2009年11月16日

お龍の妹・君枝と結婚した菅野覚兵衛(千屋寅之助)

sugano201-1.jpg菅野覚兵衛は天保十三年に土佐国安芸郡和食村の庄屋・千屋民五郎の三男・千屋寅之助として生まれる。文久元年に寅之助は国事を憂い従兄弟の千屋菊次郎、金策兄弟と共に土佐勤皇党に加盟、文久二年に山内容堂警護の為に五十人組が組織されると寅之助は中岡慎太郎の隊に加わり上京する。江戸で寅之助は高松太郎の紹介で坂本龍馬と知り合い、竜馬の勧めで勝海舟の塾に入門、海舟の神戸海軍操練所で航海術を修行して龍馬と行動を共にする。文久三年に土佐藩では勤王党の弾圧が始まり寅之助は仲間と相談の上脱藩する。禁門の変の影響で海舟が罷免されると神戸海軍操練所は閉鎖され、寅之助は薩摩藩の庇護を受けながら長崎で亀山社中の創立に加わり以後、坂本龍馬の信頼を得る。慶応二年、幕府が第二次長州征伐を始めると龍馬は下関海戦に長州側として参戦、寅之助にユニオン号の船将に任命され小倉藩門司陣地攻撃に戦果を挙げた。慶応三年に京都において龍馬が暗殺されると長崎で龍馬の生前の希望どうりお龍の妹・君枝と結婚(仲人は海援隊士・渡辺剛八が務めたという。)戊辰戦争が始まると寅之助は畿内にいた海援隊士等(長岡謙吉たち)と袂を分かち海援隊は二分する。寅之助は長崎在住の海援隊士たちと長崎奉行所をを占拠、逃亡した長崎奉行に変わって長崎の治安を維持する。長崎海援隊は長崎会議所を設けて政務を執り、寅之助は上京して新政府に事の次第を上申、それに伴って沢宣嘉を九州鎮撫総督として派遣、長崎会議所の業務を引き継いだ。寅之助たち長崎残留海援隊は新政府軍に属し振遠隊の幹部となり奥羽地方の内戦に参戦する。維新後は親友の白峰駿馬と共にアメリカへ留学、ニュージャージー州のラトガース大学など六年間留学などした後帰国。その後、寅之助は海軍に出仕して艦政局運輸課長や横須賀鎮守府建築部長を歴任、海軍少佐に任ぜられたが明治十年に西南戦争直前に鹿児島磯の造船所に赴任、鹿児島私学生暴発のきっかけになった武器庫襲撃事件にかかわった。(寅之助は火薬を奪われないように水に沈めて使い物にならなくした)このことが後の海軍内での評価に影響し出世の道が閉ざされたという。その後、明治十八年に海軍を辞職し龍馬の夢でもあった北国開拓に力を入れる。先ず、福島県安積郡富久村に入植し開拓事業に参加する。しかし、厳しい環境下で二度の失敗を繰り返し志し半ばで挫折、病に倒れ明治二十六年に享年五十二歳で死去・・・千屋寅之助は菅野覚兵衛の名で幕末を走りぬけ、坂本龍馬亡き後龍馬の妻(寅之助には義姉)お龍の行く末を心配し土佐の坂本家へ預けるが龍馬の姉の乙女とは気が合わず家出、寅之助の実家の和食村千屋家で半年間面倒を見て、その後も横須賀に腰を落ち着けた後も世話を焼き続けたという。(映画「龍馬の妻と夫と愛人」のモデルが寅之助だといわれている。)      


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2009年11月15日

海援隊で「赤つら馬之助」のあだ名を持つ 新宮馬之助

shingu1.jpg新宮馬之助は天保七年に土佐国香美郡新宮村の郷士・寺内信七(鋳掛屋を生業にしていたとの説有り)の次男として生まれる。馬之助は幼い時から絵を書くのが好きで嘉永六年十六歳の時に高知城下に出て叔母の家業(布屋という旅館と焼継業を兼業していた)を手伝いながら河田小龍に入門し学問と絵を習った。(ここで近藤長次郎と出会う)後に河田小龍宅に寄宿して勉学に励んだという。また、この時期に江戸から剣術修行を終え帰国した坂本龍馬と小龍宅にて出会う)その後、馬之助は「焼継修行」の目的で藩に留学の許可をもらい江戸へ出発する。文久三年に江戸で坂本龍馬と再会した馬之助は龍馬の勧めで近藤長次郎らと勝海舟の弟子となり元治元年に神戸海軍操練所にて航海術を学んだ。この頃、土佐藩では武市半平太が投獄され土佐勤王党は弾圧を受けた。この為に神戸海軍操練所にて勉強中の土佐藩士たちに帰藩命令が下された、しかし馬之助や高松太郎らは藩を脱して勝海舟の仮家来の身分で修行に励んだという。だが、この跡直ぐに海舟に帰京命令が出て神戸海軍操練所が閉鎖された為に馬之助らは長崎へと渡り薩摩藩の庇護を受けたという。亀山社中が結成されると馬之助は寺内信左衛門の名でいち早く参加し以後坂本龍馬と行動を共にした。慶応二年、坂本龍馬が薩長同盟締結に向けて動き始めると馬之助らは薩摩藩から通行手形を出してもらい京都の二本松薩摩藩邸に無事到着、長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛の会談には龍馬と共に馬之助も立ち会ったという。新宮馬之助は龍馬にたいそう気に入られ色白で美男子ながら上気すると直ぐに顔が真っ赤になることから「赤づら馬之助」とあだ名をつけられ仲間からも親しまれたといわれている。また、龍馬の妻・楢崎龍の話によると馬之助は絵が得意で女性のヌードを良く描いていたという。維新後は名を新宮駟と改め蝦夷地の開拓や浦賀の海兵団に従事した。その後、海軍大尉まで昇るが辞職して妻の実家がある長崎に移住する。しかし、明治十九年に長崎で当時流行したコレラに罹り死去したともアメリカに渡って死んだとも云われているが詳細は不明。享年五十歳・・・FX、始めるなら今がチャンス!
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2009年11月14日

吉岡謙吉と共に海援隊の双璧 石田英吉

ishida9.jpg石田英吉は天保十年に土佐国安芸郡中山村中ノ川に藩医・伊吹泰次の長男・伊吹慶良後に周吉として生まれる。幼い時から頭脳明晰で安田の高松順蔵(坂本龍馬の姉・千鶴の夫)に学問を習う。嘉永七年に藩校田野学館に入学しさらに文武に励んだ。英吉は父の跡を継ぐため医学を志し、文久元年に大坂の適塾で緒方洪庵の門下生となる。文久二年に上京して志士たちと交わり翌年に吉村寅太郎に心酔して脱藩、天誅組に加わって大和挙兵に参陣し伍長兼薬役となる。天の川本陣では木製の大砲を製造して高取城の砲撃で戦功を立てる。しかし、多勢に無勢で敗走し再起を図って長州に逃げ延びる。この時に名前を伊吹周吉から「石田栄吉」と改名したという。栄吉は長州三田尻で浪士部隊の忠勇組に参加して元治元年に真木和泉の元で京都市中に進軍し蛤御門の変に参戦する。しかし、戦況が不利になり負傷した為、同郷の中岡慎太郎と共に再び長州三田尻へ敗走する。慶応元年、高杉晋作の奇兵隊に参加して幕府による長州征伐では各地を転戦する。下関海戦では坂本龍馬に請われてユニオン号の砲手長として指揮を執り船将の菅野覚兵衛と協力して小倉藩門司陣地を砲撃して大きな戦果を挙げる。その後、坂本龍馬の考えに共感し奇兵隊を脱退して幼馴染の高松太郎と共に亀山社中創立に参加する。慶応三年、亀山社中は数々の不幸が続き経営不振に陥るが龍馬は土佐藩の援助を受け再建を果たす。しかし、亀山社中は土佐海援隊となって土佐藩の管理下に入ることになった。だが、龍馬はしたたかに他藩との貿易や土佐藩の武器購入の際に幾らかの利益を乗せて藩に請求して海援隊の儲けとした。この時、石田栄吉は陸奥陽之助と共に貿易や隊の事務に尽力した。龍馬が京都近江屋で暗殺されると吉岡謙吉に従って後進の指導に尽力した。鳥羽伏見の戦いが勃発すると吉岡謙吉の指揮下、瀬戸内海諸島・小豆島の鎮撫に尽力するが、途中で石田栄吉は吉岡と袂を分かち離脱してしまう。その後、栄吉は長崎に出て長崎在住海援隊幹部の菅野覚兵衛らと合流し長崎奉行河津伊豆守が夜陰に紛れて密かに脱走し主を無くした奉行所に集結占領した。九州鎮撫総督・沢宣嘉の指揮の下この占領隊は勤皇軍・振遠隊として編成され石田栄吉はその幹部となる。(海援隊は吉岡謙吉が隊長となるが瀬戸内海小豆島にいる吉岡派と長崎在住の菅野覚兵衛等の隊に分裂しその後土佐藩の命令で解散させられる。海援隊の業務は後藤象二郎配下の岩崎弥太郎の土佐商会が引き継ぎ九十九商会となり明治以後三菱商会として海運業は発達していった。)石田栄吉ら振遠隊は下関からアメリカ船に乗って奥羽戦線の援軍として秋田に上陸、栄吉は御用掛りに任命され奥羽鎮撫総督府の参謀として庄内藩陣地攻略戦などに各地を転戦して活躍する。明治維新後は新政府に出仕して明治二年に長崎県小参事、明治八年には秋田県権県令、十六年に長崎県令、明治二十一年に千葉県知事に就任する。明治二十三年に海援隊時代の愛弟子・陸奥陽之助(宗光)が農商務大臣に就任すると陸奥宗光に請われてその次官を務め貴族院議員に勅撰され男爵を授けられ華族に列せられる。明治二十五年に高知県知事に任命され明治三十年まで務める。明治三十四年に京都にて永眠、享年六十三歳・・・
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2009年11月12日

海援隊船将 白峰駿馬

shiraminesyasin.gif白峰駿馬は弘化四年に長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれた。父が亡くなってからは異父長兄の鵜殿団次郎が何くれと世話をし文武を仕込んだという。長兄団次郎はその才覚を見込まれ幕府に請われて出仕し幕府御目付役に累進した。文久二年、駿馬は江戸へ出て兄団次郎の友であった勝海舟が頭取を務める軍艦教授所に入り勝海舟の門下生となる。元治元年には長岡藩を脱藩して神戸に赴き勝海舟の神戸海軍塾に入塾、勝海舟の門下生だった坂本龍馬や近藤長次郎、菅野覚兵衛等と知り合い共に神戸海軍操練所で海軍術を学んだ。しかし、禁門の変の後、他藩から多くの門下生を入れたことを危険視した幕府によって海舟は罷免され神戸海軍操練所は閉鎖されてしまう。駿馬は単独で長崎に出て英語などを学んだ。慶応元年に長崎で坂本龍馬と再会し龍馬や菅野覚兵衛等が設立した亀山社中に参加した。その後、亀山社中が経営の危機に陥り土佐藩の援助を受けるにあたって海援隊と移る中、駿馬は龍馬にその才覚を認められ船将に抜擢され信頼された。慶応三年に龍馬の身辺警護の為に京都の酢屋に逗留していたが、龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまう。すぐさま現場の近江屋に駆けつけた薩摩藩士がまだ息のある龍馬の最後の言葉が「酢屋にいる白峰駿馬を呼んでくれ」だったという。駿馬はそれほど龍馬に信頼されていた。維新がなった明治元年に親友の菅野覚兵衛と共に横浜港を出港してアメリカへ留学する。ラトガース大学やアメリカ合衆国ニューヨーク造船所で造船術を学ぶ。六年間の留学の末、明治七年に帰国して海軍省に入省、明治九年に永代橋の際で200トンの白峰丸を建造、これがわが国洋式造船の嚆矢といわれている。その後、官を辞して明治十一年に横浜神奈川青木町七軒町に日本初の民間造船所を設立した。一旦は軌道に乗ったかに見えたが明治十八年に白峰造船所は倒産の憂き目を見る。しかし駿馬は諦めず明治二十八年に大阪西区今木町に、翌年には広島呉市吉浦に白峰造船所を再建した。その後、順調に業績を伸ばし軍器の発明・開発に尽力し日清戦争に絶大な威力を発揮した鉄船軍器「端船」の開発するなどした。しかし金融恐慌の波に耐えられず明治三十六年に白峰造船所は事業中止に至った。明治四十二年二月に勲六等瑞宝章を下賜されるが四月にその波乱万丈の生涯を閉じる。享年六十三歳・・・白峰駿馬は何事にも臆することなく、富や名声にこだわることなく豪放磊落、自由奔放な生き方はまさに坂本龍馬に酷似しているように見える。
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2008年10月28日

龍馬が海援隊を継がせたかった 池内蔵太

kurata.jpg池内蔵太(いけ・くらた)は天保十二年、土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県西町)で土佐藩士の中でも身分の低い家柄の池才右衛門の子として生まれる。弘化元年、父・才右衛門が病没し幼くして家督を継いだ。内蔵太は十七歳の頃に神田村で蟄居中の岩崎弥太郎の塾に入門し、文久元年に江戸へ出て安井息軒の門を叩く。江戸で多くの志士と交わり、武市半平太達とともに土佐勤皇党を結成、一旦土佐に帰藩する。藩命で大坂や江戸に視察の旅に出るが、藩主後見人の山内容堂の保守的な藩論に失望し脱藩して長州藩に逃げ込む。長州藩で尊皇攘夷運動を展開し外国船砲撃に遊撃隊参謀として下関砲台でアメリカ船砲撃の指揮をとった。その後、天誅組の大和挙兵に際し前侍従・中山忠光卿を担いで洋銃隊隊長として、親友の吉村虎太郎とともに幕府代官所を襲撃し代官の鈴木源内を斬殺した後、大和内の山岳地帯で転戦した。元治元年、蛤御門の変では長州藩忠勇隊に所属して戦ったが敗北して長州へ引き上げる。四ヵ国連合艦隊が下関砲撃の報復に来た時も、再び参謀として奮戦した。内蔵太は海軍力の必要性を痛感しこれからの戦は海軍力増強が不可欠と説いてまわった。その後、生家が目と鼻の先の親友・坂本龍馬と長崎で再会し、亀山社中を結成し行動を共にする。龍馬は沈着果敢で数々の戦歴を持つ内蔵太をこよなく愛し社中の同志も内蔵太に絶大な信頼を寄せていた。しかし、慶応二年、龍馬の提案で薩摩藩が購入した洋式帆船ワイルウェフ号に内蔵太は士官として乗り込み長崎を出航し鹿児島へ向う途中の五島列島付近で台風に遭遇し塩屋崎沖で沈没し、内蔵太は船とともに沈んだ。享年二十六歳・・・この時はまだ海援隊は結成しておらず。龍馬は近い将来海軍創設を考え、「自分亡き後は池内蔵太に任せるつもりだった」と若くして逝った友を思い嘆き悲しんだ。
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2008年10月26日

男子たる者の往生際 沢村惣之丞

sawamura.jpg沢村惣之丞は天保十四年、土佐郡潮江村に土佐藩士・志賀氏家来の地下浪人・沢村禎次の子として生まれる。惣之丞は高知城下築屋敷の日根野道場で剣術を習った。日根野道場には坂本龍馬も通っていた為、顔見知りとなった。また、惣之丞は後に結成された土佐勤皇党の幹部になった間崎哲馬に学問を学んだ。その後、間崎の勧めで土佐勤皇党に加盟したといわれますが記録は削除されています。(理由は不明)文久二年、惣之丞は吉村虎太郎、宮地宜蔵とともに土佐藩を脱藩する。三人は馬関で久坂玄瑞や久留米浪人・牟田大助と待ち合わせをしていたが間に合わず。三人はすぐさま萩城下へ向った。萩で久坂玄瑞と会談し、その詳細を武市半平太に報告する為、惣之丞は一人土佐へ帰った。土佐へ帰った惣之丞は武市ら土佐勤皇党の同志に西国の志士たちの動向や長州藩久坂玄瑞との会談の内容を説明、薩摩藩藩父島津久光が藩兵を率いて上洛することを聞き、京都義挙が近いと思い込み勤皇党同士の脱藩を誘う。しかし武市半平太は動かず、惣之丞は坂本龍馬と二人で二度目の脱藩をする。二人は白石正一郎邸で吉村虎太郎と合流する手はずだったが虎太郎は一足先に京都へ向っていた。惣之丞は龍馬を白石邸に残しすぐに虎太郎の後を追った。京都では長州藩に潜伏していたが、薩摩藩士・有馬新七ら勤皇派の過激浪士が伏見寺田屋に集結しているところは暴発を怒った藩父・久光は討伐を命じ寺田屋事件に発展する。吉村虎太郎はこの件に巻き込まれ罪人として土佐藩に引き渡される。薩摩藩に不信感を覚えた龍馬は江戸へ去り、惣之丞は時が来るまで勤皇公卿・河鰭公述(かわばたきんあきら)に仕え、情勢探索を行った。その後、龍馬と合流し、龍馬の勧めで江戸に出て勝海舟の弟子となり神戸軍艦操練所に入る。その後、操練所が閉鎖されると龍馬とともに長崎へ向い亀山社中設立に尽力、海援隊結成後も隊士として活躍する。坂本龍馬が京都近江屋で暗殺された時には大坂の薩摩屋に宿泊していたが急報を受け、船で淀川を登り京都に到着後、陸援隊隊士らとともに天満屋で宴会をしていた当時犯人だと思われていた紀州和歌山藩・三浦休太郎と新撰組を襲撃したが失敗し長崎へ戻る。慶応四年に鳥羽伏見の戦いが始まると長崎に残っている海援隊同志とともに長崎奉行所を襲撃し占拠した。惣之丞はライフル銃を持って警戒態勢をとっていたが夜中に酒に酔って刀を振り回し暴れている男を暴漢と思い射殺してしまう。この男は薩摩藩士・川端半助と判明した。この事件により薩摩藩と土佐藩の関係が悪化することを懸念した惣之丞は薩摩藩側の制止も聞かず海援隊本部にて切腹して果てた。享年二十五歳 惣之丞はしに際して「男子たるもの 布団の上で呻吟し薬鍋と組打ちするより、この方が往生際がよいぞ」と語ったという。
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2008年10月24日

海援隊を支えた 長岡謙吉

kennkiti.jpg長岡謙吉は天保五年、土佐藩高知城下の町医者・今井孝純の長男として生まれる。父・孝純は長岡郡比江村医師・長岡玄龍の次男で坂本龍馬の継母・伊与とは従兄妹同士という縁であった。謙吉が十二歳の時、父・孝純の知合いの河田小龍に読み書きを習い、蘭学に興味を持ち始めた。その後、藩校の教授を勤めていた陽明学者・奥宮慥斎に入門する。更に嘉永元年に大坂に出て春日簡平に医学を学ぶ。安政元年に土佐で大地震が起きたとの知らせで帰国、安政六年に脱藩して長崎へ西洋医学を学びに行く。長崎ではシーボルトの高弟・二ノ宮敬作に西洋医学を習い、シーボルトが再来日してからはシーボルトの門人となりオランダ語、英語、万国公法などを習った。しかし文久三年、謙吉はキリスト教に入信したのと嫌疑で捕縛され土佐藩へ送還される。土佐に戻された謙吉は嫌疑は晴れたが脱藩の罪で半年間の投獄、赦免後三年間の城下禁足の命が下ります。謙吉は長岡郡鹿児村で蟄居生活を送りつつ私塾を開き名を長岡謙吉と改名する。その後、結婚して浦戸へ移り村医者を開業するが娘・やすが生まれた慶応元年に再び脱藩をする。上海や長崎へ遊歴し、慶応三年に坂本龍馬と再会し龍馬の率いる海援隊に参加、文司として文書作成に力を発揮する。龍馬とは遠いながらも親戚関係ということもあり龍馬の秘書兼書記官として海援隊規約の起草、有名な船中八策の起草、紀州和歌山藩所有船といろは丸の衝突事故の顛末書作成、大政奉還建白書の起草など様々な文書作成に力を発揮し活躍している。しかし、慶応三年に坂本龍馬が暗殺され海援隊は絶対的指導者を失う。海援隊の指揮は土佐藩大監察・佐々木高行がとるがもうすでに分裂が始まっていた。緊迫した情勢の中、長崎に残った海援隊は長崎奉行所を占領、長岡謙吉ら同志十二名は幕府天領の小豆島の占領計画を立て、讃岐丸亀に入り塩飽諸島を鎮撫し志願兵を募り梅花隊として訓練を行い海軍のような部隊を作ろうとした。慶応四年、京都で謙吉は大監察小南五郎右衛門から海援隊隊長に命じられるが時すでに遅く、長崎の海援隊と讃岐諸島の海援隊は完全に分裂状態になって統制が取れない状況に陥っていた。明治新政府に海軍創設の建白書を提出した後、山内容堂の決断でこの年に海援隊は解散となった。謙吉は新政府の大津県監察に任じられ、その後三河県判事、民部省大録、大蔵省大録などを歴任する。工部省一等出仕を発令されるが、この時には病が進み明治五年に東京で死去する。享年三十九歳  海援隊(亀山社中)には龍馬を支えた三本柱がいた。商才豊かな陸奥宗光、交渉能力が優れた近藤長次郎、そして常に龍馬の補佐をした秘書兼書記役の長岡謙吉である。余談だが、現在ソフトバンクの二本線のマークは海援隊の隊旗のマークを模したものらしい。
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坂本龍馬の甥で坂本家を継いだ 高松太郎

tarou.jpg高松太郎は天保十三年、安芸郡安田村の郷士・高松順蔵と坂本龍馬の長姉・千鶴(有名な姉・乙女は三女)の長男として生まれる。龍馬は姉・千鶴の嫁ぎ先の順蔵宅へよく出入りし、甥の太郎を可愛がったという。順蔵は長谷川流居合術の達人で歌や画もよくし学識優れた人物で私塾を開いていた。太郎はこの塾で学び、同門の中岡慎太郎と知り合う。安政二年、太郎は高知城下へ出て龍馬が習っていた小栗流日根野道場に入門し五年間剣術修行に明け暮れ、万延元年に諸国武者修行に出る。武者修行の途中に武市半平太(瑞山)と岡田以蔵と出会い久留米まで行動を共にする。道中、武市半平太と話をする機会が多く次第に尊王攘夷に傾倒していき、文久元年には土佐勤皇党結成後に加盟する。文久二年、藩命により藩主・山内豊範の参勤交代に随行し、上洛後は叔父・龍馬の口添えで勤皇派の大原重徳や三条実美、姉小路公知邸に出入りする。また、勅使東下の際には武市半平太や岡田以蔵とともに姉小路公知の警固として随行し、江戸へ出る。江戸で勝海舟の弟子になっていた龍馬と再会した太郎は龍馬の勧めで「勝塾」に入門、龍馬のともに神戸海軍操練所で航海技術を学ぶ。その後、海舟の「勝塾」の塾生が池田屋事件に関与していたこともあり勝海舟は江戸へ呼び戻され失脚、海軍操練所は閉鎖される。また、土佐藩では藩主の後見となって土佐に戻った前藩主・山内容堂は土佐勤皇党の弾圧をはじめ、龍馬や太郎たちを土佐に帰藩するよう命令する。しかしこの藩命を拒否し脱藩した龍馬と太郎は勝の根回しで薩摩藩大坂屋敷に庇護され、小松帯刀に同行して鹿児島へ渡る。鹿児島では薩摩藩海軍の調練を任される。その後、長崎で龍馬の亀山社中設立に参加、龍馬が薩長同盟に向けて奔走し始めると太郎は近藤長次郎とともに長州藩のために薩摩名義で武器や艦船の買い付け(長州藩士・伊藤俊輔とイギリス商人グラバーから最新のゲーベル銃4300挺を購入)し幕府の長州征伐に対抗する準備を手伝う。慶応二年、坂本龍馬の提唱した蝦夷地開発計画(龍馬はいずれ、国土の小さい日本は資源不足になるので蝦夷地を開発し資源を確保しなければいけないと先を見ていた。)を実行に動き出す。太郎は薩摩の援助で購入した帆船・大極丸で資源物資を売り捌く為には大坂商人の協力が必要として、同志の安岡金馬とともに大坂へ出張し土佐藩の定宿「薩万」に宿泊しながら商人と交渉を重ねた。しかしいくら商魂たくましい大坂商人も荒唐無稽な将来の資源物資の販売に手を貸す商人はあらわれず失敗に終わった。(龍馬の先見を理解できる商人はいなかった。)亀山社中が海兵隊に移行してからも中堅幹部として大坂の「薩万」に残って海援隊の仕事に奔走していたが、京都の坂本龍馬と中岡慎太郎暗殺の報を聞き同志とともに淀川を船でのぼり翌日京都に到着、龍馬の遺体と無言の対面をした。太郎は龍馬の蝦夷地資源開発の意思を継いで慶応四年、新設された函館府に権判事となり、府知事に北海道開発の建白書を提出、その後旧幕府軍の榎本武揚たちが函館に侵攻し五稜郭に入り函館政府(蝦夷共和国)を樹立、太郎は一旦青森へ撤退するが、明治新政府軍の函館戦争に従軍し軍功を挙げて再び函館府に勤める。明治二年、土佐に帰るが先年の脱藩の罪で一ヶ月間の謹慎処分を受ける。明治四年、坂本家では龍馬の兄・権平が病死し、維新の大功労者の坂本家が断絶するのを憂いた朝廷の命で甥の高松太郎が坂本直と改名し相続させ永世15人扶持を賜った。その後、太郎(直)は家督を実弟・直寛に譲り東京府や宮内庁に出仕した。しかし明治二十二年にキリスト教の信徒であるという理由で宮内庁舎人を免職となり土佐へ帰る。土佐で坂本直寛宅で同居し余生を送る(実弟・直寛は龍馬の姉・乙女の面倒を見ていた。)が明治三十一年に病死した。享年五十七歳
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2008年10月22日

龍馬の意思を遂行した男 陸奥宗光

Munemitsu_Mutsu_2.jpg陸奥宗光(陽之助)は天保十五年、和歌山藩士・伊達宗弘と母・政子の六男として生まれる。伊達家は仙台・伊達政宗の末子・宗勝の後裔といわれている。幼名・伊達小二郎のち陸奥陽之助と名乗る。父・宗弘は和歌山藩の勘定奉行や寺社奉行を勤め藩財政の再建に功績があった。国学者・歴史学者でもあった父の影響で陽之助は尊王攘夷思想に傾倒していく。しかし、陽之助が十歳の頃の嘉永五年に藩内政争に巻き込まれ失脚し改易処分となり一家は困窮・貧困生活がはじまる。陽之助は十五歳の安政五年、江戸へ出て苦労しながら儒学者・安井安息や水本成美に学んだ。父・宗弘と兄・五郎は紀州を脱藩し京都で尊皇攘夷の志士として中川宮や姉小路公知らを担ぐ活動していた。翌年、陽之助もこの活動に加わり、京都で桂小五郎や伊藤俊輔(博文)そして坂本龍馬と知合う。この龍馬との出会いが陽之助の人生を大きく変えたといわれ以後龍馬と行動を共にする。龍馬は多くの浪士を海軍操連所に誘っているが、陽之助も龍馬とともにすぐさま入所する。このとき紀州伊達家の名前を棄て土佐藩脱藩浪士・陸奥陽之助と改名、龍馬の配慮だったらしい。陽之助は才気にあふれ、弁が立ち鋭い頭脳を持っていたが、小生意気で口が悪く攻撃的な性格だったが龍馬は陽之助の才に惚れ、常に身近に置いたという。海軍操連所が閉鎖された後、陽之助は龍馬とともに長崎へ出て亀山社中の創設に尽力し社中が出来ると商務担当として力を発揮、交渉役の近藤長次郎と書記官の長岡謙吉とともに社中(海援隊)を支える柱となった。彼の商才は龍馬も認め「金銭のことで陽之助が了承したことは全てその通りにしろ」と手紙を書き送った。陽之助もまた龍馬の期待に答え、商取引上の為替制度や損害保険制度の提案など商事に関する意見書を書いて龍馬を喜ばせた。慶応三年、京都の近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたと伝えられるや、在京していた陽之助はすぐさま駆けつけたが臨終に間に合わず涙ながらに復讐を誓ったという。当時、世間では新撰組が暗殺の実行犯と見られていた(現代は京都見廻組の佐々木唯三郎が実行犯と言われている)が陽之助はいろは丸事件(海援隊の借船いろは丸と紀州和歌山藩所有の明光丸が衝突しいろは丸が積荷もろとも沈没た事件で龍馬は卓越した政治力としたたかな交渉術や数多い人脈を駆使し七万両の賠償金を勝ち取った。)の恨みで和歌山藩士三浦休太郎が新撰組と結託して暗殺を行ったと主張し海援隊と陸援隊の同志十五名とともに三浦休太郎とその護衛の斉藤一や大石鍬次郎など新撰組隊士が滞在していた天満屋に夜襲を仕掛けた。壮絶な斬り合いの末、海援隊士が一名死亡し新撰組から二名の死者を出し宗光は敵の応援が駆けつける前に逃走した。明治維新後、陸奥宗光と名を改め外国事務局権判事、兵庫県知事、神奈川県令、地租改正局長などを歴任したが薩長門閥政治に嫌気がさし官を辞職。明治五年、三人の子供をもうけ長年連れ添った妻・蓮子が病死し、翌年に後に鹿鳴館の華といわれた亮子が後妻に入る。陸奥宗光はその後、因縁のある和歌山藩の要請で藩政改革を行い、明治七年に大坂会議によって新設された元老院議官となるが、西南戦争が勃発する。宗光は土佐立志社と連絡を取り合って政府転覆を図ったとして免官の上、禁錮五年の刑を受け投獄される。明治十年、特赦によって出獄し伊藤博文の勧めで欧州に留学、伊藤とともに欧米諸国を歴訪し帰国、外務省に出仕しアメリカ駐在公使、農商務大臣、枢密顧問を歴任し、安政年間に結ばれた不平等条約(治外法権の撤廃など)の改正を行った。また、日清戦争の講和談判で下関条約を締結「カミソリ外相」と呼ばれた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては遼東半島を清に返還するもやむなしとの結論を出す。宗光は下関条約締結の功により子爵から伯爵へ陞爵するが肺結核を患い兵庫県舞子で療養生活をおくる。明治二十九年に外務大臣を辞職し大磯の別邸で療養、翌年に肺結核が悪化して西ヶ原の本邸で死去。享年五十四歳・・陸奥宗光は坂本龍馬の死後、ことあるごとに龍馬の言動や逸話を語り、亀山社中で培った対外交渉に後半生を賭けた。まさに龍馬が維新後に成し遂げたかった意思を遂行したような人生といえる。
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2008年10月15日

坂本龍馬に信頼された「饅頭屋」 近藤長次郎

長次郎.jpg近藤長次郎は天保九年、土佐藩高知城下の餅菓子商「大里屋」伝次の長男として生まれる。幼い頃から家業を手伝い饅頭行商を行い「饅頭屋長次郎」と呼ばれていた。勤勉・聡明で叔父の門田兼五郎に学問の指導を受け、河田小龍の墨雲洞塾に入門する。墨雲洞塾には武市半平太や田中光顕が居り長次郎は彼らからいろいろと影響を受けた。安政四年、小龍の紹介で城下近郊の岩崎弥太郎の私塾に入門、安政六年に土佐藩上士由比猪内の下僕として江戸へ出る。江戸では岩崎弥太郎の師であった安積良斎の塾に入門するが、両親の他界により土佐へ帰藩する。家業を妹に継がせ万延元年に再度江戸へ行き砲術を高島秋帆に洋学を手塚玄海に学んだ。また、長次郎の学力の深さを藩主山内容堂に認められ正式に名字帯刀を許され藩士に取り立てられる。 小龍の墨雲洞塾で知り合った坂本龍馬と再会した長次郎は龍馬に誘われ勝海舟に弟子入り、勝海舟の塾に出入りしていた大和屋の娘お徳と結婚、翌年には長男・百太郎が生まれる。神戸海軍操練所設立にともなって龍馬と共に入り操船術を学んだ。神戸海軍操練所が閉鎖となった為、長次郎は妻と子を大和屋の実家へ帰し龍馬と共に長崎で海援隊の前身である亀山社中の設立に尽力する。長次郎は亀山社中では主に諸藩との折衝役を任され龍馬に「饅頭屋がいれば安心だ」といわしめた。当時、坂本龍馬は薩長同盟締結に中岡新太郎と共に奔走していたためその一環として経済封鎖を受けていた長州藩の武器購入の手助けをするよう龍馬から指示を受けた長次郎は長州から派遣された伊藤博文と井上馨を連れ長崎の英国商人グラバーに引き合わせる。このことにより長州藩はユニオン号と最新洋式銃の買い付けに成功し第二次長州征伐に勝利した。なた井上馨を鹿児島まで誘い薩摩藩家老の小松帯刀に紹介した。長州藩は長次郎に感謝しユニオン号回航のおり長州に招待し下関で歓待され山口では長州藩主毛利敬親親子に拝謁を許され謝礼金まで賜った。しかし長次郎はこの大仕事の成功で増長してしまい、亀山社中の同士たちの協力を忘れ、謝礼金の分配や社中の運転資金には使わず自分の海外留学を極秘に計画、慶応二年にグラバーが用意した船に乗り出航したが悪天候のため延期になり戻ったところを亀山社中の同志に捕まり小曾根英四郎別邸まで連行され隊規により切腹させられる。享年二十九歳  近藤長次郎のと上杉栄次郎はその才能が有り余って最後は増長して身を滅ぼしたとその訃報を聞いた龍馬は嘆いたという。
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2008年04月15日

土佐の落ちこぼれから日本の英雄になった坂本龍馬

坂本龍馬は土佐藩郷士の子として生まれた。土佐藩郷士といっても、身分制度の厳しい時代の下級武士で戦国時代の長宗我部氏の家臣だったが主家が滅び山内氏が入ってからは、山内家家臣との差別を受けていた人たちだった。龍馬は幼いころから誠に頼りない子供であった。十歳を過ぎても寝小便の癖が治らず、遊び友達からのいじめに、泣きながら耐えているばかりであったらしい。弘化三年、十二歳のとき近くの楠山庄助塾に通い始めたが、ここでも劣等生のレッテルを貼られて、ついに教えようがないという理由で退学させられてしまう。龍馬は周囲から救いようのない落ちこぼれと蔑まれていたが、剣術と出会って、劇的に変身を遂げた。嘉永元年十四歳のとき、日根野弁治という小姓組の藩士で高知城下の築屋敷に道場を開き、剣術に柔術を加味した小栗流を教えていた師匠に入門してから、龍馬はめきめきと腕をあげていった。嘉永六年、師匠の日根野から「小栗流和兵法事目録」を伝授され、剣の上達も順調だったが、龍馬は江戸に憧憬の目を向けるようになる。何をさせても落ちこぼれで引っ込みじあんの龍馬は日根野弁治と出会って、大きく心境が変化した。十九歳のとき、父八兵の計らいで江戸に出ることが出来、北辰一刀流の千葉周作の弟でその実力は兄周作以上といわれている千葉定吉の道場へ通うようになる。龍馬は一年の中断を挟んで三年間、桶町の道場に通い、安政五年に二十四歳で北辰一刀流長刀兵法の免許皆伝を授かる。しかし腕前は文久二年、土佐勤皇党を代表して長州に赴き、久坂玄瑞と面談した折、北辰一刀流免許皆伝の腕前を披露するように切願され、自分の体の半分ほどの少年剣士と立ち合ったが三度戦って三度とも見事に打ち負かされた。というエピソードが残っているのでたいしたことはなかったと見る方が良いかも知れない。龍馬は勝麟太郎の弟子となり勝や幕臣の大久保一翁と国論を論じるようになる。元治元年の禁門の変後、勝は江戸へ召還され、失脚してしまい、龍馬の唯一の避難場所である海軍操錬所が消滅してしまった。勝は竜馬らの身を案じ親友の西郷に龍馬の保護を依頼する。竜馬ははじめ薩摩藩大坂屋敷に匿われ次いで、鹿児島へ西郷とともに行った。竜馬が西郷の家の屋根を修理したのはこのときで、長州藩との仲立ちを龍馬に委嘱したのもこの時期だった。薩摩を発った龍馬は熊本で横井小南と合い、大宰府で三条実美に薩長和解の必要性を説いた。下関で木戸孝允と会談して和解を進め、木戸・西郷の会見の予定を立てた。しかし西郷が急きょ上洛したため御破算となり、第一次和解策は壊れた。竜馬は上洛し西郷に会って下関の違約を責め、長州藩のために船と武器弾薬購入の名義貸しを持ち出し西郷の了承を得る。翌年、京都の薩摩邸で小松帯刀(肝付正五郎)・西郷隆盛が長州の木戸孝允(桂小五郎)と会見し薩長同盟が結ばれる。だが、その直後に幕吏が寺田屋を襲撃、恋人のお龍の機転も会って怪我を負いながらも薩摩藩邸に逃げ込む。その後、お龍とともに船で鹿児島へ旅発つ、これが日本で初めての新婚旅行だといわれている。薩摩では小松帯刀邸に滞在していたが、やがて長崎で亀山社中を設立翌年、海援隊として同志とともに乙丑丸に乗り込んで高杉晋作も指揮下で幕府の長州征伐を戦い勝利する。翌年1月に、かつて親友・武市半平太を拷問し切腹に追いやった仇敵の後藤象二郎と会見し意気投合し、この後の「大政奉還」建白を後藤に勧め、土佐藩主山内容堂を動かした。慶応三年、土佐の夕顔丸で後藤ともに長崎を出帆し「船中八策」を後藤に託す。後に「坂本が大政奉還後の政府の役割表を携えて西郷を訪ねた。座には大久保、小松、西郷がいたが、坂本から表を受け取った西郷はこのとき、坂本さんあなたの名前がないがと尋ねた。坂本は私は役人が嫌いですからと答えた」という。西郷はではあなたは何を望んでますか?と尋ねたら「世界の海援隊として、世界中の海を廻りたいといったらしい。また海援隊士で後の外務大臣陸奥宗光は坂本が後藤に語った話として「僕のような浪人の仕事はもう済んだ。今後は君達の奮発する世の中になる。頑張ってくれ。が仕事をするのに十の内八、九は自分がやり、一,二分は人に譲り華を持たしてやらなければ大事はならない。さらに仕事の厭な部分は自分が引き受け、人に誉められそうなことは人にやらせなければ大事は成らない。」と遺言状のようにいったらしい。その後、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに凶刃に倒れる。享年三十三歳・・もし近江屋の惨劇が無く、坂本龍馬が健在であったら、後の戊辰戦争も起こらないで平和的に新旧社会の交代が無血の内に実現し、新政府の薩長門閥政治もありえなかったといわれている。
posted by こん at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 海援隊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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