2011年01月21日
最期に夫に愛想をつかした良妻 勝民子
勝民子は勝海舟(勝隣太郎)の妻で生年不詳、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘で深川の人気芸者だったが二十五歳のときに二歳年下で二十三歳の勝海舟(麟太郎)と結婚したといわれている。当時、勝海舟が住んでいた本所入江の地主で旗本・岡野孫一郎の養女となって輿入れした。(海舟の父・小吉とは深い付き合いで実家の男谷家を出て転居を繰り返したうちの最も永く住んだのが岡野家の敷地だった。)勝家は当時、小普請組の四十一石取り無役小身の旗本で三畳一間の極貧生活を余儀なくされたが民子は不満1つ言わずに蘭学の本を読みふける夫を支えた(冬の寒い日には天井板を剥がして燃やし暖をとり家の中でも空が見えたという暮らしだった。)夫婦は中睦ましく結婚翌年の弘化三年には長女・夢子が生まれ、その後次女の逸子、嘉永五年には長男の小鹿が生まれ麟太郎・民子夫婦は二男二女をもうけ幸せな生活を送ったと晩年に語った。この頃には海舟は蘭学の私塾を開いていたがペリーの黒船が来航して幕府はその対応に苦心していた。海舟(麟太郎)は幕府に海防の意見書を提出し老中・阿部正弘に認められ安政二年に長崎海軍伝習所を創設して海事研究を始め二年後には伝習所教授に就任した。海舟(麟太郎)はこの地で「おひさ」(おくま)という十四歳の未亡人を妾にし男の子を生ませたという。その後、貧乏生活から脱した麟太郎は糸の切れた凧のように各地で妾を作り維新後には自宅にも二人の妾(女中の増田糸と小西かね)と同居して本妻の民子に苦労を掛けたという。また、梅屋敷別邸に森田栄子、長崎の西坂に前述の「おひさ」(梶玖磨)を囲った。正妻の民子は自分の子、二男二女と妾たちの子、二男三女の九人の子供たちを分け隔てなく育て上げ愛妾達から「おたみさま」と慕われたという。だが嫡男の小鹿が四十歳で急逝し小鹿の長女・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし){当時十一歳}を迎えて勝家を相続させが伊代子が早逝すると実父・徳川慶喜同様に女と趣味に情熱を燃やし写真やビリヤード、当時発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビットソン)に熱をいれ屋敷内にオートバイ専用鉄工所を設けて国産大型オートバイ「ジャイアント号」を完成させた(後にこのメンバーが目黒製作所を作り川崎重工の吸収によってカワサキのオートバイへと発展していった)妻の伊代子亡き後は女中の水野まさという人を妾にしていたがその愛人と服毒心中した。話を元に戻すが海舟は嫡男・小鹿の死や嫡孫に当たる精(くわし)の非行などの心労によって明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となり富士の見える所の土になりたいとの遺言により別邸千束軒のあった洗足池公園に葬られた。その六年後の明治三十八年に民子は亡くなるのだが最後に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残し青山墓地に葬られたが後に嫡孫・精の独断で洗足池の勝海舟の墓のとなりに改葬され現代にいたる。余談だが前述の長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男・梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)は明治政府の依頼で日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしたがその娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し一男五女を儲けたが後に離婚してアメリカに帰国した。
2010年11月16日
土佐の高知のはりまや橋で♪♪ 修行僧純信とお馬
晩年のお馬さん
(高知グランドホテル蔵)
よさこい節でお馴染みの♪土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た♪で有名な坊さんとは様々な説がありますが五台山竹林寺の修行僧で慶全という坊さんが寺のふもとで洗濯業をしていた母親の手伝いで寺に洗濯物を届けにきていたお馬という髪の毛の赤みかかった頗る美人の女の子(当時十七歳)に一目惚れをしたという。(お馬の父親は鋳掛屋をしていた)若い二人は恋仲となったが修行僧を厳しく指導する立場にいた竹林寺南の坊の純信という僧に諌められる。お馬は次第に若い慶全よりも当時三十七歳の純信に惹かれていった。純信も二十歳も年下の美しい女性に溺れて三角関係になってしまった。慶全はお馬の心が純信に向いていると焦り彼女の心を繋ぎとめる為にかんざしを贈る。安政元年の頃で安政の大地震で土佐でも大きな被害が出て復旧作業でみんなが忙しく動き回っていた次期にお坊さんがはりまや橋南詰にあった「橘屋」という小間物屋でかんざしを買ったという噂が高知中に広まったという。純信はこれ幸いと慶全を竹林寺から追放し三角関係にけりをつけた。しかしこれを恨んだ全慶は「じつわかんざしを買ったのは純信だ」と噂をばら撒いた。このことが土佐藩の耳に入り純信は破戒僧として取調を受けるが実際に純信はお馬と関係を持っていたのは周知の事実なので言い訳も出来ず謹慎処分となりお馬も寺への出入りを禁じられた。安政二年、どうしてもお馬を忘れられない純信は深夜にお馬を連れて駆け落ちをする。(京都を目指したとも高松の知人を頼ったとも云われている定かではない)僧侶に変装したお馬と共に北山の関所を抜けて讃岐の国琴平まで行き高知屋という旅籠に宿泊中土佐藩が差し向けた追手に捕まり連れ戻される。純信は拷問を受けた後、高知城下三箇所で面縛(さらし者にされること)3日間と藩外追放となりお馬は面縛3日間と安芸川以東に追放となった。(つながれさらし者になった美しいお馬さんを一目見ようと黒山の人盛りになった伝えられている。)純信は伊予国の川之江の塩屋の三軒家・川村亀吉(土佐出身の人)の世話で井川家の寺子屋で教鞭をとった。一方お馬は安田村神峯登り口の旅籠「坂本屋」で奉公することになったが純信がお馬の肌恋しさに行商に変装して国境を越えて会いに来た。お馬を伊予に連れ帰ろうとしたがお馬は拒絶したとも役人に見つかったとも云われ純信は再度国外追放となりお馬もまた高岡郡須崎の庄屋へお預けとなる。その後お馬は庄屋の勧めで土地の大工・寺崎米之助と結婚し二男二女を設けて幸せに暮らしたという。一方、純信のほうはまだお馬に未練があったらしく川村亀吉宅を訪れた河田小龍にお馬への手紙を託した。だが小龍はお馬の幸せそうな家庭を見て手紙を渡さず自分の家の障子に張ったという。純信は亀吉亡き後消息が分からなくなったが後に郷土家の調査で中田与吉と名を変えて結婚、一男一女を設けて愛媛県美川村で慶翁徳念和尚として明治二十一年に生涯を終えたという享年六十九歳、お馬の方は長男徳太郎が家業の大工を継いで上京し陸軍御用大工となったのを機に一家で東京へ移住し明治三十六年に六十六歳の幸せな生涯を閉じたという。いつの時代も男のほうがいつまでも別れた彼女に未練を残し女のほうは別れた男を綺麗さっぱり忘れて次の幸せを探す生き物である。・・・
2010年07月10日
龍馬が愛した可愛い姪 坂本春猪
坂本春猪は天保十四年、坂本龍馬の長兄・権平(龍馬伝では杉本哲太)とその妻・千野(龍馬伝では島崎和歌子)の娘として生まれる。龍馬は叔父にあたるが八歳しか歳が離れておらず妹のように接してした。(龍馬伝では春猪役にAKB48の前田敦子)現在確認できる手紙は二通残っているがどれも龍馬が春猪を茶化すような文面で尚且つ愛情のこもった手紙になっている。手紙の内容は面白く春猪の顔のあばたを金平糖の鋳型のようだといったり、長崎から西洋のおしろいを贈る約束をしたり、また春猪がかんざしをねだったりと仲の良い兄妹のようだった。文久三年、春猪は土佐藩家老山内下総の家来・鎌田実清の次男・清次郎を婿養子に迎える。その後、元治元年に長女・鶴井を慶応元年に次女・兎美を生んだが夫・清次郎は脱藩して長崎の龍馬の元へ走り海援隊に入隊する。しかし、清次郎は使い物にならず龍馬は姉・乙女に「何も思惑のなき人」と低評価の手紙を出し土佐へ帰るように説得する。明治三年に土佐に戻った清次郎は脱藩罪で禁足となるが直ぐ赦免され坂本家を離れ実兄が亡くなった為に実家の家督を継いで三好賜と改名(後に清明)したために妻の春猪も三好登美と名を改める。その後、三好家の長男として譲をそして長女を亀代を生む。夫・清次郎はその後自由民権運動に傾倒するが広島に移って逝去する。春猪は坂本家の長女・鶴井(この時はもう鶴井は亡くなっている。)の夫で坂本家を継いだ直寛(坂本直寛は龍馬の姉・千鶴の次男で高松太郎の弟、坂本家を継いで自由民権運動家だったが北海道開拓の為一族を率いて北海道に移り住んだ)を頼って北海道に移り住むが直寛の後妻とあわずに土佐へ帰る。その後、三好家で生んだ亀代が後妻に入った税務官吏・楠瀬済の家で晩年を過ごし大正四年に逝去する。享年七十一歳・・・・
2010年07月09日
坂本龍馬の現地妻 お元・お蝶・お徳
坂本龍馬の恋人だった平井加尾や婚約者の千葉佐那、妻になった楢崎龍など龍馬の愛した女性は有名ですが、長崎丸山芸妓のお元の生年没日は伝わっていない。肥前の国茂木(現・長崎県茂木町 びわで有名な所)の出身で丸山芸妓の数ある中でも特に琴や三味線がうまく、よく気の付く美貌の持ち主だったといわれている。龍馬ははじめ亀山社中(後の海援隊)の本部のある小曽根乾堂の屋敷でお龍と共に住んでいたが諸事情(紀州藩船衝突事故の処理など)によってお龍を下関の豪商・伊藤助太夫の屋敷に預けていた。妻・お龍がいなくなって身軽になった龍馬は丸山芸妓のお元と暮らし長崎での多忙な生活の安らぎの場とした。また、亀山社中が船を失い経営難に陥った打開策として龍馬は土佐藩参政で龍馬ら元土佐勤王党の宿敵・後藤象二郎との会談(清風亭会談)の席で後藤は龍馬の緊張を溶かす為にお元を同席させたといわれている。その後、龍馬は後藤と意気投合し二人で京都に向けて出航(船中八策)し京都近江屋で暗殺されてしまうまでお元は龍馬と会うことはなかった為、その後の詳細はわかっていない。また、龍馬は長崎滞在時代に錦路という芸者とも深い関係になったといわれているが詳しくは不明。他に龍馬は京美人で公家の腰元をしていたお蝶という女性を江戸へ連れて行き江戸浅草蔵前町に居を構えて現地妻としたと土佐勤王党の同志・大石弥太郎は回顧録で語っているし、また土佐にいたころ(平井加尾と交際中?)に高知城下の漢方医・岩本里人の娘・お徳という女性と深い関係になったといわれている。お徳は中村小町と評判の美貌で龍馬は結婚を申し込んだがあっさりと断られたという。(お徳はその後、美貌を聞きつけた山内容堂公の側女・音丸の付け女中となり容堂のお手付きとなるも回りからの嫉妬の為に暇をとって大坂に出て水戸藩士・野村信之と結婚するが夫と死別後は故郷の高知中村に戻り昭和十四年、九十七歳の長寿を全うしたという。この時代、倒幕のために多忙を極めた偉人達は各地で現地妻を持っていて心の拠り所にすると共にその地の情報収集などに利用したといわれている。西郷隆盛は京都滞在中、お虎という丸々と太った祇園の芸妓を贔屓にしていたが料亭で下働きをしていた巨漢のお末という女性に一目惚れ、その女性を妾としその体型から「豚姫」と呼ばれたという。また、大久保利通は京都祇園の料亭一力亭の主人・杉浦治郎右衛門の娘で杉浦勇(おゆう)という女性を愛人とし、四人の男子を産ませている。
2008年11月03日
二本松少年隊 木村銃太郎
木村銃太郎は弘化四年、二本松藩砲術師範・木村貫治の長男として生まれる。銃太郎も父について砲術を学んでいたが、十八歳の時に西洋砲術を修めるため、江戸へ遊学する。帰藩後の慶応三年に父の砲術道場で藩士子弟に砲術指導をする。この頃は国事の情勢により藩士は皆、砲術を習うように藩からの命令が下っていた。このため、銃太郎はまだ砲術道場に通えない幼い少年の指導を任される。この時に集まった少年達で二本松少年隊が結成され銃太郎はその隊長に就いた。銃太郎は当時としては珍しい身長170cmの大柄で「眉目秀麗」の美丈夫といわれ笑うとえくぼの出る凛々しい青年であったという。徹底した個別指導で時には厳しく、時には子供達と一緒になって考える先生だった。少年達から「若先生」と呼ばれ絶大な信頼を得ていたという。慶応四年、戊辰戦争が激化し会津藩に新政府軍が攻め込まれ、棚倉藩や三春藩が降伏する頃、二本松藩は十五から十六歳の少年兵が出陣、銃太郎はそれ以下の幼年兵を集結し出陣の嘆願を出す。これが許可され銃太郎たちは大壇口に出陣し「少年兵世話役」に就任する。出陣前の点呼で少年兵は二十五名で正面の薩摩兵と戦闘に入る。銃太郎たち少年兵の戦い振りは実に見事で砲撃の精度がよく敵兵の前身を阻み、作戦を変更させたという。しかし、薩摩軍は側面に回りこみ激しい攻撃を仕掛けてきた為、犠牲者が多数出たため、撤退を決意するが銃太郎は左腕に敵の銃弾を受けたが気丈にも少年兵に銃創の手当てを身を持って教えたという。退却合図の太鼓を鳴らし、集合したところを第二段の攻撃が始まり銃太郎は左腰に被弾し動けなくなる。もはやこれまでと覚悟を決め副隊長の二階堂衛守に介錯を命じる。はじめは拒んだ衛守も戦況が戦況だけに泣く泣く首を刎ね、胴体をその場に埋葬し首を二人の少年が持って退却した。その後、二本松城は陥落し降伏する。木村銃太郎享年二十二歳であった。
2008年10月25日
忘れ去られた英雄 白石正一郎
白石正一郎は文化八年に白石卯兵衛資陽と艶子の長男として生まれた。白石家は長門国赤間関竹崎で商船を所有して酒、たばこ、米、お茶などあらゆる物を扱う荷受問屋「小倉屋」を営む大商人だった。嘉永七年、四十三歳の時に国学者・鈴木重胤の門下となり尊皇攘夷の熱心な信奉者となった。「小倉屋」が薩摩藩御用達となったのが縁で安政四年に西郷隆盛が藩主・島津斉彬の命で江戸へ向う途中、白石家に宿泊した。以後、明治天皇の叔父・中山忠光や三条実美ら六卿や坂本龍馬、野村望東尼など様々な志士たちや偉人が訪ね交流した。八月十八日の政変で都を追われた六卿の一人、錦小路頼徳は下関到着後この白石家で息を引き取った。文久三年、長州藩主・毛利敬親の命により高杉晋作が白石正一郎と会い四民平等の市民軍設立の相談を持ちかけた。正一郎はこの晋作の大きな夢に全面協力し、白石邸において奇兵隊結成となった。資金面はもちろん、屯所として邸宅を提供し自らも弟・簾作とともに入隊した。後に入隊する奇兵隊隊士が増え阿弥陀寺(赤間神宮)に屯所を移した。騎兵隊への援助が嵩み、本業の「小倉屋」は傾いた。平田派国学に傾倒していた白石正一郎は王政復古が成るためなら家を潰しても悔いはないと言ってはばからなかったという。明治八年にとうとう「小倉屋」は倒産してしまう。その後、安徳天皇を祭る赤間関(下関の旧名)の阿弥陀寺が赤間神宮となると正一郎は初代宮司となった。明治十三年に六十九歳で死去した。幕末激動の時代に家財をなげうって志士たちの援助をし勤皇活動に尽くした正一郎は維新後に政府高官となった志士たちに見向きもされず、忘れ去られた。
2008年10月12日
「ラストサムライ」のモデル ジュール・ブリュネ
ジュール・ブリュネは1838年にフランス東部アルザス地方ベルフォールで生まれた。陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業後に陸軍砲兵少尉に任官。その後、中尉に昇進しメキシコ戦争に従軍し活躍、24歳でレジオンドヌール勲章を受ける。(現代でもフランスの最高勲章として存在)慶応二年、徳川幕府は第二次長州征伐に大敗し幕臣小栗上野介忠順は軍隊の近代化を急いでいた。(慶応軍事改革)その柱となったのがフランスから700万ドルに及ぶ借款と火器購入、そしてフランス軍事顧問団の招聘であった。フランスのナポレオン3世も日本は開国したばかりで他国に遅れをとっていたので徳川幕府との関係を深めるため15名の対日軍事顧問団の派遣を決定した。隊長にシャルル・シャノワーヌ参謀大尉、副隊長にジュール・ブリュネが選ばれた。隊員もメキシコ、アフリカ、インドシナなどの独立戦争で戦ってきた筋金入りの軍人を揃えた。徳川幕府も彼らを厚遇しシャルル・シャノワーヌ参謀大尉に500ドル、ブリュネに350ドルもの給料を支給を決定。ブリュネら軍事顧問団は慶応三年、横浜の丘陵地帯(現代の港が見える丘公園)に居留し、大田陣屋に設営された訓練所に幕軍兵士を集め、教練を開始した。幕府伝習隊に一年間軍事訓練をしたが、慶応四年鳥羽・伏見において突然戊辰戦争の火蓋が切られた。軍事顧問団は訓練中の伝習第一大隊800名を率いて大坂に出動したがすでに幕軍の敗北は決していた。江戸城での軍事会議に参加したブリュネたちは抗戦の作戦を立案、献策したが将軍慶喜に却下され、江戸城開城によって徳川幕府は完全に消滅、勢いに乗る新政府軍は北上を続け、佐幕派の討伐を開始する。フランス軍事顧問団は勅命により日本からの退去を命令されたがブリュネたちは残留を決意し、横浜のイタリア公使館で開かれていた仮装舞踏会の席上からブリュネと同僚カズヌーヴが脱走。二人は幕府軍艦・神速丸に乗り込み、品川沖に停泊中の幕府艦隊と合流し北を目指して出帆する。ブリュネらは祖国フランスの立場を考え明治元年の日付で軍事顧問団の辞任書を送付し幕府残党に一身を投じた。仙台で志を同じくする歩兵下士官マルランとブッフィエ、砲兵下士官のフォルタンが加わる。後函館で海軍軍人ニコルらを加えた10人の外国人は榎本武揚や大鳥圭介を助け、江差、松前で活躍する。蝦夷共和国軍は緒戦では優位に戦っていたが新政府軍の度重なる増援で敗色が濃くなると榎本武揚総裁は政治的配慮から外国人義勇兵の脱出を勧めた。ブリュネたちはこれに従い、フランス艦コエトロゴンで陥落寸前の五稜郭から脱出した。横浜からサイゴンを経て故国フランスに帰国したブリュネたちは厳しい取調べを受けたが、彼ら義勇兵の行動はフランス国民の支持を受け戒告処分で済みまもなく始まった晋仏戦争に参加した。1893年にかつての上司だったシャルル・シャノワーヌのもとフランス陸軍参謀総長まで登りつめ日清戦争では日本軍上陸を支援しシャノワーヌと共に外国人では初めて勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)ブリュネはパリの東、ヴァンセンヌで波乱に満ちた生涯を閉じた。享年73歳
彼は映画「ラストサムライ」の主人公トム・クルーズが演じたネイサン・オールグレン大尉のモデルとなったといわれている。
彼は映画「ラストサムライ」の主人公トム・クルーズが演じたネイサン・オールグレン大尉のモデルとなったといわれている。