊本産の煙草十五万斤を英国商オールトへ売り込む取引の手附金受取の仲介名義を貸して欲しいと頼まれる。はじめは断っていたお慶も熊本藩支配頭が責任を持つという一札を持参したり、お慶が若いころ弟のように面倒を見た品川藤次郎の勧めで連判した。しかし、いつまでたっても長崎に煙草が送られてこないことでオールト商会から手附金の返還を迫られる。お慶は詐欺に会ったことに気づき熊本藩と交渉し遠山の家禄五年分の三百五十二両の支払いに応じた。お慶は何とか手附金の返還に応じたがオールト商会から長崎県役場に遠山一也らと共にお慶も提訴されてしまう。お慶もまた、遠山と熊本藩福田屋喜五郎を訴えるが裁判の末、遠山は詐欺罪で懲役十年の判決とお慶自身保証人として千五百両の賠償責任を負い更に裁判費用やこの事件による借財は六千両にも膨れ上がった。お慶は家屋敷を抵当に毎月六十二両を返済し続るが既に信用を失った大浦屋は没落したが死ぬまでにこの莫大な借財は完済したという。明治十二年、アメリカ第18代大統領・ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際に国賓として各県令と共に大浦慶の艦上に上がる栄誉を受けた。明治十七年、長崎県令となっていた元海援隊士・石田英吉は農商務省権大書記官・岩山敬義にお慶が既に危篤状態である為、生きているうちに功を賞して欲しいと要請する。その要請が受け入れられる電報が届くと翌日、県令の使者が日本茶貿易の先駆者としての功労褒賞と褒賞金20円をお慶宅に届けたがその2週間後にお慶はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年五十七歳・・・信用、信頼で商売を発展させ莫大な富を築いた大浦お慶は幼いころから大浦屋に出入りし弟のように可愛がった品川藤次郎にだまされすべてを失い、幕末には私財を費やして支援してきた大隈重信ら志士たちには見向きもされなかったが海援隊士だけはその恩義を忘れずにいたことに胸をなでおろす。
posted by こん at 10:02| Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月29日

吉田松蔭の最初で最後の恋 高洲久子

pct_ep01.jpg高洲久子は中国地方の雄・毛利家に代々仕えた毛利家臣団杉原三家の一つ「高須家」の出身で高杉晋作の遠縁にあたるといわれている。吉田松陰が嘉永七年、浦賀に黒船が最来航した際に密航を企てたが失敗、どうせ発覚するならと幕府に自首した。幕府は松蔭の身柄を長州藩に預け、萩の野山獄へ幽閉した。この時に、野山獄には十一人の入獄者が居り松蔭は年齢二十五歳で一番年下だったといわれ最年長は在獄四十二年で七十四歳の大深虎之助や三十七歳の富永弥兵衛(後に国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルになった人物)らが居った。その中の紅一点が在獄二年、三十七歳の高洲久子であった。松蔭は入獄当時は軽く見られていたが獄内で塾を開き囚人一人ひとりの得意分野を活かした講義を行い(先ず松蔭は書の得意な富永弥兵衛に弟子入りし習ったという。)また、俳句の得意な囚人を中心に俳句会を催した。松蔭は獄中座談会や読書会を開き「孟子」を講義するなど皆と共に学びあった。(牢番人や牢役人等も講義を聞き集まったという)、野山獄は藩の罪人は二名のみで他の者は親族から申し出による禁錮だったので囚人同士が一箇所に集まることは自由であったらしい。話を戻して高洲久子という女性は萩藩で石高三百三十国取りの家柄の跡取り娘として生まれ(生年月日は不明)婿養子を迎えていたがその夫が若くして亡くなってしまった。久子は寂しさを紛らわすように三味線に興味を持つが次第に没頭するようになると歌や浄瑠璃、ちょんがれ(浪花節のはしり?)などにも傾倒するようになり萩で有名な芸能人(当時、芸能を生業としていた人たちは殆ど被差別部落民であったといわれる。)勇吉と弥八(この二人は明治維新まで晒しの誅伐という刑を受けた)らと交流、自宅に招いて酒を振舞ったり翌朝まで宿泊させたので亡夫の親族から訴えられ藩の取調べを受ける。(封建時代当時は被差別部落民との接触自体が罪となった)久子の義父は不義密通を疑ったが久子は「普通の人と普通の付き合いをしたまで」と不義を否定したが家族の申し出で野山獄へ借牢となった。(一方、松蔭は江戸で密航失敗後に自首をして長州藩へ護送された際に罪人を運ぶ唐丸籠を担いでいた四人の被差別部落民と親しく話すうちに長州到着までの間学問を教授したというほどその人たちに対し偏見はなかった。)高洲久子と松蔭は獄中歌を介して親しくなり心を通じ合った。(かといって下世話の話お互い獄中であったので肉体関係はなかったと見られる)安政二年、松蔭は実家の杉家預り謹慎となり野山獄を出ることになった。久子は松蔭に「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」の一句を贈っている。(実際は鴨{かも}ではなく鴫{しぎ}で松蔭の字{あざな}である子義に掛けているという)高洲久子は当時三十七歳で亡夫との間に二人の女の子をもうけ(長女は婿をとって高須家を継いだ。)松蔭は二十五歳であったため十二歳も久子のほうが年上であった。しかし久子の理念である「すべての人は平等である」と松蔭も同じ考えであったことからお互いに惹かれあったという。(松蔭の「草奔崛起」藩や藩士だけの力ではなく民衆みんなの力で改革は成されるべきという思想で松蔭死後高杉晋作に引き継がれ奇兵隊創設のきっかけになった。)松蔭は出獄後、藩に野山獄の囚人の釈放を働きかけ八割の囚人が出獄できた(その中で獄中知り合った富永弥兵衛{後の富永有隣}を松下村塾の講師に招いた)が高洲久子は親族の反対にあって釈放されなかった。安政五年、幕府は天皇の承諾を得ず日米修好通商条約を締結したことに激怒した松蔭は老中・間部詮勝の暗殺を計画するが失敗、長州藩は慌てて松蔭を再び野山獄へ幽閉する。ここで高洲久子と再会し平穏な日々を送る(松蔭は獄居の家居も大差はないと書き残している)が半年後、松蔭の身柄を江戸へ送ることが決定する。江戸へ送られる二日前に久子は獄中で自ら手縫いした手布巾を贈ったので松蔭はたいそう喜び「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思ひて ふき清めてん」という一句を贈った。出立当日、久子は「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな 」と別れの一句を贈ると松蔭は一通の封書を手渡し江戸へ向け出立していった。封書の中には「一声を いかで忘れん ほほとぎす 」と書いてあった。翌安政六年、松蔭は江戸にて安政の大獄最後の犠牲者となり斬首された。高洲久子は明治新政府によって釈放された(当時久子五十一歳)が父親との関係が修復されることなく勘当状態のままで戻る場所がなかったという。晩年、永い獄中生活によって目は衰え足が萎えて曲がらなかったといい苦労を重ねたが長寿を全うし八十八歳でこの世を去った。平成十五年に松下村塾の門下生で最後まで存命した長崎造船所初代所長を務めた元長州藩士・渡辺蒿蔵氏(在塾当時は天野清三郎)の遺品が萩市に寄贈された際に一首の歌が刻まれたお茶碗が発見された。「「木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」と釘のような物で彫られている最後に「久子 六十九歳」あった。意味は「木の芽を摘んでいると木の上からホトトギスの一声のが聞こえてきた。このホトトギスの鳴き声を聞くと松陰先生のことを思い出します。」という意味らしい。松蔭が野山獄から江戸へ送られる際に高洲久子に贈った最後の句「一声をいかで忘れんほととぎす」の一声に掛け、松蔭の号である子義(ほととぎすのことで正岡子規の子規と同意語らしい)松蔭の死後二十七年も過ぎて久子が六十九歳になっても松蔭への尊敬と熱い想いは衰えてはいなかった。・・・
  
posted by こん at 10:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。