2008年10月25日
陸援隊を引き継いだ 田中光顕
田中光顕は田中顕助の名前の方が有名な人物。天保十四年、土佐藩家老職の深尾家の家臣・浜田金治の長男として土佐国高岡郡佐川村に生まれる。顕助は幼い頃から同居していた叔父(父・金治の弟・那須信吾)に可愛がられ、叔父・信吾が通っていた高知城下の武市道場で剣術を武市半平太(瑞山)に習う。顕助は武市半平太の尊皇攘夷運動に深く傾倒し土佐勤皇党に加盟、吉田東洋暗殺に叔父・那須信吾(暗殺の実行犯で後脱藩し天誅組の反乱に参加し戦死)とともに関わる。しかし文久三年、京都で八月十八日の政変が起こると山内容堂は土佐勤皇党を弾圧し、武市半平太は逮捕され、顕助も謹慎処分を受ける。弾圧が厳しくなった元治元年、顕助は浜田顕助から田中光顕に改名し土佐勤皇党の同志とともに脱藩を決意し長州藩三田尻に入り高杉晋作に匿われる。だが、長州藩も第一次長州征伐が迫ってくると保守派の俗論党が藩政を掌握し高杉晋作ら正義派弾圧が始まる。光顕らは大坂へ脱出し、大坂松屋町のぜんざい屋「松蔵屋」の本多大内蔵(元京都の武者小路家の家臣で八月十八日の政変で長州藩士と親交があった為、浪人し大坂で商売を始める。)に匿われた。長州征伐のため、将軍直々に大阪城に入る事を耳にした光顕たち土佐勤皇党の残党はこの機に大坂の町を焼討ちし、将軍の拉致を計画し、ぜんざい屋「松蔵屋」に集結した。しかしこの情報が大坂駐在の新撰組(谷万太郎たち)にかぎつけられ襲撃を受ける。首領の大利鼎吉が闘死し光顕たちは大和の十津川村へ逃亡する。山深い十津川村で潜伏した後、慶応元年、大橋慎三から京都に戻るようにと連絡を受け、京都に戻った光顕は中岡慎太郎から坂本龍馬と薩長を融和させようとしていることを聞きこれに賛同する。薩長同盟締結に向け光顕は中岡慎太郎とともに奔走し、薩摩藩は和解の使者として黒田了介(清隆)を長州へ派遣する時に光顕は同志池内蔵太(いけ・くらた)とともに長州へ同行する。長州へ入った光顕は高杉晋作と再会し、知遇を得た。第二次長州征伐の折には下関開戦で丙寅丸(オテントサマ丸)の機関掛となって、坂本龍馬のユニオン号との共同作戦で幕府艦隊を撃退し勝利した。慶応三年、中岡慎太郎が京都で海援隊を組織すると光顕は幹部として招聘された。(この次期、高杉晋作が肺結核の為死去したが、臨終の場に光顕は立ち会ったという記録があるが実際は京都にいた。)その後、中岡慎太郎と坂本龍馬が近江屋で暗殺された時は光顕は土佐藩白川屋敷内の陸援隊本部にいたがすぐに駆けつけ重傷の中岡を介抱し、犯人の特徴などを聞いたという。(龍馬は即死だったが、中岡慎太郎は二日後に死亡) その後、光顕が陸援隊副隊長として統率し、鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗を下賜され、高野山に陣取って紀州藩を牽制する役目を果たした。明治維新後は新政府に出仕し、兵庫県権判事に就任、明治四年には特命全権公使岩倉具視使節団に書記官として欧米を巡察した後帰国した明治七年に陸軍会計監督に就任、明治十年に勃発した西南戦争では征討軍会計部長として功を挙げ、戦後は陸軍少将、元老院議官、初代内閣書記官長(現代の内閣官房長官)、警視総監、学習院長、宮内大臣を歴任した。特に宮内庁では明治天皇の信任厚く、十一年間も宮廷で大きな勢力をもった。しかし明治四十二年に収賄疑惑で非難を浴び宮廷を去り政界からも引退した。政界引退後は高杉晋作の漢詩集「東行遺稿」の出版や高知県桂浜の坂本龍馬の銅像建設、武市半平太の遺族の援助などを積極的に行い。また、志半ばで散って行った志士たちの遺墨や遺品を収拾し、茨城県似建設した常陽明治記念館(現・幕末と明治の博物館)や故郷の高知県佐川に建てた青山文庫に寄贈した。田中光顕は中岡慎太郎の恩を生涯忘れず、坂本龍馬だけをもてはやされ英雄視されていることを憂い、事あるごとに中岡は優れた人物であったかを演説のように述べたという。昭和十四年、静岡の別荘にて九十七歳の生涯を閉じた。幕末の志士の中ではかなりの長生きだった。