2009年03月09日

新撰組一途に生きた 横倉甚五郎

0011.jpg横倉甚五郎は天保五年、武蔵国多摩郡八王子堀之内村・横倉良助の次男として生まれる。幼少の頃から地元多摩で天然理心流を習い、池田屋事件後の元治元年に近藤勇の隊士募集に応じて新撰組に入隊し上洛し、武田観柳斎率いる六番隊に配属された。慶応三年の幕府召抱えの際には平隊士として見廻組並御雇として名を連ねた。御陵衛士として新撰組を分離した伊東甲子太郎一派の殲滅を謀った油小路の変では「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎とともに奮戦した。その一ヵ月後、近藤勇が二条城から伏見に向かう途中に御陵衛士の残党の三木三郎に狙撃された時にその護衛に付いていた。鳥羽・伏見の戦いで敗走した後江戸へ引揚げ、近藤勇ら新撰組の甲陽鎮撫隊として勝沼の戦いに参加、宇都宮、会津戦争を経て仙台で榎本艦隊と合流し蝦夷地へ渡航して函館新撰組の三分隊嚮導役となる。明治二年、弁天台場で降伏した後、青森の弘前で謹慎処分を受ける。その後、元・京都見廻組の今井信郎らとともに東京へ送還されて辰ノ口兵部省事務局糾問所に留置される。明治三年、新撰組同志の相馬主計や大石鍬次郎らと刑部省に引渡され、坂本龍馬暗殺の容疑者として取り調べを受け、獄中にて病死したという。しかし、一説には大石鍬次郎とともに油小路の変の実行犯として小塚原にて斬首されたともいう。享年三十七歳・・・弁天台場での降伏時に詠んだ辞世の句は「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ 」
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2009年02月12日

新撰組の女達 永倉新八、原田左之助

永倉新八は新撰組で一、二を争う剣の達人だがご多分に漏れず、他の隊士と同じようにお茶屋や遊郭遊びをしている。殊に島原遊郭の亀屋の芸妓の小常という女性と馴染みとなって身請けし妻にした。小常は色白で鼻筋の通った、物腰の柔らかい京美人だったという。新撰組が西本願寺を屯所にした頃、近くの鎌屋町に二人の居を構え小磯という女の子を産んだという。しかし、小常は産後体調を崩して戊辰戦争直前に亡くなってしまった。永倉は小磯を小常の姉に預けて出陣していった。その後、永倉は江戸へ戻り甲陽鎮撫隊として従軍するも近藤と意見が合わず「靖兵隊」を結成して転戦し明治維新を迎える。故郷の松前藩に帰藩した永倉は家老の下国東七郎の斡旋で藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚、婿養子となり杉村義衛と名乗った。明治三十二年頃に大坂の女役者「尾上小亀」と名乗っていた小磯(磯子)と再会したという。その他にも大坂の遊郭吉田屋で芹澤が自分になびかない芸妓の小寅に腹を立て、小寅と仲居のお鹿の髷を切った上に営業停止を言い渡した時、お鹿を贔屓にしていた永倉は彼女を身請けして、親許に引き取らせて世話をし町人に嫁がせたと言われている。また、小常と同時期に京都島原の金吉という芸妓を贔屓にしていたとも伝わっています。一方、永倉と一番仲のよかった原田左之助は土方歳三と並び証せられるほどの美男子だったという。しかし、他の隊士のように遊郭の女性を囲ったりせず、京都仏光寺の商人(団子屋とも言われている)菅原長兵衛(清兵衛?)の次女・まさと結婚して西本願寺の屯所近くの釜屋町に借家を借り、ここから出勤していた。翌年には長男・茂(十四代将軍・徳川家茂から一字取ったと言われる。)が誕生し大変可愛がった、お腹の中には二人目の子供を身ごもっていが、鳥羽・伏見の戦いが始まると左之助は生活費に二百両を渡して「茂を立派な武士にしてくれ」と言い残して戦場へと向かった。(お腹の子供は生後7日で早世し禅雪童子という戒名を授かった)まさは戊辰戦争の間、従兄弟の井上新兵衛のところに非難していたが茂をこの新兵衛の養子にしている。
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2009年02月11日

近藤勇の女達 つね、美雪太夫、お孝、駒野

近藤勇の妻、松井つねは天保八年に幕臣・松井八十五郎の長女として生まれる。万延元年、二十三歳で近藤勇と見合い結婚をして二年後に長女・たまを出産する。近藤によれば「数々の美人と見合いをしたが、つねは一番器量が悪い女であった。門弟達は美人では稽古に身が入らぬので妻にするには醜女がよいのじゃ」といって選んだと言う。近藤勇が試衛館の門人を率い浪士組として上洛するとつねは勇の養父・近藤周斎の世話をして留守を守り、慶応四年に近藤勇が板橋の刑場で処刑されると勇の実家・宮川音五郎(勇の兄)宅に娘のたまとともに身を置いた。たまが十五歳の時に音五郎の次男・勇五郎と結婚し二人の間に長男・久太郎を産む。(久太郎は後に日露戦争に出兵し戦病死する。)つねは宮川音五郎との約束で勇五郎を婿養子に迎え近藤家を相続させて天然理心流道場を引き渡す代わりに宮川家の土地を分けてもらうことになっていたが約束は守られず、怒ったつねは家の畳を裏返して自害しようとしたという気性の激しい女性でもあった。近藤が鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ戻ってきた時に近藤は船上で妻子に会うのが楽しみだと語り、つねの土産に銀の指輪を持っていたという。京都で多数の妾を囲っていた近藤も妻には優しい一面もあった。一方京都での近藤は新撰組局長として数々の手柄を立てると金銭的余裕が出来、京阪の遊女、花魁の美女を漁り身請けして囲い始めたという。先ず、島原木津屋の遊女・金太夫(こがねだゆうともいうらしい)この人は京都でも五本の指に入るほどの美女で年齢二十三歳、近藤お気に入りの女であった。次に上七軒の植野という芸妓でそれほど美人ではなかったらしいが落籍して植野の実父のところで遊ばせていたと言う。実父は京都所司代の大部屋の部屋頭で天神の御前通りに住んでいた。近藤勇の愛妾で一番有名(大河ドラマでは優香が演じていた)な人は美雪太夫といい金沢生まれで背の高い美人だと言う。十四歳で京都三本木の御茶屋に奉公に上がり、十六歳で島原に移った。十八歳で太夫になり、「若太夫」と名乗り美人で評判となった。直ぐに身請けされ京都池田屋近くに囲われていたが新撰組の取り締まりを受けて近藤と知り合ったと言う。その後、再び島原に戻って「美雪太夫」の名で座敷に上がったが近藤勇が口利きをして大坂新町の折屋に移りその後、身請けして京都醒ヶ井木津屋橋下るの休息所に囲った。美雪太夫はここで妹・お孝と二人で住んだが美雪太夫が病気(リュウマチ)治療の為外出している間に近藤は妹・お孝とも関係を持つ。このことに気づいた美雪太夫は近藤から二百両の手切れ金を貰って身を引き島原に茶屋を買って暮らしたと言う。(一説には病死したともいう)妹のお孝は大坂曽根崎新地のお茶屋で「御幸太夫」の名で座敷に上がっていたが、姉の美雪太夫が近藤に身請けされた後、お孝も近藤に落籍され姉とともに京都醒ヶ井木津屋橋下るの休息所に暮らしたが姉の留守の間に近藤と関係を持って子を宿した。生まれた子はお勇と言う女の子で近藤達新撰組が江戸へ去った後、お孝はお勇と姉の美雪太夫のお茶屋の世話になった。しかし、そのお茶屋もうまくいかず店を畳んだため、お孝はお勇を姉に預け神戸の開港地へ働きに出かけたと言う。やがて、消息不明となるが明治十五年に突然、姉・美雪太夫に手紙が届きシンガポールで働き多少の財産が出来たという。しかし、この時お勇は美雪太夫との諍いで家を出て、馬関で芸妓をし、伊藤博文や井上馨など政府官僚の贔屓を受けていたという。お孝は帰国後お勇を探し出して再会した後、お勇は朝鮮人貿易商と結婚して三人の子供を儲けたと伝えられる。最後にもう一人、近藤勇の子供を生んだ女性がいたという。その人は駒野といって京都三本木の芸妓であったが近藤に落籍されて後に、男の子を産んでいる。慶応四年、近藤が板橋の刑場で処刑された後、京都三条河原に首が晒されると駒野は辻講釈師に金を与えて近藤の京都での功績や追悼の一席を口演させた。このことで官軍に捕縛され髪を切られた上に追放処分を受けたが、維新後に京都に戻ったときに、美雪太夫は心配して三本木の駒野を訪ねたという。その時の話によれば近藤の忘れ形見の男の子は「五つまで里子に出し、七歳まで手元で育てたが人の薦めで東福寺に預けて仏弟子となったと言う。その子は成長して立派な僧侶となり近藤勇の菩提を弔ったと言われている。
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2009年02月10日

新撰組の女性関係 土方歳三

土方歳三は武州多摩の石田村の豪農・土方義諄の六男(最近は十人兄妹という記録が発見された。)として生まれ、長男・為次郎は盲目だった為に家督は次男・喜六が土方家を相続した。為次郎と末弟の歳三とは二十三歳も歳が離れていた為子供のように可愛がった。為次郎は「もし、目が自由だったら決して畳の上では死なない」と豪語するほどの豪傑でよく歳三に天下国家について語ったという。歳三が十三歳のときに江戸上野にあった松阪屋いとう呉服店に奉公に出たが番頭に頭を小突かれたといって飛び出して十里の道のりを一晩かけて実家へ帰ったという。(普通では考えられないが甘えん坊の歳三のことだから仕方がない。)実家に居づらくなった歳三は母親代わりの姉・のぶの嫁ぎ先、佐藤家に入り浸ったが十七歳の時に再び奉公に出る。今度は上野松阪屋の支店で小伝馬町にある木綿問屋に入ったが店の女中と恋仲となり妊娠させてしまい逃亡、再び佐藤家へ戻ったという。(眉目秀麗の好男子だった歳三だから仕方がない。)その後、義兄の佐藤彦五郎が後始末をしたとか、歳三が後始末に出向いたとかいろいろな説がある。歳三の長兄・為次郎は三味線が趣味だったので佐藤彦五郎の遠縁に当る三味線屋に通っていたがこの店の「お琴」という娘を大変気に入り可愛い歳三の嫁にと妹婿で友人でもある佐藤彦五郎に相談した。お琴は近所でも評判の美人で歳三も気に入り親族で結婚という話になったという。しかし、歳三は「私は武士になって名を上げたい。だから今ここでこのまま所帯を持つ訳にはいきません。もう少しの間、私の身を自由にしておいて欲しい」と言って断ってしまう。歳三は美人のお琴に未練があったのか「しれば迷い、しなければ迷わぬ、こいの道」という意味深な句をのこして京都へ旅立った。その後、お琴も歳三を諦めきれず許婚のまま生涯独身を貫いたと言われている。余談だが慶応四年に帰郷した土方はお琴に合いに行ったという。その時、何を話したか定かではない。京都新撰組時代は歳三もイケメンだったので数々の浮名を流し多くの遊女から貰った恋文を自慢げに小島鹿之助に送っている。先ず、島原の花君太夫、祇園、一元、天神にては芸妓三人、北野では君菊、小楽、大坂新町では若鶴太夫ら他三名と綴った。分かっているだけで京都時代には十二人の女性と浮名を流したと言う。ただ、すべて遊びと割り切り近藤や他の隊士のように身請けし愛人として囲うようなことはせずにきれいに別れている。しかし、明治二十二年に歳三の甥に当る佐藤俊宣が京都を訪れて調べたところ、北野天神東門外上七軒の君鶴が歳三の女児を産んだがその女児は夭折し、君鶴は嫁いだがやがて亡くなったという。
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新撰組の女性関係 沖田総司

沖田総司の恋人、妻については様々な噂や憶測が飛び交っていますが、その中で一般的に知られている一つは沖田総司縁者の墓が京都四条大宮の光縁寺に存在する。光縁寺は新撰組の山南敬介が寺の瓦にある紋が山南の家紋と同じだったことから山南と交流が始まり新撰組隊内で切腹した隊士達を葬ってもらっていた寺であった。「歴史と旅」昭和55年11月号に掲載の川西正隆氏(幕末維新史研究家)の調査によればこの墓の施主は酒井意誠という人物で大和櫛羅藩(奈良県御所付近)の酒井意章の養子となった人物、養父である酒井意章は禁裏守衛兵として京都に駐留していたが、きれいな町娘・キンという女性を巡って新撰組隊士と刃傷沙汰を起こした。この喧嘩で両者切腹のところを新撰組一番隊隊長・沖田総司の助命嘆願により禁裏守衛を解任されたが大坂湾警備に配置転換しただけで事なきを得、キンと結婚して赴任したという。川西氏の調査によると墓の真明院照誉貞相大姉なる女性は「沖田総司の幻の恋人」石井秩という人らしい。池田屋事件で負傷した隊士は新撰組医療所浜崎新三郎宅で治療を受けたがこの時に助手(看護士)を務めていた娘が石井秩というらしい。この女性にはユキという娘がいたが子供好きの沖田と石井秩は恋仲となり慶応二年に二人の間にキョウという娘が誕生する。その後、秩は病に倒れ慶応三年に死去した。葬儀には新撰組隊士は列席せず、沖田と交流のあった酒井意章と妻・キンが駆けつけ埋葬の手配をしたという。その後、子供のいなかった酒井意章・キン夫妻の養女としてユキとキョウの二人の娘は大和櫛羅藩で養育された。墓の施主はそのユキの婿養子として酒井家を相続した酒井意誠だという。キョウは後に奈良県御所町の磯田家へ嫁したという。また、小島鹿之助の長男・守政氏の慎斎私言に近藤勇の養女で十三歳位の娘がおり試衛館の掃除、洗濯などをしていたが、沖田総司に惚れて妻にして欲しいと打ち明けた。しかし、沖田はまだまだ修行中の身ですからと固辞した為、懐剣で喉を突いて自害を図った、だが致命傷には至らず一命を取り止めたという。後に近藤勇の口添えで他家へ嫁いだと記されている。沖田総司は新撰組の主役の一人で最重要人物である為、現代でも人気を博してしるが、若くして病に斃れ多くの謎が残った人物である為にいまだ解明されていない事実が将来出るかもしれない。
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2009年02月08日

壬生義士伝の主人公 吉村貫一郎 

吉村貫一郎は天保十一年、奥州南部盛岡藩士・嘉村某の次男として生まれ武芸で身を立てようと新当流の修行に精を出し頭角を現す。文久三年、藩の許可が下りて江戸行きが叶い、北辰一刀流の玄武館に入門し千葉周作の後を継いだ千葉道三郎に習う。この頃、道場では尊皇攘夷運動が流行し、貫一郎も感化されていった。身分の低かった貫一郎は一家五人を養うため(一説には家族はいなかったとも言われている)に慶応元年に脱藩を決意、当時有名をだった新撰組の隊士増員に応募した。北辰一刀流の腕を見込まれ剣撃師範、諸士取調役兼監察となって近藤局長の厚い信頼を受け、近藤の長州征伐前の広島出張に同行して尾形俊太郎や山崎蒸とともに探索活動を行った。慶応三年、新撰組の幕臣取立ての際には見廻組並となりこれで家族に仕送が出来ると感涙したという。(しかし、この逸話は子母澤寛の創作だとも言われている。)吉村貫一郎は監察方として隠密行動が多く、土方の下で交渉役をし、三条制札事件で土佐藩との和解の宴会の席に近藤、土方、伊東とともに同席したり、柳原・正親町卿を訪ね近藤の建白書陳情など、新撰組の公用方としての活躍が目立つ。鳥羽・伏見の戦いでは軍監として奮戦するが敵銃弾にて戦死したという。記録には「嘉村権太郎、戦死」と本名記載されている。享年二十九歳・・・嘉村貫一郎は本名を権太郎といい、新撰組入隊時に「誠を貫く決心」から貫一郎と改名している。また、鳥羽・伏見の戦いで新撰組本体とはぐれ江戸行きの船に乗り遅れた為に大坂の南部盛岡藩屋敷に逃げ込み帰参を願った許されず切腹を言い渡されたという話は子母澤寛の創作で実際は無かったらしい。

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2009年02月03日

池田屋で散った新撰組隊士 安藤早太郎

emaki-cl.jpg安藤早太郎は文政四年、三河国挙母藩(現・愛知県豊田市)の藩医・安藤捨次郎の長男として挙母藩江戸屋敷にて生まれる。十五歳で石堂流竹林派射術の戸田市郎兵衛に弟子入りして総目録を受け、弓の名手として名を馳せた。やがて江戸勤番の役目を終えた父と共に国許に帰り紀州日置の高木応心の弟子となって応心流弓術を修めた。天保十三年、二十二歳の時に藩主・内藤政優の計らいで奈良東大寺大仏殿回廊の通し矢において一昼夜で一万本の矢を射ちその内の八千本を的に命中させるという大記録を打ちたて名を挙げる。嘉永三年、挙母藩を脱藩し京都知恩院の一心寺の僧侶となる。しかし、文久三年の壬生浪士組(後の新撰組)の隊士募集により入隊し、後に副長助勤となり八・一八の政変で出動した隊士五十二人に名を連ねた。当時筆頭局長だった芹澤鴨の暗殺後に残っていた芹澤派の野口健司の八木邸での切腹において介錯人を務め、その直後に八木邸内で行われた餅つきを手伝ったといわれる胆の据わった男だった。元治元年、池田屋事件の際には近藤勇の配下として裏庭の警備を任されていた。新撰組による突然の襲撃に逃げ惑う不逞浪士らが裏庭に流れ出、部下の奥沢栄助伍長、新田革左衛門と共に斬られてしまう。奥沢栄助は殆ど即死だったが新田と安藤は重傷を負って屯所で治療中に二人とも一ヶ月後に亡くなった。安藤早太郎は新撰組の黎明初期に命を落とした偉人の一人(愛知県豊田市では有名?)ではあるが、もしもその後に起こる戊辰戦争まで生き延びたとしても刀や弓矢では敵の最新銃器の前では如何ほどのことが出来たか疑問が残る。
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2009年02月02日

近藤勇の傲慢に反発し切腹した葛山武八郎

葛山武八郎は生年不詳の会津出身あるいは丹波篠山出身の虚無僧とも云われ、文久三年の新隊士募集により入隊した新撰組伍長。元治元年、池田屋事件で土方歳三隊に属して池田屋に到着し屋内で活躍、褒賞金十七両を賜る。その後、局長の近藤勇の増長に憤慨した永倉新八、斉藤一、原田左之助、島田魁、尾関雅次郎と共に新撰組預かりであった会津藩に建白書を提出し、会津藩主・松平容保に近藤の傲慢を訴えた。しかし、葛山は初めから近藤の譴責しようという意思は無く、山南敬介の命により建白書を作成し、永倉に同調したといわれている。会津藩の仲介で近藤がすぐさま駆けつけて永倉新八らと和解して収まったが近藤と永倉の間に深いしこりが残った。その後、新隊士増員と将軍上洛の要請をする為に江戸へ近藤と永倉が東下し京都を留守にした。この留守を守っていた「鬼の副長・土方歳三」は会津公建白書騒動が隊士たちに及ぼす影響を考え処罰を与えることにした。しかし、永倉は勿論、斉藤一も原田左之助、島田魁の新撰組創設以来の重要な幹部だったので重い処罰が出来ず、葛山一人を切腹、永倉が六日間の謹慎、斉藤、原田、島田は三日間の謹慎とした。葛山は自分だけ切腹に納得がいかず山南敬介に会わせてほしいと懇願したが土方は取り合わず八木邸にて切腹した。これは土方の山南に対する見せしめの意味もあったと思われる。その後、江戸から伊東甲子太郎を連れ帰り新撰組参謀となった。自分の居場所が無くなったことを悟った山南敬介は脱走を試みるが大津の宿で沖田総司に連れ戻され切腹させられる。
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近藤勇が信頼したブレーン 尾形俊太郎

尾形俊太郎は新撰組の幹部の一人でありながら詳しい記録がほとんど残っていない人物で出身が肥後国熊本藩しか分かっていない謎の多い人物。新撰組入隊は山崎蒸と同じ文久三年の第一次隊士募集の頃といわれている。武人というよりは文人肌で武田観柳斎や毛内有之助らと同じ学問教授方となった。八・一八の政変では新撰組の五十二人に副長助勤として出動したが目立った活躍はしていない。元治元年の池田屋事件には出動せず、山南敬介と同じく屯所の留守警備か病気療養中だったかも知れない。蛤御門の変にも出動しておらず留守部隊にいたと思われる。近藤勇が将軍上洛要請と新隊士増員の為に江戸へ下ったときに永倉新八、武田観柳斎と共に東下し、先行していた藤堂平助と合流した。主に近藤は将軍上洛要請の為、当時老中だった松前藩主との橋渡しに松前藩出身の永倉を同伴させ武田と尾形は近藤のブレーンとして連れて行った。(藤堂は主に隊士の募集を受け持った。)帰京後に行われた編成では五番隊組長に任命されたが、伊東甲子太郎の入隊後の編成では諸士取扱兼監察となり第一線の指揮官からはずされた。しかし、降格された訳ではなく文学師範役として幹部の地位は確保されていた。近藤は幕府大目付・永井尚志の長州藩詰問の為に広島に西下した時に伊東甲子太郎、武田観柳斎と共に尾形俊太郎も同行させ、慶応二年の西下の際にも伊東、篠原泰之進と共に同行させ、吉村貫一郎らと長州藩の軍備や地形の探索を任せた。慶応三年に行われた新撰組隊士の幕臣取りたての際には尾形は副長助勤として見廻組格を仰せつかる。慶応四年、鳥羽・伏見の戦いが始まり幕府軍が敗走、新撰組も敗れて江戸へ引き上げるが尾形俊太郎もこの一行に入っている。尚、同僚の山崎蒸はこの戦いで重傷を負い東帰中の富士山丸の船中で死亡し紀州沖で水葬にされたといわれている。江戸へ帰った尾形俊太郎は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いに従軍するが敗れ、一旦江戸へ帰還するがここで永倉新八と原田左之助が離隊、近藤も流山で降伏してしまう。尾形は斉藤一と共に会津藩に向かって転戦する。会津若松城
七日町の清水屋に宿泊した記録を最後に消息が途絶えた。斉藤一は如来堂に向かって戦い続けたが尾形の名は無かったという。一説には若松城に入って戦ったとも仙台まで戦い、その後降伏したとも若松城下の戦いで戦死したともいわれているが定かではない。尚、維新後に熊本の警察で剣道を教えていたとか警視局で斉藤一(維新後、藤田五郎と改名)と共に古閑膽次の名でコンビを組んで密偵活動をし、その後消防署長をし殉職したとか様々な伝承が残るがどれも確証は無い。武闘派が居並ぶ新撰組において学者肌の尾形俊太郎が最後まで幹部として戦い続けることが出来たのはその実直な人柄で近藤や土方に絶大な信頼を得ていたからと思われる。尚、同じ学者肌の山南敬介は隊規違反で切腹、文学師範を務めた伊東甲子太郎と毛内有之助は新撰組を分派し御陵衛士となって暗殺され、武田観柳斎(薩摩藩のスパイ活動をした疑い)は裏切り者として粛清されている。
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2009年01月29日

壬生浪士隊の初代筆頭局長 芹沢鴨

芹沢鴨は文政十年、水戸藩上席郷士・芹澤貞幹の三男としてれた。(芹澤氏は茨城県玉造芹澤の豪族で関が原の合戦で功を挙げて幕臣となった家柄)十五歳の時、潮来の延方郷校で医学を学んだ。ここで嗣司は武田耕雲斎から水戸学を学び尊王思想に傾倒する。後に松井村の神官・下村祐斎の婿養子となり下村嗣司と名乗り、剣を神道無念流・戸ヶ崎熊太郎に師事して免許皆伝、師範役の腕前で居合いも免許皆伝であったと言われている。安政五年、勅許返納(朝廷が幕府の頭越しに水戸藩に勅許を与えた為、幕府は水戸藩に返納を迫った事件)を阻止するために起こった長岡事件に関与した。その後、玉造郷校を拠点にした玉造党(後の天狗党)結成に参加して尊攘運動の為に玉造は勿論、潮来や佐原を奔走して軍資金集めをした。しかし、天領にまでその活動が及び、強引な金策や町役人への狼藉により芹澤は水戸赤沼獄へ投獄される。その後、徳川慶篤の特赦をうけて釈放、芹澤鴨と名を改めて清河八郎が発案した浪士組上洛に参加する。この時、同じ水戸藩出身の新見錦や野口健司、芹澤の家臣筋の平間重助を伴った。芹澤は道中取締目付に任命され六番組小頭となったが、道中に宿割番だった近藤勇の不手際に立腹し大騒動を起こした為、小頭を解任される。入京後、芹澤らは近藤勇ら試衛館一派と共に壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿、江戸へ戻る事になった浪士組だったが近藤らと清河八郎の策謀に異を唱えて京都に残った。残った浪士組は芹澤派同志が五人、近藤らの試衛館派同志が八人、そして殿内義雄、根岸友山ら根岸派が合流して壬生浪士組が結成される。(結成後直ぐに殿内が近藤らに暗殺され、根岸友山らは京都を出た。)壬生浪士組は芹澤、近藤、新見錦が局長となり筆頭局長に芹澤がなった。当初、浪士組は会津藩預かりとなっていたが給金が出なかった為、芹澤が中心となって京、大坂の商家から強引な資金集めをしたので会津藩は体面を保つため給金を出すようにしたという。また、大坂に「不逞浪士」取締りに出向いた芹澤、近藤ら一行八人が夕涼みの舟を仕立てて淀川に繰り出した。たまたま斉藤一が腹痛を訴えたために舟を降り橋を渡ろうとしたところ向こうから歩いてきた相撲取りの一行と道を譲れ、譲らぬと口論となり芹澤が相手の一人を抜き打ちに斬った。そうして北新地の住吉楼へあがり、斉藤の介抱をしていると六角棒を手にした相撲取りが敵討ちと称して多数押し寄せ凄い乱闘となった。この事件で相撲取り側に六、七人の即死者、十七、八人の負傷者を出し、浪士側でも平山五郎が胸を打たれ、沖田総司が片鬢、永倉新八が左腕に傷を負ったという。芹澤は無傷で神道無念流の腕を振るって斬り捲くったといわれている。浪士組当時は強引な金策などで悪評が絶えなかった為に会津藩藩主・松平容保の要請で土方歳三が局中法度を出して浪士の行動を厳しく取り締まった。しかし、芹澤派の強請り、集りが後を絶たず繰り返された。その後、吉田屋の芸妓・小寅に横恋慕した芹澤に小寅が肌を許さなかったことに立腹し店をめちゃくちゃにし小寅達芸妓の髪を切ったうえ営業停止にするという暴挙に出た。また、その最たるものが糸問屋大和屋に対する乱暴狼藉であったという。芹澤と部下五、六人は大和屋庄兵衛が尊攘派の天誅組に一万両の献金をしたのをネタに大和屋に押しかけ金を無心したが体よく断られたのに腹を立てその日の夜に大筒を持ち出して土蔵に発砲、商品の生糸を大道に引き出し放火したり衣類、諸道具をめちゃくちゃにした。このうわさが京都中に響き渡り壬生の狼「壬生狼」と恐れられた。京都守護職で浪士組の預かりだった会津藩主の容保は近藤、土方を密かに呼び出し芹澤一派の粛清を迫ったという。近藤勇は先ず芹澤一派の新見錦(実は新見は芹澤らとは距離を置き一匹狼的に単独行動をしていた。)を強引な金策をしたと土方が詰問し祇園新地の貸座敷・山緒で切腹させた。次に慰労と称して島原の角屋で大酒宴を張り、酔って帰営した芹澤は妾のお梅、平山五郎も連れ帰った妾の桔梗屋小栄、平間重助の女・輪違屋糸里と同衾中に土方、沖田、山南、原田左之助(一説には山南は参加せず藤堂平助が入っていたとも言われている。)が闇討ちを仕掛けた。先ず、平山に山南、原田が斬り付け首と胴が斬りは離され、小栄は逃亡、芹澤には沖田が一太刀浴びせたが芹澤に受け止められ顔面を殴られて鼻下に裂傷を負った、次に土方が斬りかかり八木源之丞の妻や息子が就寝中の部屋に逃げ込んだが文机に躓き転んだところに止めを刺されたという。この時、息子が足に軽症を負ったといわれる。また、お梅は芹澤諸共斬り殺されたが、小栄は厠にいた為、そのまま逃亡、平間と糸里も騒ぎに紛れて逃亡した。後日、芹澤派の野口健司も何者かに暗殺され芹澤派は一掃された。以後、壬生浪士組は新撰組として近藤ら試衛館一派が中心となっていく。芹澤鴨 享年三十六歳・・・確かに芹澤は酒癖、女癖が悪く、三百匁もある鉄扇(尽忠報国之士芹澤鴨と彫られていた。)を振るって乱暴狼藉を繰り返した悪人という印象を持つが新撰組結成には欠かすことの出来ない重要な役割を果たした。(新撰組のトレードマークの誠の文字は芹澤が傾倒した水戸学の「有言実行」「言葉と行動は伴わなければいけない。」という教えからきた文字といわれている。また、新撰組内で粛清された隊士の葬儀はすべて水戸学からの神道方式で執り行われ芹澤の影響の大きさを窺わせる。)酔っていない芹澤は気さくな気の優しい男で八木家の幼い娘が亡くなった時には進んで帳場に立ったり八木家の子供達に絵を描いて遊んだりして好かれていたとも言われている。暗殺の原因は新撰組内の派閥争いか芹澤が元天狗党という尊王攘夷の過激思想を持っていた為、会津藩が警戒して暗殺指令を出したと思われる。最後に新撰組の五美男子の一人「佐々木愛次郎の恋人・あぐりに横恋慕した芹澤は愛次郎を惨殺しあぐりを強姦して殺したといわれているが実際は芹澤の部下の佐伯亦三郎が芹澤の名前を騙って行った事で後日それに気づいた芹澤に粛清されたという。)
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2009年01月25日

新撰組古参隊士で函館で散った 蟻通勘吾

arimitikangoe1.jpg蟻通勘吾は天保十年、讃岐国高松で生まれる。文久三年に新撰組に入隊、元治元年の池田屋事件では井上源三郎の六番隊に所属して土方歳三と共に探索していた。池田屋に着いた頃には局長・近藤勇達が既に戦闘に入っていた為に階下で奮戦し報奨金十七両を受け取った。慶応二年、三条制札事件(幕府が三条大橋の西詰に立てた制札が三度に渡って引き抜かれた事件で新撰組が警備中に土佐藩士8名と戦闘になった。)でも活躍し報償の金千疋を受け取った。翌年の天満屋事件(紀州和歌山藩の三浦休太郎が海援隊に敵として付け狙われていたのを新撰組が警護したが天満屋で祝宴中に襲撃を受けた。)でも蟻通は原田左之助隊に属して斉藤一や大石鍬次郎と共に戦った。蟻通勘吾は新撰組が在京中の主な事件に平隊士として参加したと言う。慶応三年、幕臣御取立の儀に平士として見廻組並御雇格となった。その後、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが薩長軍の最新銃器の前に新撰組の刀では歯が立たず江戸へ敗走、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼戦争に従軍する。会津戦争には什長として転戦するも白河口黒川の戦いで敵兵が死骸と思い捨て置いた程の重傷を負った。(この時に戦死と記録された。)しかし、その後土方歳三について蝦夷地に渡り函館病院へ収容された一時、重態に陥ったが函館政府の新撰組隊士達が最期を自分達で看病したいと申し入れ連れ帰ったという。中島登の談話によるとその後奇跡的に回復して明治二年の函館山の攻防に参戦し討ち死にをしたと言う。享年二十九歳・・・京都新撰組の古参隊士で函館まで戦った者は土方、島田魁、尾関雅次郎と蟻通勘吾の四人だけでしかも生涯平隊士は蟻通だけであった。
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十七歳で戦死した新撰組隊士 三好胖(ゆたか)

miyoshie1.jpg三好胖は本名を小笠原胖之助といい嘉永五年、唐津藩十代藩主・小笠原長泰の末子として江戸屋敷に生まれる。老中の小笠原長行の甥。唐津藩の藩論が官軍に恭順すると決すると老中だった小笠原長行について藩を脱走して彰義隊に参加して戦うが敗れ、三河島まで輪王寺宮を護衛した後、輪王寺宮と共に旧幕府艦船で会津に入る。新政府軍が会津に侵攻し会津藩が降伏すると仙台まで転戦し小笠原長行と合流、榎本武揚の旧幕府艦隊に乗船して蝦夷地まで行こうとするが、仙台には他に旧老中・板倉勝静や桑名藩主・松平定敬らもいた為に随行する家臣の人数が制限されてしまう。しかし、土方歳三は新撰組に入るならという条件で許された小笠原胖之助は名前を三好胖と改名して入隊し蝦夷地へ入り指図役となる。小笠原長行は甥の胖之助をとても可愛がり随行した家臣たちに「決して危険な場所に出してはならぬ」と命じていた。しかし、七重村の戦いの時に後方から戦況を見ていた三好胖(ゆたか)は味方の兵が苦戦するのを黙って見ておれず外套やブーツを脱ぎ捨て抜刀するや部下の静止を振り切って敵陣へ斬り込んだ。激戦が静まり部下たちは三好胖を探したが既に敵弾に撃ち抜かれて戦死していたという。十七歳という血気盛んな若者の悲しい最期となった。
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アメリカへ渡った新撰組隊士 高木貞作

takagiteisaku.jpg高木貞作は嘉永元年、桑名藩家老・服部半蔵と酒井孫八郎兄弟の従兄弟として桑名元赤須賀に生まれた桑名藩士であった。慶応四年、二十一歳の時に主君・松平定敬の命で恭順派の家老・吉村権左衛門を同志・山脇隼太郎と越後柏崎で暗殺する。暗殺後、姿を隠し、名前を高木は神戸四郎、山脇は大河内太郎と変名して旧幕府軍の衝鉾隊に入隊、会津若松で桑名藩軍と合流して戦った。しかし、桑名藩軍は庄内で降伏したので彼らも降伏した。だが、桑名藩兵は桑名へ送られることになった為、もし帰れば暗殺した吉村の親族に仇討ちされるかもしれない。高木と山脇は僧侶に身を変えて脱走し函館にいる主君・定敬を頼って蝦夷地へ渡る。しかし、到着した頃には松平定敬は既に函館を発っていた。彼ら二人は土方歳三配下の新撰組に入隊して函館戦争を戦ったが土方が戦死し、蝦夷共和国は降伏する。高木と山脇は函館の称名寺で他の新撰組隊士と共に謹慎する。その後、船で東京まで護送され身柄を桑名藩に引き渡された。しかし二人は桑名には帰らず明治三年に渡米する。高木貞作だけが一旦帰国して明治五年に開拓使留学生(大蔵省派遣)として再び渡米してニューヨークで税関事務の見習いをして商業学校でホイトニーから運上所事務(税関事務)を学んだ。明治八年に帰国し森有礼らと共に商法講習所(現・一橋大学)創設に尽力し助教授として商業簿記を講義した。その後、東京第十五国立銀行(三井住友銀行の一つ)に入社、明治十五年には横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に移り、明治二十五年から二年間ニューヨーク出張所主任を務め帰国、神戸支店支配人を務めた後、依願退職。再び東京第十五国立銀行に移るが喘息が悪化して退職、趣味の短歌を嗜みながら悠々自適の生活を送り昭和八年に八十六歳で死去・・尚、山脇隼太郎はアメリカから帰国後、横浜で実業家として成功を収めたと言う。
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2008年12月05日

昭和まで生きた新撰組隊士 池田七三郎(稗田利八)

ikeda.bmp池田七三郎(稗田利八)は嘉永二年、上総山辺郡田間村の商人・稗田佐五七の三男として生まれた。慶応元年に江戸へ出て天野静一郎の一刀流道場に入門し天野の推挙で旗本・永見貞之丞の家来になる。慶応三年、利八十八歳の時、江戸へ隊士募集にやってきた土方歳三に入隊を志願して局長附けとして上洛する。翌年、鳥羽・伏見の戦いで負傷し江戸へ撤退するも甲陽鎮撫隊に従軍した。しかし勝沼の戦いでも銃弾を受けて重傷を負った。元新撰組軍目付の久米部正親を隊長格とした負傷兵の隊に隊長附けとして会津戦争に参加する。母成峠の戦い後、斉藤一とともに会津藩に残留を決意する。如来堂の戦いで斉藤らと戦死したと思われたが逃げ延び久米部とともに独自で抗戦を試みるが敵わず銚子守備中の高崎藩兵に降伏した。降伏後は江戸へ護送されて一年間の謹慎処分を経て釈放された。その後、子母沢寛の取材を受け新撰組最後の隊士としての回顧録「新撰組聞書」を残している。昭和十三年に九十歳の天寿を全うした。僅か十八歳で新撰組に入隊して一刀流の剣一本で数々の戦場で戦い、顔面を貫通するほどの重傷を負いながらも戦う意思を失くさなかった姿はまさしく「侍」だったといえる。/strong>
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2008年12月02日

新撰組に憧れた土方の親戚 松本捨松

matusute.jpgNHK大河ドラマ「新撰組」で中村獅童が演じた架空の人物・滝本捨松のモデルとなった人物・松本捨松は弘化二年、武蔵国多摩郡本宿村の名主・松本友八の長男として生まれるが、博徒と交わり放蕩生活を送った為に実家から勘当された。松本家は土方歳三の甥・錠之助を里子として迎え入れる。文久三年、浪士組上洛に参加しようとしたが家族の反対で断念した(当時は長男は入隊出来なかった)。しかし諦め切れずに突如上洛して壬生の屯所に土方歳三を訪ね入隊を申し出る。だが、土方は捨松の天然理心流の腕前や放蕩ぶりを知っていたので聞き入れず郷里へ返した。しかし、新撰組への思いは絶えることなく慶応三年に再々度上洛して入隊を願ったので局長附人数として入隊を認められた。しかし、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸へ撤退し、甲陽鎮撫隊として勝沼の戦いにも敗れて土方とともに会津戦争に加わった。母成峠の戦いで敗れ仙台まで退くがここで離隊して郷里へ帰る。維新後は松本家の家督を里子にしていた土方錠之助に相続させ、自らは新撰組六番組長・井上源三郎の姪・モトを後妻として迎えて東京牛込に退く。その後、三河の渥美郡や名古屋で米穀商を営んだ。晩年は八王子で暮らし田が大正七年に七十四歳で死去する。
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2008年12月01日

新撰組の後援者 佐藤彦五郎

hiko.jpg佐藤彦五郎は文政十年、武蔵国多摩郡日野宿に父・半次郎と母・まさの長男として生まれる。十一歳で祖父・彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合寄場名主を引き継ぐ。弘化二年、十九歳のときに、従兄弟であった石田村の土方歳三の姉・とく(維新後はのぶと改名)と結婚した。ねえちゃん子の末弟であった土方歳三は幼い頃から佐藤邸へ出入りしていた。嘉永二年、佐藤家の向かいの家から出火があり佐藤家と近辺の家が全焼した。この時に一人の賊が侵入して彦五郎の祖母らが斬殺される事件が起こった。彦五郎は武芸の必要性を感じ、天然理心流の三代目近藤周助の門人となり、佐藤邸内の一角に出稽古用の道場を設ける。そこへ、後に天然理心流を継ぐ近藤勇や沖田総司、井上源三郎らが出稽古に訪れ竹刀を振るったという。土方もまた、後にこの天然理心流に入門し、新撰組の主要メンバーが揃うことになる。また、彦五郎は安政元年に品川沖に幕府が砲台を築いた折に多額の献金をしたり、文久二年のコレラ流行の際には私財をなげうって薬剤を施与した。文久三年の幕府浪士隊募集に自ら参加したかったが、名主の仕事があるため、義弟の土方歳三に参加させ、自らは江戸と多摩に残された新撰組隊士の子弟たちの世話と剣術の指導をした。京都で初期新撰組が困窮していた頃には度々資金援助を行った。また、彦五郎自身も日野農兵隊を組織して相次ぐ飢饉のため武州各地で蜂起した農民一揆が多摩川対岸まで押し寄せた折、日野農兵隊と八王子千人同心とともに撃退して、日野宿と八王子宿での打ち毀しを免れた。彦五郎の豪胆さは近藤も舌を巻くほどで、慶応三年に薩摩脱藩浪人が軍用金と称して押し借りを働きながら八王子までやってきたので、代官所からの命で日野農兵隊から討ち手を集めた彦五郎はその不逞浪士の宿泊先であった壺伊勢屋に踏み込んだ。しかし、不逞浪士たちは短筒にて応戦したが彦五郎は臆せずに天然理心流自慢の諸手突きで相手を仕留めたという。後日この話を聞いた近藤勇は「鉄砲と刀の打ち合いだけは危ない、私もそれだけはやったことがない」と驚いた。慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで敗れた新撰組は江戸へ撤退し甲陽鎮撫隊を組織したが、その兵糧一切を彦五郎が受け持ち、自らは近在の義勇軍である春日隊を編成して追従したが、勝沼の戦いで敗走する。征討軍の追及を受け一時、一家離散の憂き目に会うが、維新後に日野宿近隣の人々の嘆願により赦され初代日野町長、南多摩郡長などを歴任し明治三十五年に七十六歳の生涯を閉じた。天然理心流の縁で佐藤彦五郎は土方歳三の親戚・小島鹿之助と近藤勇と三人は義兄弟の杯を交わした。
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2008年11月24日

新撰組隊士が愛用していた刀

新撰組の愛刀で一番有名なのはやはり局長・近藤勇が所有し池田屋事件で鋭い斬れ味を見せた名刀・「長曾禰虎徹」近藤がどのように手に入れた諸説あります。「自身が江戸で買い求めた」「大阪の豪商・鴻池に貰った」「斉藤一が掘り出した」まで様々なことをいわれている。だが、現代の有力な説は近藤勇が所有した「虎徹」は実は幕末の刀工・源清麿の作に「虎徹」の偽銘を入れた贋物だったという説が有力です。しかし、池田屋事件で振るった「虎徹」の斬れ味は凄まじく一人で多人数を相手にして少しの刃こぼれで鞘にまっすぐ納まった、まさしく名刀であったという。(近藤勇の腕が刀を選ばなかった。)新撰組ナンバー2の土方歳三の愛刀で有名な「和泉守兼定」この刀ははじめ大業物となっていたが後に最上大業物に格上げされた刀です。(幕府の首斬り役人・山田浅右衛門が罪人を試し斬りし、四段階の格付けをした。最上大業物「長曾禰虎徹」「孫六兼元」など12工、大業物21工、良業物50工、業物80工が格付けされている。)土方ははじめ幼い頃から世話になった姉の嫁ぎ先の義兄・佐藤彦五郎邸にあった地元下原刀の康重を所持していたが上洛した際、「のさだ」と銘を打った二代目和泉守兼定を盲目の古物商から僅か五両で購入したという。(和泉守兼定は二代目兼定の銘は定の字のウ冠のしたが「之」と打っていたので「ノサダ」といわれ三代目以降は「疋」と打ったので「ヒキサダ」といわれた。また、当時は「虎徹」が五十両のときに兼定は千両兼定といわれるほど高価なものだったという。)次に沖田総司の愛刀で有名な「菊一文字則宗」ですが、この刀は存在しません。後鳥羽上皇が諸国の名刀工を招いて鍛えさせた。則宗は御番鍛冶を務めたことから後鳥羽上皇から十六弁の菊紋を入れることを許されたといわれていますが実在した事実はないらしい。また、幕末当時には則宗一文字は国宝級の名刀で沖田総司が買い求められる代物ではない。実際、沖田は加州清光を愛刀にしていたらしい。加州清光は加賀藩主・前田綱紀が建てた「窮民収容所」に住んでいた為「乞食清光」と呼ばれた新刀のこと。一説には山城守藤原国清を所持していたという。二代目国清は中央に一と菊紋を入れているのがあるのでこの刀を所持していたのではないかといわれている。次に斉藤一が所持していたのは「鬼神丸国重」という摂津の国在住(現・大阪府池田市あたり)の刀工で大乱れの華やかな刃文が特徴の刀を使っていた。次に永倉新八の愛刀は手柄山氏繁という刀で播州姫路の刀鍛冶で晩年には奥州白川の松平定信のお抱え鍛冶になったといわれている。また、名前の「手柄山」から縁起が良いといわれ多くの武士が買い求めたという。余談だが坂本龍馬は陸奥守吉行を所持していたという。陸奥守吉行は陸奥国から土佐へ移住してきたのが「土佐吉行」で代々坂本家に伝わっていた刀を龍馬が脱藩する時に姉の乙女が持たせてくれた物といわれている。龍馬が近江屋で暗殺された時、敵の刀をこの陸奥守吉行で鞘ごと受け止めたという。龍馬の死後、坂本家で保管していたが火事で消失したらしい。
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2008年10月20日

最後のサムライ 近藤勇

2004_0130_014545AA1.jpg近藤勇は初名を宮川勝五郎といい、天保五年に武州多摩石原村に住む豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。久次郎は村の顔役で家に道場や文学塾を持っていた。嘉永元年、勝五郎は自宅の道場に出稽古に来ていた天然理心流三代目宗主・近藤周介に剣の腕と気質を見込まれ(宮川家にある夜、白刃を持った盗人が押し入って来たが十五歳の勝五郎は勇敢に立ち向いそれを撃退したという)勝五郎は先ず、周介の実家の島村家の養子となり、(近藤周介もまた養子で近藤家に入った。)島村勝太と名乗る。後に近藤家に入り近藤勇となる。天然理心流四代目宗主の座を継いだ勇のもとには様々な剣客が出入りするようになる。市ヶ谷甲羅町の道場には幼い時から住込み手伝いをしていた沖田総司を初め、原田左之介、山南敬介、藤堂平助、永倉新八らが居候していた。それに門徒の土方歳三や井上源三郎を加えた八名が文久三年、清河八郎が組織した将軍護衛の「浪士隊」に参加した。しかし、隊では芹沢鴨や香具師の親分・祐天仙之助などが幅を利かせていた。勇は初め、平隊士だったが、実力を見込まれ取締付・池田徳太郎の補佐役を任じられる。上洛後、近藤勇一行と芹沢鴨派の合わせて十三名が壬生の郷士・八木源之丞邸に宿泊した。到着してまもなく清河八郎は浪士を集め「将軍警護は建前で本来は尊王攘夷であった」と発表、近藤や芹沢ら八木邸宿泊組は納得できず京都に残留することに決めた。彼らの身は京都の治安を守るのに藩兵だけでは不足で、少しでも人数の欲しい京都守護職の会津藩が預かることとなった。(守護職・松平容保も渡りに船で喜んで承諾した。)斉藤一や松原忠司らが新たに加わった浪士組二十四名は組織内での派閥争いが原因で局長に芹沢鴨と新見錦そして近藤勇の三人が着任という不自然な形となった。すぐに芹沢派が問題を起こした。芹沢たちは強盗まがいの強引な押し借りや京都の街中で大砲を発砲、乱闘などを重ね京都の町の人々を震え上がらせた。見かねた近藤と会津藩は粛清を計画する。先ず、新見錦を隊規違反で切腹させ芹沢とその部下に夜襲をかけ暗殺する。浪士組は局長に近藤勇、副長に土方歳三という新体制が出来た。松平容保は大変喜び浪士組に「新撰組」という隊名を与え、京都見廻組とともに不逞浪士の取り締まりと京都市中の警護を任せた。
文久三年、長州藩が会津と薩摩藩の政治クーデターにより京都から追放された八月十八日の政変で出動、長州藩は京都における勢力挽回を狙い徳川慶喜や守護職・松平容保の暗殺と孝明天皇を拉致し長州へ連れ帰るという計画を三条木屋町の池田屋で協議しているところを新撰組が突き止め襲撃、近藤と沖田が二人で二階に踏み込み藤堂平助と永倉新八が逃げ出した敵を打った。沖田総司は一人で八人の敵を斬り倒したが途中、結核が悪化し喀血、戦闘を離脱したが近藤勇は愛刀の虎徹で奮戦、土方隊が合流してかたがついたという。この寺田屋事件で「新撰組」は一躍京都の尊王攘夷派の不逞浪士に恐れられた。しかし「新撰組」は真の武士ではなく真の武士になりたい連中の集まりだったので厳しい隊内規則で隊士を統制していた為、一説には敵と戦って死亡した人数より隊内粛清で死んだ数の方が多いといわれている。近藤勇は拳が口に入るほど大きく、頬骨が高く張っていて体格もかなりがっちりしたいかつい男だが、普段は優しく部下思いだったという。隊内の内部抗争や粛清は殆どが土方の指示で行われた。伊東甲子太郎一派が御陵衛士の高台寺党の粛清の時には、天然理心流時代からの古株の藤堂平助は斬らず逃がしてやるように命じていた。(運悪く平隊士が後ろから斬り絶命してしまった。)近藤は農民出身らしく性格は質素、実直であった。池田屋事件の功績を認められた近藤に幕府は直参に迎えるという話を「新撰組」全員でないと受けないと断ったという。(後にそれは実現した。)そのくせ、故郷に妻子を残しながら、京都に何人もの妾を囲い子供をうませている。剣の腕も数多くの実践経験を持ち、新撰組一番の天才剣士・沖田総司が唯一かなわないほどの腕前であった。近藤は新撰組局長としての実力、荒くれ者の部下を統率する凄みと思いやり、そして幕府への忠節を貫く心、すべてを兼ね備えた大きな人物であった。その後、新撰組は隊士は百人を超えるほどに増えたが、歴史の流れに逆らえず王政復古の大号令が発せられると京都は緊迫した情勢に包まれた。幕府軍の主力が京都に集結し新撰組もその一部隊として伏見に出陣する。慶応三年、近藤は二条城から伏見陣営に帰る途中に伊東甲子太郎らを惨殺された高台寺党の残党に狙撃され重傷を負ってしまう。以後、大阪城で長期療養に入り鳥羽伏見の戦いの時には副長・土方歳三に新撰組を託した。しかし新撰組は剣客集団で薩長軍の最新銃火器の前では得意の抜刀斬り込みも役には立たず隊の大半は討ち死にまたは逃亡した。残った新撰組隊士と近藤勇、結核が悪化し大阪城で療養していた沖田総司は幕府軍艦で江戸へ戻った。新撰組が居ては困る江戸の恭順派幕臣たちは近藤勇に大名格の身分と甲陽鎮撫隊として新政府軍の甲府進軍を阻止する使命を与えた。近藤は大久保大和と改名し進撃するも、大名格に出世した喜びに浸り故郷で三日三晩のドンちゃん騒ぎで甲州勝沼の戦いに遅れ敗北、江戸へ戻った。江戸で試衛館時代からの仲間、永倉新八と原田左之助が意見の違いから脱退し靖兵隊を結成した。近藤と土方は再起を賭け流山に出陣するも新政府軍に包囲され、土方は必死で止めるが「歳さん、もう俺を自由にしてくれ」といって近藤は投降する。近藤勇はあくまでも自分は大久保大和であると主張するが、新政府軍の中に元新撰組の高台時党の者がいて正体を見破る。薩摩の有馬藤太は「近藤はわが軍の敵ではあるが、徳川にとっては忠臣である。朝廷に牙を剥く者ではない」といって処刑しないように言って陣を離れたが、土佐の谷干城は手柄を焦り近藤を斬首する。首は板橋、大坂の千日前、京都三条河原の三ヶ所に晒されその後行方不明となった。近藤勇奪還のため、追尾していて捕縛された局長付の相馬主計たちの処刑中止を嘆願し、自らの命と引き換えに赦免させたという。享年三十五歳 最期の言葉は「楽しかったな」だったらしい。
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2008年10月14日

謎の多い今弁慶こと四番隊組長 松原忠司

松原忠司は播磨国小野藩士の子として生まれ、安政年間に脱藩して大坂で関口流柔術道場を構える。文久三年、壬生浪士組(新撰組の前身)の募集に大坂で参加。八月十八日の政変では坊主頭に白鉢巻、手には大薙刀を携えて仙洞御所前、禁裏御所南門の警備に当たり活躍をし「今弁慶」と呼ばれた。また、元治元年の池田屋事件では土方隊に属し報奨金十五両を賜る。慶応元年に副長助勤、四番隊組長兼柔術師範を勤めるが自分が役目によって安西某という浪士を斬り捨てたがその妻女を哀れに思い通っている間に恋愛感情が芽生え、屯所の近くに住まわせる。このことを土方歳三に厳しく咎められ、また隊内の噂で妻女目当てに浪士を斬ったといわれ幹部としての責任を感じ切腹した。松原の行動に異変を感じた友の篠原泰之進が切腹に気づき一命をとり止めたが平隊士に降格、自暴自棄になった松原は妻女を絞め殺し自ら自害して果てたといわれている。(壬生心中事件)しかし病死という説もあり定かではない。屯所代わりの八木邸付近では顔、体はいかついが新撰組では山南敬介と松原忠司の怒ったところを見たことがないといわれるくらい心優しい男であった。
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2008年10月13日

異色の新撰組隊士 三浦啓之助

keinosuke.jpg三浦啓之助は本名を佐久間恪次郎という。嘉永元年に父は開国派の知識人として知られた佐久間象山で母はその妾・お蝶の間に生まれた。義母で勝海舟の妹・お順の姓・三浦を名乗った。元治元年、父・佐久間象山に随行して上洛するが、父・象山が暗殺されてしまう。象山の弟子で会津藩士の山本覚馬に仇討ちを勧められ、伯父の勝海舟の口添えで新撰組に入隊する。身分は平隊士であったが、勝の口添えであり佐久間象山の子息ということでもあるので格別な待遇であったらしい。しかし、亡父譲りの傲慢な性格のため土方歳三や沖田総司に目を付けられる。はじめはおとなしくしていたが次第に芦屋登ら仲間と粗暴な振る舞いが多くなり、土方より祖国・松代藩に帰藩するように促さるが啓之助はこれを拒んだ。ある日、沖田総司から「二人で飲みにいきませんか」と誘われた為、粛清されると思い芦屋登と共に脱走する。その後、明治に入ってから勝海舟の紹介で鹿児島に帰っていた西郷隆盛に預けられるが二年ほどで江戸へ帰ってくる。明治四年、佐久間恪(いそし)と改名福沢諭吉の慶応義塾に入ったらしい。明治六年、町娘・ますと結婚し長男継述をもうけるが早世した。恪は象山門下の渡辺驥の世話で愛媛県司法省十二等出仕、県庁聴訴課付となる。愛媛の松山に単身赴任したが河内うたとの間に娘・小松が生まれ、松山裁判所判事として在職中の明治十年に二十九歳で急逝した。死因はうなぎ料理による食中毒、酒乱の果てに庭の池に落ちて溺死したともコレラによる病死など色々な説があるが結局死ぬまでお坊ちゃまであった。
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