2011年12月04日

バルチック艦隊を破り英雄になった 東郷平八郎

uid000001_20110225184438b3cd447c.jpg東郷平八郎は弘化四年、鹿児島城下加治屋町の薩摩藩納戸奉行・東郷実友の四男として生まれ郷中の西郷隆盛の次弟・吉次郎に大変可愛がられたという。十四歳で元服、十九歳で分家して一家を興す。薩英戦争に従軍して英国艦のアームストロング砲に威力を見せ付けられ「海から来る敵は海にて防ぐべし」と海軍の重要性を悟った。戊辰戦争では薩摩藩海軍三等士官として薩摩藩軍艦「春日」に乗り込み新潟・函館を転戦し阿波沖、宮古島湾、函館湾海戦に参加して海上砲撃や五稜郭への艦砲射撃の経験を積んだ。維新後の明治四年、イギリスへ官費留学してウースター商船学校にて操舵術などを習う。(はじめ留学の志願を大久保利通にしたが断られ、諦めきれない平八郎は西郷隆盛に頼んだところ平八郎の才能を見抜き快諾したという。その後は西郷隆盛に心酔したという)七年間のイギリス留学中に国際法を習得したが帰国途中の海上で西南戦争を知り西郷の最期を聞き「もし私が日本にいたら西郷のもとにはせ参じただろう」と涙したといわれる。(平八郎の兄・東郷四郎兵衛実猗や次兄・小倉壮九郎{城山攻防戦で自決}は西南戦争の時に薩軍として西郷のもとで戦った。)明治十一年、海軍中尉、大尉、翌年には海軍少佐となり元勤王の志士として西郷や大久保利通らと薩摩精忠組を結成した海江田信義(幕末には有村俊斎と名乗り生麦事件でイギリス人チャールズ・リチャードソンに止めをさした人物で日本陸軍の創設者・大村益次郎の暗殺事件の黒幕ではないかといわれている。)の長女・てつ(十七歳)と結婚する。{海江田信義と東郷家とは縁が深く次女も平八郎の長兄・四郎兵衛実猗と結婚した。}明治十八年に中佐、翌年に大佐と昇進を重ね、横須賀鎮守府兵器部長、明治二十四年に呉鎮守府参謀長になりその後巡洋艦「浪速」艦長になり二十六年居留民保護の為にハワイホノルル港に派遣される。(当時ハワイはれっきとした立憲君主制独立国家であり「リリウオカラニ」女王が治めていたがハワイに入植していたアメリカ人のクーデターの為にアメリカの軍艦「ボストン」が王宮に主砲を向けて女王退位を迫りました。東郷は自分の巡洋艦「浪速」と一緒に日本入植者保護の為に来た「金剛」で米艦「ボストン」を挟んで停泊して威嚇してアメリカとハワイの併合を見送らせ共和国という形を取ったといわれている。東郷はアメリカの卑劣な行為を看過できなかったという。結局、女王は流血を嫌い退位に署名しハワイ王国は滅亡した。)翌年にハワイ共和国設立一周年式典に再び東郷平八郎はハワイを訪れたがハワイ政府からの「国際儀礼の祝砲21発の要請」に「その必要なし」と突っぱね他国の軍艦もこれにならったのでアメリカが大恥をかかされ後に日本を仮想敵国の見なした原因のひとつといわれている。しかし、ハワイに住む人々からトーゴーは英雄のようにもてはやされ自分の子供の名前に「トーゴー」とつけるのが流行ったらしい。明治二十七年、日清戦争に突入まえの豊島沖海戦の高陞号事件(詳細は山本権兵衛の項目で)にて国際法に基づいた冷静な対応でイギリスを納得させ翌年に海軍少将に昇進し常備艦隊司令長官となる。日清戦争終結後に海軍大学校長兼将官会議議員となり中将となり佐世保鎮守府司令長官、翌年に新設された舞鶴鎮守府初代司令長官に任命(この時期、留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず調理長に手書きのレシピを渡して作らせたのが肉じゃがの始まりだといわれているがその十年前に呉に赴任した時とも言われ論争がいまだ続いている。)明治三十八年、日本とロシアの関係が悪化し戦争が避けられない状況に陥った頃、病気療養の為に予備役編入が噂されていた東郷に突然、山本権兵衛・海軍大臣から連合艦隊司令長官の大命が下る(通常、常備艦隊司令長官の日高壮之丞海軍中将が戦時に編制される連合艦隊指令長官になるのが当たり前だったが山本権兵衛大臣は日高を舞鶴鎮守府に更迭し東郷と入れ替えた)日高壮之丞中将と山本権兵衛は戊辰戦争のころよりの親友なので山本のこの仕打ちに激昂した日高は短刀を持って山本に詰め寄ったが山本から「お前は確かに東郷より優れた司令長官だ!しかしその優秀さゆえに大本営に相談することなく独断で行動し勝利することもあったが国運のかかったこの度の戦はそれでは困る。しかし東郷にはそれが無く目的達成の為、任務に忠実だから東郷を推した。」といって日高を納得させたといわれているが本当は日高海軍中将は健康を害しており舞鶴鎮守府長官に就任後から日露戦争中は療養を続けていた。明治三十七年に日露戦争開戦、東郷平八郎は旗艦「三笠」に座乗し連合艦隊を率いて佐世保港を出航しロシア太平洋艦隊(ロシア帝国第一艦隊)に八度の攻撃と基地である旅順港に三度の閉塞作戦を指揮したが成功にはいたらなかった。肯定的に見れば旅順港に立てこもったロシア艦隊を動けなくして近海の制海権を奪い朝鮮半島での外交交渉を有利に進めることができたが否定的に見れば閉塞作戦失敗で大陸の陸軍に大規模投入が出来なくなり多くの犠牲者を出したといわれる。その後の黄海海戦である程度の戦果を残した。同年に海軍大将に昇進し翌年には日本海においてヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊を迎え撃ち丁字戦法や「トウゴーターン」でこれを撃破し一躍英雄となった。(特にロシアの脅威に晒されていたトルコなどの国では我がことのように喜ばれた。)また「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」のZ旗は昭和の太平洋戦争にも使われた。平八郎はその後、海軍軍令部長、軍事参議官を歴任し日本海海戦の軍功により大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章並びに金千五百円を賜わり大正二年には元帥府に列せられて終身現役となる。翌年に東宮御学問所総裁となり皇太子(昭和天皇)の教育につとめた。しかし平八郎の最晩年は生神さまのように祭り上げられ軍部の独裁政治の象徴のように東郷元帥の言うことだからと軍部の拡張が進み各地でいろいろな問題を起こして軍国主義国家へ日本が変貌していった。これは東郷平八郎の意思とは関係なく軍部の生きたみこしになっていったことは残念なことだと思う。東郷平八郎は日露戦争前は艦船の主砲命中率の悪さを軍事訓練の積み重ねで飛躍的に命中率を上げ日本海海戦の勝利へと導いたが晩年まで巨大艦砲中心の固執し続けて飛行機の重要性を無視したために昭和期の大戦ではゼロ戦などの優れた戦闘機の使い方を誤らせたといわれている。(これは東郷平八郎自身の意思とは関係なくみこしに担がれたことによる老害)昭和九年、平八郎は膀胱がんのために八十七歳の生涯を閉じた。死の前日に侯爵に昇叙され国葬となった。
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2011年11月30日

日本海軍を作った男 山本権兵衛と愛妻・登喜子

GONNOH~1.JPG山本権兵衛は嘉永五年、薩摩国鹿児島城下加治屋町で薩摩藩右筆兼槍術師範の山本五百助盛a(いおすけもりたか)の六男として生まれる。加治屋町は西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎などの偉人達と同じ出身地で権兵衛も十二歳の時の文久三年に薩英戦争で初陣する。(砲弾の運搬などの雑役として)十六歳の時に十八歳と年齢を詐称して薩摩藩藩兵の募集に採用され薩摩藩小銃第八番小隊に編入される。慶応三年、藩主・島津忠義に随伴して入京、翌年に鳥羽伏見の戦いに参戦し戊辰戦争で越後、奥羽庄内へと転戦し戦功を挙げ鹿児島へ帰藩する。明治二年、藩命で東京へ遊学に出て当時政府の重職にいた西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受けることになる。その時自分の進むべき道は海軍だと志を定め昌平黌(維新後は明治政府が接収し昌平学校として国学や神道を主に教えたが後に閉鎖した)、開成所(徳川幕府が洋学教育の学校として設立し維新後は明治政府が接収して「開成学校」として再興した東京大学の源流となる学校)、海軍操練所(築地にあった旧広島藩邸跡地に出来たが後に海軍兵学寮となり海軍兵学校として江田島へ移転する)明治六年、「征韓論」問題で野に下った西郷隆盛が故郷・鹿児島に帰郷するや桐野利秋(中村半次郎)や篠原国幹、別所晋介らも辞職して帰郷、欧米へ遊学に出ていた村田新八や池上四郎も遅れて鹿児島へ帰る。山本権兵衛も大恩人・西郷の一大事を知るや鹿児島へ帰り西郷に殉ずる覚悟で面会するも日本の未来に海軍がいかに大事か説得され兵学寮へ戻り翌年に卒業し実施研修の為に軍艦「筑波」で台湾やハワイ、サンフランシスコなどを航海し帰国。明治九年にドイツ軍艦「ビネタ号」に乗船しモンツ艦長に出会い生涯の師と仰ぐ、翌年には「ライプチッヒ号」に乗船して各地を周回中に「西南戦争」が勃発して恩人・西郷隆盛が戦死してしまう。帰国後に海軍少尉となった山本権兵衛は海軍士官合宿所の向かいにある遊郭に売られてきたばかりで客をとらされる寸前の女郎だった新潟美人の津沢登喜子に一目ぼれ(津沢登喜子は新潟白根市菱潟村の漁師・津沢鹿助の三女として生まれ生活苦から娘の登喜子を売ったといわれる)勿論、海軍少尉の権兵衛には身請けする金もあるはずなく弟や同僚の協力を得て足抜けさせる計画を練る。当時、足抜けは重罪だから吉原の監視は厳しく四方を高い塀に囲まれている為、築地の海軍兵学校からカッター(小さなボート)を持ち出して連れ出し権兵衛が二十六歳、登喜子十八歳で結婚した。(当時の薩摩出身の士官が士族ではなく平民の娘を妻にすることは異例で周りからの反対にあったが終生権兵衛は妻を愛し続けた。{長州閥では木戸孝允や伊藤博文などが元芸者を妻にしていた。})権兵衛は結婚の四ヵ月前に誓約書を与え教育の受けていない登喜子のために漢字には皆ひらがなをつけるという心遣いを見せた。登喜子も誓約書をよく守り海軍相や総理婦人として鹿鳴館などの社交の場には出るが普段は表に出ることなく派手を好まず1男6女の子女の教育に専念したという。山本権兵衛は薩摩閥として順調に出世していく(一時期、海軍卿・榎本武揚の命によって「乾行」艦乗船を非職されるが直ぐに「浅間」艦乗船を命ぜられる。この件は榎本武揚海軍卿非難排訴運動に関してかどうかは不明)同年に海軍大尉に昇進し明治十五年に砲術教授、同十八年に海軍少佐に同二十年に樺山資紀海事官の欧米視察に随行後に海軍中佐、同年に大佐に昇進と順調に昇り艦船「高千穂」の艦長になり海軍省主事に就任。ここで権兵衛は一大転機が訪れる、明治二十五年の第四回議会で陸軍の予算900万円に対し海軍予算が50万円と「陸主海従」の関係が続いていた。(明治十年の西南戦争以後から続いた旧士族の反政府運動や農民による一揆が続発した為に鎮圧する陸軍の存在が大きくなり陸軍の中心に長州閥が多いので自然海軍の立場が弱かった。)山本権兵衛は海軍大佐ながらこれに異議を唱え「島国の国防は海上権を最優先すべきであるのにわが国は陸が主である。せめて陸海平等にすべきである」と正論をもって海軍参謀本部設立を主張した。(陸軍参謀本部は独立した機関であるのに対し海軍司令部は大臣の下に位置していた。)陸軍の猛反発を受けながら権兵衛は参謀総長有栖川熾仁親王、次長中将川上操六、陸軍大臣・大山巌大将、次官の児玉源太郎、背後の山県有朋らに一歩もひかなかった。10年後に海軍大臣として宮中に参内した時に天皇に上奏して「陸海平等」の大改革をなしえた。また、日清戦争前の豊島沖海戦後に起こったイギリス船高陞号事件の解決に尽力し薩摩閥の実質的後継者と認められる。(この事件はNHKの「坂の上の雲」でも取り上げていたが東郷平八郎が艦長を務める艦船「浪速」がイギリス商船「高陞号」に1200名もの清国兵が搭乗し火砲14門と弾薬を積んでいるのを確認し臨検を命じたが清国兵がイギリス人船長を人質にして反撃、東郷はやむなく撃沈した事件で国際法何の問題も無かった)明治二十八年に海軍参謀官のときにに西郷従道海軍大臣は概況書の提出を命じた。権兵衛は苦心の末書き上げたが西郷海軍大臣は一週間で返してきたので山本権兵衛は海相に「閣下は陸軍では将軍ですが海軍では新参者ではありませんか。私は海軍で生まれ海軍で育ったもので言わば閣下より古参です。その私が七ヶ月かかって調べたものがわずか一週間で解ったもう良いとは何事ですか」と噛み付いた。西郷海相もなるほどと再度読み直したという。その後、海軍中将に任じられ山県内閣で海軍大臣に就任し伊藤博文内閣、桂太郎内閣でも海軍大臣を歴任する。大臣時代は士官に海外留学を奨励し秋山真之や広瀬武夫ら多数の青年士官を留学させた。また明治三十七年、日露開戦を控えて舞鶴鎮守府長官という当時としては窓際的存在で予備役編入寸前だった東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢する。周囲からは「あの凡人である東郷にはこの大任は務まらない」と反対の意見が多くそれを耳にした明治天皇から山本に呼び出しを受けその真意を尋ねられた山本は「東郷は運がいい男ですから選びました」と自信を持って答えた。明治三十七年、東郷平八郎と共に海軍大将に昇進する。大正元年に陸軍大臣・上原勇作が陸軍と内閣の意見が合わないと辞表を提出し後任の大臣が決まらないまま西園寺内閣が倒れ次の桂太郎内閣も短命に終わった為に薩摩閥の元老・大山巌の支持を受けて山本権兵衛が内閣を組閣し総理大臣になるが陸軍と海軍の軋轢など数々の難題とシーメンス事件(ドイツの企業・シーメンスが日本政府相手の贈賄事件が発覚)の責任を取って総辞職し次の大隈内閣では薩摩閥と海軍の力を排除する動きが働き海軍大臣に八代六郎が就任して山本権兵衛、元海軍大臣・斉藤実らを予備役に編入、この人事に反対する東郷平八郎や井上良馨らを退け断行した。山本は「人事は大臣の専管事項、重鎮が口を挟めば将来に禍根を残す」といって潔く編入に従った。大正十二年、海軍を退役、翌年には加藤友三郎総理が死去し後継の内閣を組閣するよう権兵衛に大命が下る。その後「関東大震災」が起こりその翌日に第二次山本内閣が成立する。権兵衛は東京の復興に励むが皇太子裕仁親王(昭和天皇)が狙撃される虎ノ門事件の政治的責任を取って内閣を総辞職し翌年に依願免官した。その後は一切表舞台に出ることは無く昭和八年に今まで病気一つしたことの無い権兵衛は摂護腺肥大症(前立腺がんの可能性大)で病床についていた。いつもは側で看病についている妻・登喜子の姿がある日を境に見せなくなったのを怪しみ妻もまた癌に倒れ臥していることを知る。自分の病名を聞いても顔色1つ変えなかった豪胆な権兵衛持つ間の病状を知るや顔面蒼白となり家のものに行って自分を二階で臥している妻の下へ運んでもらう。権兵衛は妻の手を握りしめて「お互い苦労してきたなあ・・だが私は何一つ曲がったことをした覚えが無い。安心して行ってくれ・・いずれ遠からず後を追って行くからな」と言葉をかけると妻は夫の手をぎゅっと握り返し涙したという。その日に妻・登喜子は天国へ旅立った享年七十四歳・・・夫・権兵衛もその年の暮れに約束通りに後を追って天国へ旅立った享年八十二歳の大往生だったという。
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2011年11月27日

ドラマJIN−仁ーでも活躍 緒方洪庵と妻の八重

Ogata.jpg緒方洪庵は文化七年、備中国足守藩の下級藩士(三十三表四人扶持)・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれ八歳の時に天然痘に罹ったといわれる。十六歳で元服し田上セイ之助惟彰(この田上は佐伯家の先祖が一度だけ名乗った姓を用いた)文政八年に足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父に同行して初めて大坂の土を踏む。洪庵は生来体が弱く武士よりも医学で身を立てようと決意し翌年には蘭方医で蘭学者・中天游の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学や西洋医学を学び翻訳書を読みふける。(その間に父の転勤に伴って一旦帰藩するが藩の許可を得て上坂し改めて中天游に弟子入りをして名を緒方三平と名乗る。)天保二年、洪庵は二十二歳の時に師匠・中天游の勧めにより江戸へ出て蘭方医・坪井信道の「安懐堂塾」に入門し医学やオランダ語を学びローゼが著した「人体生理学書」を翻訳した「人身窮理学小解」は医学を志す若者達に多く読まれた。洪庵は按摩など今で言うアルバイトをしながら苦学を続け師匠の坪井は見かねて自分の着ていた服をそっと洪庵に着せてやるという師弟愛を見せた。後に坪井信道の紹介で坪井自身の師である宇田川玄真にも学び名を「緒方判平」と改める。その後、備中足守に帰ったが恩師・中天游の死の知らせを受け上坂し恩に報いる為「思々斎塾」で教鞭をとる。その後。天保六年、名を緒方洪庵と改め中天游の嗣子である中耕介を伴って長崎へ遊学の旅に出る。(この費用は「思々斎塾」の先輩で名塩で開業医をしていた億川百記が出した)長崎ではオランダ商館長で医師でもあるニーマンにオランダ医学を学び青木周弼や伊藤南洋とともに「袖珍内外方叢」という薬剤所を翻訳したといわれるが長崎修行時代のことはあまり記録に残っていないらしい。(勉強不足ですみません)天保九年、二十九歳で大坂に帰った洪庵は大坂瓦町に医業を開き「適々斎塾」(適塾)の看板を掲げ蘭学を教える。(恩師・中天遊の「思々斎塾」にあやかって適々斎塾と名づけた。)同年に先輩・億川百記の娘・八重(十七歳)を嫁に迎え後に六男七女の子を儲ける。洪庵は開業二年目にして大坂の医者番付で大関に昇ったその名声に「適塾」には多くの弟子が集まり村田蔵六(後の大村益次郎、維新後の日本陸軍創設者で維新十傑のひとり)や福沢諭吉(慶応義塾の創立者、学問のすすめの著者)、大鳥圭介(幕末の函館政権では陸軍奉行「土方歳三は陸軍奉行並で有名」維新後は学習院院長)佐野常民(日本赤十字の創始者)橋本左内(福井藩主・松平春嶽の懐刀で安政の大獄で処刑)高松凌雲(函館戦争時の函館病院長で敵味方の区別なく治療して同愛社を創始して後の赤十字先駆者となる)、手塚良仙(天然痘治療の為のお玉ヶ池種痘所{東大医学部の発祥地}の創設者のひとりで昭和の大漫画家手塚治虫の曽祖父)など数々の偉人達を輩出し明治元年の適塾閉鎖までに名簿に残された者だけで636人に及び教えを請うた者を含めると数千人もいたという。 弘化二年、瓦町の適塾が手ぜまになった為に過書町(現・大阪中央区北浜三丁目)の商家を買い取り移転した。多くの死者を出した天然痘の予防や治療を研究し嘉永二年、京都で佐賀藩の医師・楢林宗健から種痘を譲り受け大坂古手町(現・道修町)の除痘館を設立して切痘を開始し翌年には出身藩である足守藩からの要請で足守除痘館を開設。ワクチンの不足を補う為に全国186箇所の種痘株分苗所を作ったが闇で牛痘種痘を行う医者が増え医療事故が増えるのを恐れた洪庵は幕府に働きかけて除痘館のみを幕府公認の免許制となる。また大坂にコレラが流行するや「虎狼痢治準」を出版し「家塾虎狼痢治則」をまとめる。(人気テレビドラマ「Jin 仁」では武田鉄也演じる緒方洪庵は南方仁のペニシリン培養に協力した)文久二年、再三固辞していた幕府からの奥医師の要請を受諾し江戸へ出て伊藤玄朴宅に単身赴任し幕府の西洋医学所頭取となり仮屋敷に移り妻と子供達を呼び将軍家茂より「法眼」に叙せられる。(法眼はもともと僧侶の地位を示す法眼和上位の略だが江戸期には絵師や儒者、医者などに与えられる今で言う人間国宝のような物らしい)文久三年、西洋医学所頭取役宅にて喀血しその血を喉に詰まらせて窒息死する。享年五十四歳・・・緒方洪庵の妻・八重は洪庵が二十九歳のとき十七歳で嫁ぎ六男七女(内の四人は早世)を育てながら苦しい生活の為に名塩の実家に仕送りを頼み生活費を助けた。また、血気盛んな塾生をあるときは叱り、ある時はほんとうの親のように接した姐御肌の豪気さを持った女性といわれている。福沢諭吉は「母のような人」といって慕い、日本赤十字創始者の佐野常民は彼女から受けた恩を忘れられず墓碑銘を自ら書いたという。八重は夫・洪庵の死後二十三年後の明治十九年享年六十四歳で亡くなるがその葬儀には門下生は勿論、政府関係者や在野の著名人、一般人など2000名もの参列者がいたがその葬列の先頭が日本橋に差し掛かった頃にはまだ八重の棺は2500メートル離れた北浜の自宅を出ていなかったといわれている。日本陸軍の創始者である大村益次郎は京都木屋町の料亭で暴漢に襲われ重傷を負い大坂の病院で左大腿部切断の大手術をしたがその足は益次郎の意向により緒方洪庵・八重夫妻の墓の横にこっそりと葬られたという。(大村益次郎はその後、敗血症をおこして死去した。)
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2011年11月25日

西郷隆盛が師と仰いだ大人物 藤田東湖

2005-03-16.jpg藤田東湖は文化三年に水戸学中興の祖で儒学者・藤田幽谷(元は古着屋の息子だがかの有名な水戸藩2代藩主・水戸黄門光圀の一大事業「大日本史」編纂の為に作られた彰考館に勤務)の次男・藤田彪(たけき)として生まれる。(一説によると遠祖は平安時代の学者であり歌人の小野皇{たかむら}「昼は官僚として朝廷に仕え夜は井戸を通って地獄へ行って閻魔大王の補佐として亡者の裁判を助けたといわれる人物」)藤田彪(たけき)は通称・虎之介といい号の「東湖」は生家の東に「千波湖」というみずうみがありこれを号にしたといわれている。東湖は二十一歳の時に父が亡くなりその家督を継いで父の私塾「青藍舎」を引き継ぎ藩内では進物番二百石となった後に父の意思を受け継いで彰考館に勤務して大日本史編纂に尽力し彰考館総裁代理として藩内の地位を築いていく。文政十二年、子供がいなかった第八代水戸藩主・徳川斉脩が亡くなり次期藩主に藩内で大きな力を握っていた附家老・中山信守を中心とした門閥上級藩士らが推す将軍・家斉の第二十子・徳川斉彊を養子に迎えようとしていた(水戸藩から独立して大名になりたかった附家老の中山信守は本家将軍のゴマすりの為に画策したと思われる。)この計画に対抗したのが第八代藩主・徳川斉脩の異母弟・斉昭を推す水戸藩下級藩士たちの中心人物となった藤田虎之助(東湖)は第九代藩主となった斉昭の信頼を得て郡奉行や御用調役を経てお側用人となり「経世済民」(世を治めて民を救う)を掲げ藩政改革に尽力する。(同じく側用人となった戸田忠太夫蓬軒とともに水戸の両田と称された。)しかし弘化元年に藩主・斉昭は鉄砲斉射事件や仏教徒弾圧問題で幕府より家督を嫡子・慶篤に譲り蟄居謹慎の処分を受けると藤田虎之助(東湖)も失脚して禄を剥奪され蟄居幽閉処分を受ける。藤田虎之助はこの次期に「回天詩史」や「正気歌」を著しその尊王論は全国の尊皇攘夷の志士達の信望を集めたといわれる。嘉永三年にようやく水戸に帰国することが出来嘉永五年に罪を許された。翌年、ペリーが浦賀に来航するや諸問題に対応する為に徳川斉昭を幕政参与に復帰指せ藤田虎之助もまた幕府の海防御用掛として斉昭を補佐し御側用人に復帰する。(この次期に虎之助は藤田東湖と改め禄高も二百石から六百石になった。)藤田東湖の名声は各国に伝わり当時薩摩より上京したばかりの若き西郷隆盛も同藩士・樺山三円の紹介で小石川の水戸藩邸の藤田東湖に面会しその学識、人柄、胆力に感銘を受け東湖と越前福井藩士・橋本左内を心の師と仰いだといわれる。安政二年に学校奉行に任じられるがその年の十月に起こった江戸湾北部を震源とする大地震に見舞われ小石川藩邸が倒壊、一旦は家族とも非難したが母親が火鉢の始末を心配して藩邸に戻った為に東湖は母の後を追って藩邸に入るや鴨居が落下し母を庇って柱を肩で受け止め母を脱出させた後に力尽きて圧死したという。享年五十歳・・・この安政の大地震で盟友の戸田忠太夫も亡くなり押さえの効かなくなった水戸藩はまたも保守派と改革派の対立が激化し桜田門外の変や藤田東湖の息子・藤田小四郎が起こした天狗党の乱など幕末の動乱が始まっていく。
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2011年09月14日

名門のイケメン武士 池田長発

IkedaNagaoki.gifJapanese_Mission_Sphinx.jpg池田長発(ながおき)は天保八年、幕府直参旗本七千石・池田長休の四男として生まれ幼少時から神童と呼ばれ幕府の学問所・昌平黌に入学すると秀才といわれ和漢洋のすべてに精通し槍術、馬術、鉄砲術などにも優秀な成績を残した。十五歳で同族で名門の備中井原千二百石領主・池田長溥の養子となり十九歳で将軍から吹上御庭で御目見えを許される。長発は禄高が低かった為に小普請組入り小十人組頭から二十五歳で目付、翌年には火付盗賊改め、京都町奉行と出世を重ね、家柄と勤勉、忠誠心の篤さが認められ外国奉行に抜擢され筑後守に叙された。丁度この次期、攘夷論が強まり孝明天皇が攘夷勅命を発し長州藩の下関戦争や薩摩藩の薩英戦争など各地で諸外国との軋轢が高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後に横浜近郊の井土ヶ谷村でフランス陸軍の士官三名を攘夷派(長州藩浪人といわれている)の浪士三人に襲撃されてアンリ・カミュ少尉が惨殺される事件が起きた(結局犯人は見つからず迷宮入りとなった)フランス公使・ベルクールの勧めもあり幕府は事件の解決と謝罪の為にフランスへ外国奉行の竹本甲斐守を特使を派遣しようと考えたが病気を理由に体よく断られてしまう。幕府はフランス側の非難と国内攘夷派の圧力の両方に押されて横浜再鎖港(既に諸外国の圧力により開港していたが朝廷や攘夷派の顔を立てるため)の交渉に当たらせるために池田筑後守長発を弱冠二十七歳の若さで大抜擢され欧米諸国へ派遣することを決定する。(幕府は何人もの正使候補に断られた為に忠誠心が篤く外国事情にあまり詳しくない池田筑後守に白羽の矢を立てたといわれている)池田長発は文久三年に三十四名の遣欧使節団を率いてフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出航して上海、インドを経由してスエズから陸路でエジプトのカイロにむかった途中でギザの三大ピラミッドやスフィンクスを見学、記念撮影をして翌年にフランスのマルセイユに入港後パリに到着して皇帝ナポレオン3世に謁見してフランス政府に事件の謝罪と遺族への扶助金(慰謝料)を支払った。長発はフランス外相と鎖港交渉に入るが猛烈な反論にたじたじになった。また西洋文明の強大さ思い知らせれた長発は開国論に考えが傾き交渉を途中で打ち切っただけでなく長州藩によるフランス船砲撃の賠償金問題や馬関海峡(下関)の自由航行の保障などの「パリ条約」を勝手に締結し2〜3年の西欧歴訪予定を取りやめわずか8ヶ月で帰国してしまう。(生来、生真面目で勉強熱心、幕府に対する忠誠心の熱い長発は進んだ西洋文明を目の当たりにして攘夷だ鎖国だといっている日本のことが心配でいてもたってもいられなかった)帰国後直ぐに開国の建白書を幕府に提出し熱心に開国開港を唱えたが幕府は「パリ条約」を破棄して長発の禄高半減と蟄居謹慎を命じた。(攘夷や鎖国の愚かさ開国の必要性は勝海舟ら開明派の幕臣は既に承知していたが早急に進める困難さもまた理解していたが池田長発はストレート過ぎた為に気が違えたかのような扱いをされた)その後池田長発は実兄・池田長顕の五男・長春を養子に迎えて家督を譲り隠居を願い出た。慶応三年に罪を許されて軍艦奉行並に再登用されるが数ヶ月後に病気を理由に辞職して以後政治には関わらず明治維新後は岡山に引き揚げた。領地の井原で学問所を作って青少年の育成を夢見ていたが岡山藩主の引止めにより井原には戻らず同地で病に倒れ四十二歳の短い生涯を閉じた。写真で見る限り池田長発は名門のお坊ちゃまでイケイケのやんちゃなイケメン青年だがパリから帰国時に物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造など多数の書物や資料を持ち帰り日本に多くの西洋文明を伝えようという真面目で努力家の一面が垣間見えるが幕末の乱世ではこの純粋な男には荷が重かったような気がする。
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2011年01月21日

最期に夫に愛想をつかした良妻 勝民子

勝民子は勝海舟(勝隣太郎)の妻で生年不詳、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘で深川の人気芸者だったが二十五歳のときに二歳年下で二十三歳の勝海舟(麟太郎)と結婚したといわれている。当時、勝海舟が住んでいた本所入江の地主で旗本・岡野孫一郎の養女となって輿入れした。(海舟の父・小吉とは深い付き合いで実家の男谷家を出て転居を繰り返したうちの最も永く住んだのが岡野家の敷地だった。)勝家は当時、小普請組の四十一石取り無役小身の旗本で三畳一間の極貧生活を余儀なくされたが民子は不満1つ言わずに蘭学の本を読みふける夫を支えた(冬の寒い日には天井板を剥がして燃やし暖をとり家の中でも空が見えたという暮らしだった。)夫婦は中睦ましく結婚翌年の弘化三年には長女・夢子が生まれ、その後次女の逸子、嘉永五年には長男の小鹿が生まれ麟太郎・民子夫婦は二男二女をもうけ幸せな生活を送ったと晩年に語った。この頃には海舟は蘭学の私塾を開いていたがペリーの黒船が来航して幕府はその対応に苦心していた。海舟(麟太郎)は幕府に海防の意見書を提出し老中・阿部正弘に認められ安政二年に長崎海軍伝習所を創設して海事研究を始め二年後には伝習所教授に就任した。海舟(麟太郎)はこの地で「おひさ」(おくま)という十四歳の未亡人を妾にし男の子を生ませたという。その後、貧乏生活から脱した麟太郎は糸の切れた凧のように各地で妾を作り維新後には自宅にも二人の妾(女中の増田糸と小西かね)と同居して本妻の民子に苦労を掛けたという。また、梅屋敷別邸に森田栄子、長崎の西坂に前述の「おひさ」(梶玖磨)を囲った。正妻の民子は自分の子、二男二女と妾たちの子、二男三女の九人の子供たちを分け隔てなく育て上げ愛妾達から「おたみさま」と慕われたという。だが嫡男の小鹿が四十歳で急逝し小鹿の長女・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし){当時十一歳}を迎えて勝家を相続させが伊代子が早逝すると実父・徳川慶喜同様に女と趣味に情熱を燃やし写真やビリヤード、当時発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビットソン)に熱をいれ屋敷内にオートバイ専用鉄工所を設けて国産大型オートバイ「ジャイアント号」を完成させた(後にこのメンバーが目黒製作所を作り川崎重工の吸収によってカワサキのオートバイへと発展していった)妻の伊代子亡き後は女中の水野まさという人を妾にしていたがその愛人と服毒心中した。話を元に戻すが海舟は嫡男・小鹿の死や嫡孫に当たる精(くわし)の非行などの心労によって明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となり富士の見える所の土になりたいとの遺言により別邸千束軒のあった洗足池公園に葬られた。その六年後の明治三十八年に民子は亡くなるのだが最後に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残し青山墓地に葬られたが後に嫡孫・精の独断で洗足池の勝海舟の墓のとなりに改葬され現代にいたる。余談だが前述の長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男・梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)は明治政府の依頼で日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしたがその娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し一男五女を儲けたが後に離婚してアメリカに帰国した。
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2010年12月12日

秋山真之の先輩で親友 広瀬武夫少佐(死後中佐)

navy-ryojun07.jpg広瀬武雄は慶応意四年に岡藩士・広瀬友之允重武(幕末の討幕運動で活躍して維新後は裁判官となった)の次男として豊後国直入郡竹田茶屋ノ辻(現・大分県竹田市茶屋の辻)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし祖母に育てられたが西南戦争で家が焼失してしまい一家で父の在任先である岐阜高山で暮らし飛騨高山煥章小学校を卒業後は代用教員をしていたが退職して岐阜華陽中学校へ臨時入学した。その後上京し攻玉社(近藤真琴により創設された学校で海軍兵学校入学の為の予備校的存在)に通いながら下谷の講道館に入門して柔道を習い始めた。明治十八年、十八歳で海軍兵学校に15期生として入学(秋山真之は17期生)を果たす(六月の入試に落ち九月の追加募集で合格した。)海軍兵学校では柔道に没頭して校庭や講道館で練習に励んでいたが在学中の大運動会のマラソンで左足が骨膜炎になり足を引きずりながらも完走し切断寸前まで悪化するが療養の結果完治したという。(しかし、その後も時折左足に痛みに悩まされた)明治二十二年に海軍兵学校を卒業するが在学中に大病を患って勉強に集中できず80名中武夫は64番という低い成績だったという。海軍少尉候補生となった武夫は実地訓練の為に軍艦「比叡」に乗ってハワイへ遠洋航海に出ることが決まった。(武夫ら少尉候補生数名で静岡の清水の次郎長を訪問して人の上に立つ者の心得を聞いたといわれている)明治二十四年、少尉になった武夫は「海門」の分隊士となった後「比叡」の分隊士となり豪州遠洋航海に出て翌年に筑波分隊士となる。海軍水雷術練習所分隊士となるも(この次期、将来日本はロシアと戦争になることを予測してロシア語を勉強し始める)翌年に日清戦争が勃発して従軍し「門司」に乗船するが後方支援(輸送業務)のみで戦闘には参加できず終戦を迎える。(終戦前に大尉に昇進)、軍令部に出仕した。その後、八代六郎大佐(後に大将)の紹介により秋山真之と知り合う。(八代六郎は海軍兵学校時代の二人の恩師で両人とも八代に大そう気に入られていた)真之と武夫は四谷の一戸建てを借りてしばらく同居していた。明治三十年、軍令部諜報化課部員となった後日清戦争で中断していた海外留学制度が再開され五人の大尉が留学生として欧米に派遣されることになった。この時に選ばれたのがイギリスに武夫の同期で親友の財部彪大尉(海軍兵学校15期生を首席で卒業し海軍の宝といわれた人物)フランスに村上格一大尉(海軍兵学校11期次席で卒業)、ドイツに林三子雄大尉(海軍兵学校12期三位で卒業)、アメリカに秋山真之大尉(海軍兵学校17期を首席で卒業)、ロシアに広瀬武夫大尉(海軍兵学校15期を64位で卒業)がそれぞれ選ばれた。武夫以外は成績優秀の俊才ぞろいであったが広瀬武夫だけは下位の成績で選考を担当した山本権兵衛少将は躊躇したがロシア語やロシアの情勢を早くから独学で勉強していることを聞き山本は広瀬を承認したという。(広瀬武夫は大津事件の後、ロシアが将来日本の脅威になる予感してロシアの言葉や軍備の知識を学びだした)武夫はロシアに留学しロシア各地の海軍工廠や造船所、軍港などを視察したりロシア貴族の社交界に出入りをして機雷施設の専門家で兵学校で教鞭をとっていた海軍省海事技術委員会のコワリスキー大佐に接近して家族ぐるみの交友をした。(小説ではロシア海軍省水路部長子爵コワレフスキー少将になっている)コワリスキー家に出入りしている内に大佐の長女・アリアズナと恋仲となるが武夫は「軍人には妻子は不要」との持論で妹のようにアリアズナと接していたが彼女の積極的なアプローチに武夫も意識するようになったという。二年後の明治三十二年に駐在武官となりドイツ、フランス、イギリスの海軍施設をを視察しその戦力の分析を行いその年に少佐に昇進する。日本とロシアが緊張状態になった明治三十五年、ついに広瀬武夫に帰国命令が出る。懇意にしてもらっていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれ時にボリス・ヴィルキトゥキーという海軍兵学校を卒業したばかりの候補生が是非にと宴に加わった。彼は文武に秀でた広瀬を「タケニイサン」と日本語で呼び慕っていたが帰国すると聞いて「タケニイサン、艦に乗るときに使ってください。」と柄のついた銅製のグラスを贈った。武夫は感謝の言葉を伝えながら「お互い愛する祖国の為に全力で戦おう」と誓い合ったが2年後にそれが現実となる。いよいよ出発に日、武夫とアリアズナは僅かの時間を二人っきりで逢い彼女がかねて用意していた銀製の懐中時計を武夫の手に握らせたという。ふたを開けると(A)の文字が彫られアリアズナのAとAMOUR(愛)のAの両方の意味を知らせあなたのお傍に置いてくださいといい時計の鎖にアリアズナの写真入のロケットも付いていたという。武夫はアリアズナの純粋な愛に思わず抱きしめたがごれが最期の別れとなった。モスクワを発った武夫は鉄道でイルツークまで行きその輸送能力を調べ雪中のシベリアをそりで横断して内情を探った。ウラジオストックより旅順まで東清鉄道で移動した後、ロシアの極東総督アレクセーエフ大将を表敬訪問し日本へ帰国する。その後、軍艦「朝日」の水雷長兼分隊長となり横須賀鎮守府軍法会議判士長を拝命したが翌年に常備艦隊に編入されたのを機に判士長を免職、佐世保のカッター競漕会で武夫の乗り込む「朝日」が優勝する。明治三十七年、ついに連合艦隊が佐世保より出撃仁川沖にて交戦しロシアに宣戦布告して日露戦争が始まる。一方、ロシアの親友・ボリスは海軍少尉に任官されロシア最新艦「ツェザレーヴィチ」に乗り込み旅順港に到着した旨の手紙を「タケニイサン」に送った。旅順沖合いで日本連合艦隊が水雷艇10隻を港内に侵入させ「ツェザレーヴィチ」をはじめ戦艦2隻と巡洋艦2隻に多大な損害を与えたが要塞に守られた旅順軍港に逃げ込みじっと身を潜め出てこなくなった。これでは日本海軍は遠巻きで港を監視するしか方法がなく手詰まりとなった為に旅順港閉塞作戦を敢行することになり5隻の老朽船と77名の志願兵(血判状を差し出し志願した兵の中に後に武夫が命を落とす一因となった杉野孫七上等兵曹がいた)で実行しようとしたがロシアの沿岸砲台が作戦を察知して集中砲火を浴びせた為に失敗する。(武夫は「報国丸」に乗船して指揮を取った)失敗から一ヵ月後に第二次閉塞作戦を4隻の閉塞用船で敢行することになり武夫は福井丸で指揮を取る。出撃前の「福井丸」に親友・秋山真之が会いにくるがこれが最後の別れとなった。(秋山は死を覚悟した親友に「敵の砲撃が烈しくなったらかまわずに引き返せ、決して命を無駄にするな」と説得しにやって来たという。旅順港口に突入した4隻の閉塞船にロシア沿岸砲台や駆逐艦から一斉砲火を浴び先ず航行不能となった千代丸が自沈、武夫が乗船した「福井丸」はそのやや前方で自沈を図った。杉野孫七上等兵曹が自爆用爆薬に点火するために船内に入った時にロシア駆逐艦の魚雷が命中し「福井丸」は次第に沈みかける。全員をボートで退艦させ点呼をとった所杉野上等兵曹が居ないことに気づいた武夫は「福井丸」に戻り船内を三度くまなく探したが杉野上等兵曹の姿が見つからず諦めてボートに移った。その時、ロシアの哨戒艇の砲撃を頭部に直撃し広瀬武夫少佐は銅銭大の肉片を残して吹き飛ばされ戦死した。第三船の弥彦丸も自沈し第四船の米山丸は指揮官が砲撃で負傷し二等兵曹が指揮を取って閉塞目的地を目指すがロシア駆逐艦の魚雷が命中して沈没し第二次閉塞作戦は失敗に終わる。広瀬武夫少佐の遺体はロシア艦船が引き揚げた。遺体は頭以外は損傷がなくロシア駐在武官時代の恋人・アズアリナの兄が遺体確認し栄誉礼をもって厳粛な葬儀を執り行った。広瀬武夫の死を知ったアズアリナは生涯独身を貫いたと言われている。明治政府は翌日に広瀬武夫を中佐に昇進、杉野孫七上等兵曹は兵曹長に昇進して広瀬は日本初の「軍神」として祭り上げられた。広瀬武夫享年三十六歳・・・第二次旅順港閉塞作戦は失敗に終わりその一ヶ月後の第三次閉塞作戦では閉塞船12隻という大規模作戦となったが天候不順とロシア軍の反撃でまたもや失敗した。バルチック艦隊が向かっていることを知った日本海軍は陸軍に陸上からの旅順港要塞の攻撃を依頼し乃木希典大将、伊地知幸介参謀長率いる第三軍が多くの犠牲を払い旅順港に停泊中のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)が見渡せる203高地を児玉源太郎の助力もあって奪還に成功し旅順港の太平洋艦隊の殲滅に成功する。これのよって日本海軍はロシアバルチック艦隊との海戦を有利にして連合艦隊勝利に仁導いた。
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2010年12月10日

兄の為に半生を生きた妹・正岡律

ritu.jpg正岡律は明治三年、松山藩士正岡恒尚と八重の長女で正岡子規の妹として愛媛県松山で生まれる。幼少の頃から大変勝気で体の弱い子規がいじめられると律は両手に石を握り締めていじめっ子を追いかけまわしたという。小学校を卒業し十五歳で遠縁にあたる陸軍軍人の恒吉忠道と結婚するが僅か九ヶ月で離縁される。その二年後の明治二十二年に松山中学教師・中掘貞五郎(地理や物理などを教えていた。夏目漱石の坊ちゃんの「うらなり」のモデルになった一人とも言われている。背丈が低く歩く時にコットリコットリと音を立てて歩くので生徒からは「こっとりさん」とあだ名されていたという。)と再婚するも(子規が喀血で倒れ夏季休暇中を利用して松山に戻って療養していた)新婚ながら兄の看病でほとんど実家に帰っていたのが一因で僅か十ヵ月で離婚する。兄・子規が東京帝国大学を中退して新聞社に就職したのを機に律は母・八重と共に上京して三人で暮らし始める。しかし、子規が従軍記者として大陸へ渡航中に喀血し脊髄カリエスと診断され歩くこともままならない状態になると律は昼夜を惜しまず献身的に兄の看病をする。脊髄カリエスにより背中から流れ出る膿や便も嫌がりもせずとってる姿は主治医・宮元仲は「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」とその献身振りを賞賛したという。また、子規の容態が悪化するにつれやり場のない怒りを傍で看護している妹にぶつけるしかなかった。律はそんな兄を気づかって少しでも心が癒されるようにと思ってか庭を作り変え子規の目を楽しませ寝返りが打てなくなるほど悪化すると鳥籠を設置して耳を楽しませたりヘチマ棚を作って子規を癒した。子規は脊髄カリエスの痛みや動けない辛さを傍にいる律にぶつけ彼の著書「仰臥漫禄」で木石のような女だの強情で冷淡な女だの書き連ねて不満をぶつけた。しかし「一日にても彼女なくば一家の車は其運転を止めると同時に余は殆ど生きて居られざるなり」と律を頼りにし「 雇ひ得たるとも律に勝る所の看護婦 即ち律が為すだけのことを為し得る看護婦あるべきに非ず」と律に感謝している。明治三十五年、正岡子規はついに苦しく辛い闘病生活に終わりを告げて三十五歳の生涯を閉じる。律と母・八重はその後も子規庵に住み続け律が小学校しか卒業していなかった為、三十二歳の時に共立女子職業学校(鳩山由紀夫元首相の曽祖父ら教育者数名で設立し現在は共立女子学園)に入学して裁縫、家事、修身、国語、算術、理科などを勉強、補習科に進んだ後卒業して母校の事務員を経て家政とくに和裁の専門教師として大正十年まで勤めるが母・八重の看病の為に退職する。その間の大正三年、叔父・加藤拓川の三男・忠三郎を正岡家の養子として迎え入れ家名を継がした。教師時代の律は厳格であるが優しい先生として多くの生徒に慕われ退職後も教え子達との交流は続いたという。その後子規庵にて裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品遺墨と子規庵の保存に努め昭和三年、財団法人子規庵保存会初代理事長に就任した。律の最期の手記「律刀自病床覚」によると律は最期に「もう連れて帰ってください」と残して昭和十六年に七十二歳の生涯を閉じ生前の希望通りに正岡子規の傍らに律は葬られた。・・・余談になるが子規がまだ松山中学在学の頃、子規の周りに多くの仲間が集まって話をしていても律はその中に入ってこなかったが秋山淳五郎真之が来た時だけは喜んでその話の輪に入ってきたので子規は冷やかして「律は淳さんと結婚すればええ」とからかったといい、また子規没後に訪ねてきた真之の姪(秋山好古の次女・土井建子さん)は「お律さんの傍にいてひょっとしたらお律さんは真之叔父さんが好きなのかしらと思った」と述べていたらしい。幼い頃から兄の親友だった男前の秋山真之にほのかな恋心を抱いたとしても不思議ではない。
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2010年12月08日

白虎隊士中二番隊嚮導(副隊長)・篠田義三郎

20070217231950gisaburou.jpg篠田儀三郎は嘉永五年、会津藩供番家禄二百石の篠田兵庫の次男として郭内米代二之丁に生まれる。(母・しん子は織部玄孝の娘で後の家老・田中土佐の養女として篠田家に嫁いできた。)儀三郎は正直者で約束をたがえたことは一度もないといわれる。彼が六、七歳の頃、友達と日を決めて蛍狩に行こうと約束をした。しかし、その日は大風雨で誰の目にも蛍狩など出来る常態ではなかった。だが儀三郎は蛍籠を提げてやって来た。友達は「こんな天気に蛍など飛んでる筈がなかろう。なぜ態々来たのだ」と尋ねると儀三郎は「そんなことは解っておるが君と一旦約束を交わしたからそれを守っただけだ」といって約を解いて帰っていった。また、ある時友人宅で会合を開く約束をするが当日に雹が降り道は凍りついて寒さ烈しく誰も来ないであろうと友人は思っていた。ところが儀三郎が足袋を手に持ち裸足に草履履きで現れたので友人は驚き謝ったという。儀三郎の正直は皆知らぬ物はいないといわれた。十一歳で藩校・日新館に入学し尚書塾一番組に編入されしばしば賞賜を受けたという。慶応四年、戊辰戦争が勃発するや会津藩は軍制を整え年齢別に玄武(五十歳以上)・青龍(三十六歳から四十九歳)・朱雀(十八歳から三十五歳)・白虎(十七歳から十六歳)幼少組(十四、五歳)と分類され白虎隊でも身分によって士中、寄合、足軽と別れていた。儀三郎は士中二番隊四十二名に編入され責任感が強く成績優秀だった為に嚮導(指図役副隊長)に任命された。白虎隊は本来予備兵力として結成され毎日訓練明け暮れていたが自分たちも会津の為に戦いたいと友人の安達藤三郎と共に出陣嘆願書を軍事奉行へ提出した。嘆願が聞き入れられ藩主・容保の護衛というかたちで滝沢村本陣に出陣することになった。しかし新政府軍の進軍路になる十六橋を破壊して防ぐ作戦も薩軍が既に通過した後だったため失敗に終わった。藩主・容保と別れた白虎隊は三十七名で隊長・日向内記、儀三郎ら十六名と小隊長・山内弘人率いる二十名と原田勝吉が臨時で率いた七名が戸之口原で敵を迎え撃つ作戦を取った。しかし後方支援ということだったので重たい装備を置いて軽装での塹壕堀で空腹状態だったので隊長の日向内記が単身で食料調達に向かったが夜から烈しく降り続いた雨で帰還出来なくなり行方が解らなくなった。篠田儀三郎は隊長代理として指揮を取るが血気盛んな若者である儀三郎は皆の意見に推されて前線に出て戦う決意をする。儀三郎たちは善戦したが武器の違い(白虎隊では時代遅れの先込めゲーベル銃しか持っておらず新政府軍のミニエー銃とは比べ物にならないくらい性能が劣っていた)や兵隊の数、戦場での経験不足で退却を余儀なくされた。儀三郎ら十六名は山内隊や原田隊とはぐれ鶴ヶ城に戻って戦おうと話し合った。城に帰る途中滝沢の白糸神社付近で敵と遭遇して銃撃戦となり永瀬雄次が負傷する。彼を背負って弁天洞の洞門を抜けて弁天祠から飯盛山の高台へ出るとお城が燃えていた。(実際は城の周りの武家屋敷が燃えその煙で城が燃えているように見えた)儀三郎たち十六名はこのまま城を目指すかここで自刃するかを話し合った結果、極度の疲労や空腹と銃撃戦で負傷した者もいたので敵に捕らわれて恥辱を受けるよりここで全員自刃しようと決まった。後に蘇生した飯沼貞吉は出陣の際に母より贈られた和歌「梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかえしそもののふの道」を読み上げ、篠田儀三郎は天文祥の詩を高らかに吟じ傍らにいた石田和助も途中から加わったという。石田和助は吟じ終わると「傷が痛んで苦しいのでお先に御免」といって刀を腹に突き立てそれを見た儀三郎は喉を一気に貫き絶命した。遅れて飯盛山に辿り着いた石山虎之助は仲間の死体を見て後を追ったという。また伊藤俊彦と津田捨蔵と池上新太郎は不動滝にて戦死体として発見された。白虎隊士中二番隊三十七名の内で自刃したのは十九名といわれ皆十六、七歳のまだ若い子供達であった。
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2010年12月06日

坂の上の雲 俳人・正岡子規

s0150l.jpg正岡子規は本名・常規(つねのり)といい幼名を処之助後に升(のぼる)と改名し通称「のぼさん」と呼ばれた。慶応三年、伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)に松山藩御馬廻加番・正岡隼太常尚の長男として生まれた。母は松山藩の儒学者・大原観山の長女で八重といい子規がまだ六歳のころに夫の隼太が亡くなった為、女手1つで子規と律を育て上げた。正岡家の後見となった大原観山の私塾で漢書の素読を習い、翌年に広末小学校に入学し後に勝山小学校に転校し愛媛県第一中学(現・松山東高校で江戸時代末期の明教館の後進)に入学し秋山真之と一緒に学んだという。子規は好奇心旺盛の若者となり一時期は自由民権運動にも傾倒し政談に熱中したり、また松山一と云われた歌人の「井出真棹」に弟子入りした秋山真之に誘われて子規も入門して和歌を始めたといわれている。明治十六年、子規は愛媛県第一中学を中退して上京し東大予備門受験の為先ず共立学校に入学して受験英語を学んだ。(秋山真之もまた子規の後を追って愛媛第一中学を辞めて上京)子規と真之は無事に東京大学予備門に入学を果たし本郷に出来た常盤会寄宿舎に住んだ。(常盤会は旧松山藩主・久松家が旧藩子弟の学資援助組織として創設され子規は給費生に選ばれ月に七円の他と教科書代などが支給された。)寄宿生として子規と真之、「清水則遠」の三人は特に気が合う親友としていつもつるんで過ごしたという。しかし、栄養不足からくる病に倒れた清水は家が貧しく親元から届くはずの仕送りが届かず薬が買えずに病状が悪化して明治十九年に脚気衝心で命を落とす。親友に死に一時錯乱状態になった子規だが秋山真之に支えられ励まされてみんなでお金を出し合って清水の葬儀を執り行ったという。この親友の死の2ヵ月後、秋山真之は一大決心をして子規宛てに「送りにし 君がこころを 身につけて  波しずかなる 守りとやせん」と書いた和歌をおくり東京大学予備門を中退して学費のいらない海軍兵学校に入る決意を示した。(この時の真之は清水と同じく経済問題で悩み陸軍大尉だった兄・好古に学費など頼っていた。)子規はこの真之の和歌に対しての返歌「海神も 恐るる君が 船路には  灘の波風 しづかなるらん」とおくり以後別々の道を歩んでゆく親友・真之を励ました。子規は相変わらず予備門同窓の夏目漱石らと青春を謳歌したが明治二十二年、子規は寄宿舎で突然喀血して倒れ医者から結核と診断される。帝国大学哲学科に入学を果たした子規は翌年には国文科に転科し幼い頃から興味のあった和歌や俳句の研究仁没頭するようになる。(このときから血を吐いても啼くホトトギスを自分になぞって正岡子規と名乗るようになった)明治二十三年、子規は帝国大学を中退し叔父の加藤拓川の紹介で日本新聞社に入社、家族を東京に呼び寄せて文藝記者として新しい時代の和歌や俳句の革新運動を始める。明治二十八年、日清戦争が勃発し子規は志願して従軍記者となって遼東半島に渡っが上陸二日目に下関条約が結ばれ帰路につくことになった。しかし、帰りの船中で再び大喀血して重態に陥って神戸病院に入院、須磨保養院で療養した後に松山に帰郷し当時松山中学校に教師として赴任していた親友・夏目漱石の下宿先で療養する。療養を終えた子規は再上京の道すがら奈良の茶店で大好物の柿を食べている時に呼んだ句とも漱石が贈った「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」という句の返句だという説がある。この旅の途中、子規は激しい腰の痛みで歩行困難となる。当初子規はリューマチと思っていたが翌年に医師から結核菌が体中に広がり脊髄を冒す「脊髄カリエス」と診断される。秋山真之が渡米してまもなく子規は歩行さえ出来なくなるが「歌詠みに与振る書」を発表し俳句革新に情熱を傾けた。そんな子規を真之は心配してアメリカで購入した軽い毛の布団を贈ったが子規はそれを大変気に入り喜んだという。真之が帰国した明治三十三年には子規の病状は更に悪化し臀部や背中に穴が開き膿があふれでて激痛が襲った。それでも子規は寝返りも打てない苦痛を麻痺剤を使いながら「墨汁一滴」や「病床六尺」など発表し病床で高浜虚子や河東碧梧桐、伊藤左千夫らの指導も行った。しかし明治三十五年、ついに力尽き根岸の子規庵で永眠する。享年三十六歳・・・秋山真之は葬儀の日、袴を履いて道端で一礼して足早に立ち去ったという。子規の死から十六年後、真之は盲腸炎が悪化して小田原で死を迎えたときに「これは辞世の句というほどのものでもないのだが・・」と前置きして「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」と口ずさんだという。この三羽の鴉は正岡子規と自分、真之と清水則遠をカラスにたとえた句といわれている。
posted by こん at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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