2011年12月17日

「諸葛亮孔明」にたとえられた英雄 児玉源太郎

児玉源太郎は嘉永五年、周防国都濃郡徳山村の長州藩支藩の徳山藩士(百石取の中級藩士)・児玉半九郎の長男として生まれる。父の半九郎は尊皇攘夷の思想を持っていたために幽閉され悶死したと伝えられ、嫡男の源太郎が幼かった為に徳山七士の一人・浅見家から養嗣子に迎え源太郎の姉・久子と結婚して児玉次郎彦が親代わりとなって源太郎を育てたという。しかし、第一次長州征伐の時に自宅で保守派に暗殺され児玉家は家名断絶となる。藩論回復後に藩主の命によって七士達の名誉が回復され児玉家も二十五石ながらも再興が許され源太郎は中小姓として出仕して同年に馬廻りとなる。明治元年、献功隊士として戊辰戦争に出陣(初陣)し安芸口の戦いに参加し函館戦争にも従軍した後に陸軍に入りフランス式歩兵学修行の為に京都の河東操練所に入学し大坂兵学寮に入るが山口藩奇兵隊の反乱が起きると鎮圧の為に帰国する。大坂兵学寮卒業後の明治七年に起こった佐賀の乱には陸軍大尉として従軍するが負傷する。明治九年、熊本鎮台準官参謀の時に神風連の乱の鎮圧、翌十年に同鎮台副参謀長として西南戦争熊本城篭城戦で谷干城鎮台司令長官をよく助けて西郷軍を50日間の攻防の末に撃退した。この西南戦争で盟友・乃木希典は連隊旗を西郷軍に奪われる大失態を恥じて何度も自殺しようとしたが山県有朋と児玉は説得をして思い止まらせたという。(児玉源太郎は長州藩の支藩である徳山藩出身だが乃木希典は同じ長州藩支藩出身でも長府藩の出で松下村塾創設者の玉木文之進(吉田松陰の叔父)の親戚で明治政府では松下村塾閥のエリート待遇だったが児玉は乃木を親友、ライバルとして絶えず意識していたという。)明治十一年に近衛局に出仕して参謀となる。翌年に陸軍歩兵中佐に昇進
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2011年12月04日

バルチック艦隊を破り英雄になった 東郷平八郎

uid000001_20110225184438b3cd447c.jpg東郷平八郎は弘化四年、鹿児島城下加治屋町の薩摩藩納戸奉行・東郷実友の四男として生まれ郷中の西郷隆盛の次弟・吉次郎に大変可愛がられたという。十四歳で元服、十九歳で分家して一家を興す。薩英戦争に従軍して英国艦のアームストロング砲に威力を見せ付けられ「海から来る敵は海にて防ぐべし」と海軍の重要性を悟った。戊辰戦争では薩摩藩海軍三等士官として薩摩藩軍艦「春日」に乗り込み新潟・函館を転戦し阿波沖、宮古島湾、函館湾海戦に参加して海上砲撃や五稜郭への艦砲射撃の経験を積んだ。維新後の明治四年、イギリスへ官費留学してウースター商船学校にて操舵術などを習う。(はじめ留学の志願を大久保利通にしたが断られ、諦めきれない平八郎は西郷隆盛に頼んだところ平八郎の才能を見抜き快諾したという。その後は西郷隆盛に心酔したという)七年間のイギリス留学中に国際法を習得したが帰国途中の海上で西南戦争を知り西郷の最期を聞き「もし私が日本にいたら西郷のもとにはせ参じただろう」と涙したといわれる。(平八郎の兄・東郷四郎兵衛実猗や次兄・小倉壮九郎{城山攻防戦で自決}は西南戦争の時に薩軍として西郷のもとで戦った。)明治十一年、海軍中尉、大尉、翌年には海軍少佐となり元勤王の志士として西郷や大久保利通らと薩摩精忠組を結成した海江田信義(幕末には有村俊斎と名乗り生麦事件でイギリス人チャールズ・リチャードソンに止めをさした人物で日本陸軍の創設者・大村益次郎の暗殺事件の黒幕ではないかといわれている。)の長女・てつ(十七歳)と結婚する。{海江田信義と東郷家とは縁が深く次女も平八郎の長兄・四郎兵衛実猗と結婚した。}明治十八年に中佐、翌年に大佐と昇進を重ね、横須賀鎮守府兵器部長、明治二十四年に呉鎮守府参謀長になりその後巡洋艦「浪速」艦長になり二十六年居留民保護の為にハワイホノルル港に派遣される。(当時ハワイはれっきとした立憲君主制独立国家であり「リリウオカラニ」女王が治めていたがハワイに入植していたアメリカ人のクーデターの為にアメリカの軍艦「ボストン」が王宮に主砲を向けて女王退位を迫りました。東郷は自分の巡洋艦「浪速」と一緒に日本入植者保護の為に来た「金剛」で米艦「ボストン」を挟んで停泊して威嚇してアメリカとハワイの併合を見送らせ共和国という形を取ったといわれている。東郷はアメリカの卑劣な行為を看過できなかったという。結局、女王は流血を嫌い退位に署名しハワイ王国は滅亡した。)翌年にハワイ共和国設立一周年式典に再び東郷平八郎はハワイを訪れたがハワイ政府からの「国際儀礼の祝砲21発の要請」に「その必要なし」と突っぱね他国の軍艦もこれにならったのでアメリカが大恥をかかされ後に日本を仮想敵国の見なした原因のひとつといわれている。しかし、ハワイに住む人々からトーゴーは英雄のようにもてはやされ自分の子供の名前に「トーゴー」とつけるのが流行ったらしい。明治二十七年、日清戦争に突入まえの豊島沖海戦の高陞号事件(詳細は山本権兵衛の項目で)にて国際法に基づいた冷静な対応でイギリスを納得させ翌年に海軍少将に昇進し常備艦隊司令長官となる。日清戦争終結後に海軍大学校長兼将官会議議員となり中将となり佐世保鎮守府司令長官、翌年に新設された舞鶴鎮守府初代司令長官に任命(この時期、留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず調理長に手書きのレシピを渡して作らせたのが肉じゃがの始まりだといわれているがその十年前に呉に赴任した時とも言われ論争がいまだ続いている。)明治三十八年、日本とロシアの関係が悪化し戦争が避けられない状況に陥った頃、病気療養の為に予備役編入が噂されていた東郷に突然、山本権兵衛・海軍大臣から連合艦隊司令長官の大命が下る(通常、常備艦隊司令長官の日高壮之丞海軍中将が戦時に編制される連合艦隊指令長官になるのが当たり前だったが山本権兵衛大臣は日高を舞鶴鎮守府に更迭し東郷と入れ替えた)日高壮之丞中将と山本権兵衛は戊辰戦争のころよりの親友なので山本のこの仕打ちに激昂した日高は短刀を持って山本に詰め寄ったが山本から「お前は確かに東郷より優れた司令長官だ!しかしその優秀さゆえに大本営に相談することなく独断で行動し勝利することもあったが国運のかかったこの度の戦はそれでは困る。しかし東郷にはそれが無く目的達成の為、任務に忠実だから東郷を推した。」といって日高を納得させたといわれているが本当は日高海軍中将は健康を害しており舞鶴鎮守府長官に就任後から日露戦争中は療養を続けていた。明治三十七年に日露戦争開戦、東郷平八郎は旗艦「三笠」に座乗し連合艦隊を率いて佐世保港を出航しロシア太平洋艦隊(ロシア帝国第一艦隊)に八度の攻撃と基地である旅順港に三度の閉塞作戦を指揮したが成功にはいたらなかった。肯定的に見れば旅順港に立てこもったロシア艦隊を動けなくして近海の制海権を奪い朝鮮半島での外交交渉を有利に進めることができたが否定的に見れば閉塞作戦失敗で大陸の陸軍に大規模投入が出来なくなり多くの犠牲者を出したといわれる。その後の黄海海戦である程度の戦果を残した。同年に海軍大将に昇進し翌年には日本海においてヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊を迎え撃ち丁字戦法や「トウゴーターン」でこれを撃破し一躍英雄となった。(特にロシアの脅威に晒されていたトルコなどの国では我がことのように喜ばれた。)また「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」のZ旗は昭和の太平洋戦争にも使われた。平八郎はその後、海軍軍令部長、軍事参議官を歴任し日本海海戦の軍功により大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章並びに金千五百円を賜わり大正二年には元帥府に列せられて終身現役となる。翌年に東宮御学問所総裁となり皇太子(昭和天皇)の教育につとめた。しかし平八郎の最晩年は生神さまのように祭り上げられ軍部の独裁政治の象徴のように東郷元帥の言うことだからと軍部の拡張が進み各地でいろいろな問題を起こして軍国主義国家へ日本が変貌していった。これは東郷平八郎の意思とは関係なく軍部の生きたみこしになっていったことは残念なことだと思う。東郷平八郎は日露戦争前は艦船の主砲命中率の悪さを軍事訓練の積み重ねで飛躍的に命中率を上げ日本海海戦の勝利へと導いたが晩年まで巨大艦砲中心の固執し続けて飛行機の重要性を無視したために昭和期の大戦ではゼロ戦などの優れた戦闘機の使い方を誤らせたといわれている。(これは東郷平八郎自身の意思とは関係なくみこしに担がれたことによる老害)昭和九年、平八郎は膀胱がんのために八十七歳の生涯を閉じた。死の前日に侯爵に昇叙され国葬となった。
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2011年11月30日

日本海軍を作った男 山本権兵衛と愛妻・登喜子

GONNOH~1.JPG山本権兵衛は嘉永五年、薩摩国鹿児島城下加治屋町で薩摩藩右筆兼槍術師範の山本五百助盛a(いおすけもりたか)の六男として生まれる。加治屋町は西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎などの偉人達と同じ出身地で権兵衛も十二歳の時の文久三年に薩英戦争で初陣する。(砲弾の運搬などの雑役として)十六歳の時に十八歳と年齢を詐称して薩摩藩藩兵の募集に採用され薩摩藩小銃第八番小隊に編入される。慶応三年、藩主・島津忠義に随伴して入京、翌年に鳥羽伏見の戦いに参戦し戊辰戦争で越後、奥羽庄内へと転戦し戦功を挙げ鹿児島へ帰藩する。明治二年、藩命で東京へ遊学に出て当時政府の重職にいた西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受けることになる。その時自分の進むべき道は海軍だと志を定め昌平黌(維新後は明治政府が接収し昌平学校として国学や神道を主に教えたが後に閉鎖した)、開成所(徳川幕府が洋学教育の学校として設立し維新後は明治政府が接収して「開成学校」として再興した東京大学の源流となる学校)、海軍操練所(築地にあった旧広島藩邸跡地に出来たが後に海軍兵学寮となり海軍兵学校として江田島へ移転する)明治六年、「征韓論」問題で野に下った西郷隆盛が故郷・鹿児島に帰郷するや桐野利秋(中村半次郎)や篠原国幹、別所晋介らも辞職して帰郷、欧米へ遊学に出ていた村田新八や池上四郎も遅れて鹿児島へ帰る。山本権兵衛も大恩人・西郷の一大事を知るや鹿児島へ帰り西郷に殉ずる覚悟で面会するも日本の未来に海軍がいかに大事か説得され兵学寮へ戻り翌年に卒業し実施研修の為に軍艦「筑波」で台湾やハワイ、サンフランシスコなどを航海し帰国。明治九年にドイツ軍艦「ビネタ号」に乗船しモンツ艦長に出会い生涯の師と仰ぐ、翌年には「ライプチッヒ号」に乗船して各地を周回中に「西南戦争」が勃発して恩人・西郷隆盛が戦死してしまう。帰国後に海軍少尉となった山本権兵衛は海軍士官合宿所の向かいにある遊郭に売られてきたばかりで客をとらされる寸前の女郎だった新潟美人の津沢登喜子に一目ぼれ(津沢登喜子は新潟白根市菱潟村の漁師・津沢鹿助の三女として生まれ生活苦から娘の登喜子を売ったといわれる)勿論、海軍少尉の権兵衛には身請けする金もあるはずなく弟や同僚の協力を得て足抜けさせる計画を練る。当時、足抜けは重罪だから吉原の監視は厳しく四方を高い塀に囲まれている為、築地の海軍兵学校からカッター(小さなボート)を持ち出して連れ出し権兵衛が二十六歳、登喜子十八歳で結婚した。(当時の薩摩出身の士官が士族ではなく平民の娘を妻にすることは異例で周りからの反対にあったが終生権兵衛は妻を愛し続けた。{長州閥では木戸孝允や伊藤博文などが元芸者を妻にしていた。})権兵衛は結婚の四ヵ月前に誓約書を与え教育の受けていない登喜子のために漢字には皆ひらがなをつけるという心遣いを見せた。登喜子も誓約書をよく守り海軍相や総理婦人として鹿鳴館などの社交の場には出るが普段は表に出ることなく派手を好まず1男6女の子女の教育に専念したという。山本権兵衛は薩摩閥として順調に出世していく(一時期、海軍卿・榎本武揚の命によって「乾行」艦乗船を非職されるが直ぐに「浅間」艦乗船を命ぜられる。この件は榎本武揚海軍卿非難排訴運動に関してかどうかは不明)同年に海軍大尉に昇進し明治十五年に砲術教授、同十八年に海軍少佐に同二十年に樺山資紀海事官の欧米視察に随行後に海軍中佐、同年に大佐に昇進と順調に昇り艦船「高千穂」の艦長になり海軍省主事に就任。ここで権兵衛は一大転機が訪れる、明治二十五年の第四回議会で陸軍の予算900万円に対し海軍予算が50万円と「陸主海従」の関係が続いていた。(明治十年の西南戦争以後から続いた旧士族の反政府運動や農民による一揆が続発した為に鎮圧する陸軍の存在が大きくなり陸軍の中心に長州閥が多いので自然海軍の立場が弱かった。)山本権兵衛は海軍大佐ながらこれに異議を唱え「島国の国防は海上権を最優先すべきであるのにわが国は陸が主である。せめて陸海平等にすべきである」と正論をもって海軍参謀本部設立を主張した。(陸軍参謀本部は独立した機関であるのに対し海軍司令部は大臣の下に位置していた。)陸軍の猛反発を受けながら権兵衛は参謀総長有栖川熾仁親王、次長中将川上操六、陸軍大臣・大山巌大将、次官の児玉源太郎、背後の山県有朋らに一歩もひかなかった。10年後に海軍大臣として宮中に参内した時に天皇に上奏して「陸海平等」の大改革をなしえた。また、日清戦争前の豊島沖海戦後に起こったイギリス船高陞号事件の解決に尽力し薩摩閥の実質的後継者と認められる。(この事件はNHKの「坂の上の雲」でも取り上げていたが東郷平八郎が艦長を務める艦船「浪速」がイギリス商船「高陞号」に1200名もの清国兵が搭乗し火砲14門と弾薬を積んでいるのを確認し臨検を命じたが清国兵がイギリス人船長を人質にして反撃、東郷はやむなく撃沈した事件で国際法何の問題も無かった)明治二十八年に海軍参謀官のときにに西郷従道海軍大臣は概況書の提出を命じた。権兵衛は苦心の末書き上げたが西郷海軍大臣は一週間で返してきたので山本権兵衛は海相に「閣下は陸軍では将軍ですが海軍では新参者ではありませんか。私は海軍で生まれ海軍で育ったもので言わば閣下より古参です。その私が七ヶ月かかって調べたものがわずか一週間で解ったもう良いとは何事ですか」と噛み付いた。西郷海相もなるほどと再度読み直したという。その後、海軍中将に任じられ山県内閣で海軍大臣に就任し伊藤博文内閣、桂太郎内閣でも海軍大臣を歴任する。大臣時代は士官に海外留学を奨励し秋山真之や広瀬武夫ら多数の青年士官を留学させた。また明治三十七年、日露開戦を控えて舞鶴鎮守府長官という当時としては窓際的存在で予備役編入寸前だった東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢する。周囲からは「あの凡人である東郷にはこの大任は務まらない」と反対の意見が多くそれを耳にした明治天皇から山本に呼び出しを受けその真意を尋ねられた山本は「東郷は運がいい男ですから選びました」と自信を持って答えた。明治三十七年、東郷平八郎と共に海軍大将に昇進する。大正元年に陸軍大臣・上原勇作が陸軍と内閣の意見が合わないと辞表を提出し後任の大臣が決まらないまま西園寺内閣が倒れ次の桂太郎内閣も短命に終わった為に薩摩閥の元老・大山巌の支持を受けて山本権兵衛が内閣を組閣し総理大臣になるが陸軍と海軍の軋轢など数々の難題とシーメンス事件(ドイツの企業・シーメンスが日本政府相手の贈賄事件が発覚)の責任を取って総辞職し次の大隈内閣では薩摩閥と海軍の力を排除する動きが働き海軍大臣に八代六郎が就任して山本権兵衛、元海軍大臣・斉藤実らを予備役に編入、この人事に反対する東郷平八郎や井上良馨らを退け断行した。山本は「人事は大臣の専管事項、重鎮が口を挟めば将来に禍根を残す」といって潔く編入に従った。大正十二年、海軍を退役、翌年には加藤友三郎総理が死去し後継の内閣を組閣するよう権兵衛に大命が下る。その後「関東大震災」が起こりその翌日に第二次山本内閣が成立する。権兵衛は東京の復興に励むが皇太子裕仁親王(昭和天皇)が狙撃される虎ノ門事件の政治的責任を取って内閣を総辞職し翌年に依願免官した。その後は一切表舞台に出ることは無く昭和八年に今まで病気一つしたことの無い権兵衛は摂護腺肥大症(前立腺がんの可能性大)で病床についていた。いつもは側で看病についている妻・登喜子の姿がある日を境に見せなくなったのを怪しみ妻もまた癌に倒れ臥していることを知る。自分の病名を聞いても顔色1つ変えなかった豪胆な権兵衛持つ間の病状を知るや顔面蒼白となり家のものに行って自分を二階で臥している妻の下へ運んでもらう。権兵衛は妻の手を握りしめて「お互い苦労してきたなあ・・だが私は何一つ曲がったことをした覚えが無い。安心して行ってくれ・・いずれ遠からず後を追って行くからな」と言葉をかけると妻は夫の手をぎゅっと握り返し涙したという。その日に妻・登喜子は天国へ旅立った享年七十四歳・・・夫・権兵衛もその年の暮れに約束通りに後を追って天国へ旅立った享年八十二歳の大往生だったという。
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2010年12月12日

秋山真之の先輩で親友 広瀬武夫少佐(死後中佐)

navy-ryojun07.jpg広瀬武雄は慶応意四年に岡藩士・広瀬友之允重武(幕末の討幕運動で活躍して維新後は裁判官となった)の次男として豊後国直入郡竹田茶屋ノ辻(現・大分県竹田市茶屋の辻)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし祖母に育てられたが西南戦争で家が焼失してしまい一家で父の在任先である岐阜高山で暮らし飛騨高山煥章小学校を卒業後は代用教員をしていたが退職して岐阜華陽中学校へ臨時入学した。その後上京し攻玉社(近藤真琴により創設された学校で海軍兵学校入学の為の予備校的存在)に通いながら下谷の講道館に入門して柔道を習い始めた。明治十八年、十八歳で海軍兵学校に15期生として入学(秋山真之は17期生)を果たす(六月の入試に落ち九月の追加募集で合格した。)海軍兵学校では柔道に没頭して校庭や講道館で練習に励んでいたが在学中の大運動会のマラソンで左足が骨膜炎になり足を引きずりながらも完走し切断寸前まで悪化するが療養の結果完治したという。(しかし、その後も時折左足に痛みに悩まされた)明治二十二年に海軍兵学校を卒業するが在学中に大病を患って勉強に集中できず80名中武夫は64番という低い成績だったという。海軍少尉候補生となった武夫は実地訓練の為に軍艦「比叡」に乗ってハワイへ遠洋航海に出ることが決まった。(武夫ら少尉候補生数名で静岡の清水の次郎長を訪問して人の上に立つ者の心得を聞いたといわれている)明治二十四年、少尉になった武夫は「海門」の分隊士となった後「比叡」の分隊士となり豪州遠洋航海に出て翌年に筑波分隊士となる。海軍水雷術練習所分隊士となるも(この次期、将来日本はロシアと戦争になることを予測してロシア語を勉強し始める)翌年に日清戦争が勃発して従軍し「門司」に乗船するが後方支援(輸送業務)のみで戦闘には参加できず終戦を迎える。(終戦前に大尉に昇進)、軍令部に出仕した。その後、八代六郎大佐(後に大将)の紹介により秋山真之と知り合う。(八代六郎は海軍兵学校時代の二人の恩師で両人とも八代に大そう気に入られていた)真之と武夫は四谷の一戸建てを借りてしばらく同居していた。明治三十年、軍令部諜報化課部員となった後日清戦争で中断していた海外留学制度が再開され五人の大尉が留学生として欧米に派遣されることになった。この時に選ばれたのがイギリスに武夫の同期で親友の財部彪大尉(海軍兵学校15期生を首席で卒業し海軍の宝といわれた人物)フランスに村上格一大尉(海軍兵学校11期次席で卒業)、ドイツに林三子雄大尉(海軍兵学校12期三位で卒業)、アメリカに秋山真之大尉(海軍兵学校17期を首席で卒業)、ロシアに広瀬武夫大尉(海軍兵学校15期を64位で卒業)がそれぞれ選ばれた。武夫以外は成績優秀の俊才ぞろいであったが広瀬武夫だけは下位の成績で選考を担当した山本権兵衛少将は躊躇したがロシア語やロシアの情勢を早くから独学で勉強していることを聞き山本は広瀬を承認したという。(広瀬武夫は大津事件の後、ロシアが将来日本の脅威になる予感してロシアの言葉や軍備の知識を学びだした)武夫はロシアに留学しロシア各地の海軍工廠や造船所、軍港などを視察したりロシア貴族の社交界に出入りをして機雷施設の専門家で兵学校で教鞭をとっていた海軍省海事技術委員会のコワリスキー大佐に接近して家族ぐるみの交友をした。(小説ではロシア海軍省水路部長子爵コワレフスキー少将になっている)コワリスキー家に出入りしている内に大佐の長女・アリアズナと恋仲となるが武夫は「軍人には妻子は不要」との持論で妹のようにアリアズナと接していたが彼女の積極的なアプローチに武夫も意識するようになったという。二年後の明治三十二年に駐在武官となりドイツ、フランス、イギリスの海軍施設をを視察しその戦力の分析を行いその年に少佐に昇進する。日本とロシアが緊張状態になった明治三十五年、ついに広瀬武夫に帰国命令が出る。懇意にしてもらっていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれ時にボリス・ヴィルキトゥキーという海軍兵学校を卒業したばかりの候補生が是非にと宴に加わった。彼は文武に秀でた広瀬を「タケニイサン」と日本語で呼び慕っていたが帰国すると聞いて「タケニイサン、艦に乗るときに使ってください。」と柄のついた銅製のグラスを贈った。武夫は感謝の言葉を伝えながら「お互い愛する祖国の為に全力で戦おう」と誓い合ったが2年後にそれが現実となる。いよいよ出発に日、武夫とアリアズナは僅かの時間を二人っきりで逢い彼女がかねて用意していた銀製の懐中時計を武夫の手に握らせたという。ふたを開けると(A)の文字が彫られアリアズナのAとAMOUR(愛)のAの両方の意味を知らせあなたのお傍に置いてくださいといい時計の鎖にアリアズナの写真入のロケットも付いていたという。武夫はアリアズナの純粋な愛に思わず抱きしめたがごれが最期の別れとなった。モスクワを発った武夫は鉄道でイルツークまで行きその輸送能力を調べ雪中のシベリアをそりで横断して内情を探った。ウラジオストックより旅順まで東清鉄道で移動した後、ロシアの極東総督アレクセーエフ大将を表敬訪問し日本へ帰国する。その後、軍艦「朝日」の水雷長兼分隊長となり横須賀鎮守府軍法会議判士長を拝命したが翌年に常備艦隊に編入されたのを機に判士長を免職、佐世保のカッター競漕会で武夫の乗り込む「朝日」が優勝する。明治三十七年、ついに連合艦隊が佐世保より出撃仁川沖にて交戦しロシアに宣戦布告して日露戦争が始まる。一方、ロシアの親友・ボリスは海軍少尉に任官されロシア最新艦「ツェザレーヴィチ」に乗り込み旅順港に到着した旨の手紙を「タケニイサン」に送った。旅順沖合いで日本連合艦隊が水雷艇10隻を港内に侵入させ「ツェザレーヴィチ」をはじめ戦艦2隻と巡洋艦2隻に多大な損害を与えたが要塞に守られた旅順軍港に逃げ込みじっと身を潜め出てこなくなった。これでは日本海軍は遠巻きで港を監視するしか方法がなく手詰まりとなった為に旅順港閉塞作戦を敢行することになり5隻の老朽船と77名の志願兵(血判状を差し出し志願した兵の中に後に武夫が命を落とす一因となった杉野孫七上等兵曹がいた)で実行しようとしたがロシアの沿岸砲台が作戦を察知して集中砲火を浴びせた為に失敗する。(武夫は「報国丸」に乗船して指揮を取った)失敗から一ヵ月後に第二次閉塞作戦を4隻の閉塞用船で敢行することになり武夫は福井丸で指揮を取る。出撃前の「福井丸」に親友・秋山真之が会いにくるがこれが最後の別れとなった。(秋山は死を覚悟した親友に「敵の砲撃が烈しくなったらかまわずに引き返せ、決して命を無駄にするな」と説得しにやって来たという。旅順港口に突入した4隻の閉塞船にロシア沿岸砲台や駆逐艦から一斉砲火を浴び先ず航行不能となった千代丸が自沈、武夫が乗船した「福井丸」はそのやや前方で自沈を図った。杉野孫七上等兵曹が自爆用爆薬に点火するために船内に入った時にロシア駆逐艦の魚雷が命中し「福井丸」は次第に沈みかける。全員をボートで退艦させ点呼をとった所杉野上等兵曹が居ないことに気づいた武夫は「福井丸」に戻り船内を三度くまなく探したが杉野上等兵曹の姿が見つからず諦めてボートに移った。その時、ロシアの哨戒艇の砲撃を頭部に直撃し広瀬武夫少佐は銅銭大の肉片を残して吹き飛ばされ戦死した。第三船の弥彦丸も自沈し第四船の米山丸は指揮官が砲撃で負傷し二等兵曹が指揮を取って閉塞目的地を目指すがロシア駆逐艦の魚雷が命中して沈没し第二次閉塞作戦は失敗に終わる。広瀬武夫少佐の遺体はロシア艦船が引き揚げた。遺体は頭以外は損傷がなくロシア駐在武官時代の恋人・アズアリナの兄が遺体確認し栄誉礼をもって厳粛な葬儀を執り行った。広瀬武夫の死を知ったアズアリナは生涯独身を貫いたと言われている。明治政府は翌日に広瀬武夫を中佐に昇進、杉野孫七上等兵曹は兵曹長に昇進して広瀬は日本初の「軍神」として祭り上げられた。広瀬武夫享年三十六歳・・・第二次旅順港閉塞作戦は失敗に終わりその一ヶ月後の第三次閉塞作戦では閉塞船12隻という大規模作戦となったが天候不順とロシア軍の反撃でまたもや失敗した。バルチック艦隊が向かっていることを知った日本海軍は陸軍に陸上からの旅順港要塞の攻撃を依頼し乃木希典大将、伊地知幸介参謀長率いる第三軍が多くの犠牲を払い旅順港に停泊中のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)が見渡せる203高地を児玉源太郎の助力もあって奪還に成功し旅順港の太平洋艦隊の殲滅に成功する。これのよって日本海軍はロシアバルチック艦隊との海戦を有利にして連合艦隊勝利に仁導いた。
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2010年12月10日

兄の為に半生を生きた妹・正岡律

ritu.jpg正岡律は明治三年、松山藩士正岡恒尚と八重の長女で正岡子規の妹として愛媛県松山で生まれる。幼少の頃から大変勝気で体の弱い子規がいじめられると律は両手に石を握り締めていじめっ子を追いかけまわしたという。小学校を卒業し十五歳で遠縁にあたる陸軍軍人の恒吉忠道と結婚するが僅か九ヶ月で離縁される。その二年後の明治二十二年に松山中学教師・中掘貞五郎(地理や物理などを教えていた。夏目漱石の坊ちゃんの「うらなり」のモデルになった一人とも言われている。背丈が低く歩く時にコットリコットリと音を立てて歩くので生徒からは「こっとりさん」とあだ名されていたという。)と再婚するも(子規が喀血で倒れ夏季休暇中を利用して松山に戻って療養していた)新婚ながら兄の看病でほとんど実家に帰っていたのが一因で僅か十ヵ月で離婚する。兄・子規が東京帝国大学を中退して新聞社に就職したのを機に律は母・八重と共に上京して三人で暮らし始める。しかし、子規が従軍記者として大陸へ渡航中に喀血し脊髄カリエスと診断され歩くこともままならない状態になると律は昼夜を惜しまず献身的に兄の看病をする。脊髄カリエスにより背中から流れ出る膿や便も嫌がりもせずとってる姿は主治医・宮元仲は「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」とその献身振りを賞賛したという。また、子規の容態が悪化するにつれやり場のない怒りを傍で看護している妹にぶつけるしかなかった。律はそんな兄を気づかって少しでも心が癒されるようにと思ってか庭を作り変え子規の目を楽しませ寝返りが打てなくなるほど悪化すると鳥籠を設置して耳を楽しませたりヘチマ棚を作って子規を癒した。子規は脊髄カリエスの痛みや動けない辛さを傍にいる律にぶつけ彼の著書「仰臥漫禄」で木石のような女だの強情で冷淡な女だの書き連ねて不満をぶつけた。しかし「一日にても彼女なくば一家の車は其運転を止めると同時に余は殆ど生きて居られざるなり」と律を頼りにし「 雇ひ得たるとも律に勝る所の看護婦 即ち律が為すだけのことを為し得る看護婦あるべきに非ず」と律に感謝している。明治三十五年、正岡子規はついに苦しく辛い闘病生活に終わりを告げて三十五歳の生涯を閉じる。律と母・八重はその後も子規庵に住み続け律が小学校しか卒業していなかった為、三十二歳の時に共立女子職業学校(鳩山由紀夫元首相の曽祖父ら教育者数名で設立し現在は共立女子学園)に入学して裁縫、家事、修身、国語、算術、理科などを勉強、補習科に進んだ後卒業して母校の事務員を経て家政とくに和裁の専門教師として大正十年まで勤めるが母・八重の看病の為に退職する。その間の大正三年、叔父・加藤拓川の三男・忠三郎を正岡家の養子として迎え入れ家名を継がした。教師時代の律は厳格であるが優しい先生として多くの生徒に慕われ退職後も教え子達との交流は続いたという。その後子規庵にて裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品遺墨と子規庵の保存に努め昭和三年、財団法人子規庵保存会初代理事長に就任した。律の最期の手記「律刀自病床覚」によると律は最期に「もう連れて帰ってください」と残して昭和十六年に七十二歳の生涯を閉じ生前の希望通りに正岡子規の傍らに律は葬られた。・・・余談になるが子規がまだ松山中学在学の頃、子規の周りに多くの仲間が集まって話をしていても律はその中に入ってこなかったが秋山淳五郎真之が来た時だけは喜んでその話の輪に入ってきたので子規は冷やかして「律は淳さんと結婚すればええ」とからかったといい、また子規没後に訪ねてきた真之の姪(秋山好古の次女・土井建子さん)は「お律さんの傍にいてひょっとしたらお律さんは真之叔父さんが好きなのかしらと思った」と述べていたらしい。幼い頃から兄の親友だった男前の秋山真之にほのかな恋心を抱いたとしても不思議ではない。
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2010年12月06日

坂の上の雲 俳人・正岡子規

s0150l.jpg正岡子規は本名・常規(つねのり)といい幼名を処之助後に升(のぼる)と改名し通称「のぼさん」と呼ばれた。慶応三年、伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)に松山藩御馬廻加番・正岡隼太常尚の長男として生まれた。母は松山藩の儒学者・大原観山の長女で八重といい子規がまだ六歳のころに夫の隼太が亡くなった為、女手1つで子規と律を育て上げた。正岡家の後見となった大原観山の私塾で漢書の素読を習い、翌年に広末小学校に入学し後に勝山小学校に転校し愛媛県第一中学(現・松山東高校で江戸時代末期の明教館の後進)に入学し秋山真之と一緒に学んだという。子規は好奇心旺盛の若者となり一時期は自由民権運動にも傾倒し政談に熱中したり、また松山一と云われた歌人の「井出真棹」に弟子入りした秋山真之に誘われて子規も入門して和歌を始めたといわれている。明治十六年、子規は愛媛県第一中学を中退して上京し東大予備門受験の為先ず共立学校に入学して受験英語を学んだ。(秋山真之もまた子規の後を追って愛媛第一中学を辞めて上京)子規と真之は無事に東京大学予備門に入学を果たし本郷に出来た常盤会寄宿舎に住んだ。(常盤会は旧松山藩主・久松家が旧藩子弟の学資援助組織として創設され子規は給費生に選ばれ月に七円の他と教科書代などが支給された。)寄宿生として子規と真之、「清水則遠」の三人は特に気が合う親友としていつもつるんで過ごしたという。しかし、栄養不足からくる病に倒れた清水は家が貧しく親元から届くはずの仕送りが届かず薬が買えずに病状が悪化して明治十九年に脚気衝心で命を落とす。親友に死に一時錯乱状態になった子規だが秋山真之に支えられ励まされてみんなでお金を出し合って清水の葬儀を執り行ったという。この親友の死の2ヵ月後、秋山真之は一大決心をして子規宛てに「送りにし 君がこころを 身につけて  波しずかなる 守りとやせん」と書いた和歌をおくり東京大学予備門を中退して学費のいらない海軍兵学校に入る決意を示した。(この時の真之は清水と同じく経済問題で悩み陸軍大尉だった兄・好古に学費など頼っていた。)子規はこの真之の和歌に対しての返歌「海神も 恐るる君が 船路には  灘の波風 しづかなるらん」とおくり以後別々の道を歩んでゆく親友・真之を励ました。子規は相変わらず予備門同窓の夏目漱石らと青春を謳歌したが明治二十二年、子規は寄宿舎で突然喀血して倒れ医者から結核と診断される。帝国大学哲学科に入学を果たした子規は翌年には国文科に転科し幼い頃から興味のあった和歌や俳句の研究仁没頭するようになる。(このときから血を吐いても啼くホトトギスを自分になぞって正岡子規と名乗るようになった)明治二十三年、子規は帝国大学を中退し叔父の加藤拓川の紹介で日本新聞社に入社、家族を東京に呼び寄せて文藝記者として新しい時代の和歌や俳句の革新運動を始める。明治二十八年、日清戦争が勃発し子規は志願して従軍記者となって遼東半島に渡っが上陸二日目に下関条約が結ばれ帰路につくことになった。しかし、帰りの船中で再び大喀血して重態に陥って神戸病院に入院、須磨保養院で療養した後に松山に帰郷し当時松山中学校に教師として赴任していた親友・夏目漱石の下宿先で療養する。療養を終えた子規は再上京の道すがら奈良の茶店で大好物の柿を食べている時に呼んだ句とも漱石が贈った「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」という句の返句だという説がある。この旅の途中、子規は激しい腰の痛みで歩行困難となる。当初子規はリューマチと思っていたが翌年に医師から結核菌が体中に広がり脊髄を冒す「脊髄カリエス」と診断される。秋山真之が渡米してまもなく子規は歩行さえ出来なくなるが「歌詠みに与振る書」を発表し俳句革新に情熱を傾けた。そんな子規を真之は心配してアメリカで購入した軽い毛の布団を贈ったが子規はそれを大変気に入り喜んだという。真之が帰国した明治三十三年には子規の病状は更に悪化し臀部や背中に穴が開き膿があふれでて激痛が襲った。それでも子規は寝返りも打てない苦痛を麻痺剤を使いながら「墨汁一滴」や「病床六尺」など発表し病床で高浜虚子や河東碧梧桐、伊藤左千夫らの指導も行った。しかし明治三十五年、ついに力尽き根岸の子規庵で永眠する。享年三十六歳・・・秋山真之は葬儀の日、袴を履いて道端で一礼して足早に立ち去ったという。子規の死から十六年後、真之は盲腸炎が悪化して小田原で死を迎えたときに「これは辞世の句というほどのものでもないのだが・・」と前置きして「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」と口ずさんだという。この三羽の鴉は正岡子規と自分、真之と清水則遠をカラスにたとえた句といわれている。
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2010年12月04日

秋山真之の妻 秋山季子

photo_sueko01.jpg秋山季子(すえこ)は愛知県豊田(三河国挙母藩)出身の宮内省御用掛(書画鑑定士)稲生真履(まふみ)の三女として生まれ華族女子学校に通う才媛であったという。姉の夫(義兄)海軍少佐(後に大佐)青山芳得に連れられて築地の水交社の催しで八代六郎大佐(後に海軍大将で大臣になった)に気に入られ自分の部下の秋山真之との縁談を持ちかける。しかし季子の父・真履は「軍人には娘はやらぬ」と一度は断ったが婿の青山芳得から真之の優秀さや人柄の良さを聞き縁談を承諾し真之三十六歳、季子は二十一歳の結婚となった。明治三十六年、水交社での結婚式で媒酌人には維新の功労者で土佐三伯の一人・佐々木高行侯爵が務めたという。二人の間に五人の子供を儲けたが真之が五十一歳の若さで急逝した為、真之の兄・好古が季子と五人の子供の面倒を見たという。長男・大(ひろし)は仏教美術研究に没頭し「現世信仰の表現としての薬師造像」や「古代発見」の著書を残すが早世、次男・固(かたし)は季子の姉夫婦(青山芳得大佐夫婦)の養子となり、三男の中(ただし)は真之が最期を迎えた別邸を提供してくれた友人の山下亀三郎(山下財閥創始者)の山下汽船取締役となり財閥解体後の山和商船の社長となる。次女の宣子(たかこ)は海軍中佐・大石宗次の妻となりその長女が現・民主党衆議院議員の大石尚子さんです。
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2010年11月21日

坂の上の雲 日本海軍中将・秋山真之@

saneyuki_p0.jpg秋山真之は慶応四年(明治元年)に伊予松山藩の下級武士・秋山平五郎の五男として生まれ幼名は淳五郎という。幼馴染の親友・正岡子規(本名は升・ノボルといい後に常規)が上京に影響を受け明治十六年に愛媛第一中学(現・松山東高校)を五年で中退し上京する。上京後は進学予備校だった共立学校(現・開成高校)で受験英語を勉強し翌年に正岡子規らと共に大学予備門(現・東大教養学部)に入学する。太政大臣になる夢を持って東京帝国大学進学を目指したが秋山家の経済的事情から予備門を退学し海軍兵学校(17期生)に入学をする。入学時は14番目の成績だったが次第に頭角を現して二学年末からは首席となり短剣一腰と優等章を受けた。(親友・正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉らは帝国大学文学部に進んだ)真之は明治二十三年に海軍兵学校を首席で卒業し少尉候補生として「比叡」に乗艦して経験を積み和歌山串本沖のエルトゥールル号遭難事件にも従事した。その翌年に巡洋艦「高千穂」また翌年に「松島」の航海士、同じ年に海軍少尉となり砲術練習艦「龍驤」に乗艦して分隊士、日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦して偵察活動などの後方支援に参加、戦後は海軍水雷学校に入学して水雷術を学ぶ。卒業後、横須賀水雷艇団第二水雷艇隊府付となりその後報知艦「八重山」に乗艦して海軍大尉に昇任して分隊長となった。明治三十年、真之は十三年間中断されていた留学生派遣が再開するとその候補に選ばれる。しかし公費留学は認められず私費留学となりアメリカへ留学するが米海大に入学を拒否された為、ワシントンに滞在していた海軍大学校校長で軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に励む。このときに起こった米西戦争の観戦武官としてアメリカ海軍の作戦及び実戦を真直で監察し報告書「サンチェゴ・デ・クーパーの役」(アメリカ海軍がキューバ港を閉塞する作戦で後の日露戦争の時に旅順港閉塞作戦に影響を与えた)を提出する。翌年にイギリス駐在となりその年に帰国を果たし海軍少佐に昇進。明治三十五年に海軍大学校の教官、翌年には「すゑ」と結婚する。明治三十七年に海軍中佐となり第一艦隊参謀、日露戦争時に連合艦隊司令長官・東郷平八郎の下で作戦参謀に抜擢され第一艦隊旗艦「三笠」に乗船、日露戦争では旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦を立案し大成功を収め、バルチック艦隊迎撃作戦では丁字戦法を立案して日本海海戦で大勝利に導いた。連合艦隊解散後は「三笠」の副長、「秋津洲」「音羽」「橋立」「出雲」「伊吹」の各巡洋艦の艦長を歴任して海軍大佐に昇任。大正元年に軍令部に異動して同三年に海軍少将となる。大正五年に第一次世界大戦を視察する為にヨーロッパに渡りイギリス、フランス、イタリア、アメリカを歴訪後に帰国し第二艦隊の水雷指令官となるも体調が優れずに辞職、海軍将官会議議員という名誉職に就く(海軍中将に昇任)が同年に虫垂炎を患い療養したが翌年に腹膜炎を併発して小田原の山下亀三郎の別邸で死去した。享年四十九歳・・・秋山真之は好奇心が旺盛で大学校教官時代に同僚だった佐藤鉄太郎の勧誘で「天晴会」に入会して経典の研究をはじめ晩年には心霊や宗教研究に没頭し日蓮宗に傾倒、当時勢力を伸ばしていた新興宗教の「大本教」に入信して部下と共に綾部詣を行った。しかし、要人宅を訪れた真之の失言により「大本教」に対する信頼を失ったといわれている。(どういう訳か真之は大地震の予言を行って大騒動となったというが出口王仁三郎(聖師)の予言とも浅野和三郎の予言とも言われ真之は巻き込まれたに過ぎないとも云われているが定かではない)その後、仏教の研究に戻り生涯を終えている。東郷平八郎は秋山真之を「智謀湧くが如し」と称えてその優秀さに舌を巻き多くの作戦を彼に一任したがその優秀さゆえに「戦況を幻で見た」とか「戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知を超えた力を感じた」といって宗教研究にのめり込んだといわれている。秋山真之や兄の好古たち優秀な人材が明治政府において軍人としてしか活躍できなかったというと一説には出身藩の松山藩の影響が大きかった。伊予松山藩は伊勢国桑名藩から転封として松平定行が十五万石で入封したが親藩の為に幕末の長州征伐において先鋒を務めて占領した周防大島において略奪、暴行、虐殺を行ったという。このことが維新後に長州閥が元松山藩士仁冷遇した原因といわれている。(維新後は松平姓から久松姓に変わった)太政大臣を目指して上京した真之にとっては不運であった。
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2009年12月12日

坂の上の雲 秋山好古と妻

yosihuru_p0.jpg秋山好古は安政六年、伊予松山藩士。秋山久敬の三男として生まれ、幼名を信三郎という。秋山家は徒士(かち)という士分ではあるが足軽(士分ではない)より一つだけ格上の低い身分であった。弟に連合艦隊参謀の秋山真之がいる。好古は松山では正岡子規の叔父・加藤恒忠と並ぶ秀才と言われた。慶応二年、八歳のときに藩校・明教館に入学するが家が貧しく生活費を稼ぐ為に学校へは通わず銭湯の風呂焚きをしながら独学で勉強したと言われる。(松山藩は幕末には幕府側に立って長州征伐にも積極的に参加した為、戊辰戦争では隣の土佐藩に攻められ莫大な賠償金を払わされた。その為に藩士は勿論、好古の父・平五郎久敬ら徒士、足軽などは貧窮を極めた。)明治八年、十七歳のときにただで勉強できる学校が出来たと聞いた好古は大坂に出て臨時教師をしながら年を偽って師範学校の入学試験を受け合格する。(当時、明治新政府は教育を重視奨励し多くの学校を設立する。しかし、教師の数が追いつかず旧士族を教師として雇おう考えて大坂に教師養成学校と言える師範学校を設立した。だが十九歳からの入学であった為、好古は年齢を偽って入学を果たした。)創設したばかりの師範学校は卒業規定はまだ設けられておらず学力によって卒業が認められたので好古は夢中で勉学に励み一年で卒業し同郷の先輩・和久正辰が主事を務めていた愛知県立名古屋師範学校の付属小学校に赴任した。和久もまた松山藩の秀才と言われた人物だが伊予松山藩は新政府の薩長土藩の敵であったため賊軍扱いを受けていくら優秀でも出世の道はなかった。新政府は明治八年に中央軍の強化養成を目的とした陸軍士官学校を東京に創設した。この学校は能力によっては薩長出身者並みに出世が出来、しかも学費はただ、衣食住すべてが支給される上に給料も貰えると聞いた和久恒忠は自分は三十歳前で年齢的に無理だがまだ若い好古にはいい条件だと説得、好古も東京行きを決意した。明治十年、上京した好古は陸軍士官学校を受験しみごと合格、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の中から騎兵を選択した。理由は砲兵と工兵は学ぶことが多く、卒業には四年かかるが歩兵と騎兵は三年で卒業でき少尉になって給料も増えるからだったと言う。また、好古は日本人離れした美男子で背が高く、手足が長い為に馬を載る時に馬の胴をしっかりと閉めることが出来るので上官に勧められたとも云われている。明治二十一年に陸軍士官学校を卒業した好古は少尉に任官され東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長となった。(後の制度改革で師団となる。)この時に勤務地に近い旧旗本・佐久間家の離れを借り下宿した。後に好古の妻となる多美は佐久間家のお嬢様であった。しかし、当時は身分制度がまだ根強く残り佐久間家が将軍の直属の臣に対し好古は伊予松山藩の家臣家柄であった為、将軍家から見れば陪臣の身分であった。明治十六年に騎兵中尉に任官し陸軍大学へ入学、日本陸軍に大きな影響を与えたと云われるドイツのヘッケルの教育を受ける。(日本陸軍は士官学校時代フランス式陸軍を学んでいたが、大学設立に当たり適任者が居らず、当時世界の最先端を行っているドイツ陸軍からヘッケルを招いた。)明治十九年、大学を卒業した好古は東京鎮台参謀として騎兵大尉に任官し翌年に旧松山藩主・久松定謨(さだこと)のフランス留学に随行するよう指名される。しかし、日本陸軍はドイツ式へと移行しているときでもあり自分がフランス留学から帰国した時に孤立してしまうことを恐れたが元殿様の指名を無下に断れず自費でフランス留学を決意する。しかし、留学中のサンシール士官学校で学んだフランス式馬術の優秀さに驚き、見た目を重視するドイツ式馬術の欠点が良く見えた。明治二十三年にフランス視察に来た陸軍中将兼内務大臣の山県有朋に馬術のみはフランス式を採用するように好古は進言し山県は好古に一任した。明治二十四年帰国した好古は騎兵第一大隊の中隊長になる。その後まもなく陸軍士官学校と幼稚舎の馬術教官を務め、翌年には「騎兵監」の副官となり陸軍少佐に昇進する。フランス留学中に父・平五郎久敬が死去した為、母の貞子を東京に呼び寄せ四谷の信濃町に一軒家を構える。「最後の古武士」と言われた好古は私生活では質素で廻りにことには無頓着であった。あるときに家のお金が紛失する出来事があった、犯人は女中であることがわかると「原因は家のことを取り仕切る主婦がいないことにある」と母や友人が結婚を勧めるが好古は一向に結婚する意志を示さない。この話を聞いた上京した当時下宿していた旧旗本の佐久間正節は「秋山好古は実に聡明で義理堅い男」と惚れ込んでいたこともあって一人娘の多美(下宿当時十歳であったがこの時、二十四歳になっていた。)との縁談が進んだ。はじめは結婚する気がなかった好古も多美を大変気に入った母・貞の進めもあって「母がよければそれでいい」といって明治二十六年に結婚し騎兵第一大隊長になる。翌年には日清戦争が勃発し騎兵第一大隊長・陸軍騎兵中佐として従軍し帰国後は陸軍乗馬学校校長、翌年に騎兵大佐に昇進して陸軍騎兵実施学校長に就任、翌年に陸軍獣医学校校長を兼務する。明治三十三年、第五師団兵站監に異動となり義和団事変制圧の為、出征し軍司令官山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に就任、その後司令官に異動。明治三十六年に騎兵第一旅団長に就任し第二軍として日露戦争に出征する。(編成は旅団だが実際は歩兵と砲兵を編入した支隊であって支隊本体と他三支隊からなり秋山支隊と呼ばれた。)緒戦から偵察や側面援護として活躍、ロシア最強といわれたコサック騎兵の突撃を阻止した。特に沙河会戦の後、膠着状態だったが黒溝台の会戦では日本軍の最左翼の広範囲を守備していた僅か八千の秋山支隊にロシア第二軍全軍十万の兵が攻撃を加える。数の上では圧倒的に不利だった秋山支隊だが巧みな戦術でこの地を死守し「日露戦争最大の危機」と言われたこの戦いを勝利に導いた。その後、秋山好古は「日本騎兵の父」と讃えられた。天奉会戦後の翌年に乃木希典第三軍司令官より感状を受ける。その後、明治四十二年に陸軍中将に昇進、大正四年に近衛師団長となり翌年に陸軍大将に昇る。大正九年に陸軍教育総監兼軍事参事官となり日本陸軍最高幹部の一人に加えられた。ついに秋山好古は幕末江戸幕府側についた賊軍の藩士の子として明治維新後の差別を受けながら薩長出身者以上の出世を果たし特旨をもって従二位を叙位された。(元帥位に推す話もあったがこれは固辞した。)翌年にはすべての栄誉を捨てて軍を離れ好古の強い希望により故郷の松山に帰り北予中学(現・松山北高校)の校長に就任した。(退役陸軍大将としては異例の格下げ人事を希望した。)昭和五年に校長を辞任した後若い頃からの酒好きにより糖尿病が悪化、心筋梗塞を起こして東京陸軍軍医学校にて永眠する。享年七十二歳・・妻の多美は好古に嫁いでからの三十五年間、軍務の為にほとんど家に帰らなかった夫を支え、姑の貞に自慢の嫁と言わしめ家庭を守り続けたという。


日常から離れた極上の休日【JTB】露天風呂付客室
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