2010年11月11日

幕府を庇い続けた 土佐藩主の山内豊信こと容堂

YAMANO~1.JPG山内容堂は本名は山内豊信といい文政十年に土佐藩主の山内家の一門連枝(土佐山内家には東、西、南の各屋敷と追手屋敷の分家があった)である南屋敷山内豊著(とよあきら)とその妾の子として生まれる。南家山内家は一門ではあるが僅か千五百石の分家で本来ならば土佐藩主になれる立場ではなかった。しかし、嘉永元年に第十三代藩主・山内豊煕が江戸在府中に急死してしまい急遽末期養子という形で次弟の山内豊惇が十四代藩主に就任が決まったがまだ将軍お目見えが済まぬ僅か十二日後に山内豊惇も急死してしまった。山内豊惇の末弟に豊範(後に十六代藩主になる。)がいたが三歳だったので分家の豊信(当時二十二歳)に白羽の矢が立った。しかし14代山内豊惇の死があまりにも早すぎた為に末期養子が認められずに本来ならば土佐藩は良くて「国替え」悪くすれば「御家断絶・領地没収」となるところを第十三代藩主・山内豊熈の妻・智鏡院の実兄である薩摩藩若殿(当時はまだ藩主になっていなかった)島津斉彬や斉彬の大叔父の福岡藩主・黒田長溥、斉彬と深い交流のあった(親友)宇和島藩主・伊達宗城ら外様大名の働きがけがあり幕閣の中心人物だった阿部正弘(島津斉彬と親友)が異例である山内豊信の土佐藩襲封を許可した。(山内豊惇は死んではおらず病気の為に隠居を願い出て豊信を養子として認める)この時の負い目が後の討幕運動に消極的行動をとったといわれる。山内豊信は藩主となったが十二代藩主だった豊資が隠居しているとはいえ土佐藩に絶大な影響力を持っていた。しかし、飾りだけの藩主になることを嫌った豊信は門閥や旧重臣を退けて半ば強引に革新派「おこぜ組」の吉田東洋を参政職という新たな役職を設け旧門閥に繋がる家老を排除した。また側用人に謹厳実直な小南五郎右衛門を抜擢し西洋軍備導入や海防、文武官設立など様々な藩政改革を断行した。また山内豊信は越前福井藩主・松平春嶽や宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬らと交流を持ち「幕末の四賢侯」と称され老中首座・阿部正弘の幕政改革に関わった。しかし、次期将軍継承問題で四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らと一橋家の慶喜を推していた阿部正弘が死去した後に大老職に就いた井伊直弼(次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推していた)と対立し大老の地位を利用して一橋派の弾圧(安政の大獄)を開始し斉昭、宗城、春嶽らと共に山内豊信に謹慎命令が下った。豊信はこれに憤慨して隠居願いを出し土佐藩主を前藩主の弟・豊範に譲り名を山内容堂(水戸の藤田東湖の薦め)と改名した。容堂は他の賢侯(島津斉彬は志し半ばで死去)と共に公武合体を勧めていたが井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達に暗殺されると勤王派が力を持つようになった。謹慎中に土佐藩では尊王攘夷運動が加熱して白札組(身分は郷士だが上士に準ずる扱い)の武市半平太率いる土佐勤王党が台頭し容堂の腹心である吉田東洋と対立しこれを暗殺して土佐藩門閥派と結んで藩政を掌握し長州藩と連携して勤王攘夷的立場を全国に知らしめた。しかし、八月十八日の政変で佐幕派が復権し容堂も謹慎が解かれて土佐藩に帰ると藩政を掌握し左幕的立場を持って公武合体を推進する。また吉田東洋暗殺犯の追及を始め、土佐勤王党の大弾圧を開始して武市半平太を切腹させ捕縛を逃れた有能な志士達は脱藩する。一方、京都では八月十八日の政変で尊攘派を一掃したが(七卿落ち)政務を任せる有能な人材がない朝廷は雄藩大名を招集して合議制参与会議を開いて意見を聞くことにした。容堂は元治元年に朝廷から参与に任じられ上京したが参与会議で徳川慶喜と薩摩藩島津久光が激しく対立し嫌気がさした山内容堂は病気を理由に欠席を続け崩壊してしまう。その後の長州征伐にも土佐藩は参加せず国許で吉田東洋の甥の後藤象二郎や福岡孝悌、板垣退助ら若手官僚を登用して軍事整備や殖産興業に務め国力増加を図った。また、坂本龍馬や中岡慎太郎ら土佐脱藩浪士の仲介によって薩長同盟が結ばれ長州藩に大量の最新銃器が入ったことや将軍・家茂の急死もあって第二次長州征伐は幕府の敗北に終わった。幕府は権威を失墜し時勢は「倒幕」へと傾きつつあった。慶応三年、薩摩藩の主導で四侯会議が開かれたが薩摩藩と将軍慶喜の対立で決裂、容堂も病欠を続け、以前の参与会議のように崩壊してしまう。雄藩合議制では話が進まぬと見た薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は武力倒幕へと方向を変えていく。あくまで徳川幕府を守ろうとしていた山内容堂であったが土佐藩若手参政の後藤象二郎や板垣退助たちは土佐勤王党壊滅によって時勢に乗り遅れたことを痛感し坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩土盟約を締結して土佐藩自体は倒幕へ傾いていった。(山内容堂だけは藩主就任時の恩義や関が原以来の山内家の成り立ちを考えて徳川家を擁護したが時勢の流れに抗えなかった。)一方、坂本龍馬は自分たちの尽力で犬猿の仲だった薩摩と長州を仲介したが両藩が武力倒幕へ進むにつれて日本が内戦状態になることを懸念して土佐藩を利用することを考え、土佐藩は薩長の流れに追いつく方法を模索していた為に坂本と土佐藩参与の後藤象二郎の利害が一致し長崎で龍馬と会談の席をもつ。後藤は後に龍馬の「船中八策」を取り入れて山内容堂に徳川慶喜に大政奉還を進言するように説得する。薩長による武力倒幕を懸念していた容堂は大恩ある徳川を守りたい一方で朝敵となることを恐れてこの案を受け入れ老中・板倉勝静を通して慶喜に建白した。徳川慶喜はまだ幼い朝廷では政権担当能力がなくいずれは徳川家が再度政治を任せられるであろうと考えて雄藩諸侯会議を設けてその議長に慶喜が立つという条件付で幕府は承諾、大政奉還となった。日本の内戦の回避と徳川家の温存が叶い土佐藩の功績が大と成ったので容堂は上機嫌だったという。しかし、薩摩藩は藩兵3千人を率いて上京、摂政・二条斉敬ら幕府擁護派の御所立ち入りを禁止した上で小御所にて各雄藩諸侯を招集した山内容堂も泥酔状態で遅参したが主導権は薩長両藩と岩倉具視ら討幕派が握り王政復古の大号令となった。新政権樹立と天皇親政のもと摂政、関白、将軍職の廃止と総裁、議定、参与の三職を新設するなど親幕府派公卿の発言権を奪った。山内容堂は徳川家擁護に終始し徳川慶喜中心の列侯会議を要求したが泥酔状態の為「一部の公卿が幼沖(まだ幼い)の天子(当時、明治天皇は数え十六歳)を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と大声で怒鳴った。これを聞いて岩倉具視は「天子を捉まえて幼沖とは何事か、大失言であるぞ」と詰め寄った。一旦休憩に入った時に薩摩藩の西郷隆盛は「短刀一本あればことは済み申す。」と言ったことを伝え聞いた容堂は命の危険を感じその後の発言が出来なくなったという。慶応四年、戊辰戦争が勃発すると容堂は自ら藩兵百名を率いて上京するが藩兵にはこの戦には参加するなと厳命、あくまで徳川擁護の姿勢を貫いた。しかし、土佐藩軍指令官を務めた板垣退助は薩長に後れを取ることを嫌い率先して倒幕に加わり江戸へ向けて進軍し土佐軍は功名を立てた。維新後、山内容堂は内国事務総裁に就任するがかつての家臣や身分が低かった者とは馴染めずまた堺事件の責任をとるという理由で明治二年に辞職しまた、堺事件とは戊辰戦争中に幕府は賊軍となり形勢不利とみた徳川慶喜以下旧幕府側の大名が大阪城を棄て幕府側兵士を残したまま江戸へ逃亡した為に泉州堺の警備を任されていた土佐藩兵が新政府に無断で上陸してきたフランス海兵数十名が堺の町を徘徊し乱暴狼藉を繰り返した為に土佐藩兵は水兵たちに帰艦するように説得するが言葉が通じずにもみ合いとなった。仕方なく藩兵は発砲しフランス人水兵十一名を殺害する。この事件により神戸に滞在中のフランス公使は莫大な賠償金と土佐藩兵二十名の処刑を申し入れてきた。土佐藩兵の隊旗を奪って逃走し先に発砲したのはフランス水兵だったにも関わらず理不尽な申し入れをしてきたが新政府は日本の国力を考えてこれを承諾してしまう。山内容堂は新政府の立場を配慮し小南五郎右衛門を派遣して堺事件の関係者二十九名の内二十名をくじ引きで決めさせて堺の妙国寺にて刑が執行され土佐藩士が次々と切腹が行われた。中には自分の腸を引きずり出してフランス軍艦長に投げつける壮絶な切腹もあったという。十一人目の切腹が終わったところでフランス側から切腹の中止を申し入れてきた為に残り九名の切腹は取りやめとなり助命された(フランス軍艦長があまりにも壮絶な切腹の為恐怖を覚えたとも侍達の仕返しに恐れたとも言われている。)以後、体調不良を理由に刑法官知事を打診されるがこれを辞退、王政復古の功により権中納言に任じられ議定職に就任、学校知事を兼任するが政治に参加する意欲がなく新政府の方針に不満を持っていたという。戊辰戦争の戦功により賞典録四万石、王政復古の功により五千石を終身下賜され多くの肩書きを持っていたがその後すべてを辞職して橋場の別邸にて十数人の妾を囲って日に三升の酒を煽り当時の人気役者・市川団十郎一座を貸切って豪遊を繰り返した。家令が諌めると容堂は「昔から大名家が倒産した例がない。俺が先鞭をつけてやる」と豪語し一向に改めようとしなかった。また、新政府の中で只一人気のあった木戸孝允(桂小五郎)を私邸に招いて酒を酌み交したがその時には土佐藩には薩摩、長州のような人材がいないことを嘆き武市瑞山を切腹させたことや坂本龍馬を冷遇したことを悔やんだという。容堂は明治五年、長年の酒が体を蝕み脳溢血を起こして半身不随となって二度目の発作で帰らぬ人となった。享年四十六歳・・・
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2010年10月08日

坂本龍馬の理想の家庭 坂本千鶴と高松順蔵

坂本龍馬には一人の兄と三人の姉がいた。兄は坂本家を継いだ権兵、長姉が千鶴、次姉は栄といい柴田作左衛門に嫁いだが離縁され自害したといわれる。(龍馬の脱藩が原因で柴田家に責任が及ぶのを懸念して離婚したという説もある)三姉が乙女で龍馬がよく懐いた姉でとも師とも同志とも思える信頼を置いた。ここで記述する長姉の千鶴は龍馬より十九歳年上で龍馬が生まれたときには既に高松順蔵に嫁いでいて龍馬が幼い時からよく高松家のある安田浦に遊びに行ったという。高松順蔵は文化四年に土佐藩郷士・高松益之丞の長男として生まれる。祖父の高松弥三衛門から教えを受けたが、やがて江戸へ出て経書や歴史、儒学など様々な教養を身につけた。剣は長谷川流居合術を習得し名人の域に達したという。また、壬生水石のもとで書画や篆刻を学び和歌などを嗜み諸国を巡りながら多くの歌人や学者と交わったといわれる。八歳で継いだ家督を末弟の勇蔵を養子に迎え家督を譲り(次弟はオランダ医学を学び濤亭と名乗り開業医となる)、号を高松小杢と名乗り悠々自適な生活を送り私塾を開いて近在の壮士教育に務めた。龍馬の人生においても順蔵の思想に多大な影響を受け、またこの私塾から中岡慎太郎や後の海援隊士・石田英吉らを輩出した。剣の腕前でも土佐一の剣豪として藩主だった山内容堂の剣術指南の招聘を三度にわたって固辞し権力に阿るを嫌った。(ある城下から自宅に帰る途中の赤岡という所で悪さを働く上士の子弟が順蔵めがけて猛犬を放った。猛犬は吠え立てながら順蔵の目前で足を止め身動きしなくなったので悪ガキたちは順蔵が通り過ぎた後に犬に近づくと犬の胴と首が真っ二つに切り離されていたというが誰一人順蔵が抜刀するところを見ていなかったという。)龍馬をこの順蔵を慕い安田にある順蔵宅に時折立寄りひなが縁側から見える太平洋を眺めていたり姉・千鶴は龍馬を大変可愛り龍馬が江戸へ剣術修行へ出た時にはお守りを贈ったという。龍馬は京都寺田屋に居候を決め込んだ時には姉・乙女に手紙で「まるでここは安田の順蔵さんの家にいるような居心地だ」といって順蔵宅と懐かしんだ。順蔵は安芸を愛し地域の若者達にも大きな影響を与え中岡慎太郎をはじめとする勤王志士達を育てた人物であったという。明治九年に七十歳の生涯を閉じた・・・
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2010年07月05日

龍馬の兄貴分でよき理解者 溝渕広之丞

MizobuchiHironojo.jpg溝渕広之丞は文政十一年、土佐国土佐郡江ノ口村の郷士(下士)の家にに生まれる。(龍馬より八歳年上だった。)嘉永六年、江戸へ剣術修行に出る坂本龍馬に同行して江戸へ出る。(一説には溝渕は先に江戸の千葉道場に入門していたが一旦土佐に帰っていて龍馬の父・八兵に頼まれて江戸へ同道したといわれている。)溝渕は千葉道場で剣術修業をする一方で軍学家の佐久間象山塾に入門して西洋砲術を習う。また、龍馬にも佐久間象山を紹介して入門をさせ砲術や蘭学を学んだという。しかし翌年には吉田松陰の米国軍艦密航事件に連座し投獄された。その後、脱藩した龍馬とは接触なく溝渕は土佐藩で勤勉に砲術の修行を重ねた。慶応二年、溝渕は藩命によって長崎に赴き砲術や舎密学(せいみがくと読み今でいう化学)の修行に励み時勢探索なども行った。この時期に龍馬も長崎で亀山社中を創設し滞在していたので溝渕と龍馬は久しぶりの再会となり溝渕は長崎での竜馬の活動を支えた。また、龍馬の紹介で長州藩の桂小五郎と面会を果たしかつて土佐勤王党粛清弾圧によって時勢に乗り遅れていた土佐藩と長州藩の接近に尽力した。あるとき溝渕は龍馬と共に長崎の道を歩いていると前方から来る土佐藩海軍幹部の武藤某に気づき身を隠した。溝渕はそんな龍馬をいぶかり問い質したところ脱藩者の胸中を記した手紙を貰う。溝渕はその手紙を武藤に見せ理解を求め長崎に来ていた土佐藩参謀の後藤象二郎との会談を画策する。元土佐勤王党を弾圧粛清し親友の武市半平太をしに追いやった後藤を恨んでいた竜馬と土佐藩の身分制度に固執し下士である坂本龍馬を虫けらくらいにしか思っていない後藤とを長崎清風亭で合わせることにした。龍馬としても亀山社中の経営に行き詰まり資金難で困っていたし後藤象二郎も時勢に乗り遅れた土佐藩の挽回の為、薩摩藩や長州藩に顔の効く龍馬と手を組むほうが得策との利害関係が一致した。清風亭会談には場を和ませる為に龍馬の馴染みの丸山遊郭の芸者・お元を同席させるなどの配慮を見せた。龍馬と後藤は意気投合し後の船中八策に繋がる。坂本龍馬にとっても資金難の亀山社中から土佐藩の援助により海援隊として再出発をきった人生の転機を溝渕広之丞が担ったといえる。慶応三年、藩命により溝渕は土佐藩に帰国して藩の持筒役として藩兵に砲術を指導し下士から上士となる?。(身分制度に厳しい土佐藩ではこれは事実とは考えにくい)維新後は隠棲し三ヵ月ほど会計士を務めるが辞任したあと養子を迎えて以後四十年間隠遁生活をおくる。享年八十一歳で生涯を終えた。維新後の生活に弟分の龍馬の暗殺が影響しているかもしれないが土佐の三伯といわれる後藤象二郎・板垣退助・佐々木高行よりも溝渕広之丞のほうがはるかに維新の立役者だったのかも知れない。
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2010年06月09日

龍馬と親交の深かった土佐上士 佐々木高行

Takayuki_Sasaki_cropped.jpg佐々木高行は文政十三年、土佐国吾川郡瀬戸村(現・高知県高知市)に土佐藩上士・佐々木高順の次男として生まれる。通称は三四郎として幕末を駆け抜ける。生前に父親を亡くし苦境の中、国学を鹿持雅澄に学び(同門で土佐勤王党の武市半平太と知り合う)麻田勘七に剣術を習った。二十五歳の時に江戸へ遊学に出て安井息軒らに学んで視野を広げた。(鹿持雅澄や安井息軒らに学んだことで勤王思想に目覚めたと思われる)遊学を終え土佐に帰った高行は郡奉行、普請奉行、大目付を経て大監察に任命される。大監察時代は土佐勤王党とたびたび会談を持ち武市半平太と親交を深めた。(佐々木は上士でありながら尊王思想を持ち同門の武市に理解があった。)しかし、八月十八日の政変以後公武合体派が力を持ち佐幕派の山内容堂は土佐勤王党の弾圧を始めた為に佐々木は次第に勤王党と距離をとり始めた。だが幕府による長州征伐が起こると藩主・山内豊範が妻(長州藩主・毛利敬親の娘)を離婚しようとした時には佐々木は猛反対し土佐藩と長州藩の絆を辛うじて守った(
後に離婚して上杉家の娘を継妻とした)。また、坂本龍馬との出会いは長崎で龍馬の亀山社中の経営不振に陥った時で土佐藩が援助することになった為(この時から海援隊と改名し土佐藩の交易及び海軍の役目も負う)、佐々木は海援隊を監督する立場で長崎に赴任する。龍馬とは大変気が合い佐々木の下宿先によく龍馬が泊まりに来たらしい。この時期から再び佐々木に勤王意識に火がつき海援隊の勤王派を援助、京都留守居役時代には中岡慎太郎の陸援隊の屯所を藩に無断で提供したり彼等の信頼を得て薩土盟約や大政奉還の助言を土佐藩山内容堂に進言した。また、坂本龍馬の紹介により長州藩の桂小五郎と面会したり中岡慎太郎の口利きで岩倉具視と協議したという。龍馬と中岡の暗殺後、佐々木は一時的に海援隊を預かり戊辰戦争時、一部海援隊士を率いて長崎奉行所を占領するなど倒幕に尽力した。明治維新を迎えると佐々木は参議、司法大輔を務め明治四年に岩倉使節団の一員として欧米各国を視察した。帰国後は侍補に就任(幕末の佐々木三四郎の思想であった天皇親政に動き出す)、薩長による門閥政治を批判し谷干城や元田永孚と共に「天皇親政運動」を主導して伊藤博文らの排除に動いた。しかし、薩長閥の巻き返しによる明治十四年の政変で敗れ侍補を辞任した。その後、佐々木は明治天皇の信任が厚く天皇の意向によって参議兼工部卿に就任した。工部卿時代には電話創業の必要性を知り発議するなど先見的運動を起こす。明治十七年、維新以来の功績により伯爵を授かり土佐三伯(板垣退助、後藤象二郎)の一人に数えられる。翌年から内閣制度が始まると閣外に出て宮中顧問官、次いで枢密顧問官に就任。この時期、大正天皇をはじめ皇子、皇女の養育係主任を務めた。明治二十九年、関係者の強い要望によって当時経営状態が悪化していた皇典講究所(後の国学院大学、日本大学、近畿大学)の第二代所長に就任して経営再建に尽力した。明治四十二年に侯爵を拝命するが翌年、八十歳で病没する。佐々木高行は天皇親政派の政治家として薩長門閥政治を批判しながらも「薩長門閥派VS自由民権派」の対立による国内分裂を防ぐ為に調整役に務めた優れた政治家であった。
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2010年03月01日

吉田東洋を暗殺した男 那須信吾

po_nasu.jpg那須信吾は文政十二年、土佐藩家老の深尾和泉守重良の家臣・浜田宅左衛門光章の三男として生まれる。六歳の時に父が病死してからは兄・金治充美(田中光顕の父)に養育される。信吾は当初医学を志し主家である深尾家典医主座・山崎燮堂に弟子入り剃髪し信甫と名乗る一方で剣術を古沢八右衛門に学び身の丈六尺(182cm)を生かし見る見る力をつけ「天狗様」とあだ名されるほどだったという。更に修行を積むため高知城下に出た信吾は坂本龍馬が通っていた日根野道場に通うようになる。(この頃に坂本龍馬の人柄に惚れ傾倒したと思われる。)安政二年、梼原村の郷士・那須俊平に見込まれ俊平の娘・為代と結婚し婿養子に迎えられる。那須俊平は土佐藩随一の槍の名手で多くの門弟を抱える道場を構え信吾も稽古に励んだという。その後、信吾は武市半平太の道場に入門し勤王思想に傾倒していき文久元年に土佐勤王党が結成されるとこれに加盟する。(吉田東洋暗殺実行犯としてその名簿からはずされている)文久二年、土佐藩の暗愚を痛切に感じていた坂本龍馬は脱藩を決意し、先に脱藩したが武市瑞山に報告する為戻っていた沢村惣之丞と共に高知城下を出発し梼原村に到着、那須屋敷にて一泊した。翌朝、信吾は父・俊平と共韮ヶ峠まで道案内をして脱藩を助けた。信吾はその一ヵ月後、武市瑞山の命により吉田東洋暗殺の実行部隊に選抜され安岡嘉助、大石団蔵らと共に吉田東洋を待ち伏せる。吉田は藩主・山内豊範の参勤交代前の最後の講義の為、酒肴が振舞われほろ酔い気分で下城、自宅付近で襲撃したという。東洋暗殺に成功した信吾はあらかじめ旅支度をしていた為にすぐさま脱藩して長州藩領に入った。下関の白石正一郎邸にて養父・俊平に暗殺の詳細やその後のことを手紙に書き送った。(表向き、俊平は信吾の行動を非難したが密かに槍術免許皆伝書を授け交流を続けたという。)白石邸を出た信吾は船で讃岐、兵庫を経て大坂の長州藩邸に潜伏し吉村寅太郎と合流した。文久三年、攘夷親征の為孝明天皇の大和行幸が計画されると京都方広寺にて天誅組を結成する。首領に元侍従・中山忠光が就き吉村寅太郎が総裁、信吾は監察役に就任する。土佐脱藩浪士が多数参加し後の海援隊士・池内蔵太らも加わった。天誅組は京を出立し天領である吉野七万石の五條代官所を襲撃、代官の鈴木源内らを殺害し近くの桜井寺に本陣を構えた。しかし、公武合体派の巻き返しによる八月十八日の政変で大和行幸の延期が決まる。今更引っ込みがつかなくなった天誅組はそのまま戦いを続け朝敵とみなされ幕府による追討令が出されてしまう。賊軍となって孤立した天誅組は奮戦を続けるが劣勢に追い込まれ那須信吾は鷲家口で槍を振るって戦うが敵兵に狙撃され戦死する。享年三十五歳・・・養父である那須俊平は信吾が戦死した後、土佐藩父・山内容堂ら公武合体派の巻き返しで土佐勤王党が壊滅状態となり吉田東洋暗殺の追及が激しくなった。暗殺に那須家が関わっているとの噂が広がり周りの者達の説得もあって俊平は脱藩を決意、長州藩に匿われる。その後、他の志士達と共に京都に出て蛤御門の変では得意の槍をふるって戦うが鷹司邸前にて溝に足を取られたところを越前藩兵に首をとられたという。
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2010年01月19日

武市半平太が愛した妻・富子

tomiko2.jpg武市富子は天保元年に土佐藩郷士・島村源次郎の長女として城下の新町田淵に生まれる。弟には後に土佐勤王党に加盟した島村寿太郎がおり、父・源次郎の弟で叔父の島村寿之助は土佐勤王党の参謀となった。また、従兄弟の島村外内、衛吉兄弟は土佐勤王党員、叔母(父・源次郎の妹)佐尾子は坂本龍馬の父・八平の実家・山本家へ嫁ぎ山本琢磨を生んだ(山本琢磨は江戸で龍馬や半平太に助けられた)為に龍馬とも遠縁になる。富子の実家・島村家は武市家と同じくらい裕福で富子の妹は上士の一之瀬源兵衛(留守居組)に嫁ぎ後に源兵衛は上士では三人目の土佐勤王党員になった。(土佐勤王党は武市、坂本龍馬ら下士や庄屋、足軽など身分の低い者らで構成)嘉永二年に十九歳で武市家へ嫁ぎ半平太の祖母と共に暮らし始めた。嘉永三年に半平太は仁井田吹井の屋敷を引き払い富子の実家の近く、高知城下新町田淵に移り住んだ。坂本龍馬がよく武市家へ遊びに来たとき尿意を催した龍馬ははだしで庭に駆け下り小便をした為、庭が臭くなるとたえず小言を言ったという逸話が残っている。また、振る舞い柿の話も残っており、坂本龍馬はお盆に乗せてある柿を無浅慮にかぶりつきヘタの渋い所も平気で平らげた、面白いので知らぬ顔をして見ていると次の柿からは自分で美味しい所だけ切り取って食べていた、中岡慎太郎は龍馬とは正反対で礼容を崩さず柿をすすめても「かたじけのうござる。」というだけで柿には一切手をつけなかった。吉村寅太郎に至ってはすすめられるまま手をつけおせいじを交えながら美味しそうに食べていたという人間観察評を語り残した。吉村寅太郎が子供が出来ない半平太を心配し富子を説得して実家に帰し、その間に容姿のいい女性を何人も女中として武市家へ送り込んだという。しかし、半平太は女中には一切手をつけず寅太郎の策略に気づき叱り飛ばしたという。半平太は誠実で武士の妻としての心得を説く半面、大変やさしくつけこまやかな心配りを見せた京都で公卿相手に活躍中でも半平太は絹地の着物を買うときには土佐にいる富子に手紙を送り何かに理由をつけて富子に弁明している。この状況から普段から半平太は富子の尻に敷かれ、家計は富子が握っていたことが解る。こんな幸せな生活も十四年で終わり、文久三年に武市半平太は投獄されると富子は足掛け三年もの間毎日三食欠かさず弁当を作り南会所の牢獄へ届け心の慰みとして花やホタルなども届けたり手紙や歌の交換を牢番を通して行われた。また、富子は半平太が投獄された日から畳では寝ず板の間に冬でも布団を使わず、夏は蚊帳をかけないという生活を続け夫と辛苦を共にしたという。慶応元年、夫・半平太の切腹が決まると富子は手縫いの着物と裃、乗り物などを届け弟の島村寿太郎と甥の小笠原保馬に介錯を頼み遺体が駕篭に乗って帰ってくると一年九ヶ月の再会となった。夫・半平太の切腹に伴い、士族籍剥奪と家禄打ち切りとなり家財も没収された富子は新町田淵の屋敷を手放し城下の長屋に引っ越した。裁縫と羽子板の押絵で生計を立て細々と暮らしたという。(富子の押絵は出来栄えがよく評判になり売れたという。)明治十年、ようやく特旨が出て夫・半平太の名誉が回復され、明治二十四年に武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎の四人に正四位が贈られが養子に迎えていた半太は日露戦争にとられ一人四畳半の長屋での生活が続いた。明治三十九年に宮内大臣を務めていた元土佐勤王党の田中光顕(当時の名は浜田辰弥)が富子を探し当て一家を遇した。田中は東京に出来た瑞山会の支援も受け戦争から帰国した半太に医師免許を取らせ故郷の梼原村で開業させた。富子と移動するとき田中は富子を馬に乗せ自分は大臣の身でありながら徒歩で付き添ったという。それほどまでに田中は武市半平太に傾倒し尊敬していたという。この頃になると富子の生活も幾分かは楽になりお酒も多少嗜むようになった、お酒が入ると富子は三味線を弾きよさこい節を唄ったという。大正六年に波乱の人生に幕を引いた。享年八十六歳・・  武市半平太・富子夫妻には実子が無く土佐勤王党の党員・岡甫助の子・永次郎を養子に迎えたが色々な事情から離縁となり紆余曲折の末、富子の弟(島村寿太郎とは別)の笑児の地縁によって明神睦衛という人が半太と改名して養子に入り武市家を継いだ。
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2010年01月08日

土佐勤王党創始者 武市瑞山

20090104215944.jpg武市瑞山は通称・武市半平太といい文政十二年、土佐藩郷士・武市正恒の長男として土佐国吹井村(現・高知市仁井田)に生まれる。半平太の代には郷士(下士)の中でも上士に準ずる白札郷士であった。半平太は九歳の時に叔母・菊の嫁ぎ先である土佐藩を代表する国学者の鹿持雅澄の開いた私塾・古義軒に入門、その後叔父門下の徳永千規について国学、南学を習う。剣術は一刀流の千頭伝四郎や麻田勘七に学び免許皆伝を授かる。西洋砲術の大家であった徳弘薫斎にも入門して坂本龍馬や龍馬の兄・権平と共に学ぶ。(徳弘には日本画も手ほどきを受けた。)弘化二年、父母の急を聞き城下より帰郷、母の看病を昼夜を問わず続けたという。しかし、その甲斐もなく父の死後、一月後に母の他界したため、家督を相続し白札郷士として出仕する。半平太は残された祖母を安心させる為に妻を娶ることにし、父母を看取った医師・楠瀬小枝の縁を通じて島村富子と結婚する。その後、吹井村の屋敷を閉め祖母と妻を連れて城下の新町田淵に移り住み剣術道場を開く。門弟には岡田以蔵らが居り、後の土佐勤王党の母体となる(剣技や指導力が藩庁に認められ各地に出張教授に出向き中岡慎太郎なども門下に加える)。その後、藩庁の許可を得て江戸に剣術修行に出て江戸三大道場の一つ鏡心明智流の桃井春蔵の門下となり塾頭も務める。半平太は江戸で長州藩の桂小五郎や高杉晋作と交流を持ち次第に尊皇攘夷思想に傾く。桃井道場の内弟子で半平太の妻・富子の遠縁の山本琢磨の紹介で坂本龍馬と江戸で再会、(山本琢磨は坂本龍馬とも親戚筋)山本琢磨が江戸で起こした強盗事件の後始末で龍馬と半平太は急速に親しくなったという(お互いあだ名で龍馬の背中の毛が多いことから「あざ」半平太の顎が張っていることから「あぎ」と呼び合った。)山本琢磨は酒に酔って道ですれ違った相手と喧嘩になり相手が置いていった時価十両の懐中時計を質屋に売り飛ばす事件が発覚、これが土佐藩庁に知れて切腹の危機に面したが半平太と龍馬がお金を出し合い弁償し琢磨を逃亡させた。)その後、江戸修行期限の一年が過ぎた半平太は再度修行延長を願い出るが祖母が体調不良と知るや直ぐに帰藩した。万延元年に祖母が八十九歳で他界し喪が明けると直ぐに藩庁に西国遊学の許可を得る。許される半平太は岡田以蔵や島村外内(富子の叔父の子)らを引き連れて備前・美作・長州・九州を歴訪し帰藩する。嘉永六年、ペリーの黒船が浦賀に来航し開国を迫ると大老の井伊直弼は朝廷が反対する日米通商条約を無断で調印しさらに将軍継承問題に関与していた土佐藩主山内容堂らを隠居謹慎処分とした。(安政の大獄)藩命で江戸で砲術修行をしていた大石弥太郎はこの問題に憤り、土佐の半平太に手紙を送った。半平太は直ぐに剣術修行の名目で藩の許しを得て江戸へ出て水戸藩士や長州藩士らと国事について相談、各藩の藩主を擁立して入京し尊王攘夷を朝廷の命で実行するように迫ることを誓って帰藩する。帰藩した半平太は同志を募り土佐勤王党を結成する。しかし、下士だけではどうすることも出来ないと悟り、上士の中でも尊王思想を持つ谷干城や福岡孝弟と面会し協力を仰いだ。土佐藩の参政・吉田東洋と面談し時世を説くが土佐藩と薩摩や長州藩とは立場が違うといって退けられる。半平太は長州藩の萩に坂本龍馬や吉村寅太郎を派遣し書簡のやり取りをした。そこで薩摩藩の島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛することを聞き、そのことに便乗して挙兵しようとの企てに久坂玄瑞は決起に加わることを告げられる。吉村は佐幕派の土佐藩を脱藩して加わろうと決意し帰藩、半平太に共に脱藩を勧める。しかし半平太は土佐一藩挙げての勤皇を目指し単独の脱藩を拒絶、吉村にも藩に留まるように説得するが吉村の決意は固く、賛同する沢村惣之丞等と脱藩、数日後に土佐藩の限界を感じた坂本龍馬も脱藩し多くの土佐勤王党同志は離脱する。しかし、土佐一藩勤王の決意が固い半平太は起死回生の為、旧藩主・山内豊資を擁する一派を味方につけることに成功、土佐藩政から吉田東洋派を一掃する計画を企てる。半平太の命で吉田東洋暗殺計画が進められ那須信吾らが吉田東洋暗殺に成功、藩政は半平太の息のかかった保守派が人事を進め、吉田東洋派の後藤象二郎や福岡孝弟らが排除された。しかし所詮身分の低い下士では藩政を動かすことが出来ず朝廷の力を借りて藩主・豊範を入京させ土佐勤王党の目的は一応は達成した。藩主・豊範に従って入京した半平太は他藩応接役となり多くの勤皇志士たちと交わる一方で開国論者や公武合体派を「天誅」という暗殺行為に関与した。(半平太は吉田東洋を暗殺することによって土佐藩政を牛耳ることが出来た為、暗殺を最高の手段と思い込み岡田以蔵たちを只の暗殺道具としか見なかった。)この頃、朝廷はなかなか攘夷を決行しない幕府に業を煮やし三条実美を督促勅使とし副勅使に姉小路公知を東下させることにした。土佐藩主・豊範は勅使警護として江戸を目指したが土佐勤王党もこれに随行、半平太も「中柳川左門」という名で姉小路に従った。江戸では藩父・山内容堂と七度程面会し帰京、半平太は下士では異例の留守居組に昇進したが、藩父・容堂の謹慎がとけ京都会議準備の為に入京すると状況が一変する。京都で横行する「天誅」など過激な活動をする軽格の藩士達に政治活動自粛を申し付けた。半平太は危機感を覚え藩父・容堂に面会して土佐勤王党加盟者百九十二名の血盟書を提出して勤王党の決意を熱く訴えたが藩父・容堂は土佐へ帰国し半平太も帰国するように命じる。帰藩前に容堂が政治活動自粛令を出した後に土佐勤王党幹部の平井収二郎(加尾の兄)、間崎哲馬、弘瀬健太は土佐藩政改革の実現の為、青蓮院宮に令旨を出してもらうように働きかけた。このことが容堂の耳の入り、平井収二郎は役を解かれ土佐に護送される。半平太は容堂に助命を願い出るが聞き入れられず勤王党幹部三人に切腹を命じ、更に勤王党に行動の自重を命じた。その頃、京都では会津藩、薩摩藩ら公武合体派の八月十八日の政変により長州藩と尊攘派公卿を追放、公卿・中山忠光を盟主とし多くの土佐浪士が参加した天誅組に討伐令が出た。朝廷中心の政治を目指し倒幕に加わった土佐勤王党の吉村寅太郎も朝敵とみなされ戦死してしまう。尊皇攘夷派が力を失う一方で公武合体派は京で尊攘過激派の追捕令が出された為、土佐藩も土佐勤王党への弾圧が始まる。文久三年、藩父・山内容堂は吉田東洋暗殺の嫌疑で土佐勤王党同志を次々と捕縛し半平太も投獄される。しかし半平太は下士ながら留守居役で上士と同じ扱いを受け拷問されることはなかったが、同志達が投獄された山田獄舎は劣悪な環境のうえ暗殺の自白を迫る厳しい拷問が繰り返された。勤王党同志は硬く口を閉ざし拷問に耐えたが土佐藩は吉田東洋と関係の深い後藤象二郎、板垣退助らを加え厳しさを増した。元治元年、数々の暗殺実行に手を染めた岡田以蔵が京都で捕縛され土佐藩に護送されると厳しい拷問に耐えられず自供を始めた。半平太はまだ捕まっていない同志を守る為に南会所の牢内から岡田以蔵を毒殺するように指令を出す。以蔵の家族の反対で計画は中断したが、半平太の実弟・田内衛吉が拷問に耐えられずこの毒薬を飲んで自害した。また、半平太の妻・富子の従兄弟の島村衛吉が拷問の末に獄死、半平太は大変なショックを受ける。慶応元年、自供無しで結審し岡田以蔵は打ち首獄門、多くの同志も斬首となったが半平太は「徒党を組んで人心を煽動し主君に対する不敬行為を働いた」という罪状で上士並みの切腹と決まった。慶応元年五月、半平太は体を清め特別な計らいとして裃着用を認められた。介錯には妻・富子の実弟・島村寿太郎と甥の小笠原保馬が務めた。半平太は今まで誰もやったことがない三文字の切腹で武士の気概を見せ絶命した。享年三十六歳・・・・  維新後木戸孝允(桂小五郎)が酒席で山内容堂に「なぜ武市瑞山を斬ったのか」となじったことがあったが容堂は「藩令に従ったまで」と言ってうつむいたまま黙ったという。また山内容堂は酒に酔うと「武市すまぬ」と独り言をよく言ったとも伝えられている。歴史に「もしも」が許されるならもし武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎ら多くの下士たちが維新後も生き続けていたら明治政府は薩長の門閥政治ではなく土佐藩から実力のある多くの政治家を排出できたはずである。
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2009年11月16日

坂本龍馬の初恋の人 平井加尾

平井加尾は天保九年に西土佐国土佐郡井口村にて土佐郷士・平井伝八(直澄)の娘として生まれる。兄は龍馬と同い年で土佐勤王党の同志・平井収二郎。加尾は才色兼備の誉れ高く、龍馬の姉・乙女とは同じ一弦琴の師匠について習っていた関係で親しく龍馬の幼馴染であった。安政六年に前藩主・山内容堂の妹・友姫が京都の公家・三条実美の兄の三条公睦へ嫁する時に御付の奥女中として四年の間三条家に使える。この期間、土佐藩から京に上ってくる志士たちの面倒を良く見た姉御肌で、龍馬は姉・乙女のような姉御肌で勝気な女性に憧れていた。龍馬は脱藩の半年前に京の加尾に手紙を送った。内容は「先づ先づ御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、
 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
 九月十三日
  坂本龍馬
 平井かほどの 」と書かれているが真意は不明で解釈によっては加尾に男装させて一緒に国事の為奔走しようともとれるし京都は暗殺が横行し不逞浪士が闊歩する危ないところだから男装して外出するようにとの気遣いの手紙なのか今となっては解らない。加尾は手紙どうり一式を用意、刀は国もとの兄に送ってもらった。しかし、その後龍馬は姿を見せず加尾は兄の収二郎に相談する。収二郎は龍馬に誘われた加尾が勤王活動に参加することを危惧して、「坂本龍馬が昨日24日脱藩した。きっとそちらに行くと思うが、たとえ龍馬からどのような事を相談されても、決して承知してはならない。もとより龍馬は人物ではあるが、書物を読まないので時には間違えることもある」との内容の手紙を書き送った。だが、収二郎自身も土佐勤王党の幹部として調停の権力を利用して土佐藩主を尊王思想に導こうとした事に山内容堂が激怒、武市半平太と共に切腹を仰せつかる。兄の切腹後、龍馬は姉・乙女に加尾に気遣いする書状を送ったとされるが、ふたりは二度と会うことはなかったという。その後、龍馬は江戸へ剣術修行に出て千葉周作の弟・定吉の弟子となる。龍馬はその娘・佐那と恋仲となり姉・乙女に「佐那は剣術も良く出来、馬にも乗り、顔かたちは以前の恋人の加尾よりも少し良く」惚気の様な手紙を書き送った。慶応二年に加尾は元土佐勤王党幹部だった四歳年下の西尾直次郎志澄と結婚、平井家の婿に迎えた。一女をもうけ、明治十一年に夫婦揃って西山家に復籍した。その後、娘に婿をとらせて平井家の再興を果たし明治四十二年に死去した。享年七十二歳・・・加尾と龍馬の初恋はかなわなかったが龍馬は加尾に「嵐山夕べ淋しく鳴る鐘に こぼれそめけり木々のもみじ葉」という一首を贈ったといわれている。
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2009年02月13日

坂本龍馬の最期 菊屋峯吉、山田藤吉

po_kikuya.gif菊屋峯吉は嘉永四年に京都の土佐藩御用達の書店・菊屋(現・あぶら取紙屋「象」が建っている。)の長男として生まれる。坂本龍馬や中岡慎太郎から「峰やん」と呼ばれて可愛がられていた。殊に中岡慎太郎が京都に於いて尊攘活動する為の拠点として菊屋に下宿して以来の交流と言われている。また、坂本龍馬に頼まれた峰吉は団子売りに身をやつして新撰組の屯所で偵察を行ったという。龍馬と慎太郎が暗殺された日は丁度、中岡慎太郎から薩摩藩邸へ手紙を届けに行った帰りに龍馬や慎太郎がいる河原町の醤油商近江屋に寄った。龍馬と慎太郎、岡本建三郎が三条制札事件で新撰組に捕縛された宮川助五郎の処遇について話し合っていたが龍馬が急に腹がへったので軍鶏鍋が食べたいと言い出し峯吉に軍鶏肉を買いに走らせた。岡本も用事があるとのことで近江屋をあとにしたが、その直後十津川藩士と名乗る者が乱入して龍馬と慎太郎は殺害されたと言う。峰吉は軍鶏肉を買って帰ると龍馬は絶命、慎太郎は重傷であったのですぐさま白河の陸援隊屯所へ報せに走った。峰吉はその後明治十年の西南戦争で熊本鎮台司令長官・谷干城の知遇を得て会計軍夫として従軍し、六十五歳で亡くなっている。一方、近江屋襲撃で斬り殺された籐吉は嘉永元年、近江国大津の農家に生まれた。幼少の頃から腕力に優れ、相撲取り「四股名は雲井龍という。)になり十両の関取まで昇進するが勝負根性に難ありとの理由でクビになり廃業する。その後、京都の料亭「武乃屋」の出前持ちとなって坂本龍馬の下宿先の材木商酢屋に出入りするうちに菊屋峰吉と知り合い、その紹介で龍馬の用心棒兼世話役として働くようになった。藤吉は龍馬の世話をする傍ら志士に憧れ剣術稽古をするので龍馬は籐吉を可愛がり大小の刀を与えたと言う。近江屋襲撃の時、藤吉は一階の階段下で楊枝削りの内職をしているところへ十津川藩士と名乗る者が取次ぎを頼んだ。藤吉は貰って名刺を持って二階へあがろうとしたところを後ろから六太刀斬られて転げ落ちたという。龍馬は籐吉が近江屋の子供達と相撲をとって遊んでいると思い「藤吉!ほたえなや!」と怒鳴ったがこれが龍馬の最期の言葉となった。藤吉は翌日に息を引き取ったという。享年十九歳・・写真は菊屋峰吉(別名・鹿野安兵衛)
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2008年11月08日

坂本龍馬を尊敬した 谷干城

たに.jpg谷干城は天保八年、高知城下で土佐藩士・谷万七の第四子として生まれる。安政三年、江戸へ遊学を命じられ安井息軒の三計塾に学んだ干城は土佐藩尊王攘夷派の急先鋒だった武市瑞山と知合い、次第にその影響を受け帰藩後、土佐藩参政の吉田東洋に攘夷の実行を進言するが退けられる。その後、武市瑞山ら土佐勤皇党による吉田東洋暗殺により藩政を一時、勤皇党が握るが京都の八月十八日の政変により攘夷派が京都から一掃され、土佐藩でも攘夷派の弾圧が始まる。長州藩の赦免を求め運動していた干城は職を解かれるが、元治元年に復職が、久礼浦の陣屋詰となり左遷されてしまう。慶応元年に高知へ召還され藩校・致道館助教授に就任、慶応二年に藩命により長崎へ視察に出るがそこで後藤象二郎や坂本龍馬と知合い親交を深める。龍馬の説得で攘夷の不可を悟り、次第に倒幕へと舵を取るようになる。慶応三年、板垣退助とともに京都に上り、西郷隆盛や小松帯刀と会談し薩摩藩と土佐藩で協力して武力倒幕を密約し、薩土盟約を結ぶ。しかし、その直後京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、干城は真っ先に駆けつけまだ息のある中岡慎太郎に事情を聞き、新撰組の仕業ではないかと思い込む。土佐藩は武市瑞山の刑死、坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺などでいち早く倒幕運動を始めながら、薩摩や長州よりも鳥羽伏見の戦いで出遅れてしまった。戊辰戦争が始まり、藩兵大監察として出陣して各地を転戦したが、手柄を焦って中山道を通過するという軍議に逆らって甲州街道を進み、甲陽鎮撫隊残党を捕捉し大久保大和こと近藤勇を処刑する。(龍馬暗殺の実行犯と思われていた為、恨みを持っていた)その後、北関東、会津を転戦し会津藩の山川大蔵の戦いぶりに感銘し、維新後は親交を深めたという。明治維新後は藩の権少参事として藩政改革に尽力し明治四年の廃藩置県後の御親兵編成には藩兵を率いて上京し兵部権大丞として新政府に出仕した。明治五年に陸軍少将に就任し翌年、熊本鎮台司令官として赴任する。その後、台湾出兵に参軍、佐賀の乱鎮圧にも関わった。薩摩の私学生に不穏な動きがあることを知った政府は再び干城を熊本鎮台指令官に任命し明治十年、西南戦争が勃発し包囲された熊本城に籠城し苦戦するも2ヵ月間死守し政府軍勝利に貢献して勇名を馳せた。この功績により、陸軍中将に昇進し、陸軍士官学校の校長となった。しかし、先の台湾出兵の折の戦死者や病死者の遺体を一部の官僚が粗雑に扱い、その事実を政府の高官や陸軍首脳部が知っていながら放置していたことに谷干城は抗議し辞職した。帰郷しようとしたが、明治天皇は谷の意見を評価した上、自分に忠誠を尽くすように説得され思いとどまる。その後、学習院院長に就任し後、政治家に転身する。伊藤博文内閣の初代農商務大臣に就任したが伊藤内閣の欧化政策を批判し、条約改正問題で外相・井上馨と対立し辞任する。明治天皇は谷に学習院御用掛や枢密顧問官に就任を希望するがこれを固辞する。議会開設以降は貴族院議員となり懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築き地租増徴の反対や日清戦争の過大な領地要求を戒めた。国粋主義、農本主義的な立場から薩長閥や板垣退助の自由民権派とも異なる中正主義を貫き、土佐派重鎮として重きを成していた。また、健全財政論、防禦中心の軍備を主張する政治的立場から日露戦争に反対をした。明治四十四年の死去  享年七十五歳の生涯を終えた。谷干城は明治維新後も坂本龍馬暗殺の実行犯を探し、元京都見廻り組の今井信郎が「「自分が坂本龍馬を暗殺した」と自供したが、谷は「お前ごとき男に坂本さんが斬られるはずがない」と批判したという。
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2008年11月07日

坂本龍馬を育てた姉 坂本乙女

otome.jpg坂本乙女は天保三年、土佐藩郷士・坂本八平と幸の三女として生まれる。坂本龍馬より三歳年上の姉・乙女は身長174cm体重112kという現代でもかなりの大柄の彼女は「お仁王様」とあだ名され親しまれていたという。乙女は男勝りの性格で気性が激しく薙刀の達人といわれ、また馬術や弓道にも秀でていた。更に四書五経に通じ、和歌や絵画、琴、三味線など多芸多趣味の持ち主だった。龍馬が十二歳の頃、病弱だった母が亡くなり乙女が龍馬の母代わりとして養育に勤めた。末っ子の龍馬は寝小便が直らなかったが、乙女は間夜中に龍馬を起こして小便をさせるなどして、根気良く直したという。朝には習字を書かせたり和歌集を読み聞かせたりし、午後には自ら竹刀を取って剣術を仕込み泣き虫龍馬を鍛え上げたという。乙女は特に太閤記や源平盛衰記、三国志などの軍記物の書物が好きでよく龍馬に読み聞かせ、後の龍馬の人生に大きな影響を与えた。安政3年ごろ乙女は兄・権平の勧めで同じ町内に住む、土佐藩山内家の御典医・岡上樹庵と結婚した。安政5年に長男・赦太郎が誕生したが、住込みの女中・婦喜に長女・菊栄を生ませた。女癖の悪い夫との夫婦仲が悪く、姑・霜ともうまく行かずに家を出て離婚し実家へ帰った。その後、乙女は龍馬と暮らした実家の離れでのんびりと暮らしたという。上京した龍馬のよき理解者として、ある時は励まし、ある時は恋の相談相手として手紙のやり取りが続く、乙女自身も国事のために尽くしたいと龍馬に迎えに来るように手紙を送るが、京都近江屋で龍馬が暗殺され立ち消えとなる。その後、乙女は独と改名し、龍馬の妻・お龍と一緒に暮らしたが、お互いの勝気が災いし数ヶ月でお龍は放浪の旅に出る。長兄の権平亡き後、坂本家は新政府の計らいで長女・千鶴の子(高松太郎の弟)の坂本直寛が相続したため、晩年の独(乙女)は直寛に養われた。明治十二年、土佐にコレラが流行していたが、独(乙女)はコレラを恐れ野菜を一切口にしなかったらしい、その為にビタミンCが不足し壊血症にかかり死去する。享年四十八歳・・・龍馬は生涯において日根野弁治、千葉定吉、勝海舟など様々な師についたが、幼い頃の愚鈍で泣き虫な龍馬を天下一の男に鍛え上げた乙女が一番の師であったのかもしれない。
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2008年09月28日

大財閥三菱の礎を築いた男 岩崎弥太郎

Y_Iwasaki.png岩崎弥太郎は天保五年に土佐安芸郡井ノ口村の地下浪人岩崎弥次郎と母・美輪の長男として生まれる。地下浪人とは土佐特有の階級で無禄無役の最下級の武士で差別の対象として扱われた。弥太郎は父・弥次郎と共に村の厄介者で郡代役人に逆らって入牢した時、木材密売で牢に入っていた商人から算用と商売を学んだと言われている。出牢後、高知城下の鴨田村に寺子屋を構えた。近くの村で蟄居していた吉田東洋が私塾を開いており、門下生の後藤象二郎が宿題の答案作成を弥太郎に頼み東洋はその答案の内容に驚き、象二郎に誰が書いたのか問い詰め、岩崎弥太郎を知り塾に招かれることとなった。東洋が藩政に復帰した際殆どの門下生が要職に就いたが弥太郎はその身分の低さから下級警吏の職しか与えてもらえず憤慨し辞職する。木材商を営むが藩の専売法の為に破産、その後開成館にも出仕するがすぐに辞め、結局故郷の井ノ口村に戻る。吉田東洋が暗殺され、甥の後藤象二郎が藩政改革に奔走するようになると、長崎に藩営の貿易会社を設立、商才のある弥太郎が抜擢された。土佐商会と名づけられたこの会社の主な業務は土佐の物産の交易と艦船や鉄砲の買い付け、長崎での情報収集であったが、弥太郎はその才を存分に発揮し順調に業績を上げていたが、後藤象二郎は「破れ大風呂敷」と言われるほどの浪費家の見栄っ張りだった。土佐商会は瞬く間に莫大な借金を抱えそのつけを弥太郎に押し付け帰藩してしまう。明治に入ると後藤は土佐藩の艦船や藩外の財産すべてを弥太郎に与え、ついでに藩の負債も弥太郎に背負わせた。長崎の土佐商会は閉鎖し大坂土佐商会を九十九商会と改名、さらに三菱商会を興し、後に日本郵船会社の元になる三菱汽船会社に発展させた。また維新政府が全国統一貨幣制度を発令し各藩の藩札を買い上げる情報を事前に後藤より聞いた弥太郎は大金を持って藩札の買占めをし莫大な儲けを出した。(現代ならインサイダー取引)三菱汽船は政府の保護の下、征台の役や西南戦争で輸送船業務を独占、岩崎家は東洋の海運王と呼ばれ三菱財閥の礎を築いた。三菱のマークは土佐藩山内家の家紋である三枚柏と岩崎家の家紋三階菱を合わせたものと言われている。三菱財閥は弥太郎と弟弥之助(後藤象二郎の娘を妻にもつ)と二人三脚で発展させ、政府高官の大隈重信を後ろ盾に大財閥を築く。大隈が開拓史官有物払い下げ問題で伊藤博文ら薩長閥と対立、明治十四年の政変で失脚するとそれにつながっていた三菱財閥も政商としての危機に陥った。また、弥太郎は渋沢栄一に「会社経営の名を借りた家業だ」非難され渋沢が掲げる合本経営と対立、渋沢や井上馨が後ろ盾になっている三井財閥と熾烈な商戦を繰り広げる。その最中弥太郎は体調を崩し五十歳の生涯を終える。その後、三菱の総帥は弟・弥之助が引き継ぎ三井の国策会社の共同運輸と値下げ合戦になりこれに危惧した政府の斡旋で合併し日本汽船会社を設立。日本の三大財閥「三菱・三井・住友」に発展していく。
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2008年03月26日

幕末の大法螺吹き 後藤象二郎

将軍の大政奉還を成し遂げた土佐藩後藤象二郎は天保九年に土佐藩高知城下に生まれた。乾退助(後の板垣退助)とは幼馴染で兄弟のように育った。後藤家は土佐藩士、禄高百五十石の馬廻役を勤め、象二郎の父・正晴が橋本家から養子に入り、象二郎が生まれたが、十二歳のとき病没してしまった。象二郎は橋本家に預けられ、養育された。亡父の姉の夫(吉田東洋)に師事し影響を受け、東洋に可愛がられた。吉田東洋は安政元年、藩主だった山内豊信(容堂)に登用され、参政として江戸へ赴任する時、十七歳の甥の象二郎を荷物監督として同行させた。硬骨漢の東洋は酒席で藩主の親戚の者を殴り、土佐に戻され、幽居させられる。この時期に、福岡孝弟や岩崎弥太郎、乾退助らとともに象二郎も吉田東洋門下生として、学問の才能を磨き「わが甥ながら、将来必ず大物になる材である。」と東洋に言わしめた。吉田東洋を伯父に持ったことが、象二郎の幸運だったいえる。安政五年、東洋は赦されて、参政にカムバックすると、二十二歳の象二郎も幡多郡奉行に抜擢され、二年後の万延元年には、近習目付となり、さらに普請奉行となって、吉田東洋の藩政改革をたすけた。文久二年、東洋は武市半平太(瑞山)ら土佐勤皇党に暗殺され、象二郎はしばらく江戸へ遊学に出るが、元治元年に藩主豊範の父として、発言力を持っていた容堂が、乾退助とともに大監察に登用した。容堂は寵臣吉田東洋の死を惜しみ、甥の象二郎を信頼し重用した。のち、象二郎は参政になり、藩政の枢機に参画し東洋の遺志を継ぎ勧業、貨殖をすすめるため「開成館」を設立し、慶応二年に樟脳の輸出と軍艦の買い付けの為、自ら長崎に出張した。象二郎の二つ目の幸運は長崎で亀山社中を興し、海援隊を組織していた坂本龍馬と出会ったことだった。龍馬は同志武市瑞山ら土佐勤皇党の人々を拷問し、死罪にした仇敵象二郎と時代は変わったといって、快く会談し、象二郎も脱藩した亀山社中の浪人集団を土佐藩所属と認め庇護した。さらに、龍馬の新しい政治構想の船中八策を活かして大政奉還建白書を作成し、山内容堂を動かして、徳川慶喜に政権を朝廷に返上せしめた。しかし、薩長の武力討伐派と結んだ岩倉具視の暗躍により結局は戊辰戦争に突入してしまった。明治新政府において象二郎は参与、外国事務掛、大阪府知事、工部大輔、参議など重職に就いたが、征韓論に敗れ下野し、板垣退助(乾退助)らと「愛国公党」を結成し自由民権運動を繰り広げた。だが、岩崎弥太郎のむこうを張り、財界に挑もうと蓬莱社を興したが失敗したり、民権運動が弾圧されると、日本を離れヨーロッパへ遊行したり、自由党解散のあと民党諸派の大同団結運動を始めたと思えば、政府が差し出す大臣の椅子に喜んで座り、汚職事件を起こし辞任するという失態を繰り返す。また、幕末に象二郎が長崎出張中に設立した、「土佐商会」の丼勘定で出来た多額の借金の始末を岩崎弥太郎に押し付けたりと評判を落とした。
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2008年02月15日

南北戦争やゴールドラッシュを体験した男 ジョン万次郎こと仲濱万次郎

manjichan.jpgジョン・万次郎こと中濱万次郎万次郎は文政十年土佐国中浜村(現・土佐清水市中浜町)に貧しい漁師の次男として生まれる。天保十二年の十四歳のときに、家計を助けるため見習い漁師としてかつお船に乗り、嵐に巻き込まれ遭難し、五日間漂流後太平洋の無人島・鳥島へ漂着する。そこで飢えを凌いだ苦しい生活が百四十三日間続いたが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される。船長のウィリアム・ホイットフィールドは心の広い人で当時、妻を失い、家庭を持っていなかったので、万次郎を自分の子供のように可愛がった。他の乗組員は帰国の機会を待つ為、ハワイに残ったが、万次郎は自分で希望して船に残り、船長に英語や航海術を習いながら、アメリカ本国へ渡った。船長の故郷マサチューセッツ州へ万次郎と共に戻ったが、教会が黄色人種の万次郎を受け入れてくれなかった為、自分や再婚した妻と共に受け入れてくれる教会へ籍を移した。当時としては異例のことで、どれだけ船長は万次郎に肩入れしたかうかがえる。アメリカでは代々国王というものはなく、学問才覚のあるものが大統領に選ばれ、四年経てば、次の者に譲る。政治が行き届いて衆人に惜しまれるものは特別にさらに四年だけ政治を担当できる。などいろんなことを勉強し、寛大な船長に育てられたせいもあって万次郎はアメリカに馴染んでいった。しかし十五歳から離れ離れになった母を思い日本に帰るお金を貯める為、万次郎はゴールドラッシュで賑わうカリフォルニアへ行って砂金を掘ったり、様々な仕事に就いた。
万次郎は遂に帰国の為の船を買い、先ずハワイ島へ仲間を迎えに行った。それから中国行きのアメリカ船と契約して、琉球沖合いで降ろしてもらい、ボートで陸まで漕いで行った。それが、鎖国中の日本に帰るのに最善の方法だったが、琉球、鹿児島、長崎と廻され、そのつど質問攻めにあい、まるで罪人のような扱いを受ける。賓客として扱ってくれたのは島津斉彬だけだった。せっかく母親に逢いたい一心で帰国したのに土産は長崎で没収され、琉球にたどり着いてから一年半もの時間を費やした。ともかくやっとのことで雑事を済ませ故郷の中の濱村に帰れたのは十四歳で遭難してから実に十二年ぶりだった。年老いた母と再会を果たしたが、万次郎だけがもう一度召し出された。その豊富な知識を幕府が聞きつけた幕府に直参として召抱えられた。しかし、万次郎の才能はアメリカ人として青年期を過ごし生活の上で身につけた知識であったので、通訳や翻訳家などの使い道しかなかった。船乗りの万次郎にとって身分が直参に上がり多くの禄高を貰ったとしても陸に上がった河童のように元気をなくしていった。唯一、勝海舟らと共に咸臨丸に乗ってアメリカへ渡った時、艦長の海舟は荒天のため酷い船酔いで指揮がとれず、他の日本人乗組員たちも役に立たなかったが、万次郎だけはてきぱきと力を発揮し実質的な航海長として舵を取った。帰国後念願の捕鯨業を父島で創めるが、雇っていた外国人船員が殺人未遂事件を起こし失敗に終わった。明治三年に晋仏戦争視察団の一員としてヨーロッパへ行くことになり、アメリカ東海岸経由で漂流後世話になった旧知の勉学仲間やホイットフィールド船長と再会を果たした。ヨーロッパに渡ったが足の潰瘍が悪化し単独帰国する羽目になり、四十五歳で脳溢血を起こし現役を引退、それでも航海や捕鯨への意欲は衰えることなく六十二歳で再び船を買い小笠原へ出たといわれるが詳しくはわからない。その後七十二歳でまたも脳溢血を患い明治三十一年亡くなった。
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2008年01月22日

自由民権運動の指導者 板垣退助

s1022r.jpg「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助板垣退助は天保八年土佐藩上級武士の乾家長男として生まれ、青年期にはかなりやんちゃを繰り返していた。安政三年に上士団の首領となり、同輩と諍いを起こし蟄居させられる。仕置役の吉田東洋に諭され、その門下生になり、学問に励み出し、やがて藩主山内容堂の側用人に抜擢され、後藤象二郎と共に藩政を仕切った。しかし容堂が唱える公武合体路線から離れた行動をとるようになり、慶応二年には江戸へ遊学騎兵術とオランダ兵学を修行し、翌年中岡慎太郎の紹介で西郷隆盛と京都で討幕の密約を結び、帰国後は大隊指令として、小銃隊を中心とした兵制改革の実施にあたっている。戊辰戦争では東山道先鋒総督府の参謀を務め、土佐迅衝隊を率いて各地を転戦、甲州では甲府城を無血占領する。この時、先祖が武田信玄の重臣、板垣駿河守信形であると発表し、姓を板垣に戻す。会津攻略では大殊勲を立て、永世賞典禄1千石を授かった。帰国後、高知藩知事、山内豊範の補佐役の大参事として、土佐藩の改革に着手、明治四年、廃藩置県が実施され、新政府の参事となる。明治六年、征韓論を唱えるが政争に敗れ、下野し、高知に帰って立志社を創立して民論を高めた。明治十五年に遊説中の岐阜中教院で刺客に襲われた折、「板垣死すとも自由は死せず」という名せりふを残し、民衆の喝采を浴びるが、三井財閥の資金援助を受け、渡欧するという安易な行動を非難された。明治二十年伯爵となり、三十一年進歩党と合併し大隈重信と隈板内閣を作り、内務大臣に就任、様々な社会問題を解決し、政界から引退、社会改良運動に晩年を捧げ、大正八年に逝去した。
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2007年12月07日

人斬り

Cimg2.jpg*岡田以蔵 土佐郷士の家に生まれた、元は豪農であったが天明年間に郷士の株を取得した。父義兵は藩の足軽募集に応じ、藩組織から独立した郷士と藩組織の末端の足軽と、二重の身分を有した。以蔵は足軽を継ぎ、弟は郷士を継いだ(土佐藩では郷士とは関が原の合戦以前の藩主、長曽我部氏の家臣でこの時代の藩主、山内氏藩士とは明らかな差別を受けていた。)以蔵は安政元年、十八歳のとき、武市半平太が開いた剣術の道場に入門した。以蔵は他の門弟同様に、武市の思想的影響を受けた。安政三年、武市は藩命により江戸の桃井道場へ修行にでたのと同時期に、以蔵は藩主山内豊範の出府に随従して江戸へ出た。その頃以蔵も桃井道場に入門、その間、同じ土佐郷士の出で千葉道場で修行中の坂本龍馬と出会っている、以蔵は思想家として武市や坂本と近しい間でありながら世事に興味を持たず、剣のみに没頭した。今ならテロで世の中が変わるとは思わないが当時ちょうど桜田門事変がおき世情が変わってしまった。又同時期に、土佐藩では武市一派が藩の執政吉田東洋を暗殺したことで武市一派は藩の実権を握った。このことが以蔵にとってテロの有効性を感じてしまった。暗殺は極めて有効な政治的主張の表現方法であると誤解した。まさに人斬りこそが以蔵にとっての正義の表現として次々に暗殺を繰り返した。派手な殺しかたで以蔵の名は高まり、心に奢りが生まれ殺人が目的になり無頼無宿の群れに混じり、強盗を働くまで落ちぶれ果てた。以蔵は強盗犯として逮捕、土佐に連行され拷問の末に武市一派の罪状をすべて白状し武市と共に刑死した。



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2007年11月30日

武力討幕の魁

yosimura_1.jpg*吉村虎太郎 天保八年土佐国高岡郡津野山郷芳生野村庄屋太平の長男として生まれた。元来この郷は勤皇思想が古くからあり勤皇郷とも呼ばれていた「土地は朝廷のもの、耕作権は藩主のもの」といわれ吉村の「諸侯と庄屋は魁すべきなり」という考えが生まれた。坂本龍馬や中岡慎太郎と同じく早くに脱藩、諸国の浪士と頻繁に会う天誅組の浪士らはこの時期の同士,吉村は上部工作として三条実美ら尊攘派公家らの尊攘親征策が成功し楠公首塚で挙兵、五条代官以下五人を斬首、代官所を焼き払い桜井寺を本陣とし五条は皇室領に編入されたと通告年貢も半減すると発表した。しかし一・一八クーデターが起こり七卿落ちで形勢逆転、天誅組は桜井寺から天川の要害に陣を移した、京都守護職松平容保は鎮圧命令をだした。天川から五条に本陣を移し高取城攻略に向かったが敗戦、十津川郷退去北山郷から尾鷲へ向かった吉村は鷲家口で捕縛「士道をもって切腹を許されたい」と頼んだが聞かれず、吉野山風に乱るる紅葉はわが打つ太刀の血煙とみよ、と高吟し銃兵の乱射に倒れた


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2007年11月28日

ひと時も無駄という時間を過ごさない男

*中岡慎太郎 天保九年土佐国安芸郡北川郷柏木に生まれた。
父小伝次は北川郷大庄屋、母は丑、幼名福太郎は三歳で父から読み書きの指導を受けはじめ、四歳になると松林寺住職の禅定和尚に読書を学ぶ七歳で野友村の漢方医島村雅景の塾に入門して四書を学ぶ十四歳で島村塾の代講を勤めた。この頃更に高松塾で文武を、岡本塾で王義之風の書を極める。嘉永五年に間崎倉浪を訪ね詩書を学び、藩校田野学館が設立されるとこれに入学、安政二年に武市瑞山に剣術を学び深く傾倒する。更に経史、南学もこの頃に学んでいる。安政三年江戸白山町高島秋帆の塾に学ぶ砲術家吉村賢次郎に入門する。「ひと時の無駄という時間を過ごさない男」と言われる有縁である。
脱藩し長州に匿われている時もっとも信頼し、交流を深めていたのが高杉晋作であった。かつて高杉が計画した島津久光暗殺けいかくに加担したが実行されなかった。中岡は「長州藩の庇護を受けるかわりに、何かの際には真っ先に死なねばならぬ命運を負っている」とかいている。禁門の変のときも、七卿落ちのときも、中岡は大山彦太郎の変名で随行している。高杉の功山寺挙兵にも参戦勝利した時、それを「独り防長二州の幸福のみならず、実に国家の大幸と謂うべきなり」と喜んだ。この言は彼はすでに藩意識を脱し、国家レベルで物事を考えていたことを物語っている。坂本龍馬より早くに薩長連合を着想し、周旋し、推進して行ったのも中岡である。維新後、田中光顕は「坂本先生の名がもっとも広く世に伝えられていますが私はその見識において、またその手腕において、中岡先生の方がはるかに勝っていたと思います。維新の原動力が三条実美・岩倉具視両卿にあることを見抜き、二人の手を握らせたのも先生であります。坂本龍馬・後藤象二郎に先だち、政権を朝廷に返さねばならないと言ったのも先生であります云々」と銅像除幕式のときに語っている。「先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現れると、先生が行けば一時間以内に説き伏せて帰ってきた」とも語っている

posted by こん at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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