2013年10月29日
「鹿鳴館の貴婦人」会津藩山川家の末娘 大山捨松
大山捨松は会津藩の国家老・山川尚江重固の二男五女の末娘・山川咲として安政七年に生まれた。生まれた時には既に父・重固は亡くなっており祖父・重英が親代わりとなり重英亡き後は長兄・大蔵(後の浩)が親代わりとなった。知行高千石の裕福な山川家で育ったが咲が八歳のとき会津戦争が勃発し籠城戦を家族と共に戦い幼いながら負傷兵の手当てや炊き出しなどを手伝ったり城内に着弾した敵砲弾の不発弾を濡れ布団で押さえて消す「焼玉押さえ」を手伝った咲は負傷し義姉(山川大蔵の妻)は亡くなった。(後に夫になる大山巌は会津鶴ヶ城を攻める側だった。)会津藩が降伏し山川家は家族で斗南藩へ移住するも賊軍の汚名を着せられた厳しい生活の中、末娘の咲は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その縁でフランス人夫婦の家に引取られて生活するようになる。明治四年、アメリカ視察から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆はアメリカで見た男女が同じ仕事に汗をかいている姿に感銘を受け(当時日本は男尊女卑が当たり前だった。)日本の若者をアメリカに留学させるのに異例の男女若干名として女性の留学生も募集した。山川家はこの官費留学を名誉挽回の絶好機と見て次兄・健次郎を留学させるが当初女子留学生の応募は殆どなかった。十一歳になった咲は利発でありフランス人との生活で西洋文化に慣れ親しんでいるという様々な理由といざという時には次兄・健次郎もいるということから留学生に応募し岩倉使節団に随行する。山川家では母・艶は十年もの長い期間の留学なので捨てる気持ちで待つという意味合いをこめて名前を咲から捨松と改め送り出したという。アメリカに着いた五人の女子留学生達の内年長の二人は西洋の生活に馴染めずホームシックや病気の為に一年を待たずに帰国してしまうが年少の捨松十二歳、津田梅子九歳、永井しげ十歳ら三人はアメリカ生活に馴染み捨松はコネチカット州ニューへブンのリオナード・ベーコン牧師の家庭での滞在になった。(永井しげは捨松と同じところのアボット牧師の家、津田梅子はジョージタウン「現・ワシントンDC」の日本弁務官書記で画家のチャールズ・ランカンの家庭へ預けられる。)ベーコン家で捨松はゲストとしてではなくベーコン家の14人の兄弟姉妹の末っ子として育てられ十六歳でキリスト教の洗礼を受けた。特に2才年上のアリスとは年が近いこともあって大変仲がよく生涯の付き合いであったという。捨松は地元ニューヘブンのヒルハウス高校を経て永井しげと共にニューヨーク州ポキプシーで大学生活に入る。永井しげが専門科である音楽学校を選んだが捨松は英語を完璧にマスターしていたため通常科で名門のヴァッサー大学へ入学、この全寮制女子大学でサムライの娘SUTEMATSUは優秀な成績を収めその美貌もあって大学2年の時には学生会の学年会会長に選出され優秀な頭脳を持った生徒しか許されなかったシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(真実を愛する者の会)に入会している。全学生通年成績3番目の「偉大な名誉」の称号を得て卒業する。卒業式に際して卒業生総代の一人に選ばれ卒業論文「英国の対日外交政策」を講演しその格式高い英語力と秀逸性から地元新聞に全文掲載された。卒業後日本では北海道開拓使が廃止され滞在理由がなくなり帰国命令が出されていたが捨松は滞在延長を申請し許可されるとコネチカット看護婦養成学校に通い1年で上級看護婦の免許を取得した。(この前年にアメリカ赤十字社設立に強い関心を寄せていた。これは幼少の頃に遭遇した会津戦争鶴ヶ城籠城で幼いながらも負傷兵の手当てや義姉の登勢が苦しみながら死んでいく姿を目の当たりにしたことが影響されたかもしれない。)明治十五年に日本の大学で教職に就く夢や日本赤十字に携わる夢を見て帰国した捨松は日本が今だ男尊女卑の風習が色濃く残っていることに絶望する。しかも十一歳という幼い時期の渡米で日本語も上手に話せす漢字は殆ど出来ない状態だった、当時は10歳代で結婚が当たり前の時代に23歳をむかえ親友のアリス・ベーコンに就職も出来ず婚期も遅れていると愚痴った手紙を送っている。そんな頃、妻を亡くし三人の娘を抱えた大山巌が永井しげ(瓜生繁子)の結婚披露宴で捨松を見て一目惚れしたという。(前妻は同じ鹿児島薩摩藩の精忠組出身の吉井友実の長女・沢子で三人の女子を出産後産後に体を壊し亡くなったので舅の吉井が大山を不憫に思い後妻を探していたところアメリカの名門大学で優秀な成績を残しフランス語やドイツ語も話せる捨松に白羽の矢が立ったとも云われている。当時の外交交渉は夜会や舞踏会でも夫人の存在は重要だった。)吉井友実を通じて山川家へ縁談を申し込むがにべもなく断られる。その理由は明らかで会津藩家老の家柄の山川家では会津戦争で一家一族の多くが薩摩藩兵に殺され当時当主の山川浩(大蔵改め)の妻も殺されている。その攻撃の砲兵隊長だった大山に大事な妹を嫁がせる訳がなかった。しかし大山も諦めず今度は従兄弟で農商務卿の西郷従道が説得に乗り出した。山川浩は二度三度と追い返すが西郷従道の誠心誠意の説得に我山川家は賊軍ですのでと断るが従道は「おいの兄さあ西郷隆盛も賊軍でごわす。自分も大山も賊軍の身内で同じ立場ではごわはんか」と粘った。山川は最後は「捨松本人次第」と譲歩する。捨松は一度あってみたいとデートの提案をした。当時、女性側からデートの誘いとは前代未聞のことだったが大山は大喜びで捨松と会う。薩摩なまりの大山と日本語があまり流暢に話せない捨松(アメリカ滞在中は日本語を忘れないようにと時折留学中の次兄・健次郎と会ったり永井しげとは日本語で会話をしていた)も英語での会話が捨松の心を和ませ(大山は英語は勿論、ドイツ語やフランス語も流暢に話せた)何度かのデートを重ねるうちに親子ほど年の離れた大山の心の広さや茶目っ気たっぷりのジョークで捨松も次第に恋心を抱くようになっていった。。アメリカで姉妹のように育った親友のアリス・ベーコンに捨松は「私は今やっと未来に希望が持てるようになりました。」からはじまり「たとえ家族がどんなに反対しても私は彼と結婚します。」と締めくくる惚気のような手紙を送った。交際三ヵ月で結婚となった二人は当時新築したばかりの「鹿鳴館」で結婚披露パーティーを開いたが案内状の全文はフランス語だったという。以後大山捨松となりその凜とした姿は「鹿鳴館の華」と讃えられ巌は仕事が終わると寄り道など一切せず真っ直ぐに妻や子供達のいる家へ帰り家族を大事にしたという。結婚二年後、捨松は政府高官夫人たち数名で共立東京病院(現・慈恵会医科大学病院)に見学に行った際に男性の雑用係が女性患者の世話をしている姿を見て愕然とした。アメリカでは考えられない情景だった。捨松はすぐさま院長の高木兼寛に看護婦養成学校の必要性を提案し院長も自分のイギリスセントトーマス病院に留学しナイチンゲール看護学校をつぶさに見学し必要性を感じていたが現実的に資金がないことを告げる。捨松は政府高官の妻達を何度も訪問し説得を繰り返し鹿鳴館でチャリティーバザールを開催することを提案し捨松自ら陣頭指揮を取った。(日本では物を売るのは身分の低い商人がすることで上流階級の人間がすることではないと皆が反対したが西洋では当たり前のことで上流階級だからこそ慈善事業を行うべきだと説得した。)鹿鳴館慈善会バザーを開催し3日間の開催で12000人の入場者となり当初の目標1000円をはるかに越える8000円という利益を上げた。このお金を全額共立東京病院の高木院長に寄付し2年後には有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)を設立される。このことを知った伊藤博文の要請を受け華族女学校(学習院女学部)の設立に尽力し親友の津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招聘し日本の女子教育の発展に期待したが出来上がった家族女学校は旧態依然とした男尊女卑の儒教的道徳教育で捨松たちを失望させた。明治三十三年、親友の津田梅子が女子英学塾の設立の相談を受け瓜生繁子(旧姓・永井しげ)やアメリカに帰っていたアリス・ベーコンに協力を頼んだ。華族女学校の時に失望した経験から自分たちの手で何処からも制限を受けないように誰からの援助も受けない理想の英学塾、後の津田塾大学が創設された。しかし経営資金の不足により瓜生繁子やアリス・ベーコンはボランティアで教師を務め捨松自身は顧問として塾の運営に積極的に関与し後に理事や同窓会長もつとめた。日清戦争が勃発すると捨松は戦傷者の看護を呼びかけ自らも活動を始め日露戦争では夫・巌が満州軍総司令官という重責を担って戦っているさ中、妻・捨松は鹿鳴館出の人脈を活かし華族の夫人、令嬢を率いて募金活動や戦傷者の為の包帯作りなどを率先して行い、アメリカで取得した上級看護婦の資格を生かして日本赤十字社での戦傷者の手当てなどのしたという。また、アメリカの新聞社や週刊誌に戦争の経緯、日本の立場や苦しい財政事情などを寄稿してアメリカでの親日家を増やしていった。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンを通して捨松のもとに送られ慈善活動費に使われた。日露戦争終結の仲介に入ったアメリカ政府高官は「この戦争で日本に有利な結果をもたらしたの要因の1つは大山捨松の活躍にあったからだろう」と言わしめた。大正五年、夫・巌は糖尿病からくる胃病から胆のう炎を併発し七十五歳出なくなり国葬が行われる。その後は一切表舞台には出なくなった捨松だが親友の津田梅子が病に倒れると混乱する女子英学塾に乗り込んで陣頭指揮を取り学校運営を安定させると引退した津田の後任塾長就任を見届けた翌日に捨松は流行していたスペイン風邪で倒れ回復することなく五十八歳の生涯を閉じる。津田梅子が女子教育に生涯を捧げ一生独身を貫きアリスベーコンもまた父の影響で人種差別や女子教育に夢中になり婚期を逃がし生涯独身だったことを思えば捨松は大山巌というすばらしい伴侶に恵まれ先妻・沢子が生んだ三人の女の子と自分が産んだ二男一女の六人の子供(二人の女の子は流産や幼くして亡くなっている)を分け隔てなく育て上げ(先妻の子供も「ママちゃん」と呼んで懐いていた。)幸せな家庭を築いた。{徳富蘆花は「不如帰」で捨松をモデルに意地悪な継母にしたて義娘・浪子を結核を理由に離れに押し込め不幸な死に方をした小説を書き誹謗中傷した。これが評判になり捨松はいわれなき中傷を受けた。)実際には先妻の長女・信子は結核により嫁ぎ先の三島彌太郎とその母に一方的な離婚を申し付けられ実家に帰った後は看護婦の資格がある捨松の親身な介護を受け病状が小康な時を見計らって夫・巌と家族三人で関西旅行を気分を和ませたという。(親友の津田梅子は三島彌太郎宅へ押しかけ母親に猛抗議したという。)捨松が亡くなる数日前に徳富蘆花から謝罪があったというが遅きに失した。
2013年07月08日
会津藩名門家老家の悲劇 内藤家一族
内藤家は会津藩の名門の家柄で古くは武田信玄の家臣で「武田二十四将」の一人「内藤修理亮昌豊」に嗣子がいなかった為に高遠城主・保科弾正忠正敏の次男を迎えて相続させた。この内藤家は時代が下り徳川の世になると「保科正之」(徳川二代将軍・秀忠の庶子として生まれ保科家に預けられる)の臣下として会津藩に入り大老職など重要ポストを担った。戊辰戦争当時は内藤介右衛門信節が十一歳で内藤家(家禄千七百石後に二千二百石に加増)を相続し戊辰戦争の時に会津藩家老を務めた。内藤信節(のぶこと)は天保十年、会津藩内藤家9代目として誕生した。弟に梶原平馬(梶原家に養子)、武川信臣(内藤家は本家だけが内藤姓を名乗り傍流は武川姓を名乗るのがならわしだった)がいる。藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると内藤信節は二十三歳で京都勤番となり二年後に若年寄に昇進、禁門の変の時に八隊千人の兵を率いて長州藩を撃退したが後の警護を薩摩藩に任せた為に藩主の叱責を受け若年寄を解職、蟄居謹慎させられる。翌年には復職し若年寄から家老になった。(この時に実弟・梶原平馬も家老になる。)慶応三年、会津藩は京都守護職の辞任を申し入れたが聞き入れられなかったので会津から内藤信節と梶原平馬が上京し老中・板倉に直談判し藩主の一時帰国を承諾させた。しかし、鳥羽伏見の戦いが始まるや将軍・慶喜の大阪城入城に伴い守護職屋敷を土佐藩に引き渡して大坂に下る。信節は直接鳥羽伏見の戦いには参戦せず枚方、守口方面へ戦場視察に出かけたがその間に将軍・慶喜と共に藩主・容保が大坂城を抜け出して江戸へ帰ってしまう。内藤信節はこの藩主不在を堅く口止めし急いで江戸へ向う。(会津の藩士たちが戦っているさなかのこの藩主東帰騒動の責任を取って神保修理が切腹した。)この後、奥羽越列藩同盟に実弟・梶原平馬と共に成立させ白河口の総督を罷免された西郷頼母に代わり信節が総督となるも会津戦争時に勢至堂方面の陣将として出陣したが母成峠が破れ城下に敵が押し寄せるとの報を聞き大平口の原田対馬隊を吸収して1000人余りの大部隊となって鶴ヶ城に入り三ノ丸の守備を担う。この時期に内藤家一族は入城出来ずに菩提寺のある川面村に非難したが新政府軍が菩提寺である泰雲寺辺りを包囲した為にもはやこれまでと一族十二人が揃って自決するにいたった(隠居していた内藤信節の父・信順、母・とも(つや)、信節の妻・ふさ(ひさ)、信節の長男・英馬、娘・ひで、妹のとく、つぐ、姪と叔母の計九名と家臣四名と上田家の五人が泰雲寺書院にて自刃した。会津藩降伏後、謹慎生活を終え斗南藩移住し藩の存続に尽力するが廃藩置県後、多くの藩士が会津に帰るが内藤信節はそのまま青森県五戸村に残り土地の開拓や子供達の教育に生涯を捧げ六十一歳で没した。今でも「内藤田」という地名が残っている。次弟の梶原平馬は斗南藩の移住後廃藩置県で青森県になると庶務課長となるがその後北海道根室に後妻・貞と共に移住しこの地で亡くなった。末弟の武川信臣兄弟の中でも温厚な性格で和歌を得意とした。鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に引き揚げたが会津藩の帰藩命令に従わず彰義隊の幡随院分屯の信意隊隊長となり二人の兄が会津藩家老となった為に藩相殿と呼ばれ八十人余りの隊士を率いて奮戦するも新政府軍に破れ再起を図って江戸市中に潜伏し佐々木只三郎の実弟・佐々木源四郎邸で密談中に小者に使っていた宗兵衛の裏切り密告により新政府側の鳥取藩士に捕縛される。(この騒ぎで応対に出た源四郎は玄関で射殺される。)武川信臣は元会津藩上屋敷のあった和倉門の獄に幽閉され彰義隊士で会津藩家老の弟という事で烈しい拷問を連日受け続けたが会津武士の意地を通し得意の和歌を残した。「君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは」(信臣は三角木の上で正座をさせられ、ひざの上に大石を幾つも積み重ねられる「石抱きの責め」を連日に渡り行われ骨は砕け皮膚は破れ肉が裂けても黙して語らなかったという。)明治元年、大赦令が出る三日前に斬首される。享年二十四歳・・・
2013年07月03日
白虎隊士中二番隊の悲劇を生んだ隊長 日向内記
日向内記は文久九年に会津藩上級武士・日向三郎右衛門(禄高七百石で会津藩内に十家ある日向家の総本家といわれている)の長男として生まれ諱は次法といい通称を内記といった。会津藩が京都守護職拝命後は京都に滞在、蛤御門の変では番頭組の組頭として戦功をあげ家老附組頭に昇進、会津藩軍制改革で朱雀士中二番隊中隊長になったが山川大蔵が若年寄りに抜擢されたのでその後任として砲兵隊隊長に任命され日光口に配属された。その後、日向内記は藩主警護の任にあった白虎隊士中二番隊中隊長に任命され藩主・容保に従って滝沢本陣に入った。(この人事に関しては不明な点が多く、何か最前線にあった砲兵隊隊長が任務に不手際があったのか更迭のような人事だったという。)新政府軍が迫る中、戸之口原が危ないとの知らせを受け急遽白虎隊士中二番隊は戸之口原に出陣し翌朝の戦に備え夜営を張った。食料調達の為(これは飯沼貞吉の証言のみ)か近くの本営・佐川官兵衛隊との打ち合わせのためか内記は白虎隊の少年達を置いて一人で隊を離れた。(このことが日向内記が少年達を置いて敵前逃亡したとのそしりを受ける)強清水村にある本営での作戦会議?の帰りに翌未明の激戦に巻き込まれ赤井谷湿地で敵弾を頬に受け帰隊出来ないまま指揮官のいない白虎隊士中二番隊はバラバラになり一部が飯盛山での自決した。(このことを内記が知ったのは会津藩降伏後のことだったという)日向内記は士中二番隊を探しながら鶴ヶ城まで戻り籠城戦に加わることとなったがこの時に郡上藩凌霜隊も日向内記の指揮下に入った。(日向内記は戻ってきた白虎隊士中一番隊と二番隊を1つにまとめた合同隊の隊長として西出丸の守備についた。)会津藩が降伏開城後に謹慎を経て明治三年に斗南藩移住の新藩主・松平容大(容保の嫡子で当時二歳)の警護役として従ったという。その後、内記は家族と共に移住したが廃藩置県で斗南藩が消滅すると会津に戻るも知人を頼って喜多方に移住したが定職には就かず六十歳の生涯を閉じた。(会津や喜多方でも二十名近くの少年を死に追いやった敵前逃亡者、卑怯者のそしりを受けたが一切の言い訳をせずその後も会津藩主の名誉回復のために奔走し多という。もし、本当に日向内記が少年を見捨て敵前逃亡をしていたなら鶴ヶ城には戻らず行方不明になっているはずだし郡上藩に見捨てられた「凌霜隊」が志願して日向内記の配下に入ったりはしなかったと思う。やはり日向内記は責任感、人望共にある優秀な指揮官だったのではと自分は思う。ただ、前任の山川大蔵が桁外れに優秀であったためにどうしても比べられ見下されたのだと思った。白虎隊に関しても直ぐに戻るはずがあまりにも新政府軍の侵攻が早く少年兵の心の動揺を考慮出来ずに悲劇を招いた不運が内記の人生を狂わせた。)
2013年06月28日
会津戦争で藩を支えた山川家の女 山川二葉・山川登勢・咲子(捨松)
幕末の山川家は会津藩家老・山川重固(家禄1000石)と妻・艶(唐衣)との間に長女・二葉、長男・浩(大蔵)、次女・三和、三女・操、次男・健次郎、四女・常盤、末妹・捨松(咲子)がいました。(十二人の子供をもうけたが会津戦争時に生存していたのがこの七人だった。)長女・二葉は会津藩家老の梶原平馬に嫁ぎ長男・景清を生むが戊辰戦争前に若年寄や家老という執政職に就いたときに水野貞という女性と深い関係となり正妻・二葉と不仲になっていた。会津戦争の頃には二葉は長男・景清を連れて会津に帰っていたらしい。新政府軍の攻撃が激化するにつれ会津藩の子女も鶴ヶ城に籠城して戦ったが二葉もまた長男・景清を連れて籠城戦を戦ったという。母の艶(唐衣)、妹の三和、操、常盤、義妹・登勢(山川大蔵こと浩の妻)なども籠城し炊飯や負傷兵の手当て、不足した弾薬の製造などを行ったという。(また、命がけで敵砲着弾(焼玉)に水布団をかぶせて火事をを防ぐという男子でさえ出来ないことを会津女性はやっていたが敵砲弾にはこの焼玉と実際に爆発する炸裂弾があり見誤ると命を落とす。)山川家嫡男の大蔵(後の浩)の妻・登勢が照姫警護に就いていたが敵の炸裂弾に被弾、全身三箇所に重傷を負い介錯を義母・艶に頼んだが聞き入れられず苦しみながら非業の死を遂げた。(城内での死者は空井戸にまとめて埋葬されていたが登勢は幸いにも夫・大蔵の部下が居たため鎧櫃に納められ懇ろに埋葬されたという。母・艶は照姫付きの城内総取締役として奔走、妹・操は炊事を嫌い銃を持って戦ったと言われている。一方、末妹の咲子はまだ籠城時には八歳だったが焼玉消しなど照姫の側で活躍し義姉・登勢が被弾した時に共に被弾し首に軽症を負った。弟・健次郎は会津白虎隊として籠城戦を戦ったというが定かではないらしい。(あの飯盛山の白虎隊とは別隊)会津藩降伏後は長男・大蔵(後の浩)は猪苗代に謹慎後東京に出て会津藩を立て直す活動をする。会津藩は本州最北端の斗南藩として再建に尽力する大蔵は名を浩と改めた。しかし藩民総島流しのような過酷な生活の中で権大参事として若藩主(旧藩主・松平容保の嫡男・慶三郎)をたすけたが、明治四年の廃藩置県に伴い斗南藩は消滅し青森県に出仕した後に元敵方として対決した元土佐藩士・谷干城の招きを受け東京に出て陸軍に入る。一方、姉・二葉は夫・梶原平馬と戊辰戦争前に別居していたが維新後に夫の妾・水野貞が懐妊したのをきっかけに離婚が成立したという。二葉は一子・景清と共に青森斗南藩に移住した後、兄と共に上京し元会津藩士・高嶺秀夫が校長をしていた関係で女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の生徒取締として出仕、その後二十八年間教育者として功績を挙げ高等官となり従五位に叙せられた。次女・三和は会津戦争前に会津藩士・桜井弥一右衛門政衛と結婚、夫は二本松の戦いで腹部貫通の重傷を負い籠城戦には間に合わなかったが斗南藩移住後は白虎隊隊長として解隊式を行った。青森県で教鞭をとり後に北海道に渡って校長として教育に関わったが妻の三和も共に教壇に立ったという。三女・操は十七歳で籠城戦を戦い降伏後に小出鉄之助(小出光照)と結婚(小出光照は会津藩士で日新館では秀才といわれ藩主の小姓に抜擢されるがこれを辞退し江戸へ留学、古屋作左衛門の私塾に入門し洋学を学ぶが花見の帰りに役人に咎められ揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰国するように命じたが小出は古屋と相談し脱藩、古屋の尽力で海外への留学することになった。横浜で出航を待っている中、鳥羽伏見の戦いで会津藩の敗戦を聞き即刻出航を取りやめて親友だった山川大蔵の元へはせ参じ謝罪して帰藩し籠城戦を軍事方として戦う。降伏後は斬首を覚悟して謹慎中の猪苗代を秋月悌次郎ら共に脱走し秋月旧知の長州藩士・奥平謙輔に面会し会津藩再興の嘆願と書生として少年二人を預ける。(山川大蔵の弟・健次郎と小川亮)斗南藩では司民掛などを歴任し辞職、佐賀県令・岩村通俊の知遇を受け佐賀県に赴任し翌年に佐賀の乱で討死)夫・小出の死後失意の操はロシア留学を決意、帰国後が明治天皇のフランス語通訳、昭憲皇太后附き女官として出仕。三女・常盤は山川家の書生をしていた徳力徳治を婿養子に迎えて山川家を継いだ。徳力こと山川徳治は子供のころから天才の誉れ高く萱野権兵衛の子・郡長正、神保修理の弟・巌之助と共に留学生七人組みに選ばれる。維新後は各地裁判所の検事正として活躍、生後八ヶ月の息子・戈登(ゴルドン)を義兄・浩の養子とした。(名前の戈登「ゴルドン」は浩が敬愛する「太平天国の乱」平定に活躍した軍人・チャールズ・ゴードンから取ったといわれている)養父・山川浩の男爵家を相続した山川戈登も実父・山川徳治に負けず劣らず天才で学者として期待されたが僅か二十四歳で急逝した。弟・健次郎は会津戦争時は白虎隊に入隊したが若年の為に一度離隊?籠城戦に加わった。降伏後は謹慎中にもかかわらず秋月悌次郎らと脱走し長州藩士・奥平謙輔の書生となり後にアメリカへ国費留学を果たす。アメリカでは難関イエール大学を一発合格し日本初の物理学教授となる。その後、東大総長や貴族院勅撰議員など功績を残し山川健次郎男爵家を興す。末妹の咲子は斗南藩移住後、貧困の為に函館の沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟で元・山本琢磨と言い盗んだ金時計を質屋に持ち込んだことで江戸から逃亡し函館で日本人初の正教徒司祭をしていた。)に里子に出され彼の紹介でフランス人夫婦に引取られる。黒田清隆は明治新政府の国費留学の募集に女子も入れるべきとの発案にはじめは誰も応じるものがいなかったが西洋の暮らしに慣れていた咲子(当時11歳)ら5人がアメリカへ留学することとなった。(母・艶は咲子をもう捨てた子と覚悟を決め立派になって帰ってくるのを待つ(松)という意味で「捨松」と改名したといわれている)山川捨松はアメリカでは宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻の家庭に寄宿しそこの娘・アリス(生涯の親友となった)と共に小中高と通い名門校のヴァッサー大学に入学し容姿端麗で英語の堪能な捨松は人気者だったという。卒業後はコネチカット看護婦養成所で上級の甲種看護婦免許を取得(五人の女子留学生の内15歳の年長者ふたりはホームシックで直ぐに帰国、残った9歳の永井繁子と8歳の津田梅子と12歳の山川捨松はその後10年間アメリカに滞在した。)明治十五年、二十三歳で帰国した捨松は二十歳までに結婚するのが当たり前の時代に婚期を逃したアメリカ娘と陰口を叩かれる。この頃既に北海道開拓使も廃止しており働き口がないまま時が過ぎていたがその頃後妻を探していた陸軍卿・大山巌が結婚を申し込む。しかし、兄・山川浩は元薩摩藩士・大山巌は会津戦争当時、鶴ヶ城に砲弾を撃ち込み会津の民を殺した(浩の妻・登勢もこの砲撃で死んでいる)張本人に大事な妹をやれるかという気持ちがあった。しかし、大山巌も粘り強く説得し捨松もデートを重ねるにつれ大山の人柄に惹かれ結婚する決意をする。当時、完成したばかりの「鹿鳴館」で初の披露宴を開き、以来捨松はその美しさ、気品で鹿鳴館の花といわれる。(写真前は山川二葉、後ろは咲子こと捨松)
2013年05月19日
八重の桜 山本八重の妹分 日向ゆき
日向ゆきは寛永五年に会津藩御旗奉行四百石の日向左衛門と母・ちか(飯沼粂之進の娘で姉は西郷頼母の妻知恵子)の2男2女の長女として生まれる。山本八重とは六歳年下、家も直ぐ近所で小さい頃から兄弟のように育った。(八重は実妹が二歳の時に死別しているのでゆきを妹のように思っていたらしい。)ゆきは子供のころは日向よし子と名乗っていた三歳の頃に実母・日向ちかが病死したので父・左衛門は後妻に会津藩士・有賀豊之進の妹・秀が入り男子を4人もうけた。ゆきは義母にいじめられもしなかったが可愛がられもせず近所の八重や時尾と姉妹のように育ったという。父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが戊辰戦争の直前に町の風紀が乱れているの憂いて自ら志願して町奉行になったという。(御旗奉行より町奉行は身分が低く普通はやらないが父・左衛門は望んで降格を願い出た。)慶応四年ゆきが18歳になったころ、戊辰戦争が勃発、会津に向って新政府軍が侵攻してくるとゆきは籠城するために鶴ヶ城に入ろうとしたが既に城門は閉ざされ入ることが出来なくなった。ゆきは盲目の祖母や継母・秀、弟妹らと敵兵が真っ只中を突ききり市外に逃れ御山在の肝煎り・栗城伝吉の家に非難し終戦まで暮らしたという。一方、父・左衛門は町奉行として大町口郭門を守っていたが敵兵の狙撃を受けて落馬、それでも戦い続けたがついには負傷し敵に首を取られるくらいならと左衛門の母方の実家である加須谷大学(八百石取)の屋敷内の竹やぶで自害して果てた。兄・新太郎(20歳)は遊撃二番隊の中隊長として敵兵が占拠している飯寺奪還の為に進軍し材木町の柳土手で銃撃戦となり負傷、肩を打ち抜かれ撃てなくなると部下に介錯を命じて自刃する。日向ゆきは会津兵の埋葬がようやく許されると早速父・左衛門の遺体を捜し加須屋邸の竹やぶからボロボロの紋付と白骨化した遺体を発見し浄光寺に埋葬した。その後、兄・新太郎の部下から会津戦争時の様子を詳しく聞き兄の首をくわえてきた野良犬を追い払った村人からその首を発見し父の墓の隣に葬った。会津藩が斗南藩に転封が決まると日向ゆき達家族は徒歩で移住し裁縫などをしながら暮らしていたが義母・秀が青森での仕事の為移住したがゆきは北海道函館の元会津藩士・雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が二人とも体調が悪くなり困っているので手伝いに来て欲しいと頼まれ函館に奉公に出た。(雑賀繁村の妻・阿佐子は元会津藩家老・簗瀬三佐衛門の娘で日向ゆきとは旧知の仲だった)ある日、札幌から開拓使・内藤兼備(かねもと)が訪ねてきて日向雪を妻に貰い受けたいといってきた。(内藤は旧薩摩藩士で会津戦争にも従軍し会津の女性の奮迅の働きを見て嫁を貰うなら会津女性と決めていたという)最初は会津を踏みにじった薩摩を憎んで拒んでいたゆきだが内藤の情熱にほだされ結婚を承諾し札幌で祝言を挙げた。会津女性が仇敵・薩摩藩の男子と結婚した一番初めとされ山川咲子(山川捨松)と大山巌の結婚はその11年後となる。明治二十年、新島襄と結婚していた新島八重(山本八重)は仙台東華学校の開校式に夫婦で出席しその後避暑のために北海道函館に行って四日間滞在した。新島襄は幕末アメリカへ密出国する際に協力してくれた恩人・福士卯之助に会う為、札幌に移動したがそこで函館から札幌へ移り住んでいた雑賀繁村夫妻と会う。雑賀阿佐子の話から日向ゆきが札幌にいることを聞いた八重は二十年ぶりにゆきと再会を果たす。ゆきは生涯、会津に帰ろうとしなかったという(元薩摩藩士と結婚したことがゆきは後ろめたかったのかもしれない)老齢になったゆきは驚くべき記憶力で幼少期のことを息子に口述筆記させ「万年青」と書き上げたという。昭和19年に94歳の生涯を閉じた。
2013年05月17日
八重の桜 八重の幼馴染で親友の高木時尾
高木時尾は弘化三年、会津藩大目付・高木小十郎と藤田克子の長女として生まれる。八重の山本家とは表裏の近所でもう一人の幼馴染・日向ユキとは隣どうしという間柄であった。祖母は盲目ながら大変器用で裁縫を得意とし八重やユキと三人で祖母から裁縫を習ったという。時尾の母・克子は藩内でも評判の美人であったがその血をうけて時尾は才色兼備を謳われ藩主・松平容保の義姉・照姫の祐筆(書記)に抜擢された。父・小十郎は京都で起こった蛤御門の変で戦死した為、弟の盛之輔(維新後は五郎)が家督を継いだが会津戦争では盛之輔はまだ15歳と若く藩主の側近として戸ノ口原の戦いに付き従い斥候伝令などをしたらしい、姉・時尾は籠城戦では負傷兵の看護を担ったといわれている。また、親友の八重が亡き弟・三郎の形見服を着てスペンサー銃で戦った際に前髪が邪魔で銃の照準が見えないと脇差で切ろうとしたがうまく切れなかった、時尾はその様子を見て八重の前髪を切りそろえてやったという逸話が残っている。降伏後は会津兵の遺体は罪人として半年も埋葬が認められず放置されていたがようやく埋葬が許可されたので時尾たちは遺体を会津七日町の阿弥陀寺に埋葬するのを手伝った。その献身的な行動に藩主・松平容保から阿弥陀時の墓地の一画を貰い受けたという。会津藩は新政府より斗南(青森県下北半島恐山周辺)に集団移住を強制され時尾たち家族も移住していたがそこで新選組隊長として会津戦争を戦っていた斉藤一(当時は山口二郎と名乗っていたらしい)と知り合う。(京都新撰組では副長助勤・三番隊長であったが戊辰戦争で局長・近藤勇が斬首され、副長・土方歳三が戦いの場を求めて北へ転戦した為に会津に残った新選組残党をまとめた)斉藤一(山口二郎)は五戸で篠田やそ(会津藩の名家・篠田内蔵の長女、白虎隊士中二番隊・篠田儀三郎とは遠縁にあたる。)と明治四年に結婚していたが離縁して東京に出ていた斉藤はそこで高木時尾と再開、元会津藩主・松平容保の上仲人、元会津藩家老・山川大蔵(維新後は浩)、佐川官兵衛、倉沢平治右衛門らが下仲人で時尾と再婚したという。(この経緯は今だなぞが多く解っていない)斎藤一(山口二郎)は高木時尾の母方の姓・藤田姓を名乗り、藤田五郎として生きていくことになる。しかし、何故か美人で賢く優しさを兼ね備えた会津なでしこが新選組で最も人を斬ったといわれた斎藤一と結婚したのかわからない。明治七年、藤田五郎(斎藤一)は警視庁で警官として勤め、時尾と共に東京で暮らし、西南戦争では警部補に昇進し別働第三旅団豊後口警視徴募隊三番小隊半隊長として参戦(元会津藩士達は会津戦争で敵側の主力だった薩摩藩士を積年の恨みを持って戦ったという)藤田五郎もその一人で敵・薩軍の大砲二門を奪取するなど目覚しい活躍を見せ東京日日新聞(現・毎日新聞)に報道された。その功績により政府より勲七等青色桐葉章を授与され賞金100円を賜りその後、麻布警察署警部として明治二十四年に退職(警視庁の大リストラにより47歳の斎藤は退職)。藤田五郎は時尾との間に三人の男の子をもうけ仲睦ましい生活を送ったという。晩年は藤田五郎(斎藤一)は東京師範学校附属(現・東京教育大学)の東京教育博物館の守衛長をし妻・時尾は女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の寄宿舎の舎監として働きながら自宅に下宿させ生徒達の面倒を見ていたという。(時尾の長男・勉さんの嫁・西野みどりさんは時尾が見初めて縁談を勧めたといわれている)夫・藤田五郎(斎藤一)はその後、教育博物館を希望退職し妻と同じ女子高等師範学校に庶務兼会計掛として働いた。時尾は明治四十年、会津戦争の犠牲者の慰霊の為に桜の木を会津婦人達10人と寄贈し翌年には阿弥陀寺に墓地購入のために寄付を募り自らも二円五十戦を寄付したという。大正四年に夫・藤田五郎(斎藤一)が胃潰瘍の為に自宅で生涯を終えたが時尾はその十年に七十五歳亡くなった。二人は阿弥陀寺に眠っている.
写真は時尾の夫・元新選組 斎藤一(藤田五郎)(
写真は時尾の夫・元新選組 斎藤一(藤田五郎)(
2013年05月16日
八重の桜 山本八重の最初の夫 川崎尚之助
川崎尚之助は但馬国出石藩の藩医の子と云われている。(実際は藩士ではあったが身分が低く町医者をやっていたらしい)天保七年出石本町で川崎才兵衛の第二子か三子(はっきりとした記録がない)として誕生する。兄の恭介が家督を相続した為尚之助は16,7歳で江戸へ出て杉田成卿や大木仲益(後の坪井為春)に師事し蘭学、舎密学(化学)を修めてかなりなの知れた洋学者となった。会津藩から江戸へ遊学に来ていた山本覚馬とは大木仲益が開いた大木塾で知り合い、意気投合したといわれている。安政四年、会津藩に帰った山本覚馬は藩校・日新館の教授に就任し蘭学所を設立したことを知った尚之助は会津藩に赴き覚馬を訪ねた、覚馬は藩に尚之助を推薦して蘭学教授として山本家に寄宿するようになった。尚之助は蘭学所から分離した砲術教授となり会津藩から大砲方頭取を要請され十三俵扶持を賜る。元治元年、京都にいた山本覚馬は一触即発の京都に西洋式鉄砲に精通した尚之助を招聘しようと会津藩に要請するが藩士ではない川崎尚之助を京都に差し向けるわけには行かないと断られる。慶応元年、会津藩は蛤御門の変で西洋式鉄砲の優位を認めようやく会津藩士に取り立てとなった尚之助は山本八重と結婚する。(正式な結婚かどうかは詳細は不明だが山本覚馬は会津藩に優秀な砲術家を引き止めておく手段として八重と結婚させたという説もある。)鳥羽伏見の戦い直後に米沢藩士・内藤慎一郎と小森沢長政が会津藩を訪れ尚之助に弟子入りをした。(当時、近隣諸国では米沢藩だけが西洋式鉄砲を導入、他藩は今だ火縄銃を使っていた。)米沢藩はさらに43名もの藩士を送り鉄砲術の指南を請い、その世話を山本家がすべて見たという。新政府軍が東北に向って進撃を開始するや米沢藩士は帰国するが内藤新一郎や小森沢長政ら数人は山本家に寄宿して会津藩との連絡係となった。鳥羽伏見の戦いで弟・三郎の死と兄・覚馬の行方不明を知らされた。会津に迫る奥羽越列藩同盟軍も持ちこたえることが出来ず父・権八も戦死した。八重は弟の袴を履き、兄から贈られたスペンサー銃を担いで出陣するも女の身ではそれもかなわず籠城戦の側女中として入城、一方で夫・尚之助は定かではないが諸説あり、城内で砲撃の指揮を取ったとも離婚して逃亡したとも言われているが城外で戦ったのでないかと思う。詳細はわからないが敢死隊副隊長として戸ノ口原で新政府軍を迎え撃ったが隊長・小原信之助が斃れたので隊長として指揮をとったが敗走、城内へ一旦退却するが敢死隊を率いて豊岡神社に布陣、小田山より城へ砲撃してくる新政府軍に大砲を仕掛けことごとく命中させ一時後退させたという。また、最後まで籠城したが降伏の条件通り他の会津藩士とともに男子は猪苗代にて謹慎となった。(八重ははじめ男装してついて行こうとしたが直ぐにばれ会津に残ったという。)翌年、他の藩士と共に東京で謹慎を続け八重ら山本家とは連絡がつかない状態が続いた。(八重と母・佐久、兄嫁・うらとその娘・みねは会津の家が新政府軍に没収されていた為に山村の山本家奉公人の家にしばらく身を寄せたが青森斗南藩国替えには同行せずに会津戦争前まで山本家に寄宿していた米沢藩士・内藤新一郎を頼っていった。この時点の記録ではまだ八重は川崎尚之助妻となっている。)尚之助は東京で謹慎を解かれたが他の藩士とは違い直ぐには斗南藩には戻らず一旦京都に滞在したというが詳しくは解らない。明治三年、尚之助は海路斗南藩に向かった。一方八重たち山本家は会津に戻っていたが明治四年に兄・覚馬が京都府の顧問をして生きているとの情報が入り一家で京都に向った(覚馬の妻・うらだけは離婚をのぞみ会津に残ったという。)山本家とは連絡を取れない尚之助は青森斗南藩士として仕えていたが三万石なれど作物もろくに獲れない貧しい土地で食料に乏しい藩民を救済する為「開産掛」を任され米調達の為に同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡った。(この時点で尚之助と八重は完全に別の道を歩んだがまだ離婚したということではなかったらしい)尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師みたいなことをしていた)と知り合い彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させた。(斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にした。)しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持ち出しこれを担保にブランキントン商会から借金して逃亡する。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れなくなった。米座は東京で逮捕されたが斗南藩の大豆栽培がうまく行かず不作となり手に入った広東米も古米となってしまい米相場の下落もあって返済が出来なくなり当然デンマーク商人デュークから訴えられる。外国人の絡んだ裁判とあって法廷は東京で開かれ尚之助と柴太一郎は東京へ移送される。斗南藩はこの取引には一切関係ないと突き放し尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったという。身元引受人が三回も変わるトラブルや今日食べる物もない貧困生活の中、体調が悪化し重い慢性肺炎に罹った。三人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させたが明治八年三月に治療の甲斐なく永眠した。享年三十九歳・・・この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったという。(この裁判で八重たち山本家に迷惑がかかることを恐れた尚之助が離婚として抹消した土肥う説もある。)しかし、晩年の八重は尚之助との最初の結婚について「離縁した」とだけ言って一言も語らず会津での結婚生活を生涯話すことはなかったという。
2013年05月15日
八重の桜「新島八重」の兄で砲術家・山本覚馬
山本覚馬は武田信玄の軍師「山本勘助」の子孫と伝えられ代々兵学家として仕えた家柄で文政十一年に会津藩砲術指南役・山本権八の長男として生まれ、妹に八重、弟に三郎がいる。長男であるため跡継ぎの教育を受け4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦し藩校・日新館で頭角を現し22歳で砲学、特に大砲などを学ぶ為に藩命によって江戸屋敷勤務を仰せつかり勝海舟や武田斐三郎らが通っている佐久間象山の塾に入る。勝海舟らとともに西洋学を学ぶと同時に弓、馬術、槍、剣術、西洋砲術を修め翌年に帰藩して藩主より賞されている。その後、大砲奉行・林権助安定(明治に活躍した林権助は彼の孫)の江戸随行員に選ばれ江戸藩邸勤務を命じられ江戸にて西洋砲術の研究を深めた。28歳で一旦帰藩し日新館教授に就任し蘭学所を開設(この次期に江戸遊学で親しくなった川崎尚之助が訪ねて来て蘭学所経営を助けて山本家に寄宿し八重の最初の夫となる)して会津藩で近代兵器の必要性を説き刀や槍の時代ではないことを訴えるが会津藩の旧守派の反感を買い一年間の自宅謹慎処分を受ける。謹慎処分中も火縄銃から西洋銃入れ替えやペリー来航による動乱を説き大砲奉行・林権助の助力もあって軍事取調役兼大砲頭取に就任して表舞台に返り咲く。その後、覚馬は樋口うらと結婚して長女を儲けるが夭折し2年後に次女の「みね」が誕生するがまもなく藩主・松平容保が今日と守護職に任命され大砲奉行・林権助の補佐役として覚馬は京都へ赴く。覚馬は京都黒谷本陣で西洋軍隊の調練を始めるとともに蘭学所を開設する許可を得て藩士以外の人にも広く門を開いた。元治元年に起こった蛤御門の変に砲兵隊を率いて参戦し鷹司邸に立て篭もっていた長州藩家老の国司信濃らを大砲をもって殲滅した。(後に国司信濃は第一次長州征伐の責任を負って切腹)この時に激戦となり敵大砲の破片を受け、または打った大砲の硝煙によ目に傷を負ったと言われる(持病であった白内障が悪化したとも)覚馬はこの戦の功により公用役にとり立てられ幕府や各藩の名士と交わる機会を得た。慶応2年に覚馬は藩主の許可を得て武器の買い付けのために長崎を訪れドイツ商人のカール・レーマンと商談し1300挺のシュンドナーバルド・ゲベール銃を購入契約を結ぶ。「しかし、このゲベール銃は一部しか在庫がなく戊辰戦争には間に合わなかった。代金も敗戦した会津藩には払えず維新後に訴訟を起こされた」長崎滞在時に長崎養生所「精得館」にてオランダ医師・ボードウィンの治療を受けるが間もなく失明するとの診断が下る。京都に戻ると御所出入りの小田勝太郎の紹介で小田の妹・時恵(当時、13歳)が身の回りの世話をすることになる。この時期に会津藩では妹・八重と親友・川崎尚之助が結婚する。慶応四年、戊辰戦争の前哨戦となる鳥羽伏見の戦いが始まると覚馬は京に残り会津藩が賊名を受けることを憂いて伏見で戦う会津藩兵を説得する為に伏見に急ぐが薩摩・長州の新政府軍に包囲され入ることすら出来ず京都に戻って朝廷に会津に敵意がないことを訴えようとするが薩摩藩兵に拘束され薩摩藩邸に幽閉される。弟・三郎はこの戦いで戦死する。(拘束された当初は会津藩士を殺せという声もあったが覚馬の名声を知っていた薩摩藩幹部の助けもあって比較的優遇されたという)薩摩藩邸内で目が見えないこともあり小田時栄が出入り自由を認められ世話をしたという。また同じく囚われていた会津藩士の野沢鶏一に口述筆記を頼み薩摩藩主に建白書「菅見」を提出。これを読んだ薩摩藩家老・小松帯刀や西郷隆盛は痛く感動し益々藩邸内で優遇され後の明治新政府で参考されたという。明治元年に覚馬は仙台藩邸の病院に移され岩倉具視の訪問を受け翌年に釈放された覚馬は世話をしてくれていた小田時栄(当時16歳)と同棲をはじめる。明治三年、京都大参事・河田佐久馬の推薦もあって京都府庁に出仕、権大参事・槇村正直(後の知事)の顧問として当時天皇が東京に移り衰退した京都のために尽力し明治5年、日本初の博覧会(京都勧業博覧会)を開催して京都を近代都市へと導いた。槇村正直は覚馬を兄のように慕い槇村邸の隣の土地100坪を勧めて自宅を建設し自宅庭に講筵を開き政治学、経済学を講義した。(この土地は徳川慶喜の愛妾「お芳」の父親で江戸火消しの新門辰五郎の邸宅跡だった。明治四年、ようやく連絡が取れた会津に置いてきた母・佐久、妹・八重・娘のみねを京都に呼び寄せた。(父・権八は会津戦争で戦死、妻・うらは夫・覚馬が妾・時栄と暮らしていることを知ってか離婚を主張して会津に残ったという。また、川崎尚之助と八重は会津鶴ヶ城籠城戦でともに戦ったが落城寸前に別れたといわれているが不明)離婚成立後に覚馬は時栄(18歳)と再婚、この時に既に娘・久栄が出来ていた。覚馬は暴漢に襲われ脊髄を損傷して足腰が立たなくなり歩くことも困難で八重が背負って登庁したといわれる。明治八年、大阪で布教活動をしていた宣教師ゴードンから贈られた「天道溯源」を読んで大いに感動したという。ゴードンの紹介でアメリカから帰国したばかりの新島襄が山本覚馬邸を訪ねキリスト教の学校設立の相談を持ちかけ協力の約束を交わした。覚馬は戊辰戦争当時に幽閉されていた薩摩藩邸6000坪の土地を購入していたがこれを安価で譲渡し学校用地とし新島と連名で「学校設立願い」を文部省に提出して認可された。(覚馬が命名した「同志社英学校をこの土地に設立し後に同志社大学今出川キャンパスとして今に残る。)この年に新島襄と山本八重は結婚。明治十年に覚馬は京都府顧問を解任、2年後に京都初の府議会選挙において上京区で51票を獲得して選出され府議会議員となり初代議長にもなったが翌年に辞職して同志社の運営に専念する。明治十四年、覚馬の次女・みねが横井小楠の長男・横井時雄と結婚し翌年には長男・平馬(覚馬にとっては初孫)を生む。明治十八年、覚馬は京都商工会議所会長に就任し妻・時栄とともに宣教師グリーンの洗礼を受けた。(既に妹・八重や母・佐久、娘・みねは明治九年に洗礼を受けている)妻・時栄は受礼後直ぐに体調を崩し自宅に往診を頼んだ医師ジョン・K・ベリーによって思いもよらぬことを報告された。妊娠5ヶ月と聞いた覚馬には身に覚えがなく妻を問い詰めたところ、養子にと会津から呼び寄せ同志社英学校に通わせていた青年との不倫が発覚したが覚馬は年齢57歳、妻・時栄は31歳の女盛り、しかも時栄は13歳のころから目が不自由、半身不随の覚馬の世話をしてくれているので強くは言えず許すこととなったが八重と娘のみねは断固反対、「ならぬものはならぬ」と許さなかった為、山本家から追い出し翌年に離婚が成立し次女・みねが24歳で他界したためその子・平馬を養嗣子として迎える。明治二十三年、大磯で新島襄が病死すると覚馬は同志社英学校臨時学長に就任し学校発展に尽くすが二年後の明治二十五年に覚馬自身が自宅にて病没。享年六十四歳・・・山本覚馬は朝廷が東京と名を改めた江戸へと居を移し(東京遷都)薩長が見捨てた京都の再発展に力を尽くし博覧会の開催によって世界中から日本の京都に注目を集めさせた功績は大きいと思う。
2010年12月08日
白虎隊士中二番隊嚮導(副隊長)・篠田義三郎
篠田儀三郎は嘉永五年、会津藩供番家禄二百石の篠田兵庫の次男として郭内米代二之丁に生まれる。(母・しん子は織部玄孝の娘で後の家老・田中土佐の養女として篠田家に嫁いできた。)儀三郎は正直者で約束をたがえたことは一度もないといわれる。彼が六、七歳の頃、友達と日を決めて蛍狩に行こうと約束をした。しかし、その日は大風雨で誰の目にも蛍狩など出来る常態ではなかった。だが儀三郎は蛍籠を提げてやって来た。友達は「こんな天気に蛍など飛んでる筈がなかろう。なぜ態々来たのだ」と尋ねると儀三郎は「そんなことは解っておるが君と一旦約束を交わしたからそれを守っただけだ」といって約を解いて帰っていった。また、ある時友人宅で会合を開く約束をするが当日に雹が降り道は凍りついて寒さ烈しく誰も来ないであろうと友人は思っていた。ところが儀三郎が足袋を手に持ち裸足に草履履きで現れたので友人は驚き謝ったという。儀三郎の正直は皆知らぬ物はいないといわれた。十一歳で藩校・日新館に入学し尚書塾一番組に編入されしばしば賞賜を受けたという。慶応四年、戊辰戦争が勃発するや会津藩は軍制を整え年齢別に玄武(五十歳以上)・青龍(三十六歳から四十九歳)・朱雀(十八歳から三十五歳)・白虎(十七歳から十六歳)幼少組(十四、五歳)と分類され白虎隊でも身分によって士中、寄合、足軽と別れていた。儀三郎は士中二番隊四十二名に編入され責任感が強く成績優秀だった為に嚮導(指図役副隊長)に任命された。白虎隊は本来予備兵力として結成され毎日訓練明け暮れていたが自分たちも会津の為に戦いたいと友人の安達藤三郎と共に出陣嘆願書を軍事奉行へ提出した。嘆願が聞き入れられ藩主・容保の護衛というかたちで滝沢村本陣に出陣することになった。しかし新政府軍の進軍路になる十六橋を破壊して防ぐ作戦も薩軍が既に通過した後だったため失敗に終わった。藩主・容保と別れた白虎隊は三十七名で隊長・日向内記、儀三郎ら十六名と小隊長・山内弘人率いる二十名と原田勝吉が臨時で率いた七名が戸之口原で敵を迎え撃つ作戦を取った。しかし後方支援ということだったので重たい装備を置いて軽装での塹壕堀で空腹状態だったので隊長の日向内記が単身で食料調達に向かったが夜から烈しく降り続いた雨で帰還出来なくなり行方が解らなくなった。篠田儀三郎は隊長代理として指揮を取るが血気盛んな若者である儀三郎は皆の意見に推されて前線に出て戦う決意をする。儀三郎たちは善戦したが武器の違い(白虎隊では時代遅れの先込めゲーベル銃しか持っておらず新政府軍のミニエー銃とは比べ物にならないくらい性能が劣っていた)や兵隊の数、戦場での経験不足で退却を余儀なくされた。儀三郎ら十六名は山内隊や原田隊とはぐれ鶴ヶ城に戻って戦おうと話し合った。城に帰る途中滝沢の白糸神社付近で敵と遭遇して銃撃戦となり永瀬雄次が負傷する。彼を背負って弁天洞の洞門を抜けて弁天祠から飯盛山の高台へ出るとお城が燃えていた。(実際は城の周りの武家屋敷が燃えその煙で城が燃えているように見えた)儀三郎たち十六名はこのまま城を目指すかここで自刃するかを話し合った結果、極度の疲労や空腹と銃撃戦で負傷した者もいたので敵に捕らわれて恥辱を受けるよりここで全員自刃しようと決まった。後に蘇生した飯沼貞吉は出陣の際に母より贈られた和歌「梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかえしそもののふの道」を読み上げ、篠田儀三郎は天文祥の詩を高らかに吟じ傍らにいた石田和助も途中から加わったという。石田和助は吟じ終わると「傷が痛んで苦しいのでお先に御免」といって刀を腹に突き立てそれを見た儀三郎は喉を一気に貫き絶命した。遅れて飯盛山に辿り着いた石山虎之助は仲間の死体を見て後を追ったという。また伊藤俊彦と津田捨蔵と池上新太郎は不動滝にて戦死体として発見された。白虎隊士中二番隊三十七名の内で自刃したのは十九名といわれ皆十六、七歳のまだ若い子供達であった。
2009年03月12日
会津鶴ヶ城籠城戦を支えた姫 照姫
照姫は天保三年、会津藩の支藩である上総飯野藩(現・木更津)二万石藩主・保科正丕の三女として生まれる。十歳の時に故あって会津藩八代藩主・松平容敬の養女となる。嘉永元年に実父・保科正丕が病死した為、まだ幼い嗣子・正益が飯野藩を継ぎ容敬がその後見となった。嘉永三年、十八歳になった照姫は備前中津藩十万石藩主・奥平昌服に嫁いだが子が出来ず僅か二十三歳で離縁され江戸会津藩邸に戻った。美貌の照姫は十代の頃から書道、茶道、礼法に通じ、和歌が巧みで二歳年下の九代藩主・容保も照姫の手ほどきを受けたという。容保の正室(容敬の実娘)敏姫が十九歳で他界してからは奥向きは照姫が取り仕切った。また、容保が京都守護職を拝命して上洛する時には「着て帰る頃さへゆかし都路の錦を君が袖にかさねて」と歌を詠んで無事にお役目を果たして錦を着て帰ってくれるよう願いを込めたという。容保もまた、孝明天皇に愛でられ純緋の衣を下賜され、それを陣羽織に仕立てて着用し写真を撮らせて江戸の照姫のもとに送った。慶応四年、鳥羽・伏見の戦いが勃発し大敗した幕府軍が江戸へ戻った時、照姫は容保や会津藩士とともに初めて会津若松城に入城する。会津若松(鶴ヶ城)城では六百有余人の婦女子を指揮して籠城戦に臨み炊事、負傷者の看護、各所で起こった火災の消化、敵弾の処理(火災を防ぐ為)、不足した弾薬の製造など獅子奮迅の活躍をする。会津藩鶴ヶ城落城後は降伏謹慎する藩主・容保に従って滝沢村の妙国寺に移った。その後、容保、喜徳親子が明治政府の命令により東京へ護送されたが照姫は妙国寺に残り翌年に東京青山の紀州藩邸預かりの処分を受ける。明治政府は会津戦争の責任者として三家老の首を差し出すよう命が下された。しかし、田中土佐も神保内蔵助も既に落城前に自刃していた為に次席の萱野権兵衛に斬首という武士には屈辱的な処分となった。しかも、その執行には支藩の飯野藩が行うことになった(照姫の実家)、照姫は一死をもって藩主・容保を救おうとする忠臣・萱野権兵衛に「夢うつゝ思ひも分す惜むそよまことある名は世に残るとも」との和歌をおくり、遺族には見舞い金として銀二枚を贈った。飯野藩保科家では明治政府には斬首と報告しながらも実際は萱野権兵衛に切腹させて武士の体面をを全うさせた。飯野藩の運動が実って照姫を紀州藩邸から飯野藩邸に預け替えとなり、二十七年振りに照姫は実家に戻った。飯野藩主・正益(照姫の実弟)は孤独な照姫を思い竹芝の海が一望できる場所に高殿を建て心を慰めたという。明治十三年に会津へ再訪した際には宿泊先の東山温泉の向滝で「岩くだく滝のひびきに哀れそのむかしの事もおもひいでつつ」と詠んで昔(会津藩婦女子とともに籠城戦を戦った)を思い浮かべたという。明治十七年、東京小石川の保科邸で五十五歳の生涯を閉じた。墓所は実家ではなく養父・松平容敬や容保が眠る会津若松に埋葬された。
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2009年02月24日
会津藩最強の助っ人 森要蔵
森要蔵は文化七年、熊本藩士・森喜右衛門の六男として江戸芝白銀台の細川家中屋敷に生まれる。神田お玉ヶ池の玄武館に入門して千葉周作に北辰一刀流の剣を学ぶや、忽ち頭角を現して、稲垣文次郎・岡田金平・海保帆平とともに「千葉道場の四天王」と呼ばれた。後に脱藩(一説によると藩主のお供先で飲酒による失態をおかした為といわれる。)して江戸麻布永坂に道場を構えて剣撃を指南して門弟数百人を抱えた。天保十二年、三十二歳の時に上総飯野藩二万石の御前試合で勝利して七両二分四人扶持で召抱えられ、安政四年には七十石取りにまで出世し「保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵」と世間では謳われたという。飯野藩保科家は元信州高遠藩主であった保科家分流で本流の保科正之以後会津藩松平家となって幕末を迎えていた。その九代藩主・容保が戊辰戦争に於いて最大の朝敵とみなされた。支流の飯野藩は本家・会津藩の窮地を助ける為、密かに森要蔵を会津に派遣した。この時、要蔵は五十八歳で彼に従ったのが次男の虎雄十六歳と二十五人の藩士達だった。彼らは当初、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城攻防戦に参加、その後、白河口方面に出撃したが官軍に押し返され阿武隈川北方に引いて抵抗を続けた。彼らは白河西北の下羽太に陣を敷いたが官軍の土佐藩八番隊が肉薄すると虎雄は「お爺さん、斬り込みますよ!」と叫び、小太刀をかざして吶喊(とっかん)した。日の丸の軍扇を掴んで指揮を執っていた要蔵も息子を討たせてはならじと抜刀して突撃する。しかし、虎緒は敵銃隊の連射を浴びて倒れ、要蔵も二、三人まで斬り伏せたが敵弾に斃れた。はじめ虎雄が「爺さん」と呼んでいた為、孫と祖父だと思っていたが、土佐藩済武隊半隊指令として参戦していた川久保南鎧が江戸の森要蔵の道場で立ち会った経験があったので森親子の首を貰いうけ土佐藩士で森要蔵に教えを受けたもの二,三人を招いて下羽太の大龍寺に埋葬したという。
¥3,360(税込) とにかくお客様からのコメントが熱〜いスクラッチ。ニオイの温床「ガチガチ角質」が、笑っちゃうほどゴッソリ取れるっ… | |
2009年02月23日
我が子を介錯した剣豪 黒河内伝五郎
黒河内伝五郎は享和三年、会津藩御側医師・羽入義英の次男として生まれた。黒河内治助兼博の神夢想無楽流の居合術を師事してその養子となり、黒河内伝五郎兼規と名乗った。伝五郎は幕末最強の剣客といわれる所以は居合術のみではあらず、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術とすべての武芸百般に通じる異能の人だったという。会津剣道誌によれば「右手に箸を捧げ持ち、指を離した瞬間に居合によって箸を両断。小銭を柱にかけて一丈八尺(5.4メートル)の距離から手裏剣を打てば、悉くその方孔に命中させ誤ることがない。また、一丈(3メートル)離れて障子に向かい、一寸(3センチメートル)の針数十本を口に含んで針吹を試みれば、針は一本の銀の糸のように途絶えることなく吹き出されて障子の唯一点を穿った。」と記載されている。武芸の傍ら沢田名垂の高弟として和歌にも通じていた。伝五郎は黒河内家を継いで会津藩指南役となり十一石二人扶持を給わった。天保年間に槍の師・志賀小太郎が長州藩に招聘られるや、他の高弟とともに随行し長州藩子弟に槍術を指南したという。また、嘉永五年に吉田松陰が会津藩を訪れた際には伝五郎が日新館を案内した。晩年に眼病を患い失明、したが力量はいささかも落ちることがなかった。伝五郎には二人の子供がいたが、戊辰戦争の際に次男・百次郎は佐川官兵衛隊甲士として北越で奮戦していたが重傷を負い若松城下の自宅に戻っていた。しかし、官軍が若松城下に迫った事を知ると盲目の伝五郎は藩の足手まといになるのを厭い百次郎を介錯した後、自らの命を絶った。享年六十五歳・・・長男・百太郎も二番砲隊として奮戦中に被弾し翌日に戦死した。幕末最強の剣豪といわれた黒河内伝五郎のその剣技が発揮されたのは我が子の介錯の時だけだった。
2009年02月09日
会津藩最後の首席家老 梶原平馬
梶原平馬は天保十三年、会津藩家老・内藤介右衛門信頼(石高二千二百石)の次男・内藤悌彦として生まれる。兄は後の家老・内藤介右衛門信節、弟は彰義隊隊士・武川三彦信臣(上野戦争で敗れ、小伝馬町の獄中にて刑死)。悌彦は幼少の頃、名門の家老家・梶原健之助景保の養子となり梶原平馬景武と名乗る。平馬は十九歳で山川重固の娘・二葉と結婚(後の家老・山川大蔵、維新後の浩の姉)。藩主・松平容保の京都守護職拝命に伴って大目付として上洛、藩主・容保の側近として活躍、その後若年寄となり翌年には若干二十四歳で家老に昇進する。大政奉還後、幕府と今後の対策を講じる為江戸へ下っている間に鳥羽伏見の戦いが勃発、大坂へ戻ろうとするが敗戦の知らせを受け断念し幕府勘定奉行より金を借りて横浜のスネル兄弟から小銃八百挺と武器弾薬を購入してヘンリー・スネル(兄)や長岡藩家老・河井継之助とともにアメリカ船で海路函館経由で新潟港に陸揚して会津へ帰藩する。梶原平馬はすぐさま庄内藩、仙台藩、米沢藩、二本松藩等を動かして奥羽越列藩同盟を成立させた。平馬は会津藩総督として新潟港から同盟各藩の武器購入を行い奥羽越列藩同盟の中心人物として働いた。しかし、その後新政府軍は新潟港を占領、同日には長岡城と二本松城が落城した為に平馬は会津若松城に籠城準備に戻った。城内では藩主・容保の補佐をする政務総督として降伏開城に反対して籠城戦を戦い抜いた。しかし、万策尽き米沢藩を通じて降伏の交渉を行い、藩主容保の江戸護送に随行し鳥取藩池田慶徳邸に幽閉される。しかし、幽閉中も藩主親子の家名存続を嘆願し続ける。明治三年、会津藩は取り潰し、新たに下北半島極寒の地に斗南藩を与えられる。会津藩士やその家族達はこの極寒の地に集団移住して極貧生活を送る。廃藩置県後、斗南藩は消滅し青森県に移行した為、梶原平馬は県庁の庶務課長として働くが二年で退職、妻の二葉と離婚しその後、水野テイと再婚して東京に住む。水野テイが東京桜川女学校の教師をしていたがテイの肺の病気により退職し函館に移住(元会津藩探索方・大庭恭平の誘いがあったといわれる。)、その後根室にてテイは花咲尋常小学校で教師をし、兵馬は文房具屋をして生計を立てたといわれている。明治二十二年、梶原平馬は根室で四十八歳の生涯を閉じる。
2009年02月06日
宇都宮城で土方と共に戦った 秋月登之助
秋月登之助種明は本名を江上太郎といい天保十三年、会津藩田島代官・江上又八の長男として生まれる。(江上又八は後に南山御蔵入奉行となった人で江上、秋月、原田の三家は中国からの帰化人で同族の為、秋月姓を名乗ったものと思われる)登之助は会津藩主・松平容保が京都守護職に任命され上洛した折に随って京都詰先備甲士となる。(会津藩士の武芸に秀でた者で藩主警護の為に組織された。)在京時代に会津藩預かりとなった新撰組の土方歳三と親交があったと思われる。鳥羽・伏見の戦いの後、藩主が将軍慶喜と共に密かに江戸へ戻ってしまった為、残された江上(秋月)達は大坂から紀州日高、志摩半島に抜け汽船にて横浜に上陸、江戸へ戻った。藩主・容保が会津に帰った後、江上、佐川主殿(鬼佐川の官兵衛の弟)ら七名の藩士は家老・西郷頼母の許可を得て一人当り二十五両の金を貰って脱藩し、藩を憚って全員改名して幕府軍に投じる。(この時に江上太郎は秋月登之助と改名)幕府歩兵指図役並に任じられ第七連隊附となる。(この時に江戸の雲助、馬丁、博徒、火消しなどの雑兵からなる大手門隊総督になったといわれる)その後、大鳥圭介の伝習隊に加わり伝習隊第一大隊隊長となり京都で面識のあった土方歳三を参謀として宇都宮で新政府軍と戦う。(実力や経験、人望の上では土方のほうが遥かに優っていたが会津へ向かう伝習隊にとって会津藩士が隊長のほうが都合がよかった為という説もあり)この戦いで重傷を負った土方を連れて会津に入り田島で伝習隊の再編成が行われ登之助は大田原城攻撃に参加、次いで石筵の戦いに参戦するも城下に新政府軍が浸入との知らせで鶴ヶ城に戻り二の丸付近で馬上抜身を振るっている姿を目撃されたのを最後に消息不明となった。会津若松市の興徳寺に明治十八年一月六日行年四十四歳と刻まれた墓が存在する。
2009年02月04日
京で新撰組の指揮を執った 手代木勝任
手代木勝任は文政六年に会津藩士・佐々木源八の長男として若松城下に生まれる。弟に元京都見廻組で清河八郎を斬った佐々木只三郎がいる。勝任は伯父・手代木勝富に子が無かった為、養子として手代木家を継いだ。嘉永六年、藩主・松平容保の側近として仕え、容保の赴く所には常に従った。文久三年、藩主・容保が京都守護職を拝命すると勝任は会津藩公用人として上洛し、渉外関係や不逞浪士逮捕の任を任され、藩士は勿論、新撰組や京都所司代、町奉行所の指揮を執った。池田屋事変では新撰組に褒賞金を与えたり、蛤御門の変後は藩主・容保の代理人として参内し長州征伐の勅書を受け取り、将軍・慶喜から刀や功労金を賜った。戊辰戦争では会津藩監察として鳥羽・伏見の戦いに臨むが敗走、大阪城では将軍・慶喜と共に藩主・容保が逃亡、残された藩兵達を束ねて苦難の末に会津へ帰藩する。新政府軍が会津若松城下に迫り籠城戦が始まった時には勝任は若年寄として指揮をし、落城の際には秋月悌次郎と共に降伏の使者となって敵司令官の板垣退助に面談した。開城後は戦争責任者として高須藩に幽閉、青森に移監された明治六年に特赦を持って新政府に出仕した。香川県権参事、高知県権参事などを歴任、岡山県で郡長や区長をした後明治二十七年に退官し正六位勲六等を叙せられる。明治三十六年に岡山市内で病没する。享年七十八歳・・・広い意味では新撰組の京都における活動の後ろ盾になった人物といえる。
2009年02月03日
会津戦争に男装して奮戦した 新島八重子
新島八重子は旧姓・山本八重といい、弘化二年に武田信玄の軍師・山本勘助の子孫で会津藩の砲術指南を務めていた山本権八の三女として米代四ノ丁に生まれる。兄に会津藩砲術家の山本覚馬と弟・三郎と共に育った。(長女と次女、もう一人の兄は早世した。)幼い頃から十七歳年上の兄・覚馬の影響を受け大砲や小銃に熱心な子供であったという。八重が十九歳の頃、覚馬が創設した会津藩蘭学所の教授として招き山本家に寄宿していた友人で但馬出石出身の洋学者・川崎尚之助と結婚した。しかし、鳥羽・伏見の戦いが始まり、弟の三郎が淀で被弾して江戸へ帰ったが死亡したとの訃報が入り遺髪と着衣が届いた。また、兄・覚馬も京都で薩摩軍に捕縛され処刑されたとの連絡が入る。慶応四年、板垣退助率いる新政府軍が会津若松の鶴ヶ城に迫ったが主力部隊は城外で戦っていた為に城には婦女子や老兵、少年兵しか残っていなかった。二十四歳になっていた八重は断髪し兄のスペンサー銃を持ち、弟・三郎の形見の軍服で男装して敵弾が飛び交う中を駆け三の丸から入城した。後日、八重は「一に主君の為、二に弟・三郎の敵討ちの為に命を捨てて戦った」と語っている。八重は時には七連発のスペンサー銃で戦い、時には大砲隊の指揮を執って戦い抜いたが新政府軍の最新兵器の前に城内の戦死者が続出し藩主・容保は降伏を決意した。八重は城を出る前夜、月明かりを頼りに城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん、なれし御城に残す月影」とかんざしで刻み付けこの悔しさを歌にした。城を出た八重と母・咲、姪・みねに過酷な事実が待っていた。父・権八は玄武隊上士組に編入されていたが一ノ堰の戦いで戦死、夫・尚之助は藩籍を持たないため降伏前に城外に脱出し後に離婚した。明治四年、兄・覚馬が京都で無事に暮らし洋学者として京都府顧問をしているとの知らせが入る。八重は母・咲と姪・みねの三人で会津を後にする。しかし、覚馬の妻・うらは会津を離れることを拒み、離縁することになったという。京都で生活するようになった八重は兄の覚馬に英語を学び、洋装活発な女性として生まれ変わる。明治五年、兄の紹介で日本初の女学校「女紅場」(後の府立第一校女で現在の京都府立鴨沂高等学校)の舎監兼教師として働く。「女紅場」で茶道教授をしていた裏千家の十三代目千宗室(円能斎)の母と親交を持ち茶道と親しむ。また、英語を媒介として聖書の研究を始め、キリスト教に関心を持つようになった。その頃、明治七年に留学先から帰国した新島襄(アメリカでジョーと呼ばれていた為、帰国後に名前を襄と改名)が京都にキリスト教博愛主義の学校設立を計画し京都府顧問の山本覚馬と接近し、八重は兄・覚馬の縁で新島穣が逗留している旅館「目貫屋」に聖書を習うために頻繁に通うようになりお互いに恋心を持った。欧米のレディーファーストが身についた新島が何事にも自由闊達にものをいう八重に惚れ込んで結婚を申し込んだという。明治九年、八重はキリスト教の洗礼を受け、その翌日に結婚式を挙げた。この年、仏教界各宗派の激しい反対運動があったが山本覚馬の協力や八重の助言で無事「同志社英学校」を設立、明治十一年には「同志社女学校」が正式に開校され、八重はここで礼法の教師を務める。また、八重の母・咲も洗礼を受けて女学校の舎監を務め、山本家は一家を挙げて新島穣を支え、同志社の基礎を固めた。襄はキリスト教の伝道や同志社の運営資金集めに奔走したが、その側には八重が必ずついていたという。しかし、洋装にブーツを履き夫と対等に人力車に乗る八重の姿を見て当時の京すずめたちには嫌悪の目で見られた。(まだ当時の京都は男尊女卑の習慣が抜けず対等に振舞う八重に周囲は冷ややかだった。)不治の病に臥せった襄に八重は寝食を惜しまず看病をしたが療養先の大磯で明治二十三年に四十三年の生涯を終えた。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会おう」だった。最期まで妻への気遣いを忘れなかったという。八重は襄の亡き後、社会福祉活動に従事し明治二十四年に日本赤十字の正社員となり日赤篤志婦人会に加わる。明治二十七年の日清戦争の時に篤志婦人会会員(篤志看護婦)を率いて広島まで駆けつけ救護活動を続け、日露戦争の時にも五十八歳という年齢で篤志看護婦として大坂に赴いて救護を行った。また、同志社の生徒をわが子と思い愛情を注いだ夫の新島穣の意思を継ぎ遺産のすべてを同志社に寄付して自分は「女紅場」時代から親交のあった茶道の円能斎直門の弟子として茶道教授を取得し「新島宗竹」の名を授かって茶道裏千家の普及に努め自活した。昭和三年、日清、日露戦争で篤志看護婦として救護活動をした功績により昭和天皇即位の大礼に銀杯を授与される。その後、昭和七年に京都寺町丸太上るの新島邸で急性胆のう炎の為に死去。享年八十八歳・・晩年は子供がいなかった為に新島家で迎えた養子とはそりが合わず疎遠となり、新島穣の門人達と同志社の経営を巡って意見の対立があったが生徒達からは「新島のおばあちゃん」と親しまれ新島の私邸にて開かれたカルタ会には多くの生徒が集まったといわれている。
2009年01月22日
会津藩家老で唯一の戦死者 一ノ瀬要人
一之瀬要人は天保二年、会津藩家老(千三百石取り)一之瀬要人隆鎮の長男として生まれる。妻は同じく家老職の西郷頼母の妹・幾与子。藩主・松平容保が京都守護職を拝命した時に番頭として随行し、蛤御門の戦いで奮戦した。元治元年、天狗党の乱が起こった時に隊を率いて出兵したが天狗党が越前加賀で投降した為に一之瀬は現地に入らずに終わってしまった。そのために一之瀬の部下には藩からの手当てが出なかった(現地入りした藩士には手当てが支給された)。一之瀬は部下の為に藩に再三手当てを出してくれるように交渉するが聞き入れてもらえず、ついに辞職を願い出る。慶応二年、父・要人隆鎮が他界したのちに「要人」を襲名して若年寄となり千五百石を賜る。戊辰戦争が始まった慶応四年、家老職に就いて越後口総督となって桑名藩の立見鑑三郎や長岡藩家老の河井継之助とともに北越戦線を転戦した。長岡城攻防戦では足に被弾して重傷を負って自害を覚悟した河井を秋月悌次郎と説得して会津藩領まで退避させた。(結局、河井は傷が悪化して死亡した。)その後、戦場が会津若松城外に移り、一之瀬隊は唯一城と城外との補給路として確保されていた城南方面の守りを固める為に塩川周辺に布陣した。中荒井周辺にいた萱野権兵衛率いる隊とともに一之瀬隊は一ノ堰に移動したが、ここで新政府軍と遭遇して戦闘となり会津藩軍の攻撃が素早く優位に戦った。新政府軍は劣勢を挽回しようと増援部隊を送り込んだが犠牲者が多くなりついに引き上げた。双方に多くの戦死者を出した徳久村の戦いに勝利した一之瀬隊では総督の一之瀬要人が自ら陣頭に立ち銃を撃って奮戦するが激戦の中被弾し重傷を負う。また、隊長の西郷刑部、大竹主計、原早太ら主要幹部が戦死すると言う大きな打撃を受けた。一之瀬要人は桑原の病院で治療を受けるが藩主・松平容保から降伏開城の親書を受け取った翌日に息を引き取ったと言う。享年三十八歳・・北越戦争でともに戦った衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後らからは「堕弱」と酷評されたが生まれた時から千三百石取り家老職の家柄の坊ちゃんであった一之瀬要人としては上出来の戦いぶりだったと思う。
2008年12月12日
青森県の生みの親 広沢安任
広沢安任は天保元年、会津藩士・広沢庄助の次男として会津若松城下に生まれる。幼少の頃から学問に励み、藩校・日新館では抜群の成績を残した。安任が二十一歳のとき、少禄藩士だった父・庄助が病没したため家計が苦しく私塾の教授をして兄を助けた。また、安政二年には伊東図書とともに水戸へ遊学の旅に出て藤田東湖を訪ね、二十四歳の頃に藩校選抜によって江戸の大学「昌平黌」に入り二十九歳で舎長になった。熊沢蕃山・野中兼山の経済に傾倒して学問を修め堀織部正が外国奉行に就任した際、堀と親交を結び外国人と往来して西洋文明が日本よりはるかに進んでいることを知り鎖国の愚かさを説いて開国論者となった。また、幕府とロシア国の間で国境問題が起こると函館奉行の糟谷筑後守の補佐を頼まれ奥州北部を経て蝦夷地へ入り初めて外国人との交渉を行った。その後、藩主・松平容保は京都守護職を拝命したので京都赴任の事前工作の為に藩士に先立って上洛する。安任は公用方として諸藩、朝廷、幕府の折衝に活躍し八月十八日の政変に大きく貢献する。禁門の変の際には佐久間象山と相談し孝明天皇を彦根へ非難させる計画を立てる。(この計画は佐久間が暗殺された為に頓挫する。)また、慶応元年に朝廷は十万石以上の諸藩の重臣を招集して神戸港開港の賛否を問うたことがあった。大半の意見は「わが国是は鎖国である。」といって反対したが安任は堂々と開港論を論じて諸藩重臣を打ち負かしたという。鳥羽・伏見の戦いに敗れた後藩主・容保は会津に帰ったが、安任は江戸に残って総督府に単身乗り込んで会津藩主・容保の無実を訴えた。しかし、逆に捕縛され投獄、斬首されるところをイギリス領事館通訳だったアーネスト・サトウが聞き助命運動を展開する。(この頃には広沢安任の学識の広さは日本だけではなく外国でも知れ渡っていた。)会津藩が降伏して釈放された安任は梶原平馬や山川大蔵らとお家再興を願い出る運動を続けた結果「上北」「下北」「三戸」の三万石に転封となった。(安任が糟谷筑後守の随行員として蝦夷地へ行った際にこの下北を視察し広大な未開の原野を知っていた為、この地に希望を託したといわれている。)「上北」「下北」「三戸」の三地域を斗南藩として藩庁を設置すると広沢は小惨事として大参事・山川浩の補佐をしながら藩臣・家族の救済に尽力した。廃藩置県後、安任は斗南藩という小さな地域だけでは何も出来ないので近隣の六藩(八戸、弘前、黒石、七戸、斗南、舘)を合わせて青森県とするように政府に提案して認められた。大久保利通は広沢安任の優秀な行政手腕を見込んで新政府に重要ポストを用意して出仕するように説得するが安任は固辞し、「野にあって国家に尽くす」という信念のもと牧畜による牛馬の生産を計画、広大な国有地の払い下げと事業資金の借り入れを願い出た。はじめ、旧八戸藩大参事の太田広城とともに「開牧社」を設立。しかし太田は秋田県典事の公職に就いたために事業から手を引いた。明治五年、安任はイギリス人のルセーとマキノンを雇い入れ谷地頭(現・三沢市)に2,390ヘクタールの土地開墾と牧畜に着手した。当初、安任は東京から種牛5頭と岩手県久慈から雌牛130頭を買い入れて飼育、食肉と牛乳の生産を主に行った。また、広大な土地の開墾に牛馬に鋤(すき)を引かせる画期的方法を秋田ではじめて行ったという。明治九年、天皇の東北巡幸の折、広沢は牛百八十頭と馬十九頭を天覧に供し賞金五十円を賜った。また、随行していた大久保利通は谷地頭まで見学に訪れ感心したという。しかし、牛の値段が一頭五円だったのが一円に暴落して多大な赤字を出したため、西洋馬の生産に切り替えた。(当初、日本人の米麦食中心から西洋の食肉、牛乳によっての体格改善を志し日本初の西洋型酪農をはじめた。)明治十九年、経営が軌道に乗り養子の弁二が駒場の農大を卒業したため経営の一切を譲り東京に出た。安任は東京郊外の角筈村に居を構え旧友の松方正義、福沢諭吉、谷干城、渋沢栄一らと交わった。また、青森県上北郡小川原沼を一大軍港にする計画に参加したり、天ヶ森の運河計画にも携わった。明治二十三年の国会議員選挙に青森県から立候補したが広沢安任の偉業が理解されずに落選したが、めげずに南洋探検を計画する。しかし、明治二十四年に計画の途中でインフルエンザで死去してしまう。享年六十二歳・・・東北の僻地の小藩を合わせて秋田県とした偉業を何人の人が知っているだろう。(日本で一番最初に小藩合併を成し遂げた人物。)
何故、会津藩が幕府の為に戦ったか?
会津藩は徳川家康は江戸で幕府を開き直ぐに駿府に隠居したが二代目将軍として三男の家忠を指名し駿河にて大御所として院政をしいた。(長男は信康で謀反の疑いを持たれ織田信長の命令で切腹、次男・秀康は豊臣秀吉に人質として差出、秀吉の養子となり、後に名門の結城家を継いだ為、気の小さく家康の言いなりになる三男・秀忠に跡目を譲った)秀忠の妻は織田信長の妹・お市の方の末娘於江与の方で秀忠よりも年上であった。秀忠は於江与には頭が上がらず生涯側室は持たなかったといわれる。しかし、恐妻家の秀忠でも人の子、自分の乳母の侍女・お静を身ごもらせてしまう。於江与の癇気を恐れた秀忠はお静を武田信玄の次女・見性院(穴山梅雪の妻)に預けた。見性院のもとで無事に男の子を産み幸松丸と名づけられ武田家ゆかりの信濃国高遠藩の藩主・保科正光がわが子、保科正之として育てたという。この事実を知っていたのは幕府内でも秀忠側近の老中・土井利勝ら数名しかいなかったという。寛永十三年、於江与の死後、正之十八歳となって初めて父・秀忠と面会が叶い、高遠藩三万石藩主となり正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受し以後、保科肥後守と称した。三代将軍となった家光は弟の国松、後の忠長との間で壮絶な家督争いがあり実弟・忠長を切腹させた経緯が心の傷として残っていたという。家光は謹厳実直で有能な保科正之という異母弟を可愛がり出羽国山形藩二十万石を与え、徳川一門として松平姓を与えた。後、陸奥国会津藩二十三万石の大名に引き立て常に傍に置いたという。家光は死に臨んで正之を枕元に呼び寄せ「肥後よ、徳川宗家を頼みおく」といって息絶えた。正之はこの言葉に感銘し、この恩に報いるため「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条に「「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、子々孫々まで受け継がれた。またこの家法は「尊神崇祖」(皇室を尊び、幕府には絶対服従する)という思想が強く表れていた為に幕末、松平容保は賊軍の汚名を着せられ大変なショックを受けたという。また、九代藩主・松平容保は美濃国高須藩主・松平義建の六男で側室の子であったが大身の会津松平家へ養子に入った為、この「会津家訓十五箇条」を頑なに守り徳川宗家の為に最後まで戦ったという。
会津藩主の怒りをかった家老 西郷頼母
西郷家は藩祖・保科正之と同族で代々家老職の家柄であった。西郷頼母は天保元年、江戸詰家老の西郷近思と母・会津藩士・小林悌蔵の次女・律子の嫡男として生まれる。頼母は幼少の頃から学問を好み、剣は溝口派一刀流を学んだ。また、甲州流軍学を極め大東流合気柔術の後継者でもあった。父が江戸詰のために江戸で過ごすことが多かったが、三十三歳のときに父の後を継いで家老となり会津に帰った。この頃、時勢は風雲急を告げ、京都では尊王攘夷の嵐が吹き荒れて不逞浪士が闊歩していた。幕府は従来の京都所司代だけでは力不足とし京都守護職を置くことを検討し、その重職に会津藩を当てることに決定した。このとき西郷頼母は留守家老として会津にいたが急遽、国家老・田中土佐とともに江戸へ上った。頼母は容保に拝謁して時勢の難局に巻き込まれることの不利を説いて守護職を辞退するように進言した。しかし、藩主・容保は藩祖・保科正之以来の家訓を持ち出し幕府への絶対忠誠をたてに拒絶、頼母は藩主の怒りをかった。禁門の変が起きる直前にも上洛して辞職を諫言したが聞き入れられずに家老職を辞任して若松の東北舟石下の長原村に幽居した。慶応四年、鳥羽・伏見の戦いが起きるや頼母は容保より家老職復帰を許されると江戸へ上って藩邸の後始末を済ませて帰藩、藩主・容保には新政府に対し悔悟恭順を勧めた。しかし、新政府軍の世良修蔵の要求は藩主親子の斬首だったため、会津藩と近隣諸藩は奥羽越列藩同盟を結び徹底抗戦となった。やむなく頼母は白河城にて新政府軍と戦ったが薩摩藩の伊地知正治率いる新政府軍の攻撃を受け白河城落城、母成峠が占領されて敵軍が会津城下へ迫った為に頼母は会津城へ帰参した。西郷頼母は再び藩主に恭順を諫言し主戦派の重役を非難した為に頼母を暗殺をしようという空気が見え始めた為、容保は頼母の身を案じ城外の陣将への伝言役という名目で脱出させた。城内の家老・梶原平馬から二名の刺客を送られたがこれをかいくぐり、僅か十一歳の長男・吉十郎を伴って米沢から仙台へ行き榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流して函館へ向かった頼母は軍艦・開陽丸の船上で会津藩の開城降伏の報を聞いた。函館へ渡って蝦夷共和国で戦ったが新政府軍の黒田清隆の説得で榎本が降伏して頼母もまた敵陣に降った。頼母は一旦江戸へ押送されたが館林藩に幽閉されるが明治五年に赦免されて伊豆月ノ浦に私塾を開き自ら塾長として指導に当る。この頃、西郷頼母は先祖の旧姓・保科に戻して保科頼母と名乗った。また、磐城国の都々古別神社の宮司となったが謀反の疑いを持たれてすぐに辞職した。その後、東京に移り住んだが旧主・容保が日光東照宮の宮司になるや頼母は容保に従って東照宮の禰宜になって補佐した。明治二十年、神官職が廃せられるや一旦会津若松へ帰り、二年後に改めて岩代霊山神社の宮司として赴任する。また、自らの希望で県の師範学校の嘱託として格言の講義などをしたという。元会津藩士の遺児を養子として講道館の四天王といわれた西郷四郎は小説「姿三四郎」のモデルとなった。また、頼母の嫡男・吉十郎は二十二歳の若さで急逝している。明治三十三年、長年にわたった神官生活を辞め故郷の若松に帰って旧藩邸にほど近い十軒長屋に下女のお仲と二人でひっそりと暮らした。四年後の明治三十七年、脳溢血のため七十三歳で没した。 会津藩の白虎隊、中野竹子率いる娘子隊悲劇と並んだ西郷家の集団自決は今も会津三大悲劇として語り継がれている。(新政府軍が会津に侵攻し西郷頼母が嫡男の吉十郎を伴って会津若松城に登城した後、家に残った妻・千恵子、頼母の母・律子と妹・眉寿(みす)、由布の二人、頼母の娘の細布(たえ)、瀑布(たき)、田鶴子、常盤(とわ)、季(すえ)、の九人と西郷邸に訪れていた親戚縁者の合わせて二十一人が藩の足手まといになることを憂いて白装束に着替え一室に集まって自決した。頼母の妻・千恵子は田鶴子(九歳)を刺し、続いて常盤(四歳)、季(二歳)を刺し返す懐刀で自らの喉を突いて絶命した。享年三十四歳)この西郷邸に踏み込んだ土佐藩士・中島信行はこの惨状を目の当たりにした。