2013年09月30日

会津鶴ヶ城攻撃の砲兵隊長で後に山川捨松の夫になった 大山巌

ouyama_phot.jpg大山巌は天保十三年に薩摩藩鹿児島城下の加治屋町に父・薩摩藩士大山綱昌の次男として生まれた。父・綱昌は西郷隆盛の父である西郷隆充の弟(大山家に養子)であるので西郷隆盛、従道兄弟とは従兄弟に当たる。六歳のときに「郷中」(薩摩藩独特の青少年団のようなもの)に入り、当時郷中のリーダーだった十六歳年上の西郷隆盛の指導により死を恐れず事にのぞむ姿勢や男として卑怯な振る舞いを嫌うリーダーとしての身に付けていった。青年になると薩摩藩精忠組(西郷隆盛や大久保利通らがはじめ近思録を輪読する会から尊皇攘夷を経て倒幕思想に発展した)に入り十九歳のときに有馬新七らと倒幕決起の為に京都寺田屋に集結していたところを説得に来た同じ勢忠組同志の斬り合いとなり急進派の有馬新七ら六名が死亡、二名が負傷したが二階にいた大山巌、西郷従道らは鎮撫派の大山綱良の説得により投降することになった。(寺田屋騒動は薩摩藩精忠組の急進派が藩父・島津久光が千名の藩士を引き連れて上洛するに及んで倒幕の先駆けになろうと集まったが久光自身は倒幕の考えはなくあくまで公武合体を進めようと思っていたので有馬ら急進派を自身で説得しようと大山綱良らを遣わしたといわれている。このとき西郷隆盛は説得の為急ぎ京都を目指していたが久光の命に逆らったということで逮捕され鹿児島に連れ戻されていた為精忠組の指導者はいなかったのが原因だといわれている。)大山巌はその後三年の謹慎を言い渡されるが生麦事件を発端として薩英戦争が勃発、巌は従道と共にスイカ売りに化けて敵旗艦に近づき攻撃を加え乗っ取り作戦を企てたり砲兵として戦ったが西洋兵器の前にはあっけなく敗北した。巌はその後、砲術の重要性を痛感し江戸へ出て高名な兵学者だった江川太郎左衛門に学び日本の砲兵術の第一人者となった。鳥羽伏見の戦いでは右耳に銃創を受けるが戊辰戦争では薩摩軍砲兵隊長として進軍、会津戦争では十二斤臼砲を改良した「弥助砲」(大山巌は維新前まで大山弥助と名乗っていた。)を駆使して戦果を挙げる。鶴ヶ城籠城戦では土佐藩士らが当初担当していたが会津藩籠城藩士達の頑強な守りに苦戦し薩摩軍に応援要請を出した。鶴ヶ城包囲に参加さした巌だが僅か一日で城中からの銃撃で右股を撃ち抜かれ負傷(一説には山本八重の狙撃によるものと云われているが不明で土佐藩軍監小笠原唯八改め牧野群馬が撃たれたとの説あり)したが弥助砲の活躍で勝利した。維新後はフランスに留学し晋仏戦争を視察しスイスに移るが大西郷が征韓論に敗れ下野すると急遽帰国し鹿児島に帰って大西郷と直談判して東京に戻って欲しいと懇願するも西郷に拒否される。ならば自分も残って西郷に尽くしたいと頼むがこれも拒ばまれ西郷から「お前は新政府の為に尽くせ」と叱咤されやむなく東京に戻る。その後、熊本神風連の乱を鎮圧し熊本鎮台司令長官、東京鎮台司令長官を歴任、西南戦争が勃発すると政府軍別働第一旅団司令長官として大恩人・西郷隆盛や郷里の盟友達と戦うことになる。巌は最後の戦いとなる城山の総攻撃の責任者として西郷軍を鎮圧した後、西郷夫人のいとに弔慰金を手渡したが突き返され巌の姉に「何故西郷を殺したのか」と責め立てられたが巌は黙ってうつむいたまま何も答えられなかったという。その後、巌は陽気な性格が一変し無口な男になり生涯二度と鹿児島に帰ることはなかったという。翌年の明治天皇の北陸、東北御巡幸に天皇は大山巌を同行させ「私は西郷隆盛に育てられた。しかし今、西郷は賊の汚名を着せられさぞ悔しい思いをしただろう。私も悔しい・・聞けばその方も幼い時より西郷に育てられたというではないか、これからはその方を西郷の身代わりに思う。」とのお言葉を賜り巌は感涙し「吉之助兄さあの身代わりにならねばと立ち直ったという。」巌は長州閥の山県有朋と共に日本陸軍の発展に尽力し参謀本部次長、陸軍卿を経て第一次伊藤博文内閣から陸軍大臣となる。明治二十七年、日清戦争が勃発し大山巌は陸軍第二軍司令官として出陣し部下に「たとえ敵国民であろうと仁愛をもって接すべし」と訓示し理想とする大西郷の面影を誰もが抱いたという。明治三十七年、日露戦争が始まると大山は後を若い人材に任せ引退を考えていたが内務大臣の椅子を蹴って参謀本部次長に就任した児玉源太郎の説得もあって現地と大本営の中間に位置する満州軍総司令部が設置させその総司令官に大山巌が就任(この人選には明治天皇の指名があり陛下は「山県有朋が適任との声もあったが山県は切れ者でどんな細かいことでも気がつくので軍司令官達は嫌がるだろう。その点、大山はあまりうるさくないので私は適任だと思う。」ということで大山巌は日露戦争の陸軍責任者として現地へ赴く。作戦は信頼できる児玉源太郎参謀次長に任せ責任はすべて大山自身が負うという大西郷並みの人徳で当時世界最強といわれ日本陸軍の数十倍の兵力を持つ帝政ロシア陸軍を打ち破り「大山巌」という名前は世界に知れ渡った。秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されたとの連絡が司令部に入ったとき司令部が慌てふためき様々な情報が錯綜し誰もが冷静さを失い児玉たちの怒声が鳴り響いていた。このとき別室にいた大山のもとにも伝わり自分が指揮を取るしかないのかと思ったがふと「西郷吉之助兄さあならどうするか」と考えとっさに寝巻きに着替えてさっき昼寝から醒めたように「何じゃにぎやかじゃのう児玉さあ、今日もどこかでゆっさ(いくさ)でごわすか?」ととぼけて見せた。みんな顔を見合わせてふきだして笑い冷静さを取り戻して適切な状況判断が出来た。後に児玉源太郎はこの戦争は大山巌でなければ勝てなかったであろうと語ったという。しかしいつもとぼけていたわけでもなく児玉が旅順へ第三軍の督励の為に出張し留守にしている間は参謀会議に出て積極的に指揮を取ったという。凱旋帰国した大山に息子の柏が戦争で一番辛かったことは何か?と尋ねたときに巌は「知っていることも知らない振りをすることかな」と笑ったという大山巌とはそういう男であった。大山を総理大臣にという声もあったがこれを固辞し仕事を終えるとまっすぐに家に帰り妻と子供達を第一に考える巌は部下や使用人に対しても威張ることはなく慈愛を持って接した大山巌は大正四年、愛妻・捨松に看取られ七十四歳の生涯を終えた。危篤状態で意識朦朧で「兄さあ・・兄さあ」とうわ言を繰り返した。捨松は「あなた、やっと西郷さんに会えたのね」と巌の手を握ったという。・・・太平洋戦争後にGHQが日本を占領した時に多くの軍人の銅像を撤去されたがGHQの総司令官・マッカーサーは大山巌の銅像撤去を許可しなかった。マッカーサーもまた大山巌という男を尊敬していたのではないかといわれている。
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2009年05月02日

西郷隆盛の評価

西郷隆盛は維新の三傑の一人で最大の功労者ではあるが、一方では倒幕の為にはいかなる手段も厭わない非情さを持っていたといわれているが、西郷と接した人々は皆一同に「情」の人といっている。幕末の日本で新しい時代の夜明けを迎えようとしていた頃の坂本龍馬は西郷のことを「大きく撃てば大きく響き、小さく撃てば小さく響く釣鐘のような人物」と言っていた。これは相手によって態度を変えることではなく、相手の器量に合わせて、すべてを飲み込み、大きく包み込む度量の大きさを表現した言葉といわれている。部下の不始末の責任は自分の責任とし、自分の功は部下の功にするという生き方に表れているという。江戸城無血開城を西郷とともに決めた勝海舟は「従容として、大事の前に横たわるを知らない態度に、俺もほとほと感服した。」と会見後に語った。西郷にか達観的に物事を観れる力量があり、どんな重要な要件であっても、緊張の色見せずに当たれ、部下はその態度を見るだけで落ち着き、持てる力を存分に発揮できる。何があろうと慌てず騒がず、悠然としている西郷の姿に部下はもちろん、敵将でさえ魅了した。幕末に「人斬り半次郎」と恐れられた中村半次郎。維新後に日本陸軍で初の将官待遇を受けた武闘派の桐野利秋は西郷を「我が運命、我が生命」といって西郷が征韓論に敗れ下野したときに将官の地位を投げ捨てて西郷とともに鹿児島へ帰った。また、日本の将来を担う人物と高い評価を受け欧州留学に出ていた薩摩藩士・村田新八は帰国後、西郷の下野を聞き留める大久保を振りきって鹿児島へ帰り運命を西郷とともにした。西南戦争の時には他藩であった旧中津藩士・増田栄太郎は「一日西郷に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくのあらず。ただ死生をともにせんのみ」とまるで初恋をした少女のような台詞を吐いた。西南戦争後、福沢諭吉は「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」という追悼文を書いた。また、時代は昭和に入って三島由紀夫は「西郷は日本の地霊の如く、年をへだてては地上に現れる」と神霊の如く偉大さを評価した。現代は日本中に西郷隆盛の銅像が建立されているが、鹿児島では大久保利通が西郷を裏切り鹿児島を見捨てたと嫌われ、銅像が建立が遅れたといわれている。維新三傑の中で木戸孝允(桂小五郎)は「萩の乱」で同志だった前原一誠を残酷な殺し方で処刑したり、自分の故郷の山口を焼き野原にし、大久保利通も親友・西郷隆盛を西南戦争で死なせ、鹿児島を焼き払ったといわれている。西郷だけは最期まで鹿児島を愛した。
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2009年03月07日

生麦事件  奈良原喜左衛門

奈良原喜左衛門は天保二年、薩摩藩小番・奈良原助左衛門の長男として鹿児島城下高麗町で生まれる。薬丸半左衛門に薬丸示顕流を学び藩内屈指の剣術の達人といわれ、弓道にも通じた。父・助左衛門は近思録崩れ(八代藩主・重豪の放漫財政から端を発した御家騒動、処罰された秩父季保の名から秩父崩れともいう。)で遠島処分を受け、お由良騒動では謹慎処分を受け貧しい生活を強いられた。藩主・島津斉彬の命で江戸へ行き次期将軍に一ツ橋慶喜擁立の為に奔走するも失敗して帰国。安政六年に近思録崩れの秩父季保が愛読していた近思録の輪読する会が大久保利通や吉井友実、伊地知正治、有村俊斎(海江田信義)らの結成に加盟した。後の「精忠組」となる。喜左衛門は彼ら「精忠組」は当初、尊皇攘夷を唱え脱藩を計画するが藩父・久光の説得を受け断念し公武合体に転じた。文久二年、島津久光が公武合体推進の為、藩兵を率いて上洛する時に喜左衛門ら精忠組のメンバーも随行を許される。しかし、京都では久光公は討幕のの為の上洛という噂が流れ血気にはやった有馬新七ら薩摩藩激派らが寺田屋に集結したことを知った久光の命により喜左衛門や海江田信義らが説得に向かうが失敗し精忠組同志の斬り合いとなった。まだ年少だった西郷隆盛の弟・従道や大山巌らは鹿児島で謹慎、有馬新七ら優秀な藩士の多くは斬死し、維新後薩摩閥の人材不足の一旦を招いた。(西郷下野に伴って多くの人材が鹿児島へ退いたことも大きな原因)その後、勅使・大原重徳卿に随従する久光に従って江戸へ行くがその帰途、武蔵国生麦(現・神奈川県横浜市生麦)にて行列を騎馬にて横切ったイギリス人ノレック・リチャードソンら四人を無礼者と怒鳴りながら真っ先に斬りつけたのが喜左衛門だといわれている。(しかし、最近は弟の奈良原繁が斬り付けたとも言われている。)リチャードソンは肋骨から腹に斬られ内蔵が出るほどの重傷を負い止めをさされて死亡、他のものも重傷を負いながらもアメリカ領事館(本覚寺)に駆け込んだ。薩摩藩側は神奈川宿に宿泊予定だったが程ヶ谷宿に変更して白を切り通した。翌年にはこの報復でイギリス艦隊が鹿児島を攻撃した薩英戦争では喜左衛門は海江田信義らとスイカ売りに変装して小船でイギリス艦船に近づきこれを奪おうとするも失敗する。その後、喜左衛門は京都で国事に奔走し、元治元年の禁門の変では出水隊の隊長として奮戦する。慶応元年に京都二本松の薩摩藩邸にて病没。享年三十五歳・・弟・奈良原喜八郎・後の繁は維新後、島津本家の家令を勤め、静岡県令、沖縄県知事、後には貴族院議員などを歴任し男爵を授与された。繁の次男が三次は明治四十四年に自ら設計して作った奈良原式複葉機で飛行に成功し、日本初の国産飛行機として名を挙げた。(
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2009年02月18日

山岡・西郷会談の案内役 益満休之助

s-masumitu.jpg益満休之助は天保十二年、薩摩藩下級武士・益満行充の次男として鹿児島城下の高麗町に生まれる。休之助は熱烈な攘夷論者として江戸で清河八郎や山岡鉄太郎らの「虎尾の会」のメンバーとして伊牟田尚平ら薩摩出身者四名とともに名を連ねた。清河八郎が幕命を受けた佐々木只三郎らに暗殺されると益満休之助は鹿児島へ帰郷する。時代は徳川幕府の大政奉還のよって混沌とする中、薩摩藩が討幕に傾くと西郷隆盛の命を受けて江戸に下り同志・伊牟田尚平らと浪人五百名を集め江戸薩摩屋敷を根城に火付け、盗賊、辻斬りを繰り返して江戸警備を任されていた庄内藩中心の新徴組を刺激した。幕府は当初、庄内藩見廻り組に自重を促したが挑発に乗った新徴組は薩摩藩邸を焼討ち襲撃し、益満休之助、南部弥八、肥後七左衛門の三人を捕縛した。この情報を聞いた京都の会津藩・桑名両藩兵らは鳥羽・伏見の戦いを始め、まんまと西郷の策略に嵌ってしまった。益満休之助ら三人は幕府によって処刑されるはずだったが、勝海舟の助命願いを受けて勝海舟の預かりとなった。慶応四年、勝海舟の命により新政府軍の江戸総攻撃を前に幕府の使者・山岡鉄太郎の案内役として駿府の総督府陣営までいった。山岡は益満の活躍によって無事に西郷との面談を果たし江戸へ戻り、彰義隊の上野戦争に身を投じ流れ弾に当って死亡と伝えられる。(また、維新後に鹿児島へ帰って帰農したともいわれている。)享年二十八歳・・・
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2009年01月23日

西南戦争で散った家老 桂久武

01-07.jpg桂久武は天保五年、薩摩藩島津氏の分家・日置島津家当主島津久風の五男として生まれた。長兄は第二十九代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴 、次兄は西郷隆盛に最も影響を与え尊敬した(お由良騒動で切腹させられた)赤山靭負。安政二年、同じ島津家分家の桂家の養子となり桂久武となった。その後、造士館演武係方の要職を務めていたが長兄の島津久徴が島津斉彬派だった為にお由良騒動の煽りを受けて大島守衛方、銅鉱山方となり大島へ左遷させられる。ここで流刑中の西郷隆盛と親交を結び日本の将来について毎晩語り合ったという。元治元年、大目付となり家老の小松帯刀とともに倒幕に向けての藩論統一に尽力した。ついで家老加判役となって役料千石を賜り御用部屋詰を仰せつかる。慶応元年に上洛し翌年に小松帯刀邸で坂本龍馬の仲介で行われた薩長同盟の西郷と桂小五郎の締結に小松とともに同席した。その後、西郷、坂本龍馬夫妻、小松、吉井友実らと大坂を出航して鹿児島へ向かった。鹿児島へ帰った西郷は藩政改革と陸海軍の拡張を進言して許しを得ると桂久武は小松とともに藩政改革に尽力して武力倒幕を推進して会計掛方として出納、勧農、陸海軍を掌った。また、西郷と謀って密かに藩主・忠義に拝謁して西郷に土佐・宇和島の遊説、村田新八に九州諸藩の遊説の許可をもらった。西郷が藩父・久光を奉じて藩兵七百名の精鋭を率いて上洛して四侯会議を開くのを援けたのも桂久武の尽力によるものであった。討幕と会津・桑名両藩の誅伐の密勅が下ると桂は薩摩藩の門閥や討幕反対の保守派を排除して藩論を討幕にまとめた。西郷は鹿児島へ帰るとすぐさま藩主・忠義を奉じて藩兵三千名を率いて鹿児島を出発することが出来た。久武は戊辰戦争で戦陣に立つことは無かったが専ら後方支援に従事して兵器・弾薬・金穀の充実を謀り薩軍の後顧の憂いをなくしたと言われている。維新後の明治三年、西郷とともに鹿児島藩大参事となって藩政の改革や兵制の整備に努め翌年には都城県参事、明治六年には豊岡県権令に任じられ正六位に叙せられたが病気と称して辞任、帰郷する。その後、霧島山麓に広大な土地を買って開拓に従事し、五代友厚と交渉して鉱山開発に尽力した。明治十年、西南戦争が勃発し、西郷が出陣の別れに訪れた際に久武は高齢の為、参加しないとしていたが情義に駆られ家人に刀を取りに帰らせそのまま従軍して大小荷駄本部長となった。久武は情に厚く政府軍小倉十四連隊率いる乃木希典はら分捕った連隊旗を村田三介が戦死した際に戦利品の形見として村田婦人に贈った。(実際は岩切正九郎が分捕って村田に渡したものだった。)政府軍の増援軍が次々と到着し薩軍は劣勢になって後退し兵士と弾薬が不足して戦線の維持が困難になったので桂久武は兵站補給と鹿児島防備の為に鹿児島へ帰った。しかし、政府海軍の川村純義(西郷と親戚の鹿児島人)が上陸して桂久武の帰郷を嗅ぎつけ鹿児島市中を暴力的に探索し始めた。横川に陣営を置いた桂と別府晋介は中島健彦と相良長良を鹿児島の諸方面に配し上陸した政府軍と戦った利が無く敗れ宮崎に退いた。和田峠の戦いに敗れ、長井村へ退いた薩軍は可愛岳を突破して鹿児島へ入った。薩軍残兵が城山に籠城してから桂久武は蓑田伝兵衛宅で大小荷駄隊を指揮していたが政府軍の城山総攻撃が始まると西郷、村田新八、桂久武ら将士40余名は西郷の洞前に整列して岩崎口に進撃した。敵弾が雨のように降り注ぐ中進撃していた桂久武はついに流れ弾に当たり斃れた。享年四八歳・・・幕末維新の三傑として西郷、大久保、木戸孝允(桂小五郎)が挙げられるが小松帯刀とこの桂久武も維新に多大な尽力をした傑人に入るだろう。
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2008年11月21日

西郷隆盛の家族

bou00991.jpg西郷隆盛は生涯三度の結婚をした。一度目は嘉永五年、西郷が二十八歳のときに父母に勧められて伊集院兼寛の姉・須賀と結婚する。しかし、結婚まもなく西郷家では義祖父・竜右衛門、続いて義父・吉兵衛、そして義母・政佐子と立て続けに亡くなった。翌々年の安政元年に西郷が藩主・斉彬に抜擢され参勤交代で江戸へ随行した為、幼い兄弟達を一人で養うことになった。少ない扶持米で大家族の面倒を見ることに耐え切れなくなり実家へ帰ったという。その後、江戸の西郷と伊集院家が話し合い円満離婚となったという。二度目は西郷が安政の大獄で京都を追われ勤皇僧・月照とともに海へ身を投げ月照は死亡したが西郷は蘇生した。(以後、西郷はこれを天命と思うようになる。)薩摩藩は幕吏の眼を欺く為に西郷は死んだことにして奄美大島へ非難させた。奄美大島の龍郷村で扶持米六石の自炊生活をしていた西郷は村の有力者・龍家の一族の佐栄志の娘・とま(後の愛加那)と結婚した。西郷三十五歳の安政七年に長男・菊次郎が誕生し二年後、長女・菊草が生まれた。しかし、時勢は風雲急を告げ、藩父・久光が薩摩兵を率いて上洛することになった為、中央に詳しい西郷が呼び戻された。鹿児島へ帰る際、島妻は連れ帰ることが出来ない規則があった為にまだおなかには菊草が入っていた愛加那と泣く泣く別れたという。三度目の妻は慶応元年、西郷が三十九歳のときに薩摩藩小番・岩山八郎太の次女・イト(糸子)二十三歳と小松帯刀の媒酌で結婚した。糸子は昔に一度他家に嫁いだがすぐに実家へ帰された過去を持っていたが西郷は「よかよか」と気にも留めなかったという。嫡男・寅太郎、次男・午次郎、酉三と三人の男の子を生んだが西郷の島妻・愛加那が生んだ菊次郎(庶子とみなされた)と菊草(菊子)を引き取り我が子と分け隔てなく慈しんで育て上げた。西郷が参議として東京で生活している間も鹿児島から離れず、養蚕の仕事をしながら大家族を守った。西郷家は大家族で隆盛(吉之助)を長男に長女・お琴、次男・吉二郎(戊辰の役の北越戦争で負傷後死亡)、次女・お鷹、三女・お安、三男・信吾(従道、維新後明治政府で陸軍や海軍大臣)四男・小兵衛(西南戦争で戦死)の七人兄弟に祖父と父母、次男・吉二郎の妻と子供と大所帯だった。糸子が嫁いだ頃には祖父と父母、吉二郎、その妻(病弱だった)は亡くなっていた。西南戦争の後、西郷は賊軍の将として官位を剥奪された。しかし、勝海舟や西郷の親友だった吉井友実の働きがけが功を奏し明治天皇の思し召しで嫡男・寅太郎はポツダム陸軍士官学校留学を命じられ、ドイツで13年間生活しプロセイン陸軍少尉になり帰国後に陸軍少尉に就いた。明治天皇の強い意向により大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷は赦され、正三位を追贈された。寅太郎は父・隆盛の維新での功績により侯爵を授けられ貴族院議員に就任する。その後、第一次世界大戦中の大正四年に習志野俘虜収容所長に就任する。大正八年、収容所にスペイン風邪が流行し寅太郎自身も感染し死去する。家督は寅太郎の次男・隆輝が継ぐが二十歳の若さで死去したので三男・吉之助(祖父である隆盛と同名)が家督を継ぐ。吉之助は貴族院議員の後参議院議員になって戦後の第二次佐藤栄作内閣の法務大臣を務めるが自分自身が関係した手形乱発で恐喝事件を起こし自由民主党を離党し議員の辞めた。
尚、寅太郎の妻で隆輝、吉之助の母の実家は元薩摩藩士・園田実徳といい鹿児島から函館へ渡り巨万の富を築いた。また、「北海共同競馬会」の設立発起人に名を連ね、牧場を開設してその経営を弟の武彦七に任せた。彦七は西洋馬術の始祖といわれる函館大経に弟子入りし、馬術を極め、自身も数々の旗手や調教師を育てた。この人のひ孫が現代競馬界のプリンス武豊と幸四郎兄弟で、西郷家とは遠い親戚になるらしい。一方、庶子の菊次郎は二歳で西郷糸子に引き取られ十二歳のときにアメリカへ二年半留学し帰国、十七歳のころ西南戦争勃発し父・隆盛とともに出陣した。菊次郎は延岡・和田越えの戦闘で右足を切断、桐野利秋の計らいで俵野に取り残され西郷の老僕・熊吉をつけた。熊吉は菊次郎を背負って隆盛の弟・西郷従道の下に投降した。西南戦争後、菊次郎は外務省に入り、米国公使館などで勤務した後、日清戦争で台湾を併合した為、台北県支庁長、宜蘭県支庁長に就任して帰国後は第二代京都市長に就いた。現代、陶芸家として高名な隆文氏は菊次郎の四男・隆泰氏の子。菊次郎の妹・菊草は菊子と名を改め大山巌の弟・誠之助と結婚した。明治二十二年、明治天皇の強い意向と西郷を師と仰ぐ黒田清隆の努力によって西南戦争を起こした賊軍の将としての罪が赦され正三位が追贈された。これによって上野の銅像が明治三十一年、高村光雲の作(犬は後藤貞行)で作られたが、除幕式に呼ばれた妻・糸子は「宿んしはこげな人じゃなかったこてえ」(主人はこんな人じゃなかった)といい「浴衣でおもてなんか出なかった」と口を尖らせそばにいた従道に窘められたという。尚、西郷像が連れている愛犬「ツン」は薩摩犬のメス犬だったが、像像はオス犬で海軍中将・仁礼景範が飼っている薩摩犬のオスをモデルにしたという。写真は老後の西郷糸子
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2008年11月20日

西南戦争 西郷隆盛

SaigoTakamoriUniform.jpg西郷や板垣らは事態はこれで前進するものと思っていたが、洋行から岩倉具視と大久保利通が帰国しこれに反対を表明した。再び閣議を開き大久保達洋行組は内治優先論を展開し今は戦争をする国力が無いと主張する。しかし、西郷は初めから戦争などしない為に自分が大使として話をしに行くといって一歩も引かない構えを見せた。翌日の再議で西郷派遣が決定し、これに反対した木戸、大久保、大隈重信らは辞表を提出、岩倉も右大臣の辞意を表明した為、三条実美は急病を患い太政大臣代行に岩倉が任命された。西郷と板垣、江藤新平達は岩倉邸を訪問し大使派遣の裁可を求めたが岩倉が了承を拒んだ為、西郷は陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し階位の返上を表明する。天皇が岩倉の意見を取り入れ大使派遣の延期を裁可すると西郷は職を辞し下野する。翌日、西郷に続いて板垣退助、副島種臣、江藤新平らが参議を辞職して下野する。これに同調して征韓派の桐野利秋、篠原国幹、林有造、別府晋介、辺見十郎太など政治家や軍人、官僚合わせて六百余名が次々と辞職する。また、遅れて洋行から帰った村田新八と池上四郎も西郷の下野を聞き、辞表を提出して鹿児島へ帰った。明治六年、下野した西郷は武村の自宅で過ごしたり鰻温泉で休養したりと平和な毎日を過ごしていたが、翌年に佐賀の乱で敗れた江藤新平が訪ねてきた。西郷は江藤を一晩止めて部下を置いて自分だけ逃げてきたことを非難し翌日に指宿まで見送った。(江藤は高知で捕縛され斬首された。)西郷の下野に同調し鹿児島へ帰ってきた元軍人や警吏たち無職の青年が悪い道に入ることを懸念した村田新八や桐野利秋達は西郷に相談し、県令・大山綱良(元誠忠組で久光の命で同志を斬った人物)の協力を得て私学校を作る。篠原国幹が銃隊学校を監督し村田新八が砲隊学校と幼年学校を兼務した。明治八年、西郷は大山県令と交渉し桐野利秋らが指導した吉野開墾社を設立する。明治九年に入り、鹿児島県政は私学校が牛耳るほどの勢力を持ちまるで独立国家のようになった。明治九年に廃刀令が出ると各地の不平士族が反乱を起こした。先ず、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口では前原一誠が萩の乱を起こした。しかし西郷は政府の改革は必要としながらも動こうとはせず事態を静観していた。西郷の考えとは裏腹に明治新政府は維新の原動力となった強力な薩摩藩士族を恐れ、先手を打ってきた。先ず、大警視・川路利良(幕末に西郷によって引き上げられ警察機構を作った)が薩摩出身者の中原尚雄ら二十三名の密偵を送り込み、次いで大久保が薩摩藩士族の力を削ぐ為、鹿児島陸軍火薬庫から武器・弾薬を大坂に運び出そうとした。(この武器・弾薬はもともと薩摩藩所有のもの)これを知った私学校生徒たちは徒党を組んで鹿児島市草牟田にある陸軍火薬庫を襲撃し、この騒動が飛び火して磯の集成館や上ノ原の火薬庫を次々と襲撃して鹿児島は大騒動となった。この時、西郷は大隈半島の小根占へ愛犬ツンを連れて狩猟を楽しんでいたが、末弟の小兵衛が私学校幹部達の使者として西郷を訪問、中原尚雄が西郷刺殺の為に帰郷したことや大久保の挑発に乗って私学校生徒が弾薬庫を襲撃したことを報告した。すぐさま西郷は鹿児島へ帰り、私学校幹部達に問い質したが襲撃に参加した若い私学校生徒達を捕縛して政府に突き出すことは西郷には出来ない。西郷は「おいの命をおはんらに差し上げもんそ」といって政府問責の為の大軍を率いて上京することに同意する。また、中原達巡査とは別に大久保が派遣した野村綱が県庁に自首してきた。野村は大久保から西郷の殺害を命令されたと自供し桐野や村田が激怒したという。募兵、新兵教練が済み大隊編成が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、三番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、総司令に桐野が兼務することになった。また、淵辺群平は本営附護衛隊長として狙撃兵を率いて西郷を護衛し、別府晋介が加治木で別働二大隊の指揮長として組織した。翌日、私学校の練兵所で西郷による正規大隊の閲兵式が行われ一番大隊が熊本に向け進軍する。はじめの軍議において末弟小兵衛が船で鹿児島から出航し東京を目指す案を出したが、桐野が反対し西郷も桐野に同調した為、却下された。西郷は自分が挙兵したと聞けば各地の不平士族がいっせいに政府に反乱を起こし、政府軍は分散されて戦死者をあまり出さずに上京できると甘く考えていたと思われる。しかし、大久保は事前に各地の反乱分子をことごとく捕縛監禁し蜂起の芽を摘んでいた為に反乱は起きなかった。別府晋介の大隊が先に熊本に入り、次々と到着した薩軍は熊本城を包囲した。政府軍の一部が植木に進出してきた為、村田三介、伊東直二の小隊を派遣し伊東隊の岩切正九郎が乃木希典が守っていた政府十四連隊の軍旗を奪い取った。(少年兵だった乃木はこのときの心の傷が後に明治天皇が崩御した際の殉死に繋がったといわれる。)一方熊本城の総攻撃は谷干城ら熊本鎮台兵の守りが堅くなかなか陥ちなかった。その夜、本荘の本営を移し軍議を開き紛糾したが一旦全軍攻城策に決まったが政府軍の正規旅団が南下してきた為、薩軍の一部を小倉に向わせる作戦に変えた。翌日、池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが南下してきた政府軍と衝突し作戦は失敗した。熊本城を池上に任せて、永山が海岸線を抑え、篠原は田原方面に村田、別府が木留、桐野が山鹿に向かい政府軍や鎮台軍と戦った。特に田原坂が激戦で篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死し、田原坂は政府軍に押さえられた。また、上陸してきた政府背面軍に敗れた永山弥一郎は自刃し安政橋口の戦いで池上が敗れて熊本城の包囲を解いて木山まで退却した。浜町で再軍議が開かれ、大隊を中隊に編成し直し、本営を人吉に移し、まもなく宮崎へと本営を移した。桐野は軍の財政を立て直す為にここで大量の西郷札(軍票)を作った。人吉に残った村田新八は薩軍千人を指揮して川内川を挟んで政府軍と戦い一進一退を繰り返した。しかし、都城で政府軍六箇旅団と激戦するも大敗して宮崎へ退却を余儀なくされた。その後、宮崎の戦いでも敗戦が続き(雨の中、政府軍の最新銃器の威力に薩軍の旧式銃器が太刀打ちできなかった。)、鹿児島へ帰った。鹿児島へ入った薩軍は城山を占拠し鹿児島城下の大半を制した。しかし上陸してきた政府軍は城下を制圧して城山包囲網を完成させた。山野田一輔と河野主一郎が西郷助命の為、参軍川村純義のもとに出向き山縣有朋の自決を勧める書簡を持ち帰った。城山総攻撃が始まると西郷、桐野、村田新八、桂久武、別府晋介ら将士四十名が岩崎口に進撃する。桂久武が被弾して斃れると次々と被弾者が増え戦死していった。(政府軍はこの戦いで、外国から購入した新型兵器の実践訓練のように使い、当時最新の小型ミサイルまで使われたという。)島津応吉久能邸門前でとうとう、西郷まで股と腹を被弾し動けなくなる。西郷は別府晋介を傍らに呼び「晋どん、もうここいらでよか」といって遥か東に向って拝礼をし「お上(明治天皇)」とつぶやき切腹のしぐさに入った。別府晋介は「ごめんやったもんせ」(お許しください)と大きく叫んで西郷の首を刎ねた。享年五十一歳・・西郷の死を知らされた明治天皇は「西郷を殺せとはいわなかった」とつぶやいたという。
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敬天愛人 西郷隆盛

鹿児島藩(薩摩)、山口藩(長州)、高知藩(土佐)の藩兵を徴集し御親兵とする旨の命令を受けた西郷は島津忠義を奉じて常備隊四大隊と砲兵四隊の五千名を率いて上京し市ヶ谷の旧尾張藩邸に駐屯した。西郷は再び正三位に叙せられ制度取調会議長として委員の決定権委任の勅許を得た。また、東西に鎮台を置き廃藩置県の実行に反乱が起きた場合の速やかな鎮圧に備えた。西郷は各藩から御親兵を徴集することによって藩の兵力を減らす周到な計画を立て木戸邸で最終会議を開いた。しかしこの期に及んで木戸孝允は「時期が早い、暴動が起きる」とのことで反対の意見を出した為、大久保と衝突、会議は紛糾した。そばで聞いていた西郷は「貴殿らは事務手続きをしてくれればよか・・おいが全責任において反乱者を鎮圧しもす」と一喝する。この西郷の決断力で会議が纏まり廃藩置県が決定した。明治四年、「廃藩置県」が発布され、各藩の藩主、藩士は地位や財産を失うことになった。鹿児島では島津久光が烈火のごとく怒り、磯の別邸で海に幾艘もの船を浮かべて昼夜花火を打ち上げて鬱憤を晴らしたという。しかし、御親兵や東西の鎮台兵が目を光らせ反抗するにも出来ない状態に押さえ込まれていた。こうして西郷の人徳と決断力で一滴の血も流すことなく「廃藩置県」という大革命が成し遂げられた。その後、岩倉具視を全権大使として副士・木戸、大久保など百名もの使節団を率いて渡航する。西郷は留守政府を預かり官制、軍制改革や警察制度の整備を行い、兵部省を廃止して陸軍省と海軍省を置き、御親兵を廃して近衛兵を置いた。また、天皇の関西、中国、四国、九州の巡幸に随行して鹿児島で久光に拝謁し「廃藩置県」の怒りを西郷一身に受け止めたという。(大久保は自分を引き立ててくれた久光には生涯会えなかった)近衛兵の紛議(山縣有朋が山城屋事件で多額の軍事費を使い込み、桐野利秋達が山縣を斬ると騒ぎ立てた)を急ぎ帰京しこれを収めて陸軍元帥兼参議に任命される。一旦、近衛都督を辞任した山縣を西郷は許し、徴兵制の実施に貢献させた。明治元年以来、朝鮮問題が一向に進まないことに懸念した西郷と板垣退助、副島種臣は調査の為に池上四郎、武市正幹らを満州に派遣、その後別府晋介、北村重頼らを花房外務大丞随員として釜山に派遣した。しかし、李朝政府は国書の受取りを拒否しただけではなく、使節を侮辱し公使館員に危害が及んだ為に撤退するか武力で修好条約締結させるかを内閣に議案として提出する。板垣と副島は武力による修好条約締結を主張したのに対し西郷は武力を反対し自分が全権大使として李朝政府を説得すると主張し対立した。数度の話し合いの結果、最終的に西郷の遣韓大使論に賛成し三条実美の同意を得て天皇に上奏した。しかし「岩倉具視の帰国を待って上奏せよ」との勅旨があり、使節団の帰国を待つことになった。
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2008年11月19日

東征大総督府下参謀 西郷隆盛

山岡鉄舟とあった後、西郷は大総督府から江戸総攻撃を三月十五日と決定の命を受け、静岡を出発し江戸池上本門寺に陣を置いた。三月十四日、西郷は芝の田町の薩摩藩邸において嘆願書を携えた勝海舟の訪問を受け、江戸城無血開城について話し合い。西郷は敗者である幕府側の勝に対しても、礼を重んじ丁重に接した。隣室に控えていた村田新八と中村半次郎(桐野利秋)を呼び、明日の総攻撃を中止を伝えた。西郷と勝の話し合いで江戸を戦火から守ることが出来たが、旧幕臣を中心に彰義隊が結成され新政府軍と衝突を起こした。江戸百万の民の生命や財産が戦火に焼かれることを憂慮した西郷と勝は彰義隊に軽挙妄動を慎むように説得するが聞き入れられずにいた。新政府軍(主に長州藩兵)の中で西郷のやり方は手ぬるいとの批判が出て、軍務局判事として京都から大村益次郎(長州藩・村田蔵六)が発言力を増し、上野に集結した彰義隊三千名に総攻撃を加えた。西郷は一部隊長として最も激戦区の黒門口の攻撃の指揮をとった。大村の作戦で上野の彰義隊は僅か半日で討伐されたので江戸の後事を大村に任せて西郷は京に向った。京都に着いた西郷は薩摩藩主・島津忠義とともに鹿児島へ帰り、日当山温泉で湯治した。北陸方面で奥羽越列藩同盟が結成され新政府軍の戦況が思わしくないので西郷の出馬要請が入る。兵を整えて再度出陣、新潟の柏崎港に到着したが越後の長岡藩が家老・河井継之助の指揮で果敢に戦い、新政府軍に多数の犠牲者が出た。(この戦いで西郷の次弟・吉二郎が死去)その後、西郷は米沢、会津を経て庄内藩の鶴岡に到着、出羽庄内藩は江戸薩摩藩邸焼討ちの中心的役割を果たした藩でこの北陸戦争でも勇猛果敢に戦い連戦連勝を続けていた。しかし、同盟の諸藩が次々と降伏する中援軍のキタイが出来ず庄内藩主・酒井忠篤は重役達と協議し降伏恭順を決意する。だが、庄内藩は江戸の藩邸焼討ちの件で薩摩藩に恨みを買っていた為、降伏した際に過酷な降伏条件を出されることを覚悟していた。降伏の申し出を受け取った新政府軍の庄内方面司令官黒田清隆(了介)は西郷隆盛に相談し他藩と比べてもかなり寛大な処分とした。この西郷の寛大な処置に感激した酒井忠篤以下庄内藩はいたく感激し交流を深めたという。庄内藩の処置を済ませた西郷は鹿児島へ帰国し日当山温泉で再び湯治に入る。明治二年、藩主・忠義自ら湯治先に赴いて西郷に藩政改革を要請し鹿児島へ連れ帰った。西郷は参政・一代寄合となり藩政改革や兵制整備を行い、戊辰戦争に功のあった下級武士の不満解消に尽力した。その後、函館戦争の応援依頼があり、西郷は薩兵を率いて出帆、しかし函館についた頃にはすでに五稜郭は開城し戊辰戦争は完全に終了していた。東京に入った西郷は戊辰戦争の功により永世賞典禄二千石を下賜され、新政府に出仕するよう要請が下るがこれを辞退し鹿児島へ帰国する。その後、参政を辞職し執務役になっていたが太政官から鹿児島藩大参事に任命される。明治三年、折角徳川幕府から政権を奪い新政府を樹立したにもかかわらず、維新の功労者達の賞典禄問題などに不平不満を募らせる士族や汚職や華美に溺れ政治を省みない高官達が国を乱した。この状態に薩摩藩士・横山安武(森有礼の実兄)が諫言書を太政官正門に投じて切腹する事態となった。この件で人身が新政府から離れることを憂慮した西郷は薩摩藩士が中央の悪弊に染まることを憂いて腹心の池上四郎を派遣して心ある薩摩藩士を鹿児島へ帰らせた。このような混迷した事態を打開する為に政治改革が必要と考えた新政府は人々に絶大な人気と尚且つ決断力を持つ西郷でなければ成し遂げれないと判断し勅使・岩倉具視と副使・大久保利通を鹿児島へ派遣し西郷の説得に当たらせた。西郷との交渉は難航したが、欧州視察から帰国した西郷の弟・信吾従道が説得しようやく上京を承諾した。明治四年、西郷と大久保は池上四郎を伴って鹿児島を出帆、山口で木戸孝允(桂小五郎)と会談し三田尻を出航して土佐へ向う。高知に着いた西郷・大久保・池上・木戸の四人は藩知事の山内豊範と板垣退助と会い、板垣とともに大坂に行く、大坂で山縣有朋と会談し一同揃って東京へ向った。東京での会談で「新政府には各藩の藩兵がいるが強力な政府軍がいないことには思い切った改革が出来ない」と御親兵の設立を決める。
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2008年11月17日

維新最大の功労者3 西郷隆盛

第二次長州征伐敗戦で幕府の権威は失墜し次期将軍継承問題で徳川慶喜が十五代将軍となった。西郷吉之助は鹿児島で大目付、陸軍掛、家老座出席に任命された慶応三年に藩父・久光を奉じ藩兵七百名を率いて上洛した。西郷は薩摩藩邸と土佐藩邸で開催される四候会議の下準備にかかった。その後、改めて薩長同盟の誓約をし、なかなか動かない徳川慶喜を挑発する為に江戸に益満休之助や相楽総三を派遣して破壊工作をさせた。また、鹿児島より久光の三男・島津珍彦が一千名の兵を率いて大坂へ到着して着々と倒幕の準備が整った。しかし、土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬の提案で大政奉還の建白書を将軍慶喜に提出し薩摩藩に挙兵を中止するように要請する。徳川慶喜は大政奉還の上奏を朝廷に提出した同じ時期に倒幕と会津・桑名両藩の討伐の密勅が下る。慶応三年、王政復古の大号令が発布され幕府や摂政、関白が廃止されて総裁、議定、参与の三職を設置して国政を運営する新政府が発足する。しかし、王政復古は形式だけで依然幕府は広大な領地と軍事力を持っていた。西郷は何としても幕府の権力を奪わなくては新政府の樹立はありえないと考え御所内の小御所に諸藩の藩主や公家達を集めて「小御所会議」を提案し開かれることになった。この会議で岩倉具視は幕府に対し「辞官・納地(官職を辞し領地を返上させる)」を決定しようとした。しかし、前土佐藩主の山内容堂が強行に反対し福井藩主・松平春嶽らも賛同した為、会議は紛糾し一旦休憩となった。その時、西郷は小御所会議を大久保利通らに任せ、自分は薩摩兵を率いて御所周辺の警備の指揮をしていた。そこへ策尽きた岩倉具視や大久保利通、岩下佐次衛門らが助言を求めに来た。西郷は「短刀一本で用は足りもす。」と言い放ったという。この言葉を伝え聞いた土佐藩士・後藤象二郎は山内容堂にこれ以上幕府を庇えば土佐藩まで朝敵になりかねないと進言し、以後会議はまとまったという。一方、幕府軍を率いて京都二条城に入っていた徳川慶喜は松平春嶽から小御所会議の結果を知らされ「このまま京に軍勢を置いては危険」であると考え、すぐさま大坂城へ兵を引いた。しかし、江戸では西郷の指示で破壊工作を行っていた益満休之助らの挑発に乗った庄内藩を中心とした幕府兵が薩摩藩邸を焼討ちする事件が勃発しこの情報が大坂城の幕府軍に伝わった。辞官・納地の決定で薩摩討つべしとの論に火が付いた。はじめは慶喜も朝廷を後ろ盾にした薩長と争うのをためらっていたが、幕府軍一万五千の士気が上がるのを見て、薩長軍三千の兵に勝てると考え、明治元年に「討薩の表」を掲げて進撃を開始し鳥羽・伏見で激突、西郷は東寺の本営で戦況を見守った。はじめは最新銃器を駆使した薩長軍が有利に戦っていたが、軍勢の数が圧倒的に多い幕府軍が盛り返し一進一退を繰り返した。しかし突如、薩長の新政府軍が「錦の御旗」を翻し朝廷の正規軍となった為、幕府軍は朝敵になることを恐れ戦意を喪失し総退却を余儀なくされた。大阪城に帰った幕府軍は将軍・徳川慶喜に直々の出陣し無傷の兵一万を率いて再度新政府軍に戦いを挑むように求めた。慶喜は「明日、出陣する」と諸兵士に宣言しておきながら、その夜の内に老中・板倉勝静、松平容保ら数名の側近とともに幕府軍艦に乗って江戸へと逃げ帰った。翌朝、主の居ないことに驚いた幕府軍は大混乱となり各自ばらばらで江戸へ退却する。鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任命し、東海道、東山道、北陸道に分かれて江戸を目指し進軍を開始する。細動は「東征大総督府下参謀」として東海道を通って江戸を目指した。静岡の駿府に入った頃、幕臣・山岡鉄舟が勝海舟の手紙を携えて面会を求めて来た。西郷は山岡に徳川処分七カ条を示した。それを見た山岡は唯一つ「徳川慶喜を備前藩に預ける」という項目に涙を流して抗議した。「もし、西郷殿が私の立場なら主君を敵城に預ける事を了承できますでしょうか」と詰め寄ったという。人情家の西郷は「分かりもした、慶喜公のことはおいどんが責任を持ちもんそう」と理解を示し、山岡は涙を流して感謝したという。
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維新最大の功労者その2 西郷隆盛

沖永良部島へ流された西郷は当初、吹曝しの舟牢に昼夜二名の監視を付けられ、健康を害し痩せ衰えていたが、間切横目の土持政照の配慮で座敷牢が作られ健康を取り戻す。その後、西郷と同じ郷中の後輩が島詰として来島し、より生活が改善され島の子供相手に塾を開いた。また、本土や大島在番の桂久武や沖縄在番の米良助右衛門や真木和泉との情報交換も行っていた。その頃、鹿児島湾に集結したイギリス艦隊7隻が生麦事件の報復の為、砲撃し薩英戦争が勃発したことを聞き、西郷は無断帰藩を決意するが土持らの説得で自重する。結果は薩摩側に六名の戦死者を出したが、イギリス側は十三名の戦死者を出し、旗艦ユーリアラス号の艦長が戦死する損害を与えた。しかし鹿児島城下は戦火に焼かれ外国の強大な力を思い知らされた薩摩藩は以後、親イギリス政策を取りぐんかんのや火器の購入を始める。一方、京都では長州藩の急進派が勢いをつけ尊王攘夷の名の下にテロを繰り返し急進派の公卿と結託し治安を乱していた。幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任命し、治安の安定に努めたがどうにも行かず、薩摩藩の協力を求めた。(薩摩藩島津久光は自分が公武合体を成功させたのに京都で倒幕運動を始めた長州藩を憎く思い会津藩と利害関係が一致)八月十八日の政変で長州藩と三条実美ら急進派の公卿を京都から追放する。しかし、このことが逆に尊皇派と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟を結ぶことによりの評判を落とすことになった。行き詰った薩摩藩内で西郷赦免論が沸きあがり、寺田屋事件の生き残りの三島源兵衛や柴山竜五郎らが中心となって久光側近の大久保利通や小松帯刀に西郷赦免を久光に願い出てくれるように頼むが久光の西郷嫌いを熟知していた二人は首を縦に振らない。困り果てた柴山達は久光のお気に入りの高崎左太郎と五六の両名を熱心に口説き、薩摩藩の将来を見据え久光に「西郷赦免」を直訴し、「もし聞き入れてくれなくばこの場にて切腹つかまつる」と懇願し久光は苦々しい表情を浮かべながら赦免を許したという。元治元年、西郷従道や吉井友実が胡蝶丸に乗って西郷を沖永良部島へ向いに行った。途中、西郷は独断で喜界島に投獄されていた腹心・村田新八を救い出して帰藩、早速京都に呼び出された西郷は久光より「軍賦役兼諸藩応接掛」を命じられ薩摩藩兵の司令官に任命される。先ず、西郷は薩摩藩の悪評を打開する為、親幕派の会津藩と同盟を解消し、薩会同盟を締結した人々を鹿児島へ帰国させ薩摩藩の信頼回復に努めた。その後、長州藩尊攘派や土佐藩士が京都池田屋に潜伏しているところを新撰組が襲撃し七名の死者を出した池田屋事件に激昂した長州藩は藩兵を率いて京都周辺の伏見や嵯峨、山崎に陣を構え洛内に攻め込む準備をした。徳川慶喜はこの事態に憂慮し薩摩藩に出兵を依頼したが、西郷と小松帯刀は協議の上「これは会津藩と長州藩の私闘である」と出兵を拒否し御所のみ警護する方針に出た。しかし、長州藩の攻撃は凄まじく会津兵を蹴散らし御所の蛤御門に戦火が迫ったので西郷は自ら薩摩藩兵を率いて出陣し激戦の末、長州勢を退けた。この蛤御門の戦いで薩摩藩西郷吉之助の名は京都中に広まったという。また、西郷は今大坂に勝海舟なる人物が来ているので是非、会ってみてはと進言される。西郷は噂に聞く幕臣・勝海舟に興味を示し、人を介して面談を申し込み、海舟も快く受ける。勝と幕府の内情や現在の日本の情勢をざっくばらんに話し合った。その後、幕府は蛤御門の変に勝利したことに自身を持ち長州征伐に乗り出した。幕府は尾張藩主・徳川慶勝を征長軍総督に任じ、在京諸藩に出兵命令を出す。薩摩藩西郷に征長軍参謀を命じる。徳川慶勝は西郷に意見を求めたところ、西郷はこの内戦の無意味なことを力説し長州処分の全権を一任される。西郷は先ず、長州藩の支藩・岩国藩主・吉川監物と会い禁門の変の責任者の長州藩三家老の切腹、四参謀の処罰をし恭順の態度を見せること、八月十八日の政変の七卿を他藩に移すことを条件に征長軍の解散を約束する。しかし、尊王攘夷を掲げる長州藩の奇兵隊ら諸隊は七卿を長州から出すことに反対し徹底抗戦を主張する。困った西郷は諸隊士説得の為、単身敵陣に乗り込むことを決意し、命がけでいきり立つ長州藩諸隊の幹部と直談判した「世界の情勢を考え、今内戦している場合ではない」と熱心に説得し七卿を福岡藩に移させ、征長軍は解散し長州征伐は一旦終結した。しかしこの処断を手ぬるいと見た幕閣達は第二次長州征伐の準備をするよう諸藩に命じる。恭順を示している長州藩に攻めかかるような愚行を憤った西郷は「幕府と長州藩の私闘に兵を出すことは出来ない」と拒否する書簡を送る。土佐藩の中岡慎太郎らはこの愚挙から長州藩を守る為、薩摩藩と長州藩が協力するように働きかけるが進まない。(禁門の変で多数の死傷者を出した長州藩は薩摩藩を恨んでいたため)困った中岡慎太郎は坂本龍馬に協力を求め、京都で坂本は薩摩藩家老の小松帯刀と会談し坂本の設立した亀山社中を仲介として薩摩藩名義で軍艦や火器を購入し長州藩は薩摩が不足している米や食料を売ることから始めることを提案し了承を得る。その後、坂本の立会いの下京都の小松帯刀の邸宅で長州藩士・桂小五郎と西郷が薩長同盟を締結した。そして、西郷は第一次長州征伐の報告の為鹿児島へ帰っていたが、慶応元年に親戚の勧めで家老座書役岩山八太郎直温の次女イトと再婚する。(最初の妻は西郷が江戸へ行っている間に大家族の貧窮に耐えかねて実家に戻ってしまい、二人目の愛加那は島妻女の為に鹿児島へ連れ帰ることが出来なかった。)その後、とうとう第二次長州征伐が開始されたが、長州と薩摩の同盟締結を知らない幕府軍は長州藩が購入した新式小銃や最新の重火器により撃退され敗走するに至った。また、大阪城に入っていた十四代将軍家茂が急な病の為、死去するにおよび幕軍は撤退し敗戦が決定的になった。
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2008年11月11日

維新最大の功労者 西郷隆盛

topsyasin.jpg西郷隆盛は文政三年、鹿児島市街を流れる甲突川に添った下鍛冶屋町山之口馬場に父・御小姓与西郷吉兵衛隆盛と母・満佐の長男として生まれた。幼名は吉之助といい次弟に戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎、三弟に明治政府の重鎮・信吾従道、四弟に西南戦争で戦死した小兵衛、親戚に大山巌(弥助)や川村純義がいる。写真嫌いの吉之助は生涯にわたって肖像画や写真を残さなかったという。言い伝えによると少年の頃から体が大きく、黒曜石のように澄んだ瞳を持っていたという。後年、吉之助と出会った英国外交官アーネスト・サトウは「彼は微笑むと何ともいえぬ魅力的な表情になった」と記している。正義感が強く争いを好まない温和な性格で口数も少ない男だった。少年の頃、郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人が喧嘩となり、仲裁に入った吉之助は相手の刀で右腕の神経を斬られて刀が握れなくなった。以後、吉之助は剣術の修行を諦めて学問に力を入れる。弘化二年、吉之助隆盛は十八歳で郡奉行の迫田太次右衛門の配下となり郡方書役助になった。迫田は不作の時に年貢減免を上申して、奉行職を退いた人物であった。吉之助はこの優れた人物の影響を受けたといわれている。また、吉之助が最も尊敬したという赤山靭負(薩摩藩の重役で島津斉彬を藩主に望む一派)が高崎崩れ(お由良騒動)で切腹、赤山の希望で親交のあった吉之助の父・吉兵衛が介錯しその時の血染めの肌着を吉之助に贈った。吉之助は以後、斉彬の藩主襲封を願い、お由良の子・久光を憎むようになったという。吉之助は福昌寺の無参和尚に禅を学び、赤山靭負の意思を継ぎ、郷中仲間の大久保利通や吉井友実、伊地知正治、有村俊斎兄弟を誘って「近思禄」の輪読会を作った。(これが後の誠忠組となった。)嘉永五年、父母の強い勧めで伊集院兼寛の姉・敏子と結婚したが、祖父、父、母が相次いで死去し一家の生活は吉之助ひとりが背負うことになる。吉之助がリーダーとなって郷中仲間の若き二才(にせ)達が誠忠組を作り、薩摩藩の若手改革集団となる。新藩主の斉彬に農政のあり方、高崎崩れで処罰された方々の救済の建白書を提出しこれが斉彬の目に留まった。(これは吉之助が郡方の上役・迫田太次右衛門の持論の農民は国の根幹という思想に感銘を受け書いたもの)安政元年、斉彬の参勤交代の随行を許され、郡方書役助から中御小姓、江戸詰を命じられる。吉之助の素質を見抜いていた斉彬は薩摩藩邸の御庭方役として常に斉彬の側で日本の政治情勢や諸外国の事情や状況の教育を受けた。(通常、身分制度の厳しい時代に吉之助のような身分の低い者は拝謁すら出来ないので、自由に庭先に出入りが出来る庭方役に就けた)西郷は斉彬の身分を越えた優しい態度に接し、斉彬を神とも思えるほど崇拝したという。斉彬の薫陶を受けながら水戸藩の藤田東湖や戸田蓬軒、越前福井藩の橋本左内らと交流するようになり、次第に西郷吉之助の名も諸藩の間で知れるようになった。西郷は斉彬より将軍家定へ嫁ぐ篤姫の婚礼仕度全般を任され、篤姫の力で大奥を動かし次期将軍に一橋慶喜を擁立し公武親和によって幕府を磐石にして開国し、諸外国に対処しようという斉彬の考えでその手足となり奔走していた。安政四年、西郷は大久保利通とともに徒目付に任ぜられ、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉の購入斡旋を行い助ける。以後、下関の白石正一郎邸は薩摩藩の参勤交代時の宿泊所とし、薩摩藩の討幕派や長州藩の討幕派の交流の場所となる。西郷は安政五年、島津斉彬の密書を携えて江戸へ赴き、越前藩主・松平慶永と面会し、橋本左内と将軍継承問題で一橋慶喜を擁立することで意見交換をする。その後、将軍正室の篤姫の書簡を携えて京都の近衛忠煕を訪ね、勤皇僧・月照らの協力を得て慶喜継嗣の内勅降下を画策するが失敗に終わる。紀伊和歌山藩の徳川慶福と次期将軍に推す一派が大奥の後ろ盾を得て、彦根藩主・井伊直弼を大老に立て巻き返しを図る。(大奥の経費削減を唱える前水戸藩主斉昭を憎み、その子の慶喜が次期将軍に就くことを嫌った為)大老に就任した井伊直弼は独断で日米修好通商条約に調印し、次期将軍は紀州和歌山藩の徳川慶福に決定した。これに抗議し不時登城した水戸の斉昭や松平慶永に謹慎、隠居を一橋慶喜に登城禁止を言い渡し反対派の弾圧(安政の大獄)が始まる。島津斉彬は鹿児島で薩軍による大軍事調練を行った。薩摩兵を率いて東上し幕府に圧力をかけようとしてが、高熱で倒れそのまま急逝してしまう。西郷は京都で梁川星巌らと情報交換していたが、斉彬の訃報を聞き殉死しようとするが、月照らの説得により思い止まり斉彬の遺志を継ぐ為に奔走するが、井伊直弼の恐怖政治が激化し、薩摩藩と朝廷の橋渡し役だった月照にも幕吏の追求が及んだ。近衛家より月照の身を守るように依頼された西郷は薩摩で匿うことにし、有村俊斎らに月照を託し、準備の為一足先に帰藩する。しかし、薩摩藩は斉彬公亡き後異母弟の久光が藩父として実権を握り、前藩主・斉彬公の政策を悉く排除していた。西郷はいかに月照が薩摩藩の為に働いてきたかを説明し、匿うように説得したが藩の方針は変わらず、幕府を恐れて月照を日向に追放するよう西郷に命令する。しかし、愛情深く義理堅い西郷はそんな命令を聞くことが出来ず、藩との板ばさみに苦しみ月照に打ち明ける。二人は相談し、寒中の海へ飛び込む。同行していた越前浪人・平野國臣があわてて引き上げたが、月照はもうすでに息絶え西郷も息はなかった。しかし、西郷は蘇生して奄美大島行きを命じられる。(これは島流しではなく幕吏の目を欺く為に隠した)奄美大島へ渡った西郷はサトウキビが不作の年で農民は厳しい取立てに苦しんでいた。年貢の納められない農民には激しい拷問が行われていることを聞いた西郷は在番役人・相良角兵衛に掛け合って拷問をやめるように説得する。はじめは西郷の巨漢を見て怯えていた島民達も病人や貧乏人に自分の扶持米を分け与える西郷を慕うようになる。また、西郷は島一番の名家・龍家一族の佐栄志の娘とま(後に愛加那)と結婚し長男・菊次郎が誕生、幸せな生活を送る。三年間の島生活の間、江戸では「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜し朝廷の権威を借りて幕府を強化し国難に当たろうとする案が浮上する。この案を真っ先に提唱したのが、長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」で公武合体の必要性を説いた。この説が京都で一大旋風を巻き起こし外様大名である長州藩が幕府と朝廷間で大いに活躍するのを見た島津藩父・久光は自分も遅れじと「公武合体」を提唱し前藩主・斉彬が行った天保山軍事調練を実施し、藩兵を率いて上洛することを決める。しかし、斉彬亡き後、島津藩では幕府や朝廷での信頼はなく、名前が知られていない久光ではどうすることも出来なかった。久光に取り入り側近になっていた大久保利通(一蔵)は一計を案じ、斉彬の右腕として諸藩の信頼のある西郷を奄美大島より呼び戻すことを提案する。早速、久光は奄美大島に召喚状を出し、西郷を呼び戻す。西郷は文久三年、召喚状を受け取ると名を大島三右衛門と変え帰藩、久光の前へ召し出された。久光上洛の話を聞いた西郷は久光が無官であることや先君斉彬ほどの知名度がないことを理由に反対し久光を「じごろ」(田舎者)とまで言って不興を買う。一旦同行を断ったが大久保の説得を受け承諾し肥後の情勢を視察し下関で久光の到着を待つよう命を受ける。しかし西郷は下関の白石正一郎邸で平野國臣から京都の不穏な動きを聞き命令を破って京都に向う。(島津久光が藩兵を率いて上洛し武力討伐に動いたと勘違いした誠忠組急進派達を鎮めるため)しかし、下関に着いた久光は西郷が自分の命令を無視したことに激怒し捕縛命令を出す。兵庫の須磨の浜で捕縛命令を聞いた西郷は大久保と今後の打ち合わせをしたうえで謹慎、鹿児島へ護送され西郷と行動をともにした村田新八とともに流刑に処せられる。西郷が鹿児島へ送還され統率者がいなくなった京都や大坂の浪士や誠忠組急進派の有馬新七らは久光入京に合わせて倒幕の先鋒に立とうと伏見の船宿「寺田屋」に集結した。(西郷の三弟信吾従道や大山巌もいた)との行動を知った久光は激怒し同じ誠忠組の剣の達人大山格之助綱良や奈良原喜八郎ら九名の鎮撫の士を派遣し君命に叛けば斬れと命じた。壮絶な斬り合いの末急進派は有馬新七ら六名が死亡、二名が重傷者を出し従道や巌ら二十数名は説得を聞き入れ藩邸へ出頭した。一方、西郷は鹿児島へ送還後徳之島へ遠島、すぐに沖永良部島へと送られ四方囲いの牢獄に入れられ風雨に曝された過酷な扱いを受ける。西郷入獄中、京都では久光は薩摩藩急進派を殲滅したことで皮肉にも朝廷の信頼を得て幕政改革の勅許を受け勅使の大原重徳を護衛し江戸へ入る。無事、大原は将軍家茂に対面し勅旨を伝え目的を達した久光一行は江戸を後にする。その帰途、横浜郊外の生麦村にてイギリス人男女が馬で行列を横切ってしまった為、供をしていた奈良原喜八郎が「無礼者」と抜刀しイギリス人の一人チャールズ・リチャードソンを斬り殺してしまう。この生麦事件でイギリス艦隊が薩摩藩に報復するとの噂が広まり、久光は急遽帰国することになった。
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2008年10月05日

坂本竜馬が一番にあげた人格者 小松帯刀

komatsu_tatewaki01.gif小松帯刀・本名小松清廉は天保六年、薩摩国下原良村のて喜入領主・肝付兼善の三男として生まれる。幼名・肝付尚五郎は篤姫(一子かつこ)や篤姫の兄・島津忠敬と共に指宿・吉利領主の小松清猷に学問を習ったという。またこの頃から西郷隆盛や大久保利通ら下級武士からなる誠忠組と交流した。安政三年、小松清猷が琉球に出張中に客死してしまったので尚五郎を跡目養子とし養女に出していた小松清猷の妹で七歳年上のちかを妻として小松家を継ぎ、小松帯刀清廉と改名。長崎で西洋の電気、水雷などを学び文久元年に帰藩、島津久光にその才能を認められ御側役となり藩政改革に取り組む。産業や通商を盛んに行い琉球や清国との貿易を財政を豊かにし軍事力の拡大、薩摩藩の活性化に貢献した。文久二年に藩父・久光が上洛に随行、京都では朝廷や幕府との連絡・交渉役を務め、勝海舟の紹介で坂本龍馬と昵懇になる。京都の小松屋敷にて長州藩士・桂小五郎と薩長同盟について話し合う。また坂本龍馬がお龍を娶った時の世話役を務めたり、亀山社中の設立に援助をした。薩摩に妻・ちかを置いたまま京都屋敷にて祇園の芸妓お琴と側室として暮らし始め庶子清直が生まれる。慶応三年、小松家ではちかに子が無く、ちかの甥で町田家から清緝が養子に入っていた。帯刀は薩土同盟や倒幕の密勅などで大きな功績を果たし、将軍徳川慶喜の大政奉還には薩摩藩の代表として二条城に参上した。その後、西郷や大久保と共に薩摩に帰り藩主・島津忠義に卒兵上洛を願い出た。藩主上洛のとき随行を命じられたが帯刀は体調を崩し断念し後事を西郷・大久保に託す。明治維新後はその卓越した交渉能力が高く評価され参与兼総裁局顧問や外国事務掛、外国事務局なども兼務しフランス政府が莫大な旧幕府の借金の返済を迫りもし返さなければ横須賀造船所を差し押さえると主張したとき、小松帯刀はイギリスから資金を借り無事返済し窮地を脱した。また小松帯刀は維新功労の賞典禄を賜ると、朝廷にの厚恩に謝しながら「病欠の多い自分にこのような賞典禄は申し訳ない」と謙虚に二度も辞退し版籍奉還には率先して小松家の領地・家格を国に返上した。明治二年、病のため官を辞し、大坂のオランダ人医師ボードウィンの治療に専念するが、翌年三十六才の若さで死去する。小松家は養子の小松清緝が相続し、帯刀の長男清直はちかが養育、愛妾琴子は長女と共に帯刀の親友五代友厚邸で余生を送った。小松家当主となった清緝は僅か二年で清直に当主の座を譲り家を出たという。また、ちかの計らいで琴子も死後、吉利の小松家の墓に入った。英国外交官アーネスト・サトウは日記に「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情に厚く、人々に傑出していた」と書き残している。
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2008年09月25日

純粋・真っ正直に生きた漢 有馬新七

sin7.jpg有馬新七は文久八年、薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。NHK大河ドラマ「篤姫」で的場浩司が演じている。父・坂木四郎兵衛が薩摩藩城下士の有馬家へ養子に入り新七も有馬姓を名乗る。元服する頃から新陰流を習い、天保十四年に江戸へ出て遊学、山崎闇斎の朱子学である崎門学を山口菅山に学ぶ。一旦、薩摩に帰った新七は安政四年に江戸詰藩士の教育機関である糾合方として赴任、梅田雲浜や清河八郎などの志士と交わる。清河は有馬を「清濁のうち濁は絶対に飲めない性格で、駕籠に乗るにしても、乗った瞬間から駕籠賃を手の中に握りしめているような男」と評している。翌年水戸藩士達と井伊直弼暗殺計画を立てるが薩摩藩父・島津久光の突出は許さずの命で挫折帰藩する。誠忠組の脱藩挙兵計画にも積極的に参加したが、藩父・久光の説得で中止となった。文久二年、島津久光が亡兄で前藩主の斉彬の志を継ぐため、兵を率いて鹿児島を出発、誠忠組はその随行に加えられることになった。有馬はこの行動が倒幕の為の挙兵と思い、一足先に出立し、久留米の真木和泉や宮部鼎蔵などの志士と共に久光の到着を待った。しかしこの行動を知った久光は激怒し伏見の寺田屋に終結していた有馬新七ら薩摩藩士を捕縛するため同じ誠忠組の藩士を差し向けた。話し合いがこじれ壮絶な斬り合いとなり道島五郎兵衛と斬り結んだ新七は刀が折れ組み打ちとなった。助太刀に入ろうとした橋口吉之丞に「おいごと刺せ」と命じた。二人は橋口の刀で壁に串刺しとなり絶命。純粋に生きた男の壮絶な最期であった。享年三十八歳・・後、遠島より戻された西郷隆盛は有馬新七の墓の前で男泣きに泣いたという。
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2008年09月24日

西郷隆盛と運命を共にした男 村田新八

Shinpachi_Murata.jpg村田新八は天保七年に鹿児島城下の上加治屋町高見馬場で高橋八郎の三男として生まれた。幼くして村田十蔵経典の養子となり村田経満と改名、通称新八と名乗る。加治屋町郷中の二才組西郷隆盛に可愛がられ、西郷を兄と慕う。文久二年、島津久光が上洛することになりその先発として西郷と共に出立、有馬新七ら誠忠組の京都挙兵(寺田屋事件)の突出を聞き、久光の命令を無視して京都へ向かった。突出を抑えようとした行動だったが久光から騒動を扇動したかのように疑われ、呼び戻され喜界島へ遠島になる。(西郷は徳之島、後沖永良部島)元治元年、西郷が赦免され帰藩する際、独断で喜界島から村田を救出、以後生涯のほとんどを西郷と行動を共にする。慶応二年、薩長同盟にも関わった。また、長州の伊藤博文らと上海を訪問したり、薩土盟約の事情を記した西郷の書簡を持って長州藩を訪問、馬関にて坂本竜馬と会談、毛利公にも拝謁した。鳥羽・伏見の戦いでは御台所御門の警備や淀の戦い、大阪城受取りに出陣、姫路進撃にも参加したが、途中姫路が降伏した為引き返した。東山道軍東上の編成で城下二番隊隊長に任命されたが、常に西郷の側にいたので辺見十郎太が代理隊長を務めた。東征大総督府の参謀となった西郷の指揮で先鋒隊二番小隊長として出撃(一番小隊長は中村半次郎)、要衝箱根を占領、静岡に戻って幕臣山岡鉄舟との会談、江戸で勝海舟と江戸城無血開城をめぐっての会談にも随従、西郷の身辺警護を任された。明治四年、西郷の推挙により宮内大丞に任命、岩倉使節団の一員として欧米を視察、明治七年帰国すると岩倉使節団と西郷が征韓論をめぐって対立、村田は一人西郷側に付き下野する。西郷が鹿児島へ帰郷すると大久保の誘いを振り切って鹿児島へ帰った。私学校設立に協力し自ら砲隊学校を主宰する。明治十年、私学生弾薬庫襲撃や西郷刺殺計画などを対処する大評定が開かれたが村田は積極的発言を避け、出兵に二番大隊指揮長として出撃、西南戦争が始まる。村田は高瀬川決戦で活躍するも形勢が不利になり敗走、田原坂でも敗戦する。城山を占拠したが政府軍が総攻撃、西郷が被弾、島津応吉久能邸門前にて西郷が別府晋介の介錯で切腹、村田はひざまずいてそれを見届けた後、岩崎口に籠もって交戦したが最後は被弾し死亡。享年四十二歳・・西郷が最も信頼した男であった。重要懸案を西郷に持ち込んだところ、先ず村田に見せたかとたずねたという。
余談だが、民謡(雨がふるふる人馬は濡れる・・の「田原坂」)の「右手(めで)に血刀、左手(ゆんで)に手綱、馬上豊かな美少年」と歌われた主人公が村田岩熊(村田新八の長男)といわれている。次男も西南戦争に出陣し共に戦死している。
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2008年09月23日

近藤勇を救おうとした男 有馬藤太

有馬藤太は天保八年に鹿児島城下に薩摩藩砲術師範・有馬藤太(同名)の長男として生まれる。小野郷右衛門の飛太刀流を習い師範代を勤める実力を持ち抜刀術の達人といわれている。薩摩藩の山本勘介と評判の名参謀・伊地知正治に引き立てらる。慶応四年の戊辰戦争で東山道総督府の斥候を命じられ香川敬三隊に従軍し宇都宮へ向かう。途中、流山で旧幕府軍は駐屯しているとの情報で出陣し甲陽鎮撫隊(新撰組)ほ陣屋を包囲、降伏してきた局長・近藤勇を馬にのせて粕壁(現・春日部)の本営から板橋の本営まで護送した。この時、近藤の潔い態度に感銘し上司である参謀・伊地知正治に向けて手紙をつけ、自分が戻るまで近藤の処分を保留し、相応の待遇を頼んだ。有馬藤太はそのまま進軍し結城城奪還や板倉勝静捕縛などの活躍を見せる。しかし藤太の留守中に功を焦った土佐藩の谷干城が近藤を斬首し首を京都に送ってしまった。藤太はこれを非常に悔やみ「近藤は敵であったが徳川にとっては忠臣。朝廷に牙を剥く男でもなかった。」と土佐藩を厳しく罵ったという。その後、香川敬三隊に復帰し壬生城の戦いで獅子奮迅の働きをするが、全身数箇所に銃弾を浴び重傷を負い横浜の病院に送られる。明治新政府では功績を認められ弾正台、司法省官吏で出仕したが、征韓論で下野した西郷隆盛に従って野に下り銀座煉瓦街で代言屋(弁護士)をはじめる。明治十年の西南戦争直前に桐野利秋に手紙を送り、私学校沸騰の統制を求めたが西南戦争が勃発すると大阪にて有志を募り挙兵して西郷軍に加わろうとするが事前に情報が漏れ捕縛され、投獄される。一年後に出獄し、民間企業に就職するが、満州にわたって虎公園の管理人などをする。晩年、東京に戻り世田谷にて他界。享年八十八歳
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幕末四大人斬りのひとり 田中新兵衛

田中新兵衛は天保三年、鹿児島の薬種商の子として生まれたといわれている。一説には大商人森山新蔵に見込まれその紹介で島津一門の島津織部家臣として士分に取り立てられたらしい。剣の達人の腕前で薬丸自顕流といわれている。薩摩藩有志(後の誠忠組)突出騒動の時、有馬新七や森山新蔵に依頼され脱藩の為の船を調達したが、小松帯刀の奔走や島津久光の説得により計画が中止となる。文久二年、藩父・島津久光は前藩主の兄斉彬の意思であった公武合体の実現するため藩兵を率いて上洛することになった。新兵衛は身分が低すぎて随行できず自費で京都を目指した。やっとの思いで京都に到着した新兵衛が見たものは突出を許さなかった久光の命で寺田屋で散った中間たちの屍だった。絶望した新兵衛は京都において暗殺という手段を取り始める。まず、安政の大獄の実行者で九条家諸太夫の島田左近をを加茂河原まで追い詰めて惨殺、首を先斗町の川岸に斬奸状とともに晒した。島田左近は九条家の威光を利用し京都では「今太閤」といわれるほどの実力者であったので「天誅暗殺(テロ)」は評判となり京都における暗殺テロの先駆けとなった。その後、土佐勤皇党の武市半平太(瑞山)と知り合い義兄弟の契りを交わす。武市よりもう一人の「人斬り」岡田以蔵と紹介される。武市に本間精一郎が危険人物であると吹き込まれた新兵衛は岡田以蔵とともに本間精一郎を襲撃、袈裟懸けに斬り捨てた。その他、渡辺金三郎や大河原重蔵など幾多の殺戮を繰り返した。文久三年五月の夜半、謎の多い事件が起きた。勤皇派の姉小路公知が朔平門で襲撃され斬られてしまった。現場には田中新兵衛の差料「薩摩鍛冶奥和泉守忠重」が残されていたが、新兵衛は当時武市半平太の影響下にあり、勤皇派の姉小路公知は同志であったので殺す理由がなかった。しかし取り調べに憤慨した新兵衛は証拠の刀を手渡されるとこの刀で切腹、かえす切っ先をのどに突き刺して絶命したので真相はいまだに解っていない。しかしこの事件で薩摩藩は乾門の警護をはずされ、九門内の立ち入りを差し止められた。
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2008年06月03日

主君の命で親しい仲間を斬った大山格之助

大山格之助は文政八年鹿児島城下高麗町に薩摩藩士樺山善助の二男として生まれた。幼い頃から文武に優れ、大山家に養子として入った。大山家は西郷家と親戚関係で格之助も西郷隆盛(吉之助)や西郷従道、大山巌らと同じ釜の飯を食った。茶道を習い、十歳の時に薩摩藩御数寄屋に上がって茶を点てた。また、示現流薬丸派の薬丸半左衛門に弟子入りし、奥義を極めた。文久二年、島津久光は「雄藩連合」をめざして上京した折、これを好機と見て「挙兵討幕」を画策薩摩藩士有馬新七ら精忠組八人は伏見寺田屋に集結していた。そこへ、久光から鎮圧の命を受けた大山格之助(格之助も精忠組)らが談判に訪れたが、決裂して死闘となった。(この場にはまだ幼い西郷隆盛の弟従道や大山巌がいた)有馬ら主だった者は斬り死にし、自刃して果てた。(従道や巌はまだ幼いため鹿児島へ帰り謹慎となった)翌年生麦事件の報復としてイギリス艦隊が薩摩を襲撃薩英戦争が勃発した。大山格之助は斬り込み隊長として桜島の湾岸を死守し、武名を高めた。慶応二年、薩長同盟が結ばれ、薩摩藩の代表として大久保利通とともに長州入りし、討幕出兵盟約に調印した。鳥羽伏見の戦いでは抜刀隊を率いて活躍し、戊辰戦争では奥羽平定の為編成された奥羽鎮撫総督府参謀に任ぜられ、東北各地へ進攻して諸藩の城を落とした。その功績により賞典禄八百石を賜った。明治四年、鹿児島県大参事となり、明治七年には県令を拝命。私学校創設に尽力、征韓論に敗れて帰郷した西郷隆盛に同調して反政府色を深めた。明治十年に勃発した「西南戦争」でも私学校生徒らを支援し、官金を流用して西郷に大量の軍資金を提供した。その罪科をとわれ、長崎にて処刑された。大山格之助は西郷が流罪中、西郷の親友有馬新七を斬ったことに最期まで引け目を感じ、西郷に追従した。
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2008年04月27日

保守頑迷の藩父 島津久光

島津久光は文化十四年、第二十七代藩主島津斉興の第五子として鹿児島に生まれた。名君で名高い二十八代藩主斉彬の異母弟で通称三郎と呼ばれた。母は斉興の愛妾お由良で江戸三田四国町の大工の娘であった。久光は鹿児島に育ち、学問を好みつつましい性格をしていたが、嫡男の斉彬を差し置いて我が子を藩主にしようとお由良たちは謀略を巡らした。斉彬の側近となった西郷は主の意を汲んでお由良暗殺を真剣に考えたが斉彬に気付かれ叱責されたと伝わっている。西郷は当初久光に対して悪い評価ではなく、西郷が組織した精忠組を久光が認めたことに感激し、久光を中国の周公旦に喩え誉めている。しかし斉彬亡き後、藩父として薩摩藩の実権を握り、公武合体を進めるため上洛の計画を立て、西郷を奄美大島から召還させた。しかし西郷は久光の幕政改革案を無謀と反対し久光を「じごろ」(鹿児島弁で田舎者)とまでいって罵った。これが久光と西郷の確執の始まりとなる。先発した西郷は、下関で待てという久光の命にそむき、京都で暴発寸前の志士たちを説得するため京都に出立した。激怒した久光は西郷を鹿児島に帰国させ、徳之島、次いで沖永良部島へ遠島にした。しかも異例の入牢という厳しい処罰を加えた。文久三年、久光の公武合体論が行き詰まり、困り果てた薩摩藩は久光に取り入っていた大久保の計らいで西郷召還を願い出た。西郷憎しで凝り固まった久光はなかなか承知しなかったが、周囲の説得に効し切れず、ついに赦すことになった。元治元年、久光と大久保利通は後事を西郷に託し京都から鹿児島へ帰った。この後、西郷は明治維新まで逐一政情を鹿児島の久光に報告している。しかし、版籍奉還で久光は西郷・大久保に不満を持ち、廃藩置県の時には、二の丸邸の庭で朝まで花火を打ち上げ、怒りを爆発させた。明治五年、西郷は久光の怒りをなだめる為、明治天皇巡幸を実現させたが、久光は天皇に「旧藩士西郷・大久保の下野」を陳述して退出した。当時、首相の地位にあった西郷は、中央政治を放棄して十ヵ月間久光の機嫌を取るため鹿児島に帰った。明治六年西郷が下野し、鹿児島に帰ると、代わって久光が左大臣となって上京するが、久光の意見はことごとく無視され続け、辞職し鹿児島へ帰った。西南戦争が勃発した時、西郷は最期の挨拶に久光を訪ねるが会おうとせず、側近の大山鹿児島県知事に軍資金を調達させたといわれている。最期まで大久保利通を恨んでいたが、西郷隆盛には赦していたかも知れない。
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2008年04月21日

天下一の開明君主 島津斉彬

島津斉彬は文化六年に島津家第二十七代藩主斉興の嫡子として江戸三田藩邸に生まれる。幼名邦丸。四歳で世子となり、一橋家徳川斉敦の次女英姫と婚約する。江戸で育ち、島津言葉を知らない斉彬は洗練された都会人で藩にこだわらない広い視野を身につけた。又、蘭語、中国語に取り組みローマ字で日記をつけるようになる。こうして斉彬の英明は早くも世にしれるようになるが、それを憎く思うものもいた。父・斉興とその寵臣調所広郷であった。斉興には斉彬の他に町人出の愛妾「お由羅」との間に久光がいた。斉興は妾のお由羅の言いなりで、愛妾との子久光を溺愛するようになった。これが後に「お由羅騒動」と呼ばれる藩を二分する御家騒動に発展する。また、調所広郷にして見れば、斉彬は西洋かぶれで折角薩摩藩の財政を立て直したところだったので、斉彬が藩主になれば、再び散財の恐れがあるとの危機感を持っていたので久光を継嗣に望んでいた。しかし、英明な斉彬を新藩主に推す一派もあった。町奉行の近藤隆左衛門や御船奉行の高崎五郎左衛門ら藩の民政・軍事を担う上士、中層の藩士たちが江戸詰家老島津壱岐を担いだ。この対立は斉興の高崎五郎左衛門一派の処断で決着をつけた。これが「高崎くずれ」とも「お由羅崩れ」とも言われる大きな犠牲をともなった、切腹十四名・遠島九名などで大久保利通の父が遠島処分になって、大久保自身も職を追われた。西郷も尊敬し、教えを受けていた物頭赤山靱負の切腹もこの時であった。斉彬はこの間、天保八年京都の近衛家と交流をはじめ、弘化二年に前水戸藩主徳川斉昭との交際を緊密化していった。嘉永元年に老中阿部正弘、福岡藩主黒田斉薄の了解を得て調所広郷一派の排除の工作に取り掛かる。斉彬はアヘン戦争による中国の敗北、世界の情勢に危機感を抱き、日本も中国と同じ轍を踏まないために封建制を脱し、近代国家に切り替えをし、富国強兵策を進めなくてはいけないと考えるようになる。それを実行するためにはどうしても藩主として島津藩の実権を握る必要がある。斉彬は老中阿部と相談して、調所広郷が薩摩藩財政建直しのために行なった密貿易を密告する手段をとる。調所は藩主斉興に追求が及ぶのを恐れ、江戸藩邸で自殺する。斉興も老中阿部に追求され、半強制的に隠居に追い込まれ、斉彬がやっとのことで新藩主になったのは四十三歳の時であった。嘉永五年、将軍家慶から家督相続の幕命を受け、鹿児島に入り次々に藩政改革に着手していった。下級武士であっても有能な人材はどしどし登用し、たびたび農政に関する意見書を出していた西郷隆盛に目を留めていた。参勤交代で江戸へ向け出府の際「西郷と申す者は誰か」と尋ね、西郷を庭方として江戸へ連れ出立していった。斉彬はまた、鹿児島北郊に集成館事業なる近代工場群を建設し、大砲を作るための反射炉と溶鉱炉を失敗を重ねながら建設に成功する。他にもガラス工場(現代でも有名な薩摩切子)や農機具製造、紡績工場、などを作り、西洋帆船いろは丸や洋式軍艦昇平丸を生み出した造船所、メッキ工場、火薬、金属活字、樟脳など日本近代化の礎を作った。江戸では西郷をともに連れ、藤田東湖始め、諸藩の名士と交流、福井藩主松平慶永などにも西郷を紹介し、後の明治維新の立役者西郷隆盛の大きな政治財産になった。しかし、時勢は開国策と将軍継嗣問題をめぐる暗闘へと発展、遂に強硬派井伊直弼が大老に就任、英明で指導力のある一橋慶喜の将軍継承を画策していた斉彬に逆行するかのように井伊直弼は一橋派の弾圧を開始する。斉彬は京都の近衛家とのパイプを活かし、朝廷の権威をもって幕府に対抗するため、薩摩藩兵を率いて上洛することを想定して、天保山の錬兵場で陣頭指揮をとって軍事演習を行なった。後の戊辰戦争で勇名をはせた薩摩藩洋式軍隊の原型である。しかし斉彬は体調を崩し、そのまま帰らぬ人となってしまった。享年四十九歳・・・あまりに惜しまれる死であった。
posted by こん at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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