2009年02月28日
棚倉藩十六ささげ誠心隊 阿部内膳
阿部内膳は棚倉藩藩主・阿部美作守の一族で家老・阿部正脩(秋風)の子として生まれ戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の棚倉藩家老として加盟し白河桜町口の守備を勤めた。「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と謳われ西軍(官軍)に恐れられた誠心隊(精神隊ともいう)の隊長として活躍したという。仙台鴉とは仙台藩の細川十太夫が率いたゲリラ戦を得意とした衝撃隊のことで十六ささげとは白河地方で古くから栽培されていた大角豆(ささげ)の一種で十六ささげというものがあるらしい。棚倉藩家老・阿部内膳率いる勇士十六人の誠心隊を十六ささげに掛けてそう呼んだともいわれている。また、彼らは西洋軍装ではなく古来からの鎧、兜に弓や槍をかまえて勇猛果敢に戦った姿をみて十六ささげと名づけられたという説もある。(十六ささげはインゲン豆の一種で種が赤褐色、莢が薄緑色だったことから甲冑は赤褐色で旗幟が薄緑だったので十六ささげを連想させた。)誠心隊は始め隊長が阿部内膳以下有田大介、大輪準之助、北部史、志村四郎、川上直記、梅原彌五郎、須子國太郎、宮崎伊助、鶴見瀧藏、宮田熊太郎、湯川賢次郎、岡部鏡藏、村杜勘藏、野村絢、山岡金次郎の十六士が西軍(官軍)に対し勇猛に挑んだ為、寄せ集めの官軍らは恐れたという。しかし、阿部内膳は白河の桜町攻防戦で奮戦するも金勝寺で敵銃弾に斃れ亡くなったという。維新後、阿部内膳は反逆首謀者とされたのは負ければ賊軍といわれる所以である。
2009年02月27日
鞍馬天狗のモデルで大阪府知事 渡辺昇
渡辺昇は天保九年に肥前大村藩参政・渡辺巌の次男として生まれる。大村藩五騎に数えられる名家の家柄で長男の清(江戸城無血開場の勝海舟と西郷隆盛との会談時の西郷の副官をしていて同席した人物。)は痩身の美男子だったのに比べ弟の昇は体躯肥大「異相にして粗放」といわれ頭がことさら大きかった為に「道観さん」(道教の神像)と呼ばれた。八歳で文武館に学び、十二歳で藩校・五教館に入る。あわせて大村藩師範役の一刀流・宮村佐久馬に習う。(実際に教えたのは佐久間の実弟・死栄運八郎といわれる。)安政元年には大村藩が神道無念流・斎藤弥九郎の三男で「鬼歓」と恐れられた斎藤歓之助を師範として迎え入れ、これまでの一刀流や新陰流を退け神道無念流のみとし、四十歳以下の家士で勤務の忙しくないものはすべて講習すべとのお達しがあった。当時十七歳の昇は五教館の寮生活をしながら斎藤歓之助の微紳堂で教授を受けるようになった。安政五年、江戸藩邸詰になった父に従って出府した渡辺昇は安井息軒の塾で長州藩士・桂小五郎と知り合い彼の勧めで九段坂上にあった斎藤弥九郎の錬兵館に入門、(桂は錬兵館の塾頭を勤めていた。)渡辺登はメキメキと頭角を現し、翌年に桂が長州藩に帰国するやその後を受けて塾頭となった。その後帰藩した昇は兄の清とともに大村藩勤皇党を率いて上洛、桂小五郎、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛など諸藩の志士と交わった。京都では多くの新撰組隊士を斬ったことにより晩年にはその亡霊に悩まされた苦しんだという。戊辰戦争では大村藩を代表して奔走し、維新後は待詔局御用掛、大弾正忠に就任し福岡藩の「二分金贋金造り事件」を処分を担当した。明治三年に大阪府参事に転出し明治十年には大阪府知事に就任した。この時代、西南戦争が勃発し大阪府下で剣術道場をしていた元新撰組の谷万太郎を抜刀隊隊長に推薦した。明治十三年、元老院議官、会計検査院長を務めた。明治十六年、東京麹町区紀尾井町の皇居付属地に落成した済寧館開場式で当時最強といわれた警視庁剣術の上田馬之助と試合をしてこれを撃破して宮内庁剣術の名を高めた。その後、子爵を授与されるが大正二年に七十六歳で没する。元大阪府知事の渡辺昇は桂小五郎や高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬は勿論、新撰組の近藤勇とも懇意で江戸試衛館道場に強い道場破りが来ると錬兵館に走って渡辺昇に助太刀を頼んだという。しかし、京都では新撰組と戦い、あの「鞍馬天狗」のモデルといわれている人物である。
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2009年02月21日
桐野利秋に暗殺された兵学者 赤松小三郎
赤松小三郎は天保二年、信州上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれた後に同藩士・赤松弘の養子になった。十歳で藩校・明倫館に入学し、嘉永二年に江戸へ出て内田弥太郎の塾に入門し蘭学、天文学、数学などを学んだ。その後、佐久間象山に師事して兵学を学び、安政二年には長崎海軍伝習所へ勝海舟とともに行き航海術を習い、オランダ人にも兵学や数学を習った。一旦、帰郷するが、英国兵書の翻訳を志して上京、「英国歩兵練法」を出版して西洋兵学家として有名になった。その後、京都で私塾・宇宙堂を開き、兵法を教える一方で幕府と薩摩の結束を持論に公武合体を推進した。各藩から多くの招きを受けるが薩摩藩からの招きに答え、桐野利秋・村田新八・篠原国幹・野津道貫・東郷兵八郎・樺山資紀など薩摩藩士八百名に西洋兵学を教授した。慶応三年、越前福井藩主・松平春嶽に議会の設置を提唱、坂本龍馬の「船中八策」はこれをまねたのもと言われている。出身地の上田藩からの再三の帰藩命令を受け信州上田に帰る途中、京都伏見に所要があって立ち寄るがその帰途、東洞院五条通りで桐野利秋(人斬り半次郎)と田代五郎右衛門ら薩摩藩士に暗殺された。桐野利秋は赤松小三郎の弟子であったが、当時佐幕派の頭目の一人と見られた元老中の上田藩に薩摩藩の軍事機密が漏れるのを恐れた薩摩藩が暗殺を命じたといわれている。享年三十七歳・・・尚、墓石の横には中村半次郎(桐野利秋)の名で師匠・赤松小三郎の功績を称え、死を悼む言葉の書かれた碑が建立され、故郷上田の城跡公園には東郷平八郎らが記念碑を建立して師の功績を称えた。大正十三年に従三位が追贈された。
¥2,940(税込) あぁ……今年もやってきました花粉の季節…!しかもなんと、例年の3倍量も飛びかう地獄の春になるらしいじゃありませ… | |
2009年02月16日
山国隊参謀因幡鳥取藩士 河田佐久馬
河田佐久馬は文政十一年、因幡鳥取藩士・河田景介の子として生まれる。鳥取藩の尊王志士で嘉永四年に家督をついで京都に上り、伏見の留守居役を勤める。文久三年に京都留守居役となった。長州藩が強行に朝廷を動かして攘夷決行の御祈願の為に大和行幸「御親征」決定の詔勅が伝えられると中川宮親王を中心に因幡鳥取藩主・池田慶徳、備前岡山藩主、阿波徳島藩主らが参内し時期尚早として暫くの猶予を請うた。因幡鳥取藩主・池田慶徳は水戸藩主・徳川斉昭の子で鳥取藩に養子に入った人物で穏健的尊王攘夷派であったがこの行動で佐幕派と見られて京都中に張り紙が出された。この屈辱を晴らす為、河田佐久馬ら七名の尊攘急進派藩士は藩主をこの行動に走らせた側近の黒田権之介を詫間樊六ら十五名は早川卓之丞、高澤省己、加藤十郎を急襲して惨殺する。この急進派藩士のうち、加藤十次郎は藩命により直ぐに切腹。また、奥田萬次郎は黒田権之介の弟子であったので自責の念に駆られ切腹し、新庄卓老は河田の指示で状況探索に出るが幕吏に捕縛され後に桂小五郎に助けだされた。この二人を除いた二十人を「因幡二十士」と呼ばれた。側近を殺された藩主・池田慶徳は切腹を申し付けようとしたが有栖川宮の助命口添えがあり、伏見藩邸に謹慎・幽閉と決まった。その後、有栖川宮家は鳥取藩に「二十士」の召抱えを申しいれたが藩はこれを断ったと言う。また、河田は藩邸を抜け出し池田屋に参加する為に向かったが会合時間に遅れた為に新撰組の襲撃は免れたと言う。河田ら「二十士」は幽閉先を変えながら慶応二年の第二次長州征伐の折に抜け出して天野屋こと中野吉兵衛親子の船で出雲藩の手結い浜に上陸したが出雲藩の藩吏に咎められ五人を残して逃亡して長州藩に逃れて匿われる。残った五人は黒田権之介、早川卓之丞らの親族が敵討ちの為に出雲に来ていたので出雲藩の協力で詫間樊六ら五人を十八人がかりで討ち取った。長州藩に匿われた河田らは上京し薩摩藩に潜伏後、鳥羽・伏見の戦いに参戦、その後因幡鳥取藩に赦されて藩籍復帰を果たす。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として山国隊を率いて奮戦、後に大総督府参謀となり賞典禄四百五十石を下賜される。維新後は兵部大丞、京都府大参事兼留守判官、弾正大忠、民部大丞、福岡大参事などを歴任し、明治五年に鳥取県権県令に就任した。明治二十年に子爵に叙せられ七十歳で死去する。「因幡二十士」は藩籍には復帰したが、藩主・池田慶徳の怒りは収まらず、人を殺しておいて逃亡するとは赦せぬと廻りに漏らしたという。余談だが、山国隊とは丹波山国郷(現・京都府北桑田郡京北町)に結成された農兵隊で、京都三大祭りの一つ、時代祭りの先頭を行く鼓笛隊として知られている。山国郷は昔から皇室に木材や土地の産物を献上してきた尊王の志の篤い人々であったらしい。鳥羽伏見の戦いが勃発すると山陰道鎮撫総督府西園寺公望が王政復古の募兵を行ったので山国郷の有志八十数人が結成したのが山国隊だった。戊辰戦争に於いて有栖川宮熾仁親王東征大総督の京都出陣に伴って鳥取藩部隊に組入れられ河田佐久馬が隊長を兼務し甲州勝沼の戦いに参戦しゲーベル銃(火縄銃に毛の生えた程度の銃)に換えてミニエー銃(フランス最新銃)を付与され、「魁」の文字を冠した毛皮の陣笠を隊士に配布した。その後、江戸に凱旋して錦旗の警護を任され彰義隊との戦いで一番乗りの功名を挙げた。東北、北陸戦争にも従軍し有栖川宮とともに京都へ凱旋を果たす。山国隊は草莽の農兵隊だが相楽総三率いる赤報隊との決定的違いは軍資金や食料の現地調達は一切せずに兵隊の食料などすべて自前で手弁当で賄ったという。そのために、郷土に帰った山国隊には莫大な借金だけが残り名主共有の山林などを売り払って賄ったという。しかし、山国隊は郷土の誇りとして現代まで山国神社の還幸祭や時代祭り先頭という栄誉を承った。
2009年02月10日
沖田総司の義兄 沖田林太郎
沖田林太郎は文政十年、日野宿の井上家(新撰組六番隊隊長井上現三郎の実家)の分家で八王子千人同心の井上家に生まれ、近藤周助(近藤勇の養父)の江戸市谷にある天然理心流試衛館道場に入門し免許皆伝を得る。話が複雑になるが、沖田家は陸奥白河藩士・沖田勝次郎(林太郎の妻・みつや総司の父)が白河藩江戸屋敷で採用された武士であった。(当時、参勤交代の度に陸奥白河藩から大勢の藩士が随行して一年間の江戸詰生活に出す費用が藩財政を圧迫した為、経費削減の為に江戸で藩士を雇い江戸屋敷内の仕事をさせた。したがって沖田家は白河藩には行った事も無い白河藩士だった。)しかし、沖田勝次郎が亡くなり、母とも死別した為に沖田みつと幼い弟の宗次郎は母の実家であった井上家の近くで住むようになった。そこで沖田家を存続させる為に姉・みつに井上家の分家から婿養子を迎えて沖田家を相続させる。(宗次郎は幼かったので近藤周助のところに預けられた。宗次郎は近藤家で下働きをしながら修行を重ね後に総司と改名)話は戻って沖田家へ婿養子に入った林太郎は清河八郎や山岡鉄太郎(鉄舟)らが結成した「虎尾の会」に触発されて清河らが提案した「浪士隊」募集に天然理心流試衛館一門の近藤勇、土方歳三、義弟の沖田総司らと参加する。沖田林太郎は三番組(後の壬生浪士隊局長の一人・新見錦が小頭)として上洛したが清河八郎の尊王攘夷活動の為の策略との疑いで江戸へ呼び戻される。しかし、芹澤鴨一派や近藤勇一派は京都に残り壬生浪士隊となって会津藩預かりとして活躍する。沖田林太郎は清河とともに江戸へ戻った「浪士組」として江戸市中の警備を担当する。清河八郎が佐々木只三郎に暗殺されると「浪士組」は庄内藩酒井忠篤の預かりとして「新徴組」と改名、沖田林太郎は「新徴組」の組頭となる。当時、江戸市中では薩摩藩の西郷隆盛が討幕の口実を作る為、火付けや押し込み強盗を繰り返し江戸市中を混乱させて幕吏が捕縛に向かうと薩摩屋敷に逃げ込む作戦を仕掛けた。この行動に業を煮やした庄内藩「新徴組」は薩摩屋敷を急襲して戊辰戦争が勃発しまんまと西郷の策略に乗ってしまった。庄内藩主・酒井忠篤は江戸から庄内へと帰る。この時に沖田林太郎も妻・みつや長男・芳太郎とともに出羽国庄内藩へ移住して奥羽越列藩同盟による北陸戦争を戦い抜き降伏後は江戸へ戻る。その後、明治十七年に東京で死去した。享年六十歳・・・
2009年02月08日
仙台見国隊隊長 二関源治
二関源治は天保七年に仙台城下小田原の三十二石大番隊士・二関駒治の長男として生まれる。源治が八歳の時に父親が没して母親の実家・大内家で養育される。「小柄で貴婦人のごとく色白だが性格は冷静沈着で勇猛果敢」と記録されている。戊辰戦争では猪狩兵左衛門の配下の銃士として越後口で奮戦、その後は星恂太郎の額兵隊に入って小隊指令を勤める。明治元年、仙台藩が降伏恭順したが六十二万石の領地を没収、新たに朝廷より二十八万石を与えられることになった。当時、仙台藩士は約一万二千人、陪臣は二万人を養うには到底足りない石高になった。藩は人員削減の大リストラに踏み切り、蝦夷地開拓の申請を受付(藩士の数を減らすための策)を始めた。藩のこの態度に不満を覚えた二関源治や幕臣・石川欽八郎らは藩士の次男、三男や恭順に反対した者、浪人達を集めて見国隊を結成した。彼らは石巻を本拠地として軍資金を調達するために塩釜、高城、野蒜など気仙沼地方の富農や町人宅に押し入って金品の提供を強請した。伊達藩は追っ手を差向けて旧藩士を極力説得し他藩士や旧幕臣は容赦なく斬罪に処した。また、藩主・伊達宗基の自ら石巻に出張して説得を試みたが二関源治たちは追っ手を避けて気仙沼に本拠を移し、現宮城県桃生郡の大富農斉藤善右衛門(山形県酒田の本間家につぐ全国2位の大地主)に軍資金提供を迫った。丁度、気仙沼沖に加賀藩前田家の商船が碇泊し仏国人が乗船していたので石川が趣旨を説明して乗船させてもらい横浜へ赴く、ここで英国商船と直談判して兵器調達に成功し、英国蒸気船ユーレンブラック号に積み替えて気仙沼に帰港してそのまま石巻へと移動、ここで五隻の仙台藩和船に積んであった米穀類を奪取してユーレンブラック号に積み見国隊三百五十名を乗せて蝦夷地を目指し出航する。蝦夷地東砂原(沙原)に着いたユーレンブラック号ははじめ敵艦と間違えられ衝蜂隊から砲撃を受けるが合図を送って無事着岸する。見国隊は兵力を二つに分けて一方が室蘭方面の防衛に向かい、もう一方は森大野の守備についた。見国隊隊長の二関源治は額兵隊の星恂太郎と面会する為に有川に向かう。しかし、有川には星恂太郎は居らず、木古内にいるといわれたので有川の額兵隊士・荒井宣行に案内をしてもらって五稜郭の榎本武揚総裁を訪ねる。榎本は二関達見国隊に有川の防衛を命じた為、森大野に駐屯していた見国隊を有川に移動させ、二関自身は単身で木古内の星恂太郎に会いに行った。星と面会した二関は今までの仙台藩事情を説明し、木古内で一泊したが翌朝には戦闘状態に入った。星恂太郎は二関に「君はここで戦うべきではない。見国隊を連れて函館の防備に廻るべきだ。」と説得され函館へ戻って臨戦態勢をとった。明治二年五月十一日、函館市街戦の最中に大森浜で敵銃弾を受けて重傷を負い五稜郭へ担ぎ込まれ翌日に死亡する。享年三十四歳・・・奥羽越列藩同盟軍の中では仙台藩兵は「ドンごり」と呼ばれ、他藩から馬鹿にされていたという。(大砲がドンと一発なれば仙台藩の兵隊は五里も後方へ逃げるという意味らしい。)そんな弱腰ばかりの仙台藩伊達家臣において星恂太郎の額兵隊と二関源治の見国隊は敗戦濃厚な函館戦争に身を投じて奮戦したことは仙台藩の汚名を注いでも余りある働きをした。
2009年02月07日
米百表の精神 小林虎三郎
小林虎三郎は文政十一年、越後国(現・新潟県)長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれる。幼少の頃に罹った疱瘡によって顔にあばたが残り、左目も潰れてしまい負い目を感じて育ったといわれる。しかし、学問は良く出来、長岡藩校崇徳館で学び、十七歳の頃には藩校の助手を務めるほどになった。嘉永三年、藩命によって江戸へ遊学し佐久間象山の塾に入門する。この時、江戸で知り合い親しくなった長州藩の吉田寅次郎松陰を師匠の佐久間に紹介して入門させ、ともに学んだという。佐久間象山は「義卿(吉田松陰)の胆略、炳文(小林虎三郎)の学識、希世の才」(天下国家の政治を任せられるのは吉田だが、わが子を託して教育を任せられるのは小林だ。)と褒め讃え、象山門下の二虎と称された。その後、勝海舟や坂本龍馬らと親交を持って象山の「開国論」に感化され当時、幕府の老中職にあった長岡藩主・牧野忠雅に横浜開港を建言したことによって藩主の怒りを受け帰国謹慎を申し渡される。虎三郎が帰国して間もなく戊辰戦争が勃発、虎三郎は今までに無い見地から徳川慶喜を朝敵とすることに異議を唱えた。(王政復古を逆手にとって律令に照らして徳川は逆賊に当らないので慶喜を寛典に処してほしい。)虎三郎は長岡藩にこの嘆願書を提出したが、江戸より河井継之助が帰国し、もはや嘆願書を提出しても意味がないと一蹴される。慶応四年、虎三郎は恭順派にも属さない独自理論で非戦論を唱えるが家老上席・軍事総督となった河井継之助や次席家老の山本帯刀ら主戦派に押し切られ開戦となる。(首席家老の稲垣平助は開戦前に出奔逃亡する。)虎三郎は藩主・忠訓に従って会津から仙台と逃亡し北越戦争が終結、河井継之助は戦死、山本帯刀は戦争責任を負って新政府に処刑された。長岡藩七万四千石から二万四千石に減封となり戦火によって領内は荒廃していた。虎三郎は大参事(前首席家老の稲垣は終戦と同時に戻って来たが藩士の信用を失って参事には推されなかった。)となって国事を任されが禄を無くした藩士達は困窮を極めた。この惨状見かねた長岡藩の支藩・三根山藩は見舞いとして米百表を送った。今日、明日の食べる物が無い藩士たちは早く分配しろと虎三郎に迫ったが「藩士たちには面扶持(配給米)を既に配っている。百俵の米も分配して食えば忽ちなくなるが、教育に当てれば将来の一万、百万表にもなる。」「食えないからこそ教育が必要だ、国や町が栄えるのもすべて人にある。」といって分配せずに売却して学校建設の費用にした。明治三年、三島億二郎の協力を得て国漢学校の校舎を新しく建て士族は勿論、農民や町民の入学も認めた。国漢学校藩校崇徳館時代は漢学だけだったのを国学なども教え算術も教えるようになる。(合併、統合を繰り返し)校内に洋学局と医学局も創設された。国漢学校は現代の阪之上小学校、洋学局は後に洋学校となり現代の新潟県立長岡高校と繋がっていき、この学校が後の東大総長の小野塚喜平次や連合艦隊司令長官の山本五十六、解剖学の権威小金井良精らを輩出した。医学局は長岡会社病院から長岡赤十字病院となった。小林虎三郎は明治四年、自らを「病翁」と名乗り、リュウマチ、腎臓病、肝臓病などで苦しみながらも教育への情熱は失われず郡役所に教育行政の嘆願、陳情を繰り返して郡役所から煙たがられ病気養生をするようにとの命が下った。明治十年に療養先の伊香保温泉で熱病に罹り妻と離婚していた為、(長男は早世)東京向島の弟・小林雄七郎の自宅で死去した。享年五十歳・・・米百表の逸話は昭和に入って山本有三が戯曲「米百表」を歌舞伎座で上演して広く世に知られることになった。最近では小泉純一郎元首相が第一次内閣の所信表明で「米百俵の精神」を用いてその年の流行語大賞に選ばれた。
2009年02月05日
仙台額兵隊 星恂太郎
星恂太郎は天保十一年、仙台東照宮六供の一戸・星道栄の長男として生まれる。幼い頃から武芸を好み、星家の家業・東照宮宮司を継がせるのが難しいと思った父・道栄は伊達藩の台所人・小島知治の養子とした。しかし、剣術好きの恂太郎は包丁を持つことを嫌い実家の星家へ戻される。その後、剣を狭川喜多之助に西洋兵学を真田喜平太に学んだ。恂太郎ははじめ、熱烈な攘夷論者で同志の金成善左衛門、男澤珍平、菊池虎太郎とともに開国論者の大槻磐渓や但木土佐、松倉良輔らの暗殺を計画する。最初に大槻を襲撃するが失敗、次に但木の屋敷に押し込んだが逆に西洋事情の知らない恂太郎らを説得、後日大槻磐渓を訪れ話を聞き、自分達がいかに無知であったかを恥じる。元治元年、恂太郎は脱藩して江戸へ出、海外事情を知るために渡米を試みるが失敗、無一文になった恂太郎は仙台藩士・富田鉄之助に救われる。富田は但木土佐から星恂太郎という男は見込みがあるので助けるようにと大金を渡されていた。感激した恂太郎はその後、幕臣の川勝広道や下曽根信行に西洋砲術や銃隊編成調練を学ぶ。また、恂太郎は各藩の兵備などを調べて歩き、横浜でアメリカ人ヴァン・リードに出会い昼は彼の経営する銃砲店で働きながら夜は兵学砲術の研究に打ち込んだ。その後、江戸に戻って諸藩士に兵学砲術を教授するまでに精通するが戊辰戦争が始まると上野で彰義隊と新政府軍が戦火を交える。恂太郎は戦火を避けるために横浜に居を移すがそこで仙台藩士・松倉良輔の説得を受けて仙台へ帰ることになる。帰藩した恂太郎は慶応四年、西洋流銃術指南役として大番士に取り立てられ洋式銃隊の額兵隊(恂太郎が横浜で知り合ったヴァン・リードの伝手で購入した洋式銃器や赤と黒のリバーシブル軍服で装備)の調練を任される。恂太郎は奥羽越列藩同盟として仙台藩も新政府軍と戦っていたが額兵隊に再三出撃命令を出したにも関わらず準備不足を理由に是を拒む。弾薬製造を終えいよいよ出陣となった恂太郎は約1千名藩兵(額兵隊)を率いての奥羽越列藩同盟として出兵中に仙台藩は恭順降伏を表明、星恂太郎を中心に藩の帰順に不満を持つ額兵隊隊士二百五十名を率いて脱走し、藩主・伊達慶邦の説得を振り切って旧幕府軍の榎本艦隊に合流して蝦夷地へ渡る。鷲ノ木浜に上陸後、星恂太郎ら額兵隊は陸軍隊、衝蜂隊と共に先鋒を務め奮戦する。函館政府では第三列士満(レジマンのことで連隊と約す。)の第二大隊隊長に就任して土方歳三の指揮下に入った。明治二年、新政府軍が乙部から上陸し陸海からの猛攻撃を開始、額兵隊は木古内、矢不来で奮戦するが敵兵力に圧倒され惨敗し恂太郎は切腹しようとした。しかし、仲間に説得され千代ヶ岡に撤退、弁天台場の救出に向かう土方歳三に従って出撃するが反撃に会い土方が戦死、星恂太郎は千代ヶ岡に退いた。星恂太郎は函館政府の降伏まで戦い続けたが捕縛されて弁天台場にて一年間の謹慎生活を送る。赦免後、他の仙台藩士と共に日高国沙流郡平取の仙台藩開拓事業に従事するが一ヵ月後に閉鎖され仙台へ戻る。明治四年に新政府の開拓使に十五等出仕し北海道岩内郡堀株の製塩場経営に従事し開拓使大主典となる。しかし、経営不振の為に製塩場が閉鎖され恂太郎はその責任を負って開拓使を免職する。岩内で農業と魚の加工業を起こそう計画するが持病の脚気が悪化して仙台に戻り、明治九年に死去。享年三十七歳・・・星恂太郎は額兵隊を率いて蝦夷地へ渡航する前に友人の金成善左衛門の妹・ツルと結婚(当時十七歳だったツルに惚れ金成に頼んで妻にした)、二女をもうけた。長女は後に榎本武揚の媒酌で函館政府の会計奉行だった榎本対馬の次男・孝太郎に嫁ぎ、次女は樋口忠一に嫁いだ)子孫に歴史作家・星亮一氏がいる。(薩長に批判的な作品が多く、悪評も多いが官軍の雑兵によるいわれ無き殺戮や略奪、強姦を受けた東北戦争の犠牲者の子孫の心情を考えれば私は当然のことと理解できる。)
2009年01月20日
衝蜂隊隊長 古屋佐久左衛門
古屋佐久左衛門は天保四年、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市古飯)の庄屋・高松虎之助の次男として生まれる。三歳年下の弟に後の日本赤十字運動の先駆者と言われる高松凌雲がいる。百姓を嫌い医者を志して長崎の尾形塾に学び、ついで大坂へ出て春日塾で医術を修めるも自分は医学に適さないことを悟ったと言う。その後、江戸へ出て蘭学や英語を学び類稀なき才能を開花させ、その縁で幕府御家人古屋家へ養子として迎えられ幕臣・古屋佐久左衛門となる。佐久左衛門は神奈川奉行所に出仕し、英語通詞となって横浜で日本人の子供が英国人の乗る馬に蹴られて負傷した事件で単身で領事館に乗り込み直接交渉をして治療代を支払わせて評判となる。また、英国士官について英式歩兵操錬術を学び沼間新次郎、益田徳之進と「英国歩兵操典」や「英国操錬図解」の翻訳をして名声を高めた。慶応元年に江戸三味線堀にて英学塾を開くが慶応四年に京都の鳥羽伏見で開戦、敗れた幕府軍が江戸へ戻って来る。この鳥羽伏見の戦いで鳥羽口を守っていた11連隊を率いていた佐久間信久と伏見口の窪田鎮幸率いる12連隊の両隊長が戦死して残軍千五百名が江戸三番町の兵舎へ収容されていた。しかし、その残軍が暴発し士官を殺害して武器弾薬を奪って北関東へ脱走してしまった。幕府全権を任されていた勝海舟は追討に軍の統率に秀でている古屋佐久左衛門を差し向ける。古屋は神奈川奉行所時代に親しかったかつての京都見廻り組・今井信朗(坂本龍馬を斬った男と言われている。)、内田荘司らを呼び寄せ江戸を出立する。下野佐久山で脱走兵に追いつき三日三晩説得して帰順させ脱落者を除く三百七十名を武州忍藩に預け古屋は江戸の幕府陸軍局に報告に帰った。古屋は新たに幕府直轄地の信州中野の鎮撫の為、歩兵頭を拝命して歩兵第六連隊六百名と砲三門、軍用金と食料を持って出陣し忍藩に預けていた脱走兵を吸収して「衝蜂隊」を編成し総督・古屋佐久左衛門、頭並隊長・今井信朗、隊長・内田荘司、参謀・楠山兼三郎とした。途中、梁田宿で新政府軍の急襲を受け100人の戦死者を出して敗走、会津藩若松城に入り藩主・松平容保、慶徳父子に拝謁して人員や武器弾薬の補充をして信州中野に向かう。衝蜂隊は八百五十名は新潟に至り千曲川を挟んで新政府軍と戦闘、盟約を結んでいたはずの飯山藩と高田藩の裏切りに会い敗走、越後長岡の攻防で長岡藩家老・河井継之助や会津藩の勇将鬼佐川こと佐川官兵衛とともに
戦うが長岡城が落城して会津に逃れる途中の河井継之助が戦死した。古屋佐久左衛門は佐川官兵衛と会津若松城に戻り松平容保に拝謁後籠城戦に向けて赤谷口へ出陣し、会津藩家老・梶原平馬の要請で福島、仙台へ向かって列藩同盟の諸部隊とともに会津藩救援に向かおうとするが、奥羽列藩の敗色が濃くなり会津若松城が落城、降伏となった。古屋は仙台に着港していた幕府海軍の榎本武揚艦隊と合流、松島港から蝦夷地へ向かうこととなった。船上ではフランス留学から帰国した弟の高松凌雲と再会、凌雲は函館で日本初の赤十字精神に則った函館病院を設立して敵・味方関係なく負傷者の治療に当たった。古屋は函館戦争に最後まで奮戦したが、明治二年に五稜郭から函館奪回の為、出陣前の祝宴を開いていたところへ敵の砲弾が命中、古屋は横腹をえぐられる重傷を負って湯の川病院へ運ばれる。そこで弟の高松凌雲の施療を受けるが四日後に三十七歳の生涯を閉じた。弟の凌雲は函館戦争後東京で開院し、新政府の好条件の誘いを断って生涯町医者を貫き、貧民には無料の治療を行い、後の民間救護団体「同愛社」を創設して貧しい人々を救った。
戦うが長岡城が落城して会津に逃れる途中の河井継之助が戦死した。古屋佐久左衛門は佐川官兵衛と会津若松城に戻り松平容保に拝謁後籠城戦に向けて赤谷口へ出陣し、会津藩家老・梶原平馬の要請で福島、仙台へ向かって列藩同盟の諸部隊とともに会津藩救援に向かおうとするが、奥羽列藩の敗色が濃くなり会津若松城が落城、降伏となった。古屋は仙台に着港していた幕府海軍の榎本武揚艦隊と合流、松島港から蝦夷地へ向かうこととなった。船上ではフランス留学から帰国した弟の高松凌雲と再会、凌雲は函館で日本初の赤十字精神に則った函館病院を設立して敵・味方関係なく負傷者の治療に当たった。古屋は函館戦争に最後まで奮戦したが、明治二年に五稜郭から函館奪回の為、出陣前の祝宴を開いていたところへ敵の砲弾が命中、古屋は横腹をえぐられる重傷を負って湯の川病院へ運ばれる。そこで弟の高松凌雲の施療を受けるが四日後に三十七歳の生涯を閉じた。弟の凌雲は函館戦争後東京で開院し、新政府の好条件の誘いを断って生涯町医者を貫き、貧民には無料の治療を行い、後の民間救護団体「同愛社」を創設して貧しい人々を救った。
2008年12月29日
桑名藩・雷神隊 立見尚文
立見尚文は弘化二年、桑名藩士・町田伝大夫の三男として伊勢に生まれ、三百五十石取りの立見作十郎の養子となる。昌平坂学問所に学び、風伝流槍術に長じ、岡田豊前に支持して兵法を修めた。その後、桑名藩主・松平定敬(会津藩主・松平容保の実弟)が京都所司代の就任に伴って上洛し藩の周旋役に就いた。この時期、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と親交を持ったと言われている。後に幕府陸軍に出向し歩兵第三連隊の指図役となってフランス式用兵学を習った。鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫した桑名藩の軍制を立て直し将軍・徳川慶喜謹慎後も徹底抗戦を主張した。桑名藩兵を率いた立見尚文は新撰組の土方歳三らとともに宇都宮城を陥落させた。慶応四年、藩主・松平定敬が蟄居している柏崎に入るや恭順派の側近を追い払い抵抗体制を作った。北越戦争では桑名藩(国許では無抵抗恭順に決まった。)の佐幕派藩士を組織した雷神隊の隊長となる。その雷神隊に同調したのが立見の兄・町田老之丞が率いる神風隊と松浦秀八が率いる致人隊の合わせて総勢三百六十余名が柏崎に集結した。ゲリラ戦を得意とし新政府軍を度々壊滅若しくは敗退させた。特に朝日山の戦闘では奇兵隊参謀の時山直八を討ち取る殊勲を挙げ山縣有朋を敗走させた。その後、会津若松城下の戦いで敗走、奥羽越列藩同盟で最後まで戦った庄内藩が降伏した為に援軍の見込みがなくなり、幕末最高の指揮官と言われた雷神隊・立見尚文も庄内で降伏する。維新後は謹慎生活を続けていたが裁判所の書記官として出仕する。その後、各地で士族の反乱が相次いだ為に明治新政府に請われて陸軍入りして西南戦争で陸軍少佐として新選旅団参謀副長として従軍、私学校軍の拠点となった城山に真っ先に突入して岩崎谷の書類を押収した。明治二十七年、日清戦争では陸軍少将に昇進、第十旅団長として朝鮮半島に出陣して功を挙げる。その後、陸軍大学校校長、台湾総督府軍務局局長を歴任して男爵の爵位を受け、幕末維新戦争で賊軍の立場では異例の昇進をする。明治三十一年、陸軍中将に昇進して第八師団(青森県弘前)の師団長となった。(映画「八甲田山」で有名な八甲田山雪中行軍は彼の第八師団下の第四歩兵旅団歩兵第三十一連隊と第五連隊が行い、第三十一連隊は成功したが第五連隊は全員凍死するという無残な結果となった。)明治三十七年、日露戦争では第八師団二万人を率いて出征し、ロシア軍の冬季奇襲攻撃を受けた日本軍の重要拠点・黒溝台での会戦で僅か八千の兵で地平線を埋め尽くすロシア軍十万を相手に戦っていた秋山好古少将を救援する為、遥か後方より零下30℃の寒気の中を進軍、はじめは苦戦したが次第に盛り返してロシア軍を撃退した。部下の信頼が厚く軍神のごとく尊敬されたと言う。この戦功により陸軍大将に昇進する。その後、歴戦の心労が祟り病に倒れ明治四十年、東京で死去する。葬儀には明治天皇から供花料が贈られ、長州閥の山縣有朋(幕末の北越戦争では立見率いる雷神隊に苦い戦いを強いられた思いから生涯、頭が上がらなかったという。)薩摩閥から大山巌が参列して追悼した。
2008年10月21日
池田屋に散った尊攘派の重鎮 宮部鼎蔵
宮部鼎蔵は文政三年、肥後国益城郡田代村の医師・宮部春吾の長男として生まれる。家業は継がず、叔父・宮部増美の養子となり山鹿流軍学を学び、嘉永三年に藩の兵法師範役に任じられた。嘉永四年、家老・有吉頼母立道に従って上京し、以前九州歴訪中に出会った長州の吉田松陰と再会、松陰とともに東北諸国を歴訪し東北の志士たちと交流し帰国後、林櫻園で国学を学び尊王攘夷の思想に染まっていく。文久元年、肥後勤皇党に名を連ねその中心人物となる。ペリーの黒船が来航すると宮部はすぐさま上京、親友・吉田松陰が黒船の密航を計画しているのを知り、その勇気をたたえ帯刀を交換する。安政二年、熊本の水前寺で実弟と弟子らが乱闘事件を起こし、その責任を取って辞職、田代村に隠居した。宮部は「攻守和戦の策」を論じ建白書を熊本藩に提出したが、佐幕派の藩主に受け入れてもらえず失望し志を門人に託し、門弟の育成に力を注ぐ。文久二年、清河八郎が九州遊説の折に中山大納言の諸太夫・田中河内介の紹介で清河と合いその影響で益々尊攘に傾倒していく。宮部は清河の勧めで上洛し、薩摩藩尊攘派の志士・有馬新七と親交をとって摂津方面の海防視察や防禦問題を話し合い一躍、尊王攘夷の先導者として名を馳せる。しかし、寺田屋の変で島津藩は有馬たち尊攘派を粛清した為、挙兵は失敗に終わった。八月十八日の政変で京都を追われた七卿とともに長州藩に身を寄せる。翌年に再び、上洛した宮部は古高俊太郎の枡屋に寄宿し尊攘活動に奔走、元治元年に古高俊太郎が新撰組に捕まり、京都決起が露見する。木屋町池田屋で会談中、新撰組に強襲され奮闘するが新撰組一番の剣豪・沖田総司にかなわず自刃して果てた。享年三十五歳
2008年10月01日
法治国家を目指した 江藤新平
江藤新平は天保五年、肥前佐賀藩八戸村(現・佐賀県佐賀市鍋島町)に父・江藤胤光と母・千代子の長男として生まれる。父・胤光は「手明槍」という普段は無役ながらいざという時は槍一本と具足一領で出陣する低い身分の武士であった。生活が出来ないほどの貧乏であったが母・千代子の強い希望により当時六〜八歳で通う弘道館(藩校)に十六歳から通い始める。弘道館教授の国学者枝吉神陽の私塾に入学し開国論に傾倒する。嘉永三年、枝吉の主宰する義祭同盟に参加し中野晴虎や大木喬任、島義勇らと親交を結び、「図海策」という開国論文を作成した。頭脳明晰が認められいろいろな役職に就き雄藩連合を目指して運動を開始したが、強大な軍事力を持ちながら動こうとしない藩主・鍋島閑叟に苛立ち脱藩を決意する。新平は上洛し、開国派として知られる公卿・姉小路公知を通じて建白書を上奏するが、成果が上がらなかった。この時、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と知り合う。その後、藩主の命により帰藩させられ、「京都見聞」と提出、脱藩の罪により通常切腹のところ藩主・鍋島閑叟がその才能を認め永蟄居となり金福寺という廃寺に幽閉され維新前の活躍が出来なかった。王政復古後に許され、慶応四年に東征大総督府の軍監となって江戸へ行き、長州藩大村益次郎の指揮の下彰義隊討伐に尽力(鍋島藩自慢のガトリング砲を活用)戦後東京遷都を主張した。明治二年、維新の功労者として佐賀藩で唯一百石の賞典禄が下された。明治五年、司法卿となり司法の独立や警察制度の統一、民法草案の編纂などに務めた。また、汚職を憎み厳しく取り締まった為、金に着た汚い長州閥に恨みを買う。江藤新平は法律によって国を治めるべき主張したが、薩摩の大久保利通は官僚支配による行政国家を模索していた為対立する。(大久保の官僚支配国家が現代の官僚天国を作った)明治六年の政変によって西郷隆盛ら征韓論派が下野し、江藤新平の政界を去る。この頃、維新政府の腐敗が目立ち没落した不平士族に不穏な動きが出てきた。新平は佐賀にもこの動きがある事を危惧し佐賀へ帰る。明治七年、抑えに帰ったはずの新平自身が征韓党と島義勇が率いる憂国党と党首に祭り上げられ、三千の兵を率いて佐賀城を攻撃し佐賀の乱が起こる。政府軍は素早く三万の軍勢を迅速に送込み瞬く間に壊滅させた。(不思議なことに大久保の支持で江藤新平が佐賀に帰国と同時に出兵の準備をさせた)江藤新平は逃亡の末、薩摩に帰っていた西郷に助けを求めたが西郷は敗戦の原因は反乱軍の中に総大将である江藤本人がいなかった事を激しく非難し江藤を見放した。日本初の指名手配となった江藤は土佐・甲ノ浦で逮捕され、大久保卿の指示で弁護人も審議も無い臨時裁判にかけられ日本最後の斬首のうえ晒し首という残酷な判決を受ける。新平は死に臨み「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」と辞世の句を三度叫び処刑された。「俺の心はただ天のみが知っている」という意味らしい。江藤新平の処刑により政敵を抹殺した大久保利通は現代まで残る官僚国家を作り出し、またその子孫の麻生太郎氏が総理大臣の地位に就いたのも因縁のような気がする(大久保利通の次男牧野氏の孫が吉田茂婦人)
2008年04月04日
桜田門外で井伊直弼を斬殺した 関鉄之助
関鉄之助は文政七年水戸城下に生まれ、安政二年に父・関昌克の家督を継ぎ与力となった。安政三年に藩政改革派重鎮の北郡奉行職金子孫次郎に郡方与力に抜擢された。既に嘉永六年とその翌年にペリーの黒船が来航した時、鉄之助はその状況を探索するなど尊王攘夷論者であった。安政五年、藩命により北地開拓の先発者として新潟で忙しい日々を送っていたが、井伊直弼による水戸藩主斉昭・慶喜親子らの処分を知り、先ずは主君を死守するべきと公務を投げ捨て、急遽江戸へはせ参じた。尊攘激派の金子孫次郎らは水戸藩に下った勅書を奉じ、諸藩の意向を確認し、水戸藩を中心とした雄藩連合実現する構想を練っていた。鉄之助には北陸・山陰・山陽の諸藩遊説が命じられた。鳥取藩からある程度の理解を得たが実質的成果がないまま水戸藩への帰路についた。鉄之助は勅による井伊直弼への対抗には不可能を感じ、同志の手で琴を成し遂げるため、井伊の暗殺の勅命を得ようと薩摩藩士高崎猪太郎と京都に立ち寄るが失敗する。むなしく帰藩した鉄之助にお役御免と蟄居の処分が下った。水戸藩に対する井伊直弼の厳しい弾圧で水戸藩庁が下した処分であった。金子孫次郎らは安政六年の暮れに至って井伊暗殺を決意、少人数で登城途中を狙うということで意見がまとまり、金子や高橋多一郎は大局に立って参加せず関鉄之助が襲撃の指揮役を命じられた。現場での各人の役割分担は鉄之助が指示し、襲撃は数分間で終わった。鉄砲が撃たれ、激しく斬り合いがあり双方に死傷者が出たが井伊直弼の級首を挙げ、大半の同志が幕府に自訴した。鉄之助は責任者として現場を見守り脱出し次ぎの目標である大坂挙兵に参加するため上方へ向かう。途中、金子孫次郎は薩摩藩の手で捕縛され、京都奉行所から江戸へ護送され、高橋多一郎は自刃した。鉄之助は襲撃同志の岡部三十郎らと奈良に到着、大坂に入るが高橋の自刃を知り、幕吏が身近に迫っていることを自覚する。十日間滞在したが身動きが取れず大坂を脱出、有馬温泉で再度同志達と合流し、今後の方策を決めた。大坂へ戻ると思いがけず水戸の後援者桜岡源次衛門から軍資金を託されたもと配下の守山敏之助らと会った。森山から桜田門襲撃同志等のその後と幕府・水戸藩の対応を知らされ、斉昭を始めとした水戸藩の大部分は鉄之助の行動が理解されなかったことを知った。失意の鉄之助は同志を集める旅に出、四国に渡り金刀比羅宮へ参詣し丸亀、赤穂、姫路と旅を続け、以前理解を示してくれた鳥取藩へ行くが鳥取藩すら追っ手を差し向けようとしていることを知り岡山へ逃げる。尾道より舟で広島へ上陸、長州を経て薩摩へ向かったが国境で入国を拒否される。盟約を結んでいた薩摩藩の裏切りに引き返すしかなかった鉄之助は水戸へ帰り袋田村の後援者桜岡源次衛門の家で出迎えてくれた同志達と次なる対応を語り合った。この頃、鉄之助は無理が祟り持病の糖尿病が悪化、体調が弱って白河の医師の治療を受けていた。白河滞在中に斉昭の急逝を知り、病身を押して水戸城下へ出て密策を謀り続けた。鉄之助の病状が悪化し、本格的治療のため一旦帰村するが藩内敵対勢力の厳しい探索が始まり再度水戸城下へ潜伏、桜田門襲撃関係者への追討が厳しくなり自訴した同志たちの極刑が執行され、村々にあった協力者たちへも危険が迫り出し、関係者への影響を恐れ領内から脱出、那須の三斗小屋温泉から越後の水原、やがて関川村の湯沢温泉で保養中、追っ手の水戸藩吏に捕縛される。水戸の赤沼の獄から江戸へ送られ死罪の処せられ、三十九歳の生涯を閉じる。獄中では処刑直前まで「君を思う身の忠臣」を謡い続けたという。
2008年02月12日
北越の巨星 河井継之助
戊辰戦争悲運の宰相 河井継之助河井継之助は文政十年長岡城下に河井家百二十石の中級藩士の子として生まれた。他の藩士子弟同様に、藩校崇徳館に通って初学を修めるが、やがて藩儒高野松陰に私淑するようになる。朱子学が官学だったが、継之助はかねてより朱子学に疑問を感じていたので、異端とされていた陽明学に心酔していった。二十九歳のとき、世子牧野忠恭への進講を命ぜられたが、「私は講釈するために学問したのではない。講釈は講釈師に頼めばよかろう」といって断ってしまう。この進講拒否により、藩庁から継之助は譴責処分を受けたが、二年後三十一歳の時、外様吟味役を命ぜられる。在任中、宮路村訴訟問題を鮮やかに解決したが、間もなく辞職し、江戸へ遊学してしまった。江戸遊学中、生涯の師と仰ぐ山田方谷を備中松山に訪ね、治国の策を学ぶべく入門を請うた。
別れに臨み、対岸から見送る方谷に向かい、何度も跪いて頭を下げ続けた。師の方谷は、何事にも断定的な継之助の将来を案じ、「王陽明全集」とともに「この書々を読み、利を求め、反ってその害を招かんことを懼れる」と餞別の辞を与える。文久三年、藩主牧野忠恭が京都所司代として赴任するという。継之助も京都詰を命ぜられるが、藩主に辞職の上奏書を提出するという「暴挙」をやってのけ、聞き届けられず帰国する。翌元治元年、者頭格御用人勤向に取り立てられ、併せて公用人兼帯を命ぜられる。藩主忠恭は老中を拝命していたが、ただでさえ幕政多難な折、藩の出費もかさみ、かつ非難の的となる老中など、「金の無駄である。辞めるが上策」と再び藩主に辞職を勧める。支藩の笠間候は幕府への忠義を説いて説得に当たったが、その席上、継之助は笠間候を罵倒するがごとき勢いで反論し、不敬の罪で再び辞職してしまう。しかし藩主忠恭は凡庸な君主ではなく帰国した継之助は慶応元年再び外様吟味役にあげられ、同年郡奉行に就任、領内山中村の庄屋と領民の対立を単身現地に乗り込み、これを見事収め、続いて「賄賂の禁止」を断行するなど、地方行政官として辣腕をふるった。その後、番頭格町奉行兼郡奉行となり、いよいよ(生涯の師山田方谷より学んだ治国の策を発揮できる)念願の藩政改革に乗り出して行く。「民が富まなければ藩も富裕にならない」という自説を持つ継之助は贅沢を戒めるとともに藩庫に金を貯めるべく、反対派を抑えつつ数々の改革を行なう。また、兵制の変革を行い「フランス式兵制の導入」「新式銃器の購入」なども断行した。慶応三年、あろうことか、幕府が政権を朝廷に返上し、薩長軍と旧幕府軍が鳥羽伏見で衝突してしまった。この戦乱の勃発で三百諸侯の去就を問われることになり、薩長につくか開戦か長岡藩河井継之助は厳しい帰路に立たされた継之助は新藩主忠訓に随行して京都にいたが鳥羽伏見の戦いに巻き込まれるのを恐れ、江戸へ退却し藩主を長岡へ帰国させ、自分は横浜へ向かい藩の財産を処分し最新の武器を調達(戊辰戦争史上名高い日本初の機関砲ガトリング砲二門、新式小銃器などを購入)し帰藩した。藩論が開戦か恭順か真っ二つに分かれたが継之助は当初中立を貫こうとした。河井は軍目付二見寅三郎一人を連れ、西軍本陣のある小千谷に向かった。継之助は嘆願を述べたが、北陸道先鋒総督軍監、岩村精一郎は「我々は勅を奉じて長岡を討つ」と言い放ち席を立った。その後何度も取次を頼んだが退けられ北越の運命は決まった。長岡藩には最早戦しかなく、河井は各隊長を集合させ、「戦い、遂にやむを得ず。わが藩境を侵し、わが民を駆り、わが農事を妨げ候は、果たして王の師にあらず、姦賊なり」河井継之助は軍事総督として、長岡藩軍を一手に指揮して、西軍が占拠していた榎峠、朝日山に向け進撃し薩長軍を追い落とした。西軍は薩摩の黒田清隆、長州の山県有朋を参謀に任命して大量の兵を長岡に投入して巻き返した。西軍が城下を蹂躙し長岡城を占拠したが長岡藩兵七百人が数隊に別れ長岡城下に攻め込み城の奪取に成功した。しかし河井継之助は左膝に銃弾を受け、担架で搬送され、士気は衰え再び長岡城は落ちた。河井の傷は壊疽を起こし、担架で会津を目指したが壊疽による高熱の為身動きがとれず、「火急のときは咽喉を刺せ」と従僕松蔵に指示し「我死せば身を火に投じよ」といって己の亡骸を焼く為の火を点し続けさせ、塩沢の矢澤家で生涯を閉じた。自ら望まずとも、戦乱を領地に呼び込んでしまった「悲劇の宰相」の評価はあまりにも酷いものであった。
別れに臨み、対岸から見送る方谷に向かい、何度も跪いて頭を下げ続けた。師の方谷は、何事にも断定的な継之助の将来を案じ、「王陽明全集」とともに「この書々を読み、利を求め、反ってその害を招かんことを懼れる」と餞別の辞を与える。文久三年、藩主牧野忠恭が京都所司代として赴任するという。継之助も京都詰を命ぜられるが、藩主に辞職の上奏書を提出するという「暴挙」をやってのけ、聞き届けられず帰国する。翌元治元年、者頭格御用人勤向に取り立てられ、併せて公用人兼帯を命ぜられる。藩主忠恭は老中を拝命していたが、ただでさえ幕政多難な折、藩の出費もかさみ、かつ非難の的となる老中など、「金の無駄である。辞めるが上策」と再び藩主に辞職を勧める。支藩の笠間候は幕府への忠義を説いて説得に当たったが、その席上、継之助は笠間候を罵倒するがごとき勢いで反論し、不敬の罪で再び辞職してしまう。しかし藩主忠恭は凡庸な君主ではなく帰国した継之助は慶応元年再び外様吟味役にあげられ、同年郡奉行に就任、領内山中村の庄屋と領民の対立を単身現地に乗り込み、これを見事収め、続いて「賄賂の禁止」を断行するなど、地方行政官として辣腕をふるった。その後、番頭格町奉行兼郡奉行となり、いよいよ(生涯の師山田方谷より学んだ治国の策を発揮できる)念願の藩政改革に乗り出して行く。「民が富まなければ藩も富裕にならない」という自説を持つ継之助は贅沢を戒めるとともに藩庫に金を貯めるべく、反対派を抑えつつ数々の改革を行なう。また、兵制の変革を行い「フランス式兵制の導入」「新式銃器の購入」なども断行した。慶応三年、あろうことか、幕府が政権を朝廷に返上し、薩長軍と旧幕府軍が鳥羽伏見で衝突してしまった。この戦乱の勃発で三百諸侯の去就を問われることになり、薩長につくか開戦か長岡藩河井継之助は厳しい帰路に立たされた継之助は新藩主忠訓に随行して京都にいたが鳥羽伏見の戦いに巻き込まれるのを恐れ、江戸へ退却し藩主を長岡へ帰国させ、自分は横浜へ向かい藩の財産を処分し最新の武器を調達(戊辰戦争史上名高い日本初の機関砲ガトリング砲二門、新式小銃器などを購入)し帰藩した。藩論が開戦か恭順か真っ二つに分かれたが継之助は当初中立を貫こうとした。河井は軍目付二見寅三郎一人を連れ、西軍本陣のある小千谷に向かった。継之助は嘆願を述べたが、北陸道先鋒総督軍監、岩村精一郎は「我々は勅を奉じて長岡を討つ」と言い放ち席を立った。その後何度も取次を頼んだが退けられ北越の運命は決まった。長岡藩には最早戦しかなく、河井は各隊長を集合させ、「戦い、遂にやむを得ず。わが藩境を侵し、わが民を駆り、わが農事を妨げ候は、果たして王の師にあらず、姦賊なり」河井継之助は軍事総督として、長岡藩軍を一手に指揮して、西軍が占拠していた榎峠、朝日山に向け進撃し薩長軍を追い落とした。西軍は薩摩の黒田清隆、長州の山県有朋を参謀に任命して大量の兵を長岡に投入して巻き返した。西軍が城下を蹂躙し長岡城を占拠したが長岡藩兵七百人が数隊に別れ長岡城下に攻め込み城の奪取に成功した。しかし河井継之助は左膝に銃弾を受け、担架で搬送され、士気は衰え再び長岡城は落ちた。河井の傷は壊疽を起こし、担架で会津を目指したが壊疽による高熱の為身動きがとれず、「火急のときは咽喉を刺せ」と従僕松蔵に指示し「我死せば身を火に投じよ」といって己の亡骸を焼く為の火を点し続けさせ、塩沢の矢澤家で生涯を閉じた。自ら望まずとも、戦乱を領地に呼び込んでしまった「悲劇の宰相」の評価はあまりにも酷いものであった。
2008年02月01日
革命を求めた男 河上彦斎
自らの信じるところを変えず黙したまま刑場の露と消えた河上彦斎彦斎は天保五年、肥後熊本藩士小森貞助の子として生まれ、後に河上源兵衛の養子となった。藩では頭を丸めた国家老付きの小物であったが、兵学を進んであの宮部鼎蔵に学び、文は轟武兵衛に学んだ。その縁で肥後熊本の国学者林桜園に皇学を学び、後の彦斎の人生に大きな影響を受けた。万延元年江戸が大雪に見舞われた、この日細川藩邸に血だるまの浪士達が案内を求め立っていた。彼等は、たった今大老井伊直弼に天誅を加えた旨の経緯を述べた。「本来ならば、役所に出向くところ、自分たちは国許より初めて出てきたばかりで、土地不案内でこちらに罷り出たものです。公儀の御法に従って身を処したき存念であるのでそれまでの間、御難題ながらどうぞ宜しくお願い申し上げます」と語った。彦斎は上役に告げると彼等志士たちを手厚く遇し、湯茶の接待をし、上役に願い出て、御小姓頭詰所の表下の間に通して、傷養生を遠慮する彼等に敢えて、医師を呼び手傷の治療をさせ、薬湯を与えた。この様子を見た藩邸の者たちは彦斎の対応ぶりに驚いた。彦斎は林桜園の教えにより、勤皇の志が厚かったので、浪士達の勤皇の志に殉ぜんとした態度に、尊敬の念を示した。この体験をきっかけに、彦斎は自らも尊攘の大儀に殉じる覚悟をきめた。彼は脱藩しその後尊攘を名目に人を斬りまくった。4年後、彦斎は当時西洋かぶれで公武合体論者の佐久間象山を付け狙った、象山は京都の池田屋事変の黒幕との噂が広まっていたので、彦斎は新撰組に斬られた兵学の師匠である宮部鼎蔵の敵と思っていた。馬上の佐久間象山を得意の居合いで斬った彦斎はその後一切人斬りをしなくなった。王政復古の大号令が下って幕府は倒れ、明治の新政府が樹立されたが、薩長の藩閥政府による専制と、対外屈辱外交を展開するなど幕府時代よりも酷い状態に維新の志半ばで倒れていった先覚の魂に申し訳無いと大勢の志士たちが新政府に叛旗を翻し明四事件が起こる。河上彦斎は首謀者の大楽源太郎を匿った廉により逮捕投獄される。檻の中の彦斎は寡黙で「これが毒蛇の如く恐れられた人斬り彦斎か」と驚くほど物静かで、彦斎の裁判を担当した玉乃世覆はその人物を惜しみ、彦斎に「既に今日の時勢は一変している。どうぞ現政府に協力してください」と国家の為、出仕を勧めた。しかし、その厚意を謝しながら「自分の尊攘の志は、神明に誓い同志と約した、しかして同志もこの誓約の下に殉じていったので、今日に及んで生命を惜しんでその役に背き、志を改めるわけには行かない。時勢が一変したのではなく、政府の諸君が自己の安逸を願って尊攘の志を捨てた。自分は徹頭徹尾一身の利害の為、節を変えることを断じて出来ない」と明言した。彦斎の純粋なる尊攘の志と行動を恐れた、木戸孝允は自らの訪欧に先立ち、玉乃判事に「肥後の河上彦斎は誠に一世の豪傑に違いないが、今も尚尊攘の説を唱えて頑として動かない。このまま放置すれば他日必ず国家に害を及ぼすので自分が帰朝する前に始末しておいてくれ」と命じて旅立った。彦斎はその処刑に際して一言も語らず、刑場の露と消えた。享年三十八歳 辞世の句は「君がため死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん」「かねてよりなき身と思へど大王につくす心は世にのこれかし」