2009年12月03日
尊皇攘夷に一生を捧げた公卿 中山忠光
中山忠光は弘化二年、権大納言・中山忠能の七男として生まれる。姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇である祐宮(さちのみや)を生んだことから明治天皇の叔父に当たる。姉・慶子は中山家の敷地内の御産所で祐宮(明治天皇)を生み五歳まで中山家で育てられた為、叔父の忠光の影響を受けたといわれる。(特に明治天皇の相撲好きは忠光に影響されたらしい。)忠光は十四歳で宮中に出仕し従五位侍従に叙せられる。文久二年頃から血気盛んな忠光は長州や土佐の志士たちと盛んに交わり、尊王攘夷過激派の公家として台頭する。(この時期、和宮降嫁を推進した廷臣を暗殺する計画を土佐勤王党首・武市半平太に持ちかけたが父・忠能の反対にあって断念した。)文久三年、朝廷に国事寄人が新設されたときに忠光十九歳で加えられる。同年三月に孝明天皇は将軍・家茂や諸侯を従えて攘夷祈願の為、賀茂神社に行幸した際に忠光は騎馬にて従った。しかしその後、突然京都を脱して長州藩に身を投じ、下関の白石正一郎邸に身を寄せる。官位を返上して森俊斎と改名して尊攘運動に奔走、久坂玄瑞率いる光明寺党の党首となって下関の外国船砲撃に参加したり、また長州藩士を率いて久留米藩にいって当時投獄中の真木和泉等尊攘派の藩士を釈放させるなどに尽力する。その後、忠光は京都の情勢不穏を聞き帰洛し尊攘派のリーダー格であった三条実美等の働きによって孝明天皇の大和行幸の詔が下されると土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らに担がれて天誅組盟主となる。攘夷親征の奉迎として大和五条代官所を襲撃し代官の鈴木源内を誅戮して挙兵する。しかし、公武合体派は会津藩や薩摩藩とクーデターを起こし巻き返す。(八月十八日の政変)三条実美等七卿は長州藩士と共に長州へ落ち延びる。天皇の大和行幸は中止され天誅組は幕府追討軍(彦根、藤堂、紀州藩で編制)に追い詰められ吉野山で抗戦するが吉村寅太郎らは戦死し、忠光は数名の側近と共に大坂へ脱出、船荷に隠れて再び長州へ落ち延びる。長州藩では逆賊のお尋ね者となった忠光を匿いきれず支藩の長府藩に預けたが蛤御門の変に敗れ、第一次長州征伐が始まると長州藩の恭順派(俗論党)が台頭し尊攘派藩士は切腹や追放となる。長府藩では血気盛んな忠光をもてあまし下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を側女として落ち着かせようと試みるが何度も脱走を計画して手を焼いた。元治元年、最後の潜伏先である田耕村の大田親右衛門宅にて病に伏していた忠光に庄屋の山田幸八がやってきて「幕吏が迫ってますのでお逃げください。」といって誘い出し四人の長府藩士の手で絞殺される。長府藩士は田耕村から遺体を長持に入れて運び出し下関に向かったが途中で夜が明け仕方なく綾羅木の浜に埋葬する。(明治維新後ここに山中神社を建立した。)長府藩では中山忠光は病死したと届けたが維新後、長府藩が差し向けた刺客によって暗殺されたと発覚、維新の功労者に爵位が授けられた際に長州藩主が公爵を与えられ、当然支藩である長府藩主には伯爵が与えられると思われていたが子爵に留められた。側近が明治天皇に理由をたずねると「長府は中山を殺したから」と仰せられ長府藩を嫌ったという。忠光が弱冠二十歳で暗殺された後、側女の恩地登美が女児・仲子を出産、正室の富子に子供がなかった為、富子は仲子を引取り大事に育てた。維新後、仲子は嵯峨公勝婦人となる。時代は下って満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑の妻・浩は嵯峨家(正親町三条家)出身で仲子の孫に当たる。したがって中山忠光は曽祖父になる。(中山神社内に愛新覚羅社があり溥傑と浩と天城峠で謎の死を遂げた娘の彗生が分骨して祀られている。)余談だが忠光をだまして誘い出し暗殺に協力した田中幸八の子孫の多くは発狂して家は断絶、近隣の住民は天罰が下ったと恐れたという。
2008年04月01日
戦場の貴公子 醍醐忠敬
醍醐忠敬は嘉永二年、精華家の次男として生まれた。父醍醐忠順は公卿には珍しく、国際的な視野を持ち、通商開国に柔軟な姿勢を示した。忠敬もそんな父の薫陶を受け、育った。青年して禁裏に上がった孝明天皇に仕え、父子は禁裏でせめぎ合う佐幕派と討幕派の公卿達の調整役として頭角を現し、父忠順は権大納言となり、忠敬も右近衛権少将に任官された。慶応三年の「王政復古」の政変後、奥羽親征の朝議が決定され、奥羽鎮撫総督府が新設された。公武合体派の九条道孝が公務に返り咲き、総監となり醍醐忠敬は最年少の参謀として戦地へ赴くことになった。この時弱冠十八歳の青年参謀はお飾参謀であることを嫌い、会津戦争では最前線に立って官軍を指揮した。同じ奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵が仙台藩兵に暗殺され、戦火が拡大したが、忠敬は東北各地を転戦して鎮圧、弘前では軍吏となって弘前藩の出兵を促し、官軍に迎え入れた。明治二年、奥羽平定の殊勲により永世賞典禄六百石を下賜。まだ二十歳にすぎない忠敬は武功により従三位になった。のち、留守権判事、元老院議官などを勤めて五十一歳で没した。