2011年11月27日
ドラマJIN−仁ーでも活躍 緒方洪庵と妻の八重
緒方洪庵は文化七年、備中国足守藩の下級藩士(三十三表四人扶持)・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれ八歳の時に天然痘に罹ったといわれる。十六歳で元服し田上セイ之助惟彰(この田上は佐伯家の先祖が一度だけ名乗った姓を用いた)文政八年に足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父に同行して初めて大坂の土を踏む。洪庵は生来体が弱く武士よりも医学で身を立てようと決意し翌年には蘭方医で蘭学者・中天游の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学や西洋医学を学び翻訳書を読みふける。(その間に父の転勤に伴って一旦帰藩するが藩の許可を得て上坂し改めて中天游に弟子入りをして名を緒方三平と名乗る。)天保二年、洪庵は二十二歳の時に師匠・中天游の勧めにより江戸へ出て蘭方医・坪井信道の「安懐堂塾」に入門し医学やオランダ語を学びローゼが著した「人体生理学書」を翻訳した「人身窮理学小解」は医学を志す若者達に多く読まれた。洪庵は按摩など今で言うアルバイトをしながら苦学を続け師匠の坪井は見かねて自分の着ていた服をそっと洪庵に着せてやるという師弟愛を見せた。後に坪井信道の紹介で坪井自身の師である宇田川玄真にも学び名を「緒方判平」と改める。その後、備中足守に帰ったが恩師・中天游の死の知らせを受け上坂し恩に報いる為「思々斎塾」で教鞭をとる。その後。天保六年、名を緒方洪庵と改め中天游の嗣子である中耕介を伴って長崎へ遊学の旅に出る。(この費用は「思々斎塾」の先輩で名塩で開業医をしていた億川百記が出した)長崎ではオランダ商館長で医師でもあるニーマンにオランダ医学を学び青木周弼や伊藤南洋とともに「袖珍内外方叢」という薬剤所を翻訳したといわれるが長崎修行時代のことはあまり記録に残っていないらしい。(勉強不足ですみません)天保九年、二十九歳で大坂に帰った洪庵は大坂瓦町に医業を開き「適々斎塾」(適塾)の看板を掲げ蘭学を教える。(恩師・中天遊の「思々斎塾」にあやかって適々斎塾と名づけた。)同年に先輩・億川百記の娘・八重(十七歳)を嫁に迎え後に六男七女の子を儲ける。洪庵は開業二年目にして大坂の医者番付で大関に昇ったその名声に「適塾」には多くの弟子が集まり村田蔵六(後の大村益次郎、維新後の日本陸軍創設者で維新十傑のひとり)や福沢諭吉(慶応義塾の創立者、学問のすすめの著者)、大鳥圭介(幕末の函館政権では陸軍奉行「土方歳三は陸軍奉行並で有名」維新後は学習院院長)佐野常民(日本赤十字の創始者)橋本左内(福井藩主・松平春嶽の懐刀で安政の大獄で処刑)高松凌雲(函館戦争時の函館病院長で敵味方の区別なく治療して同愛社を創始して後の赤十字先駆者となる)、手塚良仙(天然痘治療の為のお玉ヶ池種痘所{東大医学部の発祥地}の創設者のひとりで昭和の大漫画家手塚治虫の曽祖父)など数々の偉人達を輩出し明治元年の適塾閉鎖までに名簿に残された者だけで636人に及び教えを請うた者を含めると数千人もいたという。 弘化二年、瓦町の適塾が手ぜまになった為に過書町(現・大阪中央区北浜三丁目)の商家を買い取り移転した。多くの死者を出した天然痘の予防や治療を研究し嘉永二年、京都で佐賀藩の医師・楢林宗健から種痘を譲り受け大坂古手町(現・道修町)の除痘館を設立して切痘を開始し翌年には出身藩である足守藩からの要請で足守除痘館を開設。ワクチンの不足を補う為に全国186箇所の種痘株分苗所を作ったが闇で牛痘種痘を行う医者が増え医療事故が増えるのを恐れた洪庵は幕府に働きかけて除痘館のみを幕府公認の免許制となる。また大坂にコレラが流行するや「虎狼痢治準」を出版し「家塾虎狼痢治則」をまとめる。(人気テレビドラマ「Jin 仁」では武田鉄也演じる緒方洪庵は南方仁のペニシリン培養に協力した)文久二年、再三固辞していた幕府からの奥医師の要請を受諾し江戸へ出て伊藤玄朴宅に単身赴任し幕府の西洋医学所頭取となり仮屋敷に移り妻と子供達を呼び将軍家茂より「法眼」に叙せられる。(法眼はもともと僧侶の地位を示す法眼和上位の略だが江戸期には絵師や儒者、医者などに与えられる今で言う人間国宝のような物らしい)文久三年、西洋医学所頭取役宅にて喀血しその血を喉に詰まらせて窒息死する。享年五十四歳・・・緒方洪庵の妻・八重は洪庵が二十九歳のとき十七歳で嫁ぎ六男七女(内の四人は早世)を育てながら苦しい生活の為に名塩の実家に仕送りを頼み生活費を助けた。また、血気盛んな塾生をあるときは叱り、ある時はほんとうの親のように接した姐御肌の豪気さを持った女性といわれている。福沢諭吉は「母のような人」といって慕い、日本赤十字創始者の佐野常民は彼女から受けた恩を忘れられず墓碑銘を自ら書いたという。八重は夫・洪庵の死後二十三年後の明治十九年享年六十四歳で亡くなるがその葬儀には門下生は勿論、政府関係者や在野の著名人、一般人など2000名もの参列者がいたがその葬列の先頭が日本橋に差し掛かった頃にはまだ八重の棺は2500メートル離れた北浜の自宅を出ていなかったといわれている。日本陸軍の創始者である大村益次郎は京都木屋町の料亭で暴漢に襲われ重傷を負い大坂の病院で左大腿部切断の大手術をしたがその足は益次郎の意向により緒方洪庵・八重夫妻の墓の横にこっそりと葬られたという。(大村益次郎はその後、敗血症をおこして死去した。)
2010年10月02日
亀山社中の母 大浦慶
大浦慶は文政十一年、長崎油屋町の油商・大浦屋当主・太平次(婿養子)と跡取娘佐恵の長女として生まれる。まだ幼いお慶は跡取娘として賀古市郎右衛門の次男・大五郎を婿養子に迎えともに育ったが大五郎が十九歳で亡くなってしまうお慶がまだ九歳の時であった。幕末の動乱期、油の専売権は薄れ外国からの油が大量に入り始め大浦屋は廃業の危機を迎えた。更に追い討ちを掛けるように安政十四年、出来鍛冶屋町より発生した火事が全戸五百二十六棟を全焼する大火となり大浦家もその被害をうけたうえに火事場のドサクサに紛れて金目の物を持ち出した父・太平次が遊女と駆け落ちしてしまった。お慶は弱冠十六歳で大浦屋再興の決心をし翌年蘭学の修行に長崎にきていた島原の庄屋の息子・幸次郎を婿養子に迎えるが気に入らず祝言の翌日に手切れ金を払って追い出したという。祖父の薫陶を受けた小曽根屋(後の海援隊の支援者)やいろいろな人の支援で路地売りをはじめ、また遊女に化けて長崎出島に入り行商なども行った。嘉永六年、大浦屋出入りの鄭に付けて貰った若い通訳嗣品川藤十郎の協力により出島在留のオランダ人テキストルに談判して佐賀の嬉野茶をイギリス・アメリカ・アラビアの三国へお茶の見本を送ってもらう。三年後の安政三年、イギリスの貿易商ウィリアム・オールトが来航しテキストルに託したお茶の見本を見せアメリカ向けに大量の注文をした。嬉野茶だけでは足りず九州一円からお茶をかき集めた一万斤(約6トン)をアメリカへ送った。これが日本茶貿易の先駆けとなり以後十年間大浦慶は莫大な富を得て大浦家再興を見事果たした。大浦慶の名声は長崎中に知れ渡り坂本龍馬や大隈重信、松方正義らと交流が始まり志士達から「肝太おっかあ」と呼んで親しんだという。特に坂本龍馬とは武器商人グラバーを介して知り合い亀山社中設立の際には多額の資金援助を行い龍馬とともに来た陸奥宗光の才能に惚れ込み担保に陸奥を貰い受けたいと申し入れたという。明治維新になると志士達は潮の引くようにお慶のそばから離れ、鎖国時代は長崎が日本唯一の貿易港だった時代は過ぎお茶の大産地の静岡に近い横浜港にその座を奪われ始めた。(釜煎り製茶の九州茶に対し静岡の蒸し茶の方が外国人に好まれたともいわれている。)長崎の日本茶貿易の衰退を予感していたお慶は新しい商取引を模索し始めていたころの明治四年、熊本藩士・遠山一也が通詞・品川藤十郎がお慶を訪ねてきた。熊本産の煙草十五万斤を英国商オールトへ売り込む取引の手附金受取の仲介名義を貸して欲しいと頼まれる。はじめは断っていたお慶も熊本藩支配頭が責任を持つという一札を持参したり、お慶が若いころ弟のように面倒を見た品川藤次郎の勧めで連判した。しかし、いつまでたっても長崎に煙草が送られてこないことでオールト商会から手附金の返還を迫られる。お慶は詐欺に会ったことに気づき熊本藩と交渉し遠山の家禄五年分の三百五十二両の支払いに応じた。お慶は何とか手附金の返還に応じたがオールト商会から長崎県役場に遠山一也らと共にお慶も提訴されてしまう。お慶もまた、遠山と熊本藩福田屋喜五郎を訴えるが裁判の末、遠山は詐欺罪で懲役十年の判決とお慶自身保証人として千五百両の賠償責任を負い更に裁判費用やこの事件による借財は六千両にも膨れ上がった。お慶は家屋敷を抵当に毎月六十二両を返済し続るが既に信用を失った大浦屋は没落したが死ぬまでにこの莫大な借財は完済したという。明治十二年、アメリカ第18代大統領・ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際に国賓として各県令と共に大浦慶の艦上に上がる栄誉を受けた。明治十七年、長崎県令となっていた元海援隊士・石田英吉は農商務省権大書記官・岩山敬義にお慶が既に危篤状態である為、生きているうちに功を賞して欲しいと要請する。その要請が受け入れられる電報が届くと翌日、県令の使者が日本茶貿易の先駆者としての功労褒賞と褒賞金20円をお慶宅に届けたがその2週間後にお慶はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年五十七歳・・・信用、信頼で商売を発展させ莫大な富を築いた大浦お慶は幼いころから大浦屋に出入りし弟のように可愛がった品川藤次郎にだまされすべてを失い、幕末には私財を費やして支援してきた大隈重信ら志士たちには見向きもされなかったが海援隊士だけはその恩義を忘れずにいたことに胸をなでおろす。
2010年06月27日
龍馬が母と慕った寺田屋の女将 お登勢
お登勢は文政十二年、近江国大津(現・滋賀県大津市)で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれる。十八歳で京都伏見の船宿・寺田屋六代目伊助に嫁ぐが伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったという。寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗船宿(伏見の船宿は淀川から三十石船で航行する乗客の食事代や手数料、宿泊料で生計を立てていた。)で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿であったがお登勢はこの船宿を一人で切り盛りをしていた。また、お登勢の接待目当ての客も多く早くから薩摩藩の定宿になっていたという。元治元年、夫伊助は放蕩が祟り三十五歳の若さで没すると一男二女を育てながら更に五人の捨て子を自分の子供と隔てなく育て上げたという。生来の性格から頼まれたことは嫌とはいわず身分の隔てなく面倒を見た(特に尊王攘夷の志士達を多く匿い幕府には危険人物と見なされた)為に入牢させられかけた。文久三年、薩摩藩尊王派(主に精忠組)の暴発前に島津久光の命によって鎮撫使を差し向けた事件(寺田屋騒動)の折にはお登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には通常商いを始めたという。薩摩藩は多額の迷惑料を支払ったが騒動で亡くなった有馬新七ら九人の法要を行わなかった。お登勢は九人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養した為に薩摩藩士達に信頼され、当時幕吏に狙われていた坂本龍馬の庇護を頼まれた。(当時の薩摩藩は幕府側の立場的に伏見藩邸に龍馬を置いとけなかった。)禁門の変後、京都の半分は焼け出された。この時龍馬はお登勢に行く場所の無い楢崎龍の面倒を頼んだといわれている。お登勢は快くお龍の面倒を見お龍をお春と呼んでわが娘のように可愛がった。また、龍馬もこの寺田屋を我が家のように出入りしお登勢の実子・殿井力の懐述によれば龍馬が居るだけでお登勢は生き生きとして匂い立つ湯王だったといい龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んでいたらしい。龍馬が二階に居る時はお登勢の子供達はよく遊びに上がり龍馬の面白い話を聞いたという。慶応二年、幕府の捕方による寺田屋襲撃の時にはお登勢は捕方によって屋外に連れ出されどうすることも出来なかったがお龍の機転によって怪我を負いながらも逃走した。龍馬はお龍と共に薩摩の船で鹿児島へ渡った後もお登勢とは書簡のやり取りが続き龍馬は残してきたお龍の母や妹達の世話を頼みお登勢はそれに答えて生活の援助をしたという。龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護していた。明治十年、お登勢は四十九歳の若さで亡くなった。龍馬は「学問のある大人物也」と高く評価し勝海舟は大胆かつ繊細な人物と書き残している。
2009年05月18日
偉人たちの末期の言葉
偉人たちの末期の言葉、吉田松陰は安政の大獄最後の犠牲者となり伝馬町の牢内で処刑された。松陰は死に際して遺書ともいうべく「留魂録」を書き上げた。その巻頭には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」と詠じ、巻末には「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ、攘(うちはら)はんこころ吾れ忘れめや」と結んだ。また、新撰組局長の近藤勇は勝沼の戦いに敗れ、下総流山で降伏して新政府軍に捕えられ、僅か二十日後に板橋で斬首された。その斬首の際に「ながなが御厄介に相成った。」と警護の武士に言葉を残して刑場の露と消えた。その首級は塩漬けにされて京都三条大橋に晒された。西郷隆盛が西南戦争で敗れ、城山から鹿児島を目指して歩を進めたが、島津応吉私邸前まで来たときに敵弾を右大腿部と腹に受けて路上にひざまずいた。傍らにいた別府晋介に向かって「晋ドン、晋ドン、もうここでよかろ」といって遥か東方を伏し拝んで「おお・・御上(明治天皇)」と言って切腹、別府晋介が「先生、ごめんなってたもし」と介錯したといわれている。首級は西郷の下僕が持って逃げたが重たくて、折田正助邸門前に手拭に包んで埋めたという。胴体は官軍によって屍体検死が行われたが、西郷の首が無くそれらしい体躯の死体で腕の傷(十二歳のころ喧嘩の仲裁に入った西郷に投げ飛ばされた少年が恨みをもって西郷を待ち伏せ不意打ちに襲い掛かった際に腕に大きな傷を負っていた。)と睾丸の大きさで西郷と判断されたという。桂小五郎こと木戸孝允は明治十年、西南戦争が勃発したときに鹿児島鎮撫の任を希望したが、認められず明治天皇とともに京都出張に出ていた。(幕末に木戸は西郷と薩長同盟締結に尽力し維新を成し遂げた同志という自負があった。)木戸は京都で脳障害(脳溢血か脳血栓?)で倒れ、意識が朦朧とした中、見舞いに訪れた大久保利通の手を握り締め「西郷も、もうよさぬか」と言い残して息を引き取ったという。勝海舟は晩年、赤坂氷川で「吹塵録」や「海軍歴史」「陸軍歴史」「氷川清話」などを執筆してすごした。明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」といって息を引き取ったという。
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2009年03月01日
北辰一刀流の後継者 千葉栄次郎
千葉栄次郎は北辰一刀流「玄武館」道場の千葉周作の次男として生まれる。周作には四人の息子がいたが長男・寄蘇太郎は父・周作の死に先立つこと十ヶ月の安政二年に三十歳の若さで没した。寄蘇太郎は口数の少ない穏やかな人物であったが、剣術は神業といわれ、相手の頚動脈にピタリと吸い付き、誰もが逃れることは出来ないと伝えられている。次男の栄次郎は父・周作が存命中に別家した為、三男の道三郎が千葉宗家を継承し、二代目・千葉周作を名乗ったという。一方、栄次郎は兄・寄蘇太郎に比べて格別に陽気で冗談をよくいった。若くして北辰一刀流の奥儀をきわめ「千葉の小天狗」と称された使い手であった。彼が「小天狗」といわれる所以は[曲遣い]達人で、栄次郎が二十三歳の頃、父・周作の代稽古として水戸藩の弘道館へ出張した時に、水府流剣士を相手に面上にて竹刀を回転させたり、股間をくぐらせたり、竹刀を三、四間もの上空に投げ落ちてきたのを受けて戸惑う相手の面や小手を自由自在に打ったという。まさに曲芸的、遊戯的な竹刀遣いに一躍名を挙げたという。(水府流とは天保十三年に水戸藩で新陰流と一刀流を合併させて一流派としたもので水戸藩主だった水戸斉昭が命名した流儀で水戸藩の御家流であった。)また、栄次郎は他流試合も多く、神道無念流「錬兵館」の斎藤弥九郎や北辰一刀流「振武館」海保帆平など誰も歯が立たなかった。父・周作(水戸藩馬廻組・剣術師範)と同じく水戸藩に出仕して馬廻組十両三人扶持を給された。その後、大番頭に昇進するが文久二年に兄・寄蘇太郎と同じ三十歳で病没する。(兄と同じ結核といわれている。)千葉宗家は三男・道三郎が継承したが、彼も明治五年に早世し、その長男勝太郎が後継として英才教育を受けたが、眼病に罹り失明、高弟らの援けによって宗家を継いだといわれるが、やがて衰退する。これを憂いた山岡鉄舟ら旧門弟達の援助で栄次郎の遺児・周之助が神田に「玄武館」を再建したが大正二年に没した。その長男・榮一郎は剣道を行わず「千葉周作遺稿集」を出版した。北辰一刀流は水戸藩・弘道館で継承され師範の小澤寅吉が東武館を創設して北辰一刀流を指導し四代目館長の小澤武が北辰一刀流宗家に認定された。
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2009年02月25日
商家の下働きから剣豪 井上八郎
井上八郎は文化十三年、日向延岡藩七万石内藤備前守政修の家臣・井上主衛が商家の娘・貞に生ませた子であった。そのため、八郎は母のもとで育てられ、十三歳で出奔し肥後の兵学者・山東弥源太を訪ねが、出奔してきた身であったために入門は許されず延岡に戻る。豪商・樋口四郎衛門の屋敷に下男として奉公する傍ら余暇を見つけて儒学者・内田耕介について学んだ。三年が過ぎ八郎は再び出奔して大坂へ出て大原という人の使役をしたとあるが定かではない。武士になりたいという八郎の志しを知って大原翁は江戸玄武館道場の千葉周作の内弟子として入れたといわれている。(この辺の経緯ははっきりしていない。)以来、八郎は千葉のもとにあって、水汲み、薪割り、掃除、客の対応などの雑用をしながら寸暇を惜しんで稽古に励んだ。稽古が終わると八郎は毎日、竹刀作りに精を出して報酬を得ていたという。そして八年後、八郎は中免許を取得し教授の許可を貰ってついに頭角を現す。八郎は上総、下総などを巡って武者修行をし江戸へ戻って千葉門下の支道場を預かって門人に指導した。その後、佐渡に招かれて教授した後、越後新潟、高田、加賀、越中を通って飛騨の高山まで行った。高山奉行・小野朝衛門の次男・鉄太郎と知り合い教授したという。この縁で江戸忍流槍術の山岡静山の娘と結婚して養子となり山岡鉄舟となる。その後も中国、四国、九州と武者修行を続け、行く先で様々な土地の剣客と試合を行い弘化三年に江戸へ戻ったという。嘉永六年、初めて幕府に出仕して御徒頭四十表五人扶持となり、築地に講武所を開設した時に北辰一刀流代表して剣術教授方に任命された。大政奉還後の明治元年には歩兵奉行兼遊撃隊頭取、維新後の明治二年には浜松奉行、後に浜松勤番組頭となった。この頃に浜名湖の水を浜松に引き込む堰留運河を完成させるも、開通後は荷物取扱業務などを個人の利益事業とした為に、告発される。その後、明治八年に政府は国立銀行条例を公布して、当時流通していた藩札を回収して銀行紙幣を発行させる為に急いで全国各地に設立をさせた。静岡県浜松に第二十八国立銀行が設立され県下では最初の国立銀行となった。井上八郎はここの頭取となり上々の業績を残して株主に一割五分の配当を続けたという。頭取在任三年で第二十八国立銀行頭取の席を後進に譲って東京に戻り、湯島天神町に屋敷を構えて悠々自適の生活に入った。師の千葉周作亡き後、息子で千葉の小天狗と呼ばれた千葉栄次郎が早世した為、衰えていた玄武館道場を栄次郎の息子・千葉周之助之胤が神田錦町に再興した時には開館式に出席した八郎は山岡鉄舟と木刀による試合を行い開場を沸かせたという。明治三十年八十二歳で没した・・・海保帆平とともに北辰一刀流千葉道場の双璧といわれた剣豪の極楽往生だったという。
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2009年02月22日
幕末の大侠客・会津小鉄 上坂仙吉
上坂仙吉は天保四年、父・水戸藩士・上田友之進と母・大坂島之内の太物商・丹波屋吉兵衛の娘ゆうの子として島之内に生まれる。父の友之進はヤクザの用心棒をしていたが、家督を継いでいた兄が急死した為、水戸へ帰ってしまった。残された母・ゆうと仙吉は父の後を追って水戸に会いに行くが冷たく追い出されてしまう。失意の母子は東海道から大坂に向けて旅立つが途中、母・ゆうは雪駄直しの男性と知り合い内妻となり仙吉も引き取られたという。しかし、苦しい貧乏生活に家を飛び出し七歳で大坂へ帰ったといわれている。その後、十二歳で福知山正覚寺の小僧になりここで剣を浅山一伝流の森山清兵衛に習ったという。嘉永三年に大坂へ戻った仙吉は平井徳次郎に鏡新明智流を修めたという(一説によると)。二十二歳で江戸へ出て安藤対馬守の中間部屋頭・吉右衛門のところに転がり込んだが博打の味を覚え、吉右衛門が手を焼くほどの暴れ者になり刃傷沙汰を繰り返した為江戸へ居られなくなり京都へ上る。京都では公家屋敷の賭場に出入りするうちに、賭場あらしの「じゃがら」という者と喧嘩をしてそれを叩きのめした。この「じゃがら」という名うての悪党を倒した男ということで仙吉は他の博徒から恐れられたという。この頃は喧嘩は絶えず、全身に八十ヵ所の切傷、左手の指は親指と人差し指だけ、右手は小指と薬指が傷で曲がったまま動かなかったという。慶応4年に博徒・上坂音吉親分の盃を貰って二条新地大文字町に一家を構える。文久二年、京都守護職を拝命した会津藩主・松平肥後守容保が上洛すると会津藩の中間部屋の元締め・大沢清八(大垣屋清八)と懇意になって会津屋敷の出入りを許された。会津藩の京都警護に仙吉は輩下の者を指図して尽力しこのときに会津の印半纏を着ていたので「会津の小鉄」と呼ばれたのが始まりらしい。池田屋事変や蛤御門の変にも尽力するが新撰組や会津藩の協力者として討幕派の志士達から命を狙われ、慶応元年に木屋町のお茶屋で会津藩の者と談合中に襲われる。その後、浪人を殺害し入牢し死罪となるが会津藩の助命によって釈放される。明治元年、鳥羽・伏見の戦いには子分五百人を率いて軍夫としたが敗れて大坂へ逃亡、京都に戻って置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を集めて会津藩墓地の黒谷に埋葬し遺品を携えて官軍が犇めく会津若松に潜伏して届けたという。その後、毎日子分を三人ずつやって掃除をさせ、自らも月に一、二度は訪れ菩提を弔った。明治16年、新政府の博徒取締りによって逮捕され禁固十一ヵ月の判決を受け服役、翌年に出獄した時には七千五百人の人たちが祝いに駆けつけたといわれる。明治十八年に白河の自宅で死去した。享年四十二歳・・・本葬では一万三千人の会葬者が集まったと記録に残っている。
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2009年02月19日
坂本・中岡暗殺の現場 醤油商近江屋新助
醤油商近江屋の井口新助は天保九年、京都河原町の醤油業「近江屋新助」の子として生まれ、安政六年に家業を継いで二代目・近江屋新助を名乗ったという。義侠心の厚い新助は土佐藩の御用達を務めるようになり財を蓄えるようになってからはその金で勤皇志士たちの援助を惜しまなかったという。近江屋事件の一ヶ月前に坂本龍馬は材木商「酢屋」に下宿して海援隊の京都本部に使っていたが、幕吏の探索が迫った為に龍馬の身を心配した海援隊・長岡健吉の紹介で龍馬を匿うことになった。また、龍馬の為に土蔵を改装して密室を拵え、いざと言うときは裏の称名寺に脱出できるように作り変えたと言う。慶応三年、風邪をひいていた龍馬は二階の奥座敷で中岡慎太郎と会談中に京都見廻組に襲撃されて斃れた時に新助は見張りの少ない裏口から抜け出して土佐藩邸へ報せに走った。その後、新助は弟の小三郎とともに勤皇活動に尽力し、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いには官軍の援助を惜しまず、軍資金や食糧を提供し傷病兵の看護や輜重方として醤油樽に武器弾薬をかくして幕府方の歩哨線を突破したと伝えられている。後に従五位を贈られたという。享年七十四歳・・・
2009年02月14日
幕末を気儘に生きた勝海舟の妹 佐久間順
佐久間順は天保十七年、旗本小普請組・勝小吉の娘、勝海舟の妹として生まれる。お順が十七歳の時に兄・海舟の師である佐久間象山と結婚する。佐久間象山は自信家で優秀な自分の子孫を残す為、お菊とお蝶という二人の妾とお菊の生んだ格二郎という男児とともに暮らしていた。しかし、お菊は我が子を置いて幕府御典医・高木常庵の後妻として家を出た。お順はその三ヵ月後に後妻として佐久間家へ入ったという。お順の父・小吉や兄・海舟はこの奇妙な生活に猛反対したが、お順は天下一の学者の妻になることは私のかねての夢だったと言って聞き入れなかったという。奇妙な新婚生活を送って一年が過ぎた頃、吉田松陰が鎖国の禁を破って西洋に密航しようとして幕吏に捕縛される事件がおきる。松陰の密航に協力したとして師である佐久間象山は伝馬町の牢に入る。半年後に出獄が許されるが出身藩の松代で蟄居を言い渡され鍵付の駕籠に乗せられて松代へ護送された。お順は姑と妾のお蝶、象山の息子の格二郎を伴ってこの駕籠の後を追ったという。蟄居が解かれるまでの九年間を松代で過ごし、姑の死を見取ったお順は父・小吉亡き後床に伏せっている母に会う為に江戸へ戻る。一方象山は蟄居が解かれると幕命によりすぐさま格二郎を伴って京都へ上る。元治元年に夫の佐久間象山は肥後の人斬り河上彦斎に暗殺されてしまう。お順は象山の一人息子・三浦格二郎(三浦は義母・お順の母の姓を名乗った)に仇討ちするように説得し、兄・海舟の周旋で会津藩士・山本覚馬を通じて新撰組に入隊させるが、親譲りの傲慢な態度で沖田総司に目をつけられ命の危険を感じ脱走し維新後は勝海舟の人脈を通して司法省へ入り松山裁判所に赴任後食中毒で若死にする。お順は勝海舟の屋敷で暮らすが勝の腰巾着のような村上俊五郎と同棲し再婚した。しかし、お順の奔放な性格の為、村上も手に負えずに離婚、また、海舟の屋敷に戻って生活を始める。(村上も粗暴な振る舞いが多く、お順も粗暴で手がつけられないので夫婦喧嘩が絶えず離婚したといわれる。)一説には山岡鉄舟の弟子で剣豪であった村上俊五郎に佐久間象山の敵討ちを頼んだが聞き入れなかったので離婚したとも言われているが定かではない。明治四十年に七十三歳で没したという。
幕末で最も有名な外国人 トーマス・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバーは1838年にスコットランドアバディーンシャイアのイギリス海軍大尉トーマス・ベリー・グラバー(イングランド人)と母・メアリー(スコットランド人)の8人兄弟姉妹の五男として生まれる。1859年に上海のジャーディン・マセソン商会(東インド会社が前身で中国を拠点にした貿易会社)に入社し、長崎の開港後に二十一歳の若さで来日しマセソン商会長崎代理店として活動し二年後に「グラバー商会」を設立する。設立当初はお茶や生糸を中心の貿易業を営んでいたが、文久二年の薩摩藩が起こした生麦事件をきっかけにイギリスが薩摩藩と戦争状態に入った。長崎の外国人居留地も騒然となっていた頃、グラバーのところに長州藩士が来て西洋へ密航したいので手助けをして欲しいと頼まれる。やって来たのは長州藩士・井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、遠藤勤助、山尾庸三、野村弥吉の五人で後の長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれた人たちであった。グラバーは横浜の「英一番館」にあるジャーディン・マセソン商会の協力を得てマセソン商会の蒸気船で五人の密航を成功させる。その後、商取引を通じて知り合った薩摩藩士・五代友厚の依頼で留学生十五人を含む薩摩藩士十九名のロンドン密航を手伝った。坂本龍馬とも親交を持ち、亀山社中を通じて長州藩に最新の武器弾薬を販売、五代友厚を通じて薩摩藩に軍艦六隻を売り、長州、熊本、宇和島など各藩に合計二十四隻の軍艦を売って一躍大貿易商となった。慶応元年、グラバーは上海は博覧会で出品したイギリス製の蒸気機関車アイアン・デューク号を輸入して、大浦海岸に300メートルの線路を敷いて客車三両をつなぎ走らせた。これが日本初の蒸気機関車で新橋から横浜の鉄道開通よりも七年も早かった。また、グラバーは五代友厚の依頼で薩摩藩と共同で小菅にスリップ・ドッグ建設に着手する。(この小菅修船所は長崎を造船の町発祥の地として現代は史跡として保存されている。)建設中の慶応三年頃に長崎へやってきた土佐藩の下級武士・岩崎弥太郎と親しくなり、この縁で三菱財閥と後に密接になる。官軍が勝利し維新がなった頃にグラバーは日本の近代化には良質な石炭が不可欠であると見抜き長崎湾口の高島炭鉱に目をつける。肥前藩との契約で経営権を得たグラバーは明治二年に採掘を始めた。しかし、皮肉なことにグラバーが応援した討幕戦争のつけが廻ってくる。内戦の終結で武器や艦船が売れなくなり、おまけに薩摩藩や長州藩、その他諸藩に売った軍艦や銃器の売掛金の回収が諸藩の財政難で出来なくなって英国領事裁判所に破産を申告して「グラバー商会」は倒産してしまう。しかし、グラバーは明治十四年に岩崎弥太郎の三菱商会が高島炭鉱の経営権を握ると弥太郎から高島砿業所所長に任命され三菱の重役として招かれる。また、岩崎弥太郎に勧めてジャパン・ブルワリ・カンパニーを再建して現代のキリンビールの基礎を作った。その後、長崎から妻・ツルとともに東京へ移住して鹿鳴館の外人名誉書記に選ばれて日本の貴族社会の仲間入りを果たす。(芝山内の邸宅は幕末に密航の手助けをした伊籐俊輔(伊籐博文)の贈呈といわれている。)明治四十一年、七十歳のときに伊籐公爵と井上馨侯爵と尽力で外国人では異例の勲二等旭日重光章を受章した。その後、明治四十四年に麻布富士見町の自邸で慢性腎臓炎の為に死去する。享年七十三歳・・プライベートでは他の居留外人同様に日本女性と関係を持ち、三人の子供を儲けている。二十四歳の時に内縁の妻・広沢園との間に梅吉という男児を儲けるが生後4ヶ月で病死し、次にグラバー商会が隆盛の頃、神戸と大坂に支店を出した時に新政府の外国事務掛として大坂に赴任してきた五代友厚の薦めで北浜の料亭の仲居をしていた談川ツルと結婚し明治元年に長女・ハナを儲ける。その後、グラバー商会倒産の頃に加賀マキという女性に長男・新三郎を設けるが、新三郎が八歳の頃にツルが引き取って我が子同様に育て嫡男とした。新三郎をグラバーはトムと呼び、グラバーのトムを日本名の倉場富三郎と名乗ったという。グラバーは富三郎を三菱の二代目社長の岩崎弥之助の湯島屋敷に預け、学習院で学ばせた後、フィラデルフィアのペンシルバニア大学に留学させる。富三郎は同じ日英混血のワカという女性と結婚して長崎の邸宅などを相続して、トロール漁法を導入したり、学術価値の高い魚類図譜を作製して長崎に寄贈したりして長崎の発展に尽力するが日本が太平洋戦争に突入すると混血として警戒され憲兵や特高に監視される。終戦後には占領軍が長崎に上陸した為、富三郎は戦犯扱いされるのを恐れ洗濯物干しの紐で首を吊って自殺した。享年七十四歳・・・妻・ワカとの間に子供がいなかった為に遺言によってグラバー家は断絶して残った財産はすべて長崎県に寄付された。戦争で富を築いたグラバー家は戦争によってすべてを失った。
2009年01月26日
新撰組・山崎蒸に医術を教えた 松本良順
松本良順は天保三年、下総佐倉藩医師・佐藤泰然(順天堂大学などの順天堂の祖)の次男として江戸麻布の我書坊谷に生まれ、嘉永三年に幕府医師・松本良甫の養子となり松本良順と名乗る。安政四年、幕府の長崎伝習所総督・永井尚志を説得してで長崎伝習生附医師として長崎へ赴任、来日中のオランダ軍医ポンペの助手をしながら近代医学教育と蘭学を習う。(鎖国中の日本ではポンペから直接教えを受けることが禁じられていた為、全国から集まった多くの学生は良順の弟子としてポンペの講義を受けた。)また、近代医学学校の必要性を感じポンペと共に日本初の長崎養生所創設に尽力(現・長崎大学医学部に発展)し養生所完成後はその頭取として丸山遊女の梅毒検査などを行った。文久二年、ポンペ帰国後に良順は江戸へ戻り幕府医師となるが緒方洪庵没後の西洋医学所頭取を引き受けた、当時の医学生は洪庵の自由な学風の為に医学書よりも兵法書を好み読み耽っていた為良順はこれを禁止した。しかし、幕末の動乱期にこの改革は反発者が多く成果が上がらず良順は奥医師に身を投じる。元治元年、将軍の上洛要請と新隊士募集の為に江戸へ下っていた新撰組局長・近藤勇が和泉橋医学所に良順を訪ね「開国と攘夷の是非」を問うたが良順は近藤にわかり易く、今の日本と西洋の力の差を「刀と大砲」と譬え、むやみの攘夷を唱えるより日本の将来の為に開国を是とする。と答え近藤を感服させた。後日、近藤は良順に胃痛の診察を受けて親交を深めたと言う。慶応元年に将軍・家茂の侍医として上洛した時に西本願寺の新撰組屯所に招かれ回診したが、広い建物にゴロゴロ寝ている隊士が多いことに気づき問うたところ、近藤からすべて病人であることを聞く、良順は病室を別に作り看護人を付け、入浴により清潔にしたり、養豚を奨励して豚肉を食べさせ栄養を摂らせるなど具体的な指導を行い改善した。また、新撰組監察の山崎蒸に応急手当の方法などを教えたり沖田総司を料理屋に連れて行き滋養のある物を食べさせた。江戸へ戻った良順は幕府陸海軍医制の編成を行い総取締に就任した。江戸へ帰ってきた新撰組の近藤や斉藤一らの傷病治療を行い、沖田総司の最期を看取ったといわれる。薩長軍が江戸に迫ると弟子数人を率いて会津に向かい会津藩の藩校日新館に野戦病院を作って土方歳三の傷の手当てなど負傷者の治療をした。会津若松城落城後は仙台に行ったが蝦夷地渡航を断念、朝敵として捕らえられ投獄される。その後赦免されると東京に戻って早稲田の病院を設立、明治四年に新政府の山縣有朋の要請を受け兵部省に出仕、軍医頭となって陸軍軍医部を編成した。明治六年に初代軍医総監となり、明治二十三年には勅撰により貴族院議員、三十八年に男爵を授けられる。明治四十年に神奈川県大磯の自宅で逝去、享年七十六歳・・・松本良順は日本国民に健康の為、牛乳の飲用や海水浴の普及に尽力したり、神奈川県大磯に日本初の海水浴場の開発などを行った。
2009年01月23日
偽官軍と処断された赤報隊 相楽総三
相楽総三は天保十年、下総相馬郡出身で高利貸しなどで資産を蓄えて江戸で広大な土地を所有した裕福な郷士・小島兵馬の四男・小島四郎として江戸赤坂に生まれる。四郎は幼い頃から国学や兵学に秀で二十歳の時には門弟を二百人も抱えるほどの私塾を開いた。四郎の傾倒した国学(平田学)は平田篤胤の創始した尊王運動のバイブルのようなもので四郎に多大な影響を与えたという。四郎は安政の大獄や桜田門外の変で衝撃を受け父・兵馬から五千両の金子を引き出して尊王運動の同志集めの為、奥羽方面へ旅に出る。四郎は平田篤胤の故郷久保田(秋田県)に向かい途中、信州の国学者で尊王攘夷派の飯田武郷と親交を深めた。元治元年、二十五歳の時に水戸藩攘夷派天狗党の筑波山挙兵に加わったが思想に相容れぬものがあったため山を降りたと言う。慶応元年、江戸へ戻った四郎を留め置きたい父・兵馬は雲州松江藩の松平家に仕える渡辺某の娘・照という美しい嫁を迎え腰を落ち着かせようとした。しかし、子供(河次郎)が出来た慶応二年に尊王の志を捨てきれず京都へ上り勤皇派の長州藩士と親しくなり薩長同盟の締結で薩摩藩とも親しく付き合うようになり西郷隆盛と親交を持つ。慶応三年、幕府の大政奉還で倒幕の口実が無くなることを恐れた西郷は江戸で騒ぎを起こして幕府を挑発しようと画策し四郎に同志を集めさせて江戸市内を撹乱させるように頼む。四郎は奥州同志集めの旅で出会った落合源一郎や権田直助ら総勢五百名も集まったと言う。四郎はこの頃から一貫して相楽総三と名乗った。この隊は薩摩藩邸浪士隊となり相楽は首領となって江戸市中で放火や強奪を繰り返し追っ手が迫ると薩摩藩邸に逃げ込んだ。江戸の警備を担っていた庄内藩ら四藩が業を煮やして薩摩藩邸に攻撃を仕掛け相楽ら浪士隊は多くの犠牲者を出しながら江戸を逃げ出した。このことを発端に京都で鳥羽・伏見の戦いが始まり西郷ら薩長軍は堂々と倒幕の旗を揚げ幕府を朝敵に仕立て上げた。相楽はこうした汚い仕事を国の未来の為に進んで引き受け、西郷は涙を流して相楽に感謝したという。慶応四年、相楽は西郷と岩倉具視の支援を得て近江国松尾山の金剛輪寺において倒幕の先駆けとなる部隊を結成し盟主に公家から綾小路俊実、滋野井公寿を擁立して相楽は隊長となった。名前は「赤心を持って国恩に報いる」から赤報隊と名づけた。相楽は新政府から「年貢半減」の許可を得て世直しを宣伝しながら信州へと進み旧幕府に苦しめられていた多くの農民の支持を得た。しかし岩倉具視ら新政府側は倒幕軍の軍資金不足を補う為に鴻池や三井組などの豪商から莫大な金を出してもらう代わりに年貢米取り扱いの特権を与えたので「年貢半減」の実施をする気が無く文書などの証拠類は一切残さず新政府による東征軍の準備が整うと魁の役目を終えた赤報隊や高松隊に「偽官軍」の烙印を押し、「年貢半減」は相楽らが勝手に言い回っていることで新政府は知らないと討伐軍を出した。相楽は下諏訪に陣取って旧幕府領へ出立の準備をしていたが親友の落合源一郎や権田直助が江戸探索へ向かう途中、官軍の不穏な動きに心配して下諏訪の相楽に警告しようと訪ねた。しかし、相楽が留守だったので江戸へ向いこれを知った相楽は大垣の東山道軍総督府へ弁明に赴いた。この件は薩摩藩の委任となって下諏訪に戻った相楽は東山道軍先鋒総督が下諏訪に入ると陣屋を引き渡す為に樋橋村に退いた。翌日、続々と下諏訪宿陣屋に東山道軍の部隊が到着し本体が到着したので軍議を開くので出頭するように相楽に命令が届く。部下たちは引き止めたが相楽は大木四郎を伴って出頭、すぐさま捕縛されてしまう。樋橋に残った部下たちも一網打尽に捕縛されて諏訪大社の並木に縄でつながれた。東山道軍が出立した後、薩摩藩兵の命令によって大木四郎、小松三郎、渋谷総司ら幹部たちが宿場外れの田んぼで斬首され、最後に相楽総三が首を落とされた。享年三十歳・・相楽総三が下諏訪で処刑の一報を受けた妻・照は子供(河次郎)を総三の姉に託して後追い自殺したと言う。相楽の首は親友・飯田武郷が夜陰に紛れて盗み出し密かに埋葬された。昭和三年、総三の孫・木村亀太郎の努力により名誉が回復され正三位を贈られて靖国神社に合祀された。
2008年12月27日
国定忠治の遺児 大谷千乗
大谷千乗は弘化元年、名月赤城山で有名な博徒・国定忠治の子として生まれ、幼名は寅次といった。七歳の時に父・忠治が刑死した為、母親は世間をはばかって野州流山千手院満願寺に預けられる。慶応三年、赤報隊の相楽総三たち倒幕の先鋒隊は野州(下野の国・現栃木県)・甲州(現山梨県)・相州(相模の国・現神奈川県)で騒動を起こし幕府軍をこの地に誘導しその間に手薄になった江戸を襲撃する作戦をたてる。相楽たちは満願寺に倒幕の誓文を納めて挙兵したがこの時に千乗は還俗してこれに参加し大谷刑部国次と名乗った。出流山に集結した討幕派の同志(二〜三百人)は栃木・葛生・岩舟と転戦するが敗退、大谷千乗は足利藩、栃木陣屋で戦ったが五十一名の同志とともに捕縛されてしまう。その後、大谷千乗たち五十一名は秋山川原で斬首されてしまう。(これを出流事件と言う。)
2008年11月25日
裏街道を歩む博徒でありながら多くの幕臣と交わった 清水次郎長
清水次郎長は文政三年、駿河国有渡郡清水湊の船持ち船頭・三右衛門の三男二生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主・山本次郎八の養子となった。次郎八のところの長五郎で次郎長と呼ばれるようになったという。天保五年、十五歳の頃百両の金子を持ち出し家出をするが、それを元手に米相場に手を出して大儲けして清水に帰る。天保十年に旅の僧から「お前は二十五歳で死ぬ」と言われ、「それならば太く、短く生きてやれ」と無頼に走ったと言う。二十三歳の時に博打で人を斬り、死んだと勘違いした次郎長は甲田屋を姉夫婦に譲って清水を出奔し、三河の寺津治助にわらじを脱ぎ、喧嘩に明け暮れる。剣術はほとんど独学で習い、居合い抜きでは右に出るものがいないと言うほど上達した。次郎長は愛刀・胴田貫という長刀で幾多の喧嘩を斬り抜けたという。弘化二年、次郎長が二十六歳のときに甲州津向の文吉と駿州和田島の田左衛門の河内の大喧嘩の仲裁で一躍任侠の世界で名を轟かす。槍の使い手で怪力無双の大政や小柄ながら動きの素早い小政、手のつけられない暴れん坊の森の石松、念仏を唱えながら人を斬る法印大五郎など多くの子分が集まった。次郎長、二十八歳の頃に江尻の大熊の妹・お蝶を娶り清水仲町の妙慶寺辺りに世帯を構えるが、安政五年の次郎長が三十九歳の時に甲州の祐天と江尻の大熊と間で争いが起こり、次郎長は祐天の親分の甲州の隠居を斬殺する。子の為、捕吏に追われることになりお蝶と子分を連れて凶状持ちの旅に出る。旅の途中にお蝶が病で倒れ名古屋の長兵衛の家で息を引き取る。その後、かつて親身になって面倒を見た八尾ヶ嶽宗六(久六)という元相撲取りの密告により捕吏に滞在先の長兵衛宅に踏み込まれ次郎長は逃げ切るが長兵衛は捕らわれて獄死する。その後、次郎長は大政、石松を連れて讃岐の金毘羅に詣でて久六討ちの願掛けをした。万延元年、久六討ちの成就に石松を金毘羅に代参させたが、帰りに身請山の鎌太郎からお蝶の香典二十五両を預かる。その金を狙われ都田一家に斬殺されてしまう。文久元年、梅陰禅寺住職・宏田和尚の振舞ったふぐにあたり子分数名が死亡するが、この件を利用して石松の敵討ちを計画、次郎長一家全員がふぐに当たって動けないという噂を振りまいて都田一家を誘き寄せ、酒亭駕籠屋に泊まっていた都田吉兵衛達九名を殺害して敵を打つ。慶応二年、穴太徳に縄張りを奪われた伊勢の神戸の長吉は吉良の仁吉に救援を求めた。次郎長は子分二十二人を引連れ仁吉に加勢するが、荒神山にて穴太徳と黒駒勝蔵ら百二十名と戦い仁吉と法印大五郎が命を落とす。これに怒った次郎長は子分四百八十名を増員し鉄砲40丁と長槍百七十本を持ち込み大喧嘩を仕掛ける。恐れをなした穴太徳は和議を申し込んだため、手打ちとなった。これにより清水の次郎長の名は全国に轟いたという。慶応四年、官軍が江戸へ向けての進軍が始まると次郎長は東征府判事の伏谷如水から街道警固役を任命され、これまでの罪を免除されて帯刀を許された。慶応八年、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖を脱走した艦隊のうち咸臨丸が暴風雨により破船し、修理のために清水湊に停泊したが、新政府軍に発見され交戦状態になった。清水港には無数の屍が漂っていた。次郎長はこの屍を小船を出して拾い集めて手厚く供養して葬ったたために駿府藩から出頭命令を受け詰問された。次郎長は「死ねば仏、仏に官軍も賊軍もあるものか。仏を埋葬することが悪いというならこの次郎長どんな罰でもお受けする。」と言い放ち、このことで次郎長は清水の人々から尊敬を受けたという。維新後、静岡大参事となった旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)は一介の博徒でありながら官軍、幕軍と隔てなく大局に立った態度に感銘を受けて次郎長との親交を深めたという。維新後、山岡や榎本武揚の知遇を受けた次郎長は博打を止め、清水港の発展と静岡茶の販路拡大のために蒸気船が入港できるように外港の整備を訴え、自らも蒸気船を持って横浜との定期航路線を営業し「静隆社」を立ち上げた。また、清水市有度山の開発や三保の新田開拓、巴川の架橋工事など地元事業のほか、遠州相良で油田開発に携わったり、県令・大迫貞清の勧めで静岡刑務所の囚人を督励して山岡鉄舟のアドバイスで富士の裾野の富士市大渕の開墾事業を始めた。この開墾には次郎長自ら鍬を振るい、次郎長を慕って集まった以前の子分たちとともに汗を流したという。また、開墾の傍ら山岡鉄舟から「これからは外交の時代、英語ぐらい話せないといけないなあ」との話を聞くと、清水に英語教師を招いて若者に英語教育をはじめた。明治十七年、博徒の一斉刈り込みに会い一時、静岡井之宮監獄に収監されるがすぐに放免され向島の波止場で汽船宿「末廣」を営みながら余生を送る。また、同じ博徒の新門辰五郎の紹介で最後の将軍・慶喜とも親交を持ち、慶喜が二十一人の側室に生ませた子供たちを連れて清水港で釣りを楽しんだ折「末廣」に立ち寄ったとの記録や写真が残されている。明治二十六年、次郎長は風邪をこじらせ享年七十四歳で死去する。葬儀は梅陰寺で行われ全国から三千人の参列者が押し寄せ山門から一キロ以上の行列ができたという。幕末の風雲急を告げる頃、次郎長の武勇伝を伝え聞いた京都の公家が用心棒に登用したいとの申し出をきっぱりと断った次郎長に対し終生のライバル・黒駒勝蔵は公家の申し出を受けて「池田勝馬」と改名して官軍・赤報隊として戊辰戦争に参戦、維新がなった後、用無しとして過去の悪事を理由に斬首された。幕末の動乱を契機に清水次郎長と黒駒勝蔵、二人の博徒の生き様が大きく変わった。
2008年11月22日
美人がゆえに人生を翻弄された女医 楠本いね
楠本いねは文政三年、オランダ東インド会社の商館医のドイツ人フィリップ・シーボルトと楠本瀧との間に生まれた。一説によるとシーボルトが来日早々、長崎奉行所の計らいで出島の外の蘭学医・楢林家に出張し日本人の診察、治療を行った。そこへ今小町と噂されるほどの美人が診察を受けに来てシーボルトと恋に落ちたという。その美人は薩摩藩御用達の服部という商家に小間使いとして働いていた十七歳の楠本瀧である。瀧とシーボルトは日本人の一般女性は出島に入れないので、丸山の遊郭「引田屋」の引田卯太郎に相談し遊女「其扇」(そのぎ)という名義を借りて出島に入り、シーボルトと暮らした。イネが生まれて二年後にシーボルト事件で日本を永久追放されてしまう。(シーボルトが5年間の任期を終え一旦帰国する際、乗った船が台風で座礁し持ち出し禁止の地図や葵の紋入りの着物などが見つかり取調べを受けた)シーボルトは残された瀧とイネを思い、弟子の二宮啓作らに二人を託し十分な生活費を置いて旅立った。しばらくの間、瀧とは文通で思いを伝え合ったが、瀧の美しさに結婚の申し込みが後を絶たず、とうとう二十五歳の時に海漕業者の俵屋時次郎と再婚した。やがて、シーボルトの血を引くイネは背の高い美しい娘に育ち、伊予宇和島の二宮啓作の下で外科などを習ったが「産科医」になりたいとの志を持って十九歳のときに岡山の石井宗謙を紹介される。七年間、石井の下で産科医の修業を行った。しかし、師の石井はイネを強姦し妊娠させてしまう。イネは産科医を目指す者として堕胎を嫌い、長崎に帰って一人で出産を決意する。二十五歳で女の子を出産したイネはこの子に「ただ」と名付けた。(後に高子と改名する。ただは思いもよらないかたちで天からただで授かった子供という意味らしい)未婚の母となったイネは長崎で医学の修行を続けていたが、二十九歳のときに二宮啓作と再会した。二宮は自分が紹介した石井宗謙とのいきさつを聞き、深く後悔してイネを宇和島へ連れ帰る決意をする。イネは高子を長崎の母・瀧に預け宇和島で産科と外科の修行を重ねる一方で長州藩から逃れてきた医師・村田蔵六(後の大村益次郎)にオランダ語を習い惹かれあったという。二宮が体を壊した為、三十一歳になったイネは二宮と二宮の甥の三瀬周三とともに長崎へ帰郷し開業する。安政五年、日蘭修好通商条約締結を契機にシーボルトの追放が解け長崎で瀧とイネ、高子の三人はシーボルトと感激の再開をする。シーボルトはイネに最新の西洋医学を教え、オランダ海軍軍医による医学伝習に参加できるように取り計らう。イネは医者としての評判を上げ伊予宇和島藩主婦人の診察依頼を受け、毎年宇和島に出向いて診察を行った。また、二宮啓作の世話で娘の高子も宇和島藩の奥女中といて奉公し、イネも度々宇和島に呼ばれて藩主・伊達宗城の厚遇を受けた。この頃、二宮の甥の三瀬周三は二宮の推薦でシーボルトの通訳兼イネの異母弟・アレキサンダーの家庭教師をしていたが、公儀の役人を差し置いて通訳したことや医者でありながら宇和島藩士を名乗ったことを咎められ投獄される。イネは宇和島藩主・伊達宗城に働きかけ釈放されるのを機に娘の高子と結婚させる。周三と高子は大坂で医学学校設立に尽力した。ちょうどその時、京都で大村益次郎(村田蔵六)が襲撃され重傷を負って大坂の三瀬周三の治療を受ける。イネはすぐに駆けつけ大村の看病に努めたが最期を看取った。また、偉大な父・シーボルトが息子二人をおいて帰国し、その年には師である二宮啓作が中風のため死去する。母・瀧も子宮ガンを患い死去すると、異母弟のアレキサンダーとハインリッヒ、二人の兄弟の援助で東京の築地に産科医院を開業し、福沢諭吉の妻との縁で宮内庁御用を拝命する。明治天皇の権典侍葉室光子の出産を扱った。また、娘の高子は夫の周三が胃腸カタルで先立たれると東京に出て異母兄・石井信義に産婦人科を学ぶ。しかし、その美貌がゆえに同僚の医師・片桐重明と情を通じ懐妊し、医道を断念する。怒った師匠の石井信義は弟子の山脇泰助と再婚させる。(片桐との子はイネが養子として引き取る。)明治八年、医術開業試験制度が始まり、女性であったイネは受験資格が与えられなかっった為、東京の医院を閉鎖して長崎へ帰る。その後、女性の開業も認められるが、時代はイネのオランダ医学からドイツ医学へと移り五十七歳になっていたイネは医学を諦めて産婆として再出発する。六十一歳のときに異母弟・ハインリッヒが東京の麻布に洋館を建てた為、長崎の助産所を閉鎖してそこへまたも未亡人となり三人の子供を抱え途方に暮れていた高子とともに移り住む。そして再度、宮中よりお呼びがかかり狸穴に移った。明治三十六年、七十七歳になったイネは生涯独身を通して亡くなった。死因はウナギと西瓜を食べた食あたりという。お瀧、イネ、高子(タダ)と三代続いた美人の人生は決して幸福だったとはいえなかった。余談だが「宇宙戦艦ヤマト」など数々の名作を生んだ松本零士先生の先祖が三瀬周三の同僚で高子とあったがその清楚な美貌が印象に残り、子や孫に話をし無意識のうちに現代の松本先生の作品の女性を描く時のモデルになったといわれている。下の写真は娘・高子
2008年11月02日
仙台藩の衝撃隊鴉組 細谷十太夫直英
細谷十太夫直英は天保十一年、仙台藩の禄高五十石の仙台藩大番組士・細谷十吉直高の子として生まれた。三歳で父と死別、七歳で母を亡くし、祖父の三十郎に育てられる。しかし、祖父は孫の養育にまったく関心が無く十六歳で元服し家督相続するまで、塩釜の注連寺の寺小姓として過ごす。性格は豪胆にして直情型であらゆる武器・兵器に精通していたという。その後、作事方や普請方役人となり、元治元年には御所御警備兵として上京、下立売御門の警備に当たった。翌年の正月、四条通りの芝居小屋で「先代萩」が上演され大評判と聞き、「史実と異なり仙台藩伊達家の名誉を傷つけた」と押しかけ小屋をめちゃくちゃに破壊し取り締まりに来た藤堂藩士と衝突、所司代に引き渡され御番明けとして国許へ返される。戊辰戦争が始まる、慶応三年に近隣諸藩の状況把握が緊要であると進言し、山形や米沢の様子を観察し報告した。これにより十太夫は軍事方探偵周旋方に任ぜられ、福島県を調査して帰藩したが、この過程で地元の博徒や目明し達と顔見知りとなった。その後、会津討伐が始まり総督府下参謀の世良修蔵殺害がきっかけとなり、奥羽越列藩同盟が結ばれた為、十太夫の偵察範囲が奥羽から江戸へ変わった。江戸へ向う途中の二本松で仙台藩と会津藩が共同で守る白河城が新政府軍に落とされたと聞き、郡山の本陣に軍監・瀬上主膳を訪ねたが、敗戦で打ちひしがれた仙台藩兵を見てショックを受ける。武士に失望した十太夫は本陣近くの蕎麦屋で掛田の善兵衛と桑折の和三郎という顔見知りの博徒と出合、二人を引き連れ須賀川に向った。途中で三人の無頼の徒を加え、須賀川の妓楼柏木屋を貸切「仙台藩細谷十太夫本陣」と書いた紙を貼って兵員を募集し五十七名が集まった。これを衝撃隊として、はじめは変装して情報収集や偵察活動をしていたが、やがてゲリラ活動を主体として活動する。隊員の服装はは少数で戦果を上げる為の夜襲を想定して黒の筒袖小袴、紺の股引脚絆に鉢巻とした。この黒ずくめの服装が衝撃隊=鴉組として敵兵に恐れられ。衝撃隊は矢吹沢まで進み、ここの博徒頭・渡辺武兵衛とその手下十二名を加え、武藤鬼一、新妻新兵衛、蓬田仁蔵、笠原安治らがそれぞれ小隊長として再編成し進軍する。小田川駅周辺で大垣藩斥候と遭遇戦、太田川駅では薩摩、長州、大垣の三藩の斥候と戦火を交えた。地元の猟師を案内に立て地の利を生かした攻撃に敵兵は震え上がったという。白河城奪還を期して仙台、会津、二本松の三藩合同攻撃には根田和山から千台藩の先鋒として出陣したが戦果が上がらず初めて戦死者五名を出した。この頃から新政府軍の中で「細谷カラスと十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」(十六ささげとは棚倉藩脱藩兵十六名で結成された精神隊のこと)という俗謡が流行ったといわれる。しかし、衝撃隊が数々の戦功を上げるに従い夜襲のみの戦いに固執することが許されなくなった。その後の転戦先でも命知らずの博徒を味方に付けよく戦ったが、三春、守山藩など脱盟する藩が相次ぎ白河城奪還を断念、二本松まで後退したがここも落城する。仙台藩も旗巻の戦いを最後に降伏、衝撃隊は藩命により仙台に引き上げ王城寺村に屯所を置いた。しかし、隊員は皆元無頼の徒であった為敗戦後は目的を失い統率が取れなくなった。明治二年、佐幕派狩りが厳しくなり十太夫は知り合いの商人に事情を話し大枚千両を借り受け、主だった隊長を料理茶屋に集め、この金子を手渡し解散を言い渡した。その後、十太夫は西南戦争に陸軍少尉として参戦、日清戦争にも軍夫千人長として従軍した。後年は林子平の墓所がある仙台市の伊勢堂下龍雲院住職となり「鴉仙」と名乗った。十太夫は荒れ果てた龍雲寺の再興に尽力するが果たせぬまま明治四十年に亡くなった。享年六十七歳・・・十太夫の死後、意志を受け継いだ三男・小杉辰蔵が復興を成し遂げたという。
2008年10月27日
徳川慶喜の信任を得た侠客 新門辰五郎
新門辰五郎は寛政十二年、武蔵国江戸下谷に煙管職人・中村金八の子・中村金太郎として生まれる。幼い頃、父が留守中に弟子の火の不始末で火事を起こしてしまい。父は「世間に申し訳がない」といて火の中に飛び込み自害する。金太郎は十六歳の時、火事が親の仇と思い火事を憎み当時「浅草十番組を組」の頭だった町田仁右衛門の弟子になり、仁右衛門の亡き息子の名を貰い町田辰五郎と名乗ることになる。辰五郎は文政四年、花川戸の火事で「を組」を率いて一番に駆けつけ纏を振ったが遅れてきた筑後藩の大名火消と大喧嘩になり大勢の死傷者を出した。辰五郎は責任を感じ、単身で将監屋敷に乗り込んで入牢、江戸十里外追放の上、佃島人足寄場へと送られる。しかし、江戸本郷円山で起こった火事は佃島にまで燃え広がった為、辰五郎は囚人達を指揮し消防、防火に活躍し、この働きによって赦免されたという。このことが江戸中の評判となり名を上げ文政七年、仁右衛門の娘と結婚し「を」組の頭を継ぎ、命知らずの子分三千人の頂点に立つ。辰五郎は浅草寺、伝法院の新しい通用門の番人を任され新門の辰五郎と名乗る。辰五郎は上野大慈院別当覚王院義観の仲介で一橋慶喜(後に徳川家を継ぐ)の知遇を得ることになり辰五郎の娘・芳は慶喜の妾になった。元治元年、慶喜は禁裏御守衛総督に任命され上洛すると辰五郎を呼び寄せ、子分二百人を引き連れ京都二条城の警備を任せられる。また、将軍となった慶喜が鳥羽伏見の戦いの後、大阪城から船で江戸へと逃げ帰った時にあわてて、家康以来の大金扇の馬印を忘れてきてしまった。辰五郎は決死の覚悟でこれを取りに戻り、敵軍勢を突破して無事陸路で江戸まで持ち帰る大活躍をした。慶喜が上野寛永寺に謹慎した時は寺の警備、上野戦争の時には伽藍の防火など江戸の町の為に一身をなげうっての働きをし、慶喜が水戸へ謹慎を命じられると辰五郎は二万両の御用金を護衛して運んだ。そして、勝海舟の依頼により、もしも西郷隆盛との江戸無血開城の会談が決裂した時は江戸中に火を放ち新政府軍と一戦交える覚悟を決めたという。江戸城が無血開城すると辰五郎は水戸に謹慎中の慶喜を静岡まで護衛し、慶喜の勧めでしばらく静岡に住んだが、慶喜の警固を清水の次郎長に託し、東京と改名した江戸へと戻った。明治八年、最後まで幕府に義理を通した火消の大親分「新門辰五郎」は浅草の自宅で七十五歳の生涯を閉じた。辞世の句は「思いおく まぐろの刺身 ふくの汁 ふっくりぼぼ(女性器のこと)に どぶろくの味」侠客の大親分らしく豪快な句で人生を締め括った。
2008年09月18日
女子教育の先駆者 津田梅子
津田梅子は元治元年に江戸牛込の御徒町に父・津田仙と母・津田初子の次女むめとして生まれた(後梅子と改名)。父・仙は下総佐倉藩の家臣小島氏の出身で幕臣であった津田家へ婿養子となった。父・仙は幕府崩壊とともに職を失い明治二年に築地のホテルへ勤める。仙は明治四年、北海道開拓使の嘱託となり、津田一家は向島へ移り住む。北海道開拓使次官の黒田清隆が日本の女子教育に関心を持ち、アメリカへ日本女子を留学させることになり、仙は梅子を応募させた。留学生には吉益亮子15歳・上田悌子15歳・山川捨松12歳・永井繁子9歳・津田梅子8歳の五人が明治四年の岩倉使節団に随行して渡米、サンフランシスコを経由してワシントンに到着。ジョージタウンで日本弁務官書記のチャールズ・ランメン家に預けられる。森有礼の世話でワシントンに移るが吉益と上田の二名がアメリカ生活に馴染めず体調を崩して帰国してしまう。梅子は再びランメン家に預けられ十年余りを過ごす事になる。英語やピアノを学び日本への手紙も英語で送るようになる。1873年特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。1873年、アーチャー・インスティチュートへ進学、ラテン語・フランス語など語学や英文学のほか自然科学や心理学を学んだ。1881年に開拓使から帰国命令が出て永井繁子は帰国するが山川捨松と梅子は延長を申請し翌年に二人で帰国した。
帰国後、封建的な考え方が残る日本で働ける場がなく山川捨松と永井繁子は軍人に嫁した。1883年、外務卿井上馨邸で開かれた夜会に招待され伊藤博文と再会、華族子女を対象とした教育を行う私塾・桃夭女塾を開いていた下田歌子を紹介される。梅子は永い留学生活のため衰えていた日本語を下田歌子に学びながら桃夭女塾で英語教師として通う。この頃、父・仙との確執から家を出て伊藤博文邸に滞在して伊藤の妻や娘に英語の家庭教師教をした。1885年、伊藤の推薦で学習院女学部から独立して設立されたばかりの華族女学校で英語教師として教鞭をとる。3年あまり勤めるが上流階級的気風に馴染めず1885年に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し彼女の勧めで再留学を決意する。校長の西村茂樹から2年間の留学を許可され渡米する。フィアデルフィアの大学で生物学を専攻し「蛙の発生に関する論文」を執筆、渡米中アリス・ベーコンの執筆の手伝いをするうち女子教育の必要性を痛感し一年間の留学延長を申請し日本女性留学の為の奨学基金を設立、公演や募金活動をする。1892年、帰国し復職するが1899年の私立学校令が公布され女子教育の機運が高まると退職し父・仙やアリス・ベーコン、親友大山捨松(旧姓山川)、瓜生繁子(旧姓永井)らの協力を得て「女子英学塾」(現津田塾大学)設立。華族平民の別なくレベルの高い教育を目指した。純粋で偏りのない教育をするため大きな団体や国家の援助を極力断ったため経営が苦しく心労がたたったのか経営の基礎が固まった1919年体調を崩し後事を親友大山捨松に託し塾長を辞任、鎌倉で永い闘病生活に入り六十四歳で死去。生涯独身を通したため津田塾大学構内の墓所に参ると結婚できないという迷信が今も残る。
帰国後、封建的な考え方が残る日本で働ける場がなく山川捨松と永井繁子は軍人に嫁した。1883年、外務卿井上馨邸で開かれた夜会に招待され伊藤博文と再会、華族子女を対象とした教育を行う私塾・桃夭女塾を開いていた下田歌子を紹介される。梅子は永い留学生活のため衰えていた日本語を下田歌子に学びながら桃夭女塾で英語教師として通う。この頃、父・仙との確執から家を出て伊藤博文邸に滞在して伊藤の妻や娘に英語の家庭教師教をした。1885年、伊藤の推薦で学習院女学部から独立して設立されたばかりの華族女学校で英語教師として教鞭をとる。3年あまり勤めるが上流階級的気風に馴染めず1885年に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し彼女の勧めで再留学を決意する。校長の西村茂樹から2年間の留学を許可され渡米する。フィアデルフィアの大学で生物学を専攻し「蛙の発生に関する論文」を執筆、渡米中アリス・ベーコンの執筆の手伝いをするうち女子教育の必要性を痛感し一年間の留学延長を申請し日本女性留学の為の奨学基金を設立、公演や募金活動をする。1892年、帰国し復職するが1899年の私立学校令が公布され女子教育の機運が高まると退職し父・仙やアリス・ベーコン、親友大山捨松(旧姓山川)、瓜生繁子(旧姓永井)らの協力を得て「女子英学塾」(現津田塾大学)設立。華族平民の別なくレベルの高い教育を目指した。純粋で偏りのない教育をするため大きな団体や国家の援助を極力断ったため経営が苦しく心労がたたったのか経営の基礎が固まった1919年体調を崩し後事を親友大山捨松に託し塾長を辞任、鎌倉で永い闘病生活に入り六十四歳で死去。生涯独身を通したため津田塾大学構内の墓所に参ると結婚できないという迷信が今も残る。
2008年04月28日
日本を知り尽くした英国人 アーネスト・サトウ
アーネスト・サトウは天保十四年にスウェーデン人貿易商ハンス・ダビッド・クリストファーの四男として、イギリス・ロンドンクラプトンに生まれる。小さい頃から聡明で十四歳の時、兄が図書館から借りてきた「支那日本訪問見聞録」をよんで東洋にたくさんの文明国があることに感動し、外交官を志す。学業に励み飛び級でユニバーシティカレッジを卒業するや、外務省の通訳生採用試験に合格し、日本語通訳生に任命される。はじめは通訳見習いとして、清国に赴任し、文久二年に念願の英国日本語通訳生として横浜に到着したのが、十九歳のときであった。サトウが来日して間もなく、横浜で「生麦事件」が発生し、薩英戦争に発展していった。サトウはこの戦争にも立ち会ったらしい。慶応元年に兵庫沖の薩摩藩汽船胡蝶丸に乗り込み、はじめて西郷隆盛と面談、「お互いに友情と尊敬の念を抱き」と後日サトウは語っているように、サトウは薩摩藩に好意的に見ていた。慶応三年、サトウは将軍徳川慶喜に謁見する総領事パークスの通訳として大阪を訪問、兵庫開港の確約をもらい、イギリス公使パークスと徳川幕府が親密になっていることを懸念し、革命の早期実現を西郷に提案している。この時期、サトウは西郷や小松帯刀にかなり肩入れしているのが伺える。しかし西郷は「革命は日本人自身の手で行なう」とイギリスの協力をキッパリと断っている。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の時には西郷や勝海舟とは連絡を取っていない。この間にサトウは日本語書記官に昇進、函館戦争が終わる頃は休暇をとってイギリスへ帰国、明治二年に再赴任し東京で生活をする。サトウは日本名を佐藤愛之助と名乗り武田兼との間に子供をもうける。明治十年、西南戦争で西郷は自決した頃、シャム、モロッコなどの公使を経て明治二十八年に日本に帰り駐日公使に就任し、日清戦争、日露戦争を経験後の明治三十九年引退する。昭和四年に八十六歳で生涯を閉じる。
2008年03月11日
赤報隊を結成し国恩に報ぜんとした草莽の志士 相楽総三
相楽総三は本名を小島四郎左衛門将満といい、通称四郎、天保十年に江戸赤坂の檜町で生まれた。小島家はもと下総国相馬郡藤代町あたりの豪農で、父の兵馬は江戸に移り住んで広大な土地を所有し、旗本への金貸しを生業としていた。したがって総三はこの裕福な家庭で育って、幼少の頃から和歌に馴染み国学と兵学をおさめ、屋敷内で私塾を開講し、二十歳の時には門人が百人を超えていた。文久元年、二十三歳のなったとき総三は、突如この私塾を閉じて東国各地を巡遊した。父から大金を引き出し各地で同志を糾合し尊王攘夷の思想を普及させた。総三は平田篤胤国学の影響を受け、草莽の志士となっていった。慷慨組の赤城山挙兵や水戸藩天狗党の筑波山挙兵に加わるが、いずれも思想的に相容れず、伝を求めて土佐藩の板垣退助を頼り、西郷隆盛や大久保利通とよしみを通じた。慶応三年、江戸芝三田の薩摩藩上屋敷に入った総三は諸国巡遊中に知り合った各地の同志を呼び寄せ、毎夜江戸市中へ出かけては浪人や無頼の徒をかき集めた。その年の末ごろには5百人に達し、総三はこの薩摩藩浪士隊の総裁になった。浪士隊は江戸市中やその付近で騒ぎを起し、幕府を挑発することに当たった。これは西郷隆盛と岩倉具視の謀略であった。ことは成功し幕府が薩摩藩邸を襲撃、鳥羽伏見の戦いへと発展していった。総三は京都へ逃れ、慶応三年新たに西郷から東征軍の先鋒として幕府方諸藩民衆を宣撫工作の命令を受ける。総三は任務を遂行する為新しく赤報隊を結成する。総三は赤報隊を三大隊に分け、自ら一番隊長となり、二番隊長を元新撰組で伊東甲子太郎の弟、鈴木三樹三郎、三番隊長は水口藩士の油川錬三郎、総裁に公卿の綾小路俊実と滋野井公寿を推薦した。ちなみに総三は京都の薩摩本陣で西郷から赤報隊結成の為に金子百両と小銃百挺を貰っている。東山道へ向かう東征軍の先鋒として出発の前に新政府に赤報隊を正式に官軍として認めて欲しいという嘆願書を提出、これによって総三の赤報隊は正式に官軍として認められ、総三の建白書に基づき幕領すべての租税半減も認めさせた。相楽総三の任務は東山道を行く鎮撫総督軍の先鋒として沿道各村々の状況探索と勤皇誘引をすることにあった。赤報隊は岩手藩の領地を没収して領民に年貢半減を布告し、加納でも年貢半減の布告して領民たちに天朝の御仁徳を宣撫したので、道中の関が原や大垣からも数多く赤報隊に加入し、その行動はさながら世直し的色彩を帯びてきた。公卿滋野井隊が長島藩に三百両の献金を強要し、赤報隊を名乗る強盗が富豪の邸宅を襲って悪評が立った。新政府軍が東征の為の軍を進めるため、三井家より三百両を借り受け、その返済金を計算すると赤報隊が布告した年貢半減では算出できなくなる。この矛盾に立たされた、新政府副総裁議定の岩倉具視は東山道進軍中の赤報隊をスケープゴートに選び、帰還を命じた。綾小路率いる二番隊と三番隊は京都に引き返したが相楽総三率いる一番隊は命令を拒んでそのまま進軍した。総三率いる一番隊は冤罪と正当性を東海道鎮撫総督府へ書簡を送り訴えた。しかし下諏訪へ進軍してきた東山道鎮撫総督府から軍議に招かれ本陣に入ったところ待ち伏せを受け捕縛される。身に一点のやましいところのない総三は解って貰えると信じ抵抗せずにいたが、町尻の刑場で処刑される。総三はつぎつぎと首を刎ねられる同志たちを見届けたあと、自分の番が来ると、皇居の方角を遥拝し、白刃一閃、三十歳の生涯を終えた。処刑から半年ほどたってから総三の家族へ血と泥のついた遺髪が届けられ、これを見た妻の照子は、遺髪を仏壇へ供えて合唱したあと自害して果てた。この六十年後の昭和三年に朝廷より正五位に叙せられ、冤罪が晴れた。相楽総三や、それに協力した博徒・黒駒勝蔵などは岩倉具視の策略で現代まで悪役として、語り継がれてきたが、その人物像は見直されてきている。