2010年09月29日

吉田松蔭の最初で最後の恋 高洲久子

pct_ep01.jpg高洲久子は中国地方の雄・毛利家に代々仕えた毛利家臣団杉原三家の一つ「高須家」の出身で高杉晋作の遠縁にあたるといわれている。吉田松陰が嘉永七年、浦賀に黒船が最来航した際に密航を企てたが失敗、どうせ発覚するならと幕府に自首した。幕府は松蔭の身柄を長州藩に預け、萩の野山獄へ幽閉した。この時に、野山獄には十一人の入獄者が居り松蔭は年齢二十五歳で一番年下だったといわれ最年長は在獄四十二年で七十四歳の大深虎之助や三十七歳の富永弥兵衛(後に国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルになった人物)らが居った。その中の紅一点が在獄二年、三十七歳の高洲久子であった。松蔭は入獄当時は軽く見られていたが獄内で塾を開き囚人一人ひとりの得意分野を活かした講義を行い(先ず松蔭は書の得意な富永弥兵衛に弟子入りし習ったという。)また、俳句の得意な囚人を中心に俳句会を催した。松蔭は獄中座談会や読書会を開き「孟子」を講義するなど皆と共に学びあった。(牢番人や牢役人等も講義を聞き集まったという)、野山獄は藩の罪人は二名のみで他の者は親族から申し出による禁錮だったので囚人同士が一箇所に集まることは自由であったらしい。話を戻して高洲久子という女性は萩藩で石高三百三十国取りの家柄の跡取り娘として生まれ(生年月日は不明)婿養子を迎えていたがその夫が若くして亡くなってしまった。久子は寂しさを紛らわすように三味線に興味を持つが次第に没頭するようになると歌や浄瑠璃、ちょんがれ(浪花節のはしり?)などにも傾倒するようになり萩で有名な芸能人(当時、芸能を生業としていた人たちは殆ど被差別部落民であったといわれる。)勇吉と弥八(この二人は明治維新まで晒しの誅伐という刑を受けた)らと交流、自宅に招いて酒を振舞ったり翌朝まで宿泊させたので亡夫の親族から訴えられ藩の取調べを受ける。(封建時代当時は被差別部落民との接触自体が罪となった)久子の義父は不義密通を疑ったが久子は「普通の人と普通の付き合いをしたまで」と不義を否定したが家族の申し出で野山獄へ借牢となった。(一方、松蔭は江戸で密航失敗後に自首をして長州藩へ護送された際に罪人を運ぶ唐丸籠を担いでいた四人の被差別部落民と親しく話すうちに長州到着までの間学問を教授したというほどその人たちに対し偏見はなかった。)高洲久子と松蔭は獄中歌を介して親しくなり心を通じ合った。(かといって下世話の話お互い獄中であったので肉体関係はなかったと見られる)安政二年、松蔭は実家の杉家預り謹慎となり野山獄を出ることになった。久子は松蔭に「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」の一句を贈っている。(実際は鴨{かも}ではなく鴫{しぎ}で松蔭の字{あざな}である子義に掛けているという)高洲久子は当時三十七歳で亡夫との間に二人の女の子をもうけ(長女は婿をとって高須家を継いだ。)松蔭は二十五歳であったため十二歳も久子のほうが年上であった。しかし久子の理念である「すべての人は平等である」と松蔭も同じ考えであったことからお互いに惹かれあったという。(松蔭の「草奔崛起」藩や藩士だけの力ではなく民衆みんなの力で改革は成されるべきという思想で松蔭死後高杉晋作に引き継がれ奇兵隊創設のきっかけになった。)松蔭は出獄後、藩に野山獄の囚人の釈放を働きかけ八割の囚人が出獄できた(その中で獄中知り合った富永弥兵衛{後の富永有隣}を松下村塾の講師に招いた)が高洲久子は親族の反対にあって釈放されなかった。安政五年、幕府は天皇の承諾を得ず日米修好通商条約を締結したことに激怒した松蔭は老中・間部詮勝の暗殺を計画するが失敗、長州藩は慌てて松蔭を再び野山獄へ幽閉する。ここで高洲久子と再会し平穏な日々を送る(松蔭は獄居の家居も大差はないと書き残している)が半年後、松蔭の身柄を江戸へ送ることが決定する。江戸へ送られる二日前に久子は獄中で自ら手縫いした手布巾を贈ったので松蔭はたいそう喜び「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思ひて ふき清めてん」という一句を贈った。出立当日、久子は「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな 」と別れの一句を贈ると松蔭は一通の封書を手渡し江戸へ向け出立していった。封書の中には「一声を いかで忘れん ほほとぎす 」と書いてあった。翌安政六年、松蔭は江戸にて安政の大獄最後の犠牲者となり斬首された。高洲久子は明治新政府によって釈放された(当時久子五十一歳)が父親との関係が修復されることなく勘当状態のままで戻る場所がなかったという。晩年、永い獄中生活によって目は衰え足が萎えて曲がらなかったといい苦労を重ねたが長寿を全うし八十八歳でこの世を去った。平成十五年に松下村塾の門下生で最後まで存命した長崎造船所初代所長を務めた元長州藩士・渡辺蒿蔵氏(在塾当時は天野清三郎)の遺品が萩市に寄贈された際に一首の歌が刻まれたお茶碗が発見された。「「木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」と釘のような物で彫られている最後に「久子 六十九歳」あった。意味は「木の芽を摘んでいると木の上からホトトギスの一声のが聞こえてきた。このホトトギスの鳴き声を聞くと松陰先生のことを思い出します。」という意味らしい。松蔭が野山獄から江戸へ送られる際に高洲久子に贈った最後の句「一声をいかで忘れんほととぎす」の一声に掛け、松蔭の号である子義(ほととぎすのことで正岡子規の子規と同意語らしい)松蔭の死後二十七年も過ぎて久子が六十九歳になっても松蔭への尊敬と熱い想いは衰えてはいなかった。・・・
  
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2010年06月08日

龍馬の親友で槍の達人 三吉慎蔵

miyoshi.jpg三吉慎蔵は天保二年、長州支藩長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男・友三郎として長府横枕に生まれた。天保八年に田辺惣左衛門の養子となったが後に復籍する。嘉永二年に萩の明倫館に入学、長州本藩の師範・小幡源左衛門から宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け名前を慎蔵と改める。安政四年、長府藩士・三吉十蔵の養子となり藩主・毛利元周の近侍扈従役として江戸へ随従する。江戸では江川太郎左衛門について西洋砲術を学び文久三年、馬関の外国船砲撃事件で大砲鋳造掛御締方兼精兵隊肝煎に就任する。慶応二年、長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬と知り合った。慎蔵は京都の情勢を探るよう長府藩主の命を受け龍馬とともに馬関を出発し入京する。伏見の寺田屋で龍馬と会談中に伏見奉行所捕方百数十人の襲撃を受ける。後に龍馬の妻になるお龍の機転によって脱出し龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦、左手指に重傷を負う。慎蔵は得意の槍で応戦しながら龍馬を材木小屋に隠し単身薩摩藩邸に走り龍馬の危機を知らせ助けた。薩摩藩に匿われた龍馬とお龍、三吉慎蔵らは大坂から薩摩藩の軍艦・胡蝶丸に乗って鹿児島を目指した。途中、下関で慎蔵は下船し藩主に京都の情勢を報告した。慎蔵は寺田屋の功により長州藩主・毛利敬親より刀を下賜され長府藩からは二十石の加増、同藩目付役に任ぜられた。第二次長州征伐が始まると慎蔵は長府藩五番大隊軍監兼応接、六番遊撃大隊軍監に就任した。高杉晋作の指揮の下で幕府軍小倉藩と戦い勝利した。慶応三年、いろは丸事件の解決のため長崎から土佐に向かう途中に寄港した龍馬は海鮮問屋の伊藤家にお龍、君枝姉妹を預けもしもの後事を託した遺書らしき内容の書を親友・三吉慎蔵に残した。龍馬の死後、約束通りにお龍、君枝姉妹を実家に引取って面倒を見、龍馬の希望通りに妹君枝を海援隊士・千屋寅之助に嫁がし、お龍を土佐の坂本家に送り届けた。(後にお龍は坂本乙女と気が合わず家を飛び出す)維新後は豊浦藩(長府藩)権大参事を務めた後、長府藩主毛利家の家扶となり上京、廃藩置県後は毛利家家扶のまま北白川宮家御用掛として出仕し北白川宮家家扶後に家令として明治二十三年まで務め辞任。毛利家当主・元敏の帰郷に伴い慎蔵は長府江下に居を移す。明治三十四年に三吉慎蔵は病没、享年七十一歳・・・三吉家は代々法華寺に墓所があるが藩主・元敏より功山寺に墓所を給う。慎蔵はそれほど藩主の信頼が厚い人物であったと推測される。
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2009年03月20日

芸者幾松から三傑の妻 木戸松子

ikumatu.jpg木戸松子は天保十四年、若狭国小浜藩士・木咲市兵衛を父とし、三方郡神子浦の医師・細川太仲の娘・末子を母の長女として生まれた。(諸説あるが二人姉弟で弟が一人)幼名は計(かず)といった。父・木咲市兵衛はもと弓師の浅沼忠左衛門の次男で木咲家へ養子に入り小浜藩の町奉行祐筆として勤めていたが、藩内の農民騒動で奉行が罷免され、その連座で市兵衛は閉門の処罰を申し付けられた。その後、市兵衛は妻子を残したまま京都へ出奔してしまう。母・末子は子供達を連れ実家の神子浦に戻っていたが、京で父らしい人を見たと聞きつけた母は単身上洛する。(父・市兵衛は京都加賀藩邸に居候していた)計は父母恋しさに一人で小浜から鯖街道を上って上洛する。しかし、父・市兵衛は病に伏した為、貧しい生活の口減らしに計(かず)は七歳で九条諸太夫の次男・難波恒次郎の養女に出された。難波恒次郎は定職を持たない放蕩三昧の生活で元・京都三本木の芸者・幾松を落籍して妻にし実家に居候していた。恒次郎は遊ぶ金欲しさに十四歳の計を三本木の「吉田屋」の芸妓に出し二代目幾松を名乗らせる。嘉永七年、ペリー来航にともない風雲急を告げる時代に入り御所に程近い三本木に多くの勤皇の志士達が集まるようになる。この頃幾松は置屋「瀧中」の芸者で笛と舞の名手として美しく聡明で評判となっていた、十八歳で旦那が付いていた名妓であった。文久元年頃に桂小五郎と知り合い、桂が入れ込んだともいわれている。しかし、幾松には実家の木咲家と養家の難波家を養う為に莫大な借金があった。幾松を身請けするために伊藤俊輔が奔走して金の都合を付け落籍し、京都木屋町御池上るに一戸を構え生活を始める。しかし、幾松は芸妓を続けて勤皇志士たちの為に宴席での情報収集に努めた。(後に桂小五郎が置屋「瀧中」を買い取り、その家賃収入と桂から毎月六両の送金で木咲家は生活し、難波恒次郎は桂の木屋町別邸の管理を任され長州藩の雑用係を主な収入にし、両家とも長州藩京都留守居役の桂小五郎が養った。)元治元年、八月十八日の政変で京都を追われた。さらに桂小五郎は池田屋での会合に遅れた為に新撰組の襲撃は免れた(対馬藩邸に逃げ込み命拾いした。)が新撰組に追われ幾松に匿われた。(近藤勇と幾松との長持でのやり取りは有名)長州藩士達が翌年に蛤御門の変を起こし長州藩は朝敵とされてしまう。桂は一旦、淀に逃げたが、再び京に潜伏して乞食に身をやつして情勢を探り二条大橋のしたで身を隠していたが幾松は長州藩御用達の大黒屋今井太郎右衛門宅で握り飯を作り、二条大橋へ届けた。しかし、新撰組の追及が厳しくなった為、桂は対馬藩邸出入りの広戸勘助の手引きによって
但馬出石に潜伏した。新撰組は大黒屋今井邸を焼討ちして幾松を捕らえて桂の居場所を聞き出そうとした。幾松は対馬藩同志の協力により無事逃げ延び、下関に入った。長州藩では高杉晋作が功山寺挙兵により藩政を握ったので桂小五郎の政治力を必要としていた。高杉は桂に帰藩するように手紙に書き幾松に託した。幾松は但馬出石に着いた頃、桂は小さな店を構え商人に扮して妾まで囲っていた。幾松は店を畳み、妾には手切れ金を持たせて桂を連れ帰った。その後、長州藩主・毛利敬親の命により木戸寛治と改名、後に準一、維新後は孝允と名を変え幾松も松子と変え、長州藩士・岡部利済の養女として正式に入籍した。新婚当時は山口糸米に新居を構えたが木戸孝允が明治新政府の要職に就いたため東京に移転、孝允が参議として外遊に出るなど多忙な日々を過ごしたが、孝允が脳疾患で倒れ、京都で療養することとなった為、松子は京都に掛け付け看病するが間もなくして死去、松子は直ちに剃髪して翠香院となり、上京区土手町に墓守をしながら余生を過ごした。明治十九年に松子は胃病を患い死去する。享年四十四歳・・・松子は木戸との入籍後は夫婦仲は余り良くないといわれている。(忙しい木戸に愛想をつかした松子の浮気が原因とか、木戸の姉との不仲が原因など諸説あり)


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2009年03月19日

好色家伊藤博文を支えた妻 伊藤梅子

img_1464807_48398423_3.jpg伊藤梅子は(旧姓木田梅子)嘉永元年、山口県赤間関城ノ腰の木田久兵衛の長女として生まれる。梅子が十七歳の頃、亀山砲台のあった亀山八幡宮境内のお亀茶屋でお茶子として働いていたがここで伊藤博文と知り合う。当時、伊藤博文(俊輔)は前年に高杉晋作が決起した功山寺挙兵に力士隊を率いて参戦して長州藩の俗論派と戦い勝利したがその残党に命を狙われていた。伊藤は長州支藩の長府藩の攘夷派に襲われ、亀山八幡宮の境内に逃げ込んだが、その彼を匿ったのがお梅だった。その美貌にほれ込んだ伊藤はたびたび逢瀬を重ねたという。しかし、伊藤博文(俊輔)には同じ松下村塾門下の入江九一の妹・すみ子という立派な妻が居り不倫であった。(他にも伊藤博文には数々の女がいて稀代の好色家として有名、維新後には明治天皇から注意されたほどで処女喰いとして名を馳せた。)伊藤は桂小五郎の命を受け井上馨とともに長崎へ近代兵器や弾薬の買い付けに行っている間に梅子は父・久兵衛の借金のかたに下関稲荷町の置屋「いろは楼」に身売りされて小梅と名乗って芸者見習いになっていた。しかも伊藤の子供を身ごもっていた為、伊藤は直ぐにでも身請けしたかったが「いろは楼」の主人から本妻のすみ子と別れ再婚するならとの条件付で身請けし結婚したという。その後、梅子は良妻賢母として桂小五郎こと木戸孝允夫人の松子とともに並び称され、明治十七年の宮中制服改め(洋装に改めること)にはその調度の命を受ける栄誉を授かる。また、伊藤博文の漁色ぶりは相変わらずで、高熱にうなされたときでさえ両脇に芸者を寝かせ夜伽を欠かさなかったという。梅子はこんな芸者達が帰るときには玄関まで見送り反物などお土産を持たせて労ったといわれ夫の女性関係には一切口を出さなかった。また、下田歌子に和歌を習い、津田梅子に英語を学び明治政府元勲婦人としての教養を身につけた。ハルピンにて夫・伊藤博文が暗殺された時には動揺する家中をまとめ、「国のため、光をそへてゆきましし、君とし思へど悲しかりけり」と寂しさをを詠んだ。その後、七十七歳で永眠・・伊藤博文の好色ぶりは当時の新聞の格好のネタで鹿鳴館の裏庭で戸田氏共伯爵夫人(大垣藩主婦人極子、岩倉具定の長女)を手篭めにし、夫の氏共をオーストリア兼スイスの特命全権公使に推挙した為に世論の非難を受けた時でさえ梅子は主人をたて、伊藤は女にだらしないが他の政治家のように金銭(賄賂など)には汚れていないとかばい続けた。事実、伊藤が亡くなったあと、井上馨や松方正義らのように莫大な貯えはなかったという。
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2009年02月20日

維新の礎を築いた 周布政之助

427b.jpg周布政之助は文政六年、長州萩藩大組二百十九石の周布吉左衛門の五男として生まれる。しかし、父と長兄が相次いで死んだ為に末期養子として生後五ヶ月で家督を相続、禄高を六十八石に減封された。政之助は藩校明倫館に入門して勉学に励み弘化三年、政之助は同年代の来原良蔵や能美隆庵らとともに櫻鳴社という結社を組織して政治を論じた。(薩摩藩の精忠組や土佐藩の勤皇党、水戸藩の天狗党など他藩ではこうゆう組織は藩によって弾圧されるが長州藩だけは政治討論をする若者を寛容、むしろ保護して育成したと言われる。)弘化四年に祐筆だった椋梨籐太の添役として藩に登用され蔵元検使暫役に就任して山口に駐在する。翌年には明倫館の都講(現在の生徒会長)に登りつめる。政之助は村田清風の影響を多大に受け、吉田松陰や松下村塾を支持、応援していたという。(村田清風は海防論者で外夷に勝つには先ず海防が大事と唱え「いくさ爺さん」と呼ばれていた。)しかし、村田清風の政敵だった坪井九右衛門一派で政之助を抜擢してくれた椋梨籐太と対立する。政之助は政務役筆頭となり清風の路線を引き継いで財政改革や軍制改革に尽力し、高杉晋作や桂小五郎ら吉田松陰関係者を熱心に登用した。しかし、藩内の派閥争いに敗れ(村田清風や周布政之助らの正義派と坪井九右衛門や椋梨籐太らの俗論派の政争)閑職に身を置くが直ぐに復帰する。吉田松陰は周布政之助を信頼し老中・間部詮勝の暗殺を打ち明けるが驚いた政之助は松陰の身を案じて監禁するが松陰の言動が収まらず、安政の大獄の最後の犠牲者として処刑される。政之助が最も可愛がった松陰の愛弟子・高杉晋作が幕府に怒り、敵討ちを唱えると政之助は奔走して幕府派遣の上海視察団にいれて渡航させ、頭を冷やさせた。また、伊籐俊輔(博文)や井上聞多(馨)他三名のイギリス密航留学の手助けをし将来の人材を育てた。(これが長州ファイブといわれ維新後の新政府の要職を占めた。)周布政之助自身は酒癖が悪く、慰労の場で酔っ払い土佐藩士の面前で山内容堂を「尊皇攘夷の邪魔をしている。」と非難し、後日山内容堂から毛利広封に抗議された。広封は困って政之助に麻田公輔と改名させ謹慎処分とするなど数々の舌禍事件を起こした。周布政之助は藩の主流となった長井雅楽の航海遠略策に同調し開国派を支持するが、松陰門下の久坂玄瑞や桂小五郎らに説得されて撤回して富国強兵の開国攘夷論を重視する。文久三年に八月十八日の政変が起こり京都を追われた長州藩士が暴発しそうになったので急遽、大坂へ行き、事を収拾しようとしたが藩命によって帰国、京都進発論が浮上する中、周布政之助と高杉晋作はこれを抑えようとするが失敗、高杉は脱藩の罪で野山獄に投獄され、政之助は孤立してしまう。酒に酔った政之助は馬で野山獄に抜刀して乱入した。この罪により免職の上、謹慎処分を受ける。その後、馬関で起こった四ヵ国連合艦隊による攻撃により長州藩は大敗し、蛤御門の変による長州征伐の実行により俗論派の椋梨籐太が藩政を握る。松下村塾出身者の久坂玄瑞や入江九一らは死に正義派は追い詰められて行った。政之助は山口郊外矢原の庄屋吉富簡一邸に仮寓していたが、裏庭に抜け出して自害して果てた。享年四十二歳・・・周布政之助は幕末期に新たな時代を作るいしずえとして将来の有能な人材育成に力を発揮した。周布なくして維新の大業は成しえなかったといわれる。
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2008年12月31日

「維新の三傑」のひとり 木戸孝允

木戸孝允は天保四年に長門国萩呉服町の萩藩医・和田昌景の長男として生まれ、幼名は小五郎という。和田家は戦国武将・毛利元就の七男・毛利元政の末裔で小五郎の母は昌景の後妻であった。先妻には二人の娘がおり、小五郎が生まれた時から病弱な為に成人までの成長が望めず長姉に養子(文譲)を迎えて和田家の存続を考え、長姉が亡くなった後は次姉がその後妻となった。小五郎が七歳の時、向かいの桂九郎兵衛(家禄百五十石)の末期養子に迎えられ長州藩大組士の武士の身分と家禄を得る(しかし、小五郎が幼少だった為、家禄は九十石に削られる)。しかし、翌年に養母が亡くなった為に実家で養育を受けることになり十四歳で藩校・明倫館に入学するが十六歳の時に実母と次姉が相次いで病死する。小五郎は悲しみのあまり病床に伏せて出家を口にするほどだったが周囲に説得され思い止まったという。また、翌年に明倫館で兵学を教えていた吉田寅次郎後の松陰と出会い師弟関係を結ぶ。(小五郎は松下村塾の門下生ではないが松蔭から「事を成す才あり」と評され「桂は我の重んずるところなり」といって師弟というより親友のような関係だった。)弘化三年、長州藩の剣術師範代を務めていた柳生新陰流の内藤作兵衛に入門して腕を磨いた。嘉永二年、元服して桂家を正式に相続、大組士・桂小五郎となり実父から「元は武士ではないのだから人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と言い含められ、剣術の稽古に熱を上げる。嘉永五年、江戸へ剣術修行に出る為に藩の許しを得て出発、江戸三大道場の一つ斉藤弥九郎の錬兵館に入門する。入門一年目で神道無念流の免許皆伝を得て九段下の錬兵館塾頭になる。同時期、桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)の塾頭に土佐藩士・武市半平太(瑞山)、千葉定吉の北辰一刀流桶町道場塾頭に坂本龍馬がなっている。小五郎は剣術修行の傍らペリーの再来航に刺激を受けて師匠の斉藤弥九郎の紹介を得て伊豆代官の江川太郎左衛門の付き人としてペリー艦隊を見聞する。また、兵学家でもある江川太郎左衛門から西洋兵学や砲台築造術を学び、浦和奉行所の与力だった中島三郎助から造船術を習うなど常に時代の最先端技術を吸収した。また、師の吉田松陰が密航を計画した時には積極的に協力を申し入れたが、松蔭は小五郎の身を案じてこれを拒んだ為、連座の罪を免れたと言う。桂小五郎はペリーの来航以来、幕府の対処の仕方や鎖国による西洋との格差を痛感して尊王攘夷の急先鋒となっていった。吉田松陰が老中暗殺を計画した時には江戸にいた高杉晋作とともにこの軽挙を抑え門人たちとの連絡を絶とうとした為「桂は事を成す才あれども胆略と学問が乏しいのが残念」と怒りを買う。安政五年、師匠の松蔭が安政の大獄で刑死した後、小五郎は江戸藩邸大検使になり諸国の志士たちと交流して尊攘のリーダーとなった。藩政においても重きを成し藩の重臣・周布政之助や久坂玄瑞とともに松蔭が唱えた「航海雄略論」を採用し、藩の大目付・長井雅楽の「航海遠略策」(幕府を擁護するような策)を排除して藩論を開国攘夷に導いた。小五郎が周布政之助の尽力によって藩政の中心的役割を持つと英語やオランダ語に通じていた村田蔵六(大村益次郎){宇和島藩の御雇となっていた}を長州藩に呼び戻した。また、桂小五郎は周布政之助の協力によって藩費で伊藤博文、井上馨(聞多)ら長州五傑といわれた五人を秘密留学生としてイギリスへ出航させる。(
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2008年11月05日

萩の乱の首謀者 前原一誠

issei.jpg前原一誠は天保五年、萩藩士・佐世彦七の長男として長門国萩土原に生まれた。天保十年、父の厚狭郡船木村出役に従い移居し武術を幡生周作に習い、学問を岡本栖雲に学んだ。嘉永二年に福原冬嶺に入門したが、翌年に萩に帰る時落馬し長病を患い再び船木村に戻る。病弱な体になった為、武術を棄て写本を始める。安政四年に父に従って萩に帰り吉田松陰の松下村塾に入門、村塾四天王と並ぶ学力を身につける。その後、長崎に遊学に出て英学を修める。帰藩後も博習堂において西洋学を学ぶ。久坂玄瑞の影響で尊王攘夷派となった一誠は公武合体推進派の直目付の長井雅楽を暗殺する為に久坂玄瑞とともに脱藩し上京する。しかし長井雅楽は奸物として藩命により切腹してしまったため計画は頓挫してしまう。その後、倒幕運動に奔走した後、八月十八日の政変で京都を追放された三条実美ら七卿が長州藩を頼った時の用掛と右筆になった。元治元年、外国艦隊との戦いに参加し、高杉晋作の功山寺挙兵に加わり藩政権を掌握、これ以降一誠は前原姓を名乗る。第二次長州征伐の際には参謀心得として小倉口に出陣し活躍、慶応三年には小姓筆頭と海軍頭取を兼任する。戊辰戦争では萩から柏崎に上陸し会津征討軍越後口総督の参謀として長岡城攻略に尽力し、会津若松城(鶴ヶ城)陥落の折、城を枕に討死してゆく会津武士に共感を覚え涙したという。明治二年に越後府(新潟県)判事となり戊辰戦争の功により永世賞典禄六百石を賜り参議となり、大村益次郎が死去すると兵部大輔を兼任する。一誠は占領地行政に携わり有能な行政官として様々な事業を行おうとしたが、新政府は財政難を理由にことごとく彼の計画を却下してしまう。人々に仁政を敷くことを夢見ていた一誠は新政府に失望し病気を理由に故郷萩へ帰ってしまう。また、一誠は戦は武士がするもので一般国民を巻き込むものではないとの持論を展開し徴兵制度に反対し木戸孝允(桂小五郎)と対立する。(一誠と木戸は義理の叔父と甥の関係)明治四年の夜半に一誠の自宅に六発の銃弾が打ち込まれ怪我を負う。一誠はこれが木戸の密命を受けた者の犯行と思い込み敵視するようになる。一誠のまわりには藩閥政治に不満を抱く士族たちが集まり新政府はこれを警戒し監視する。明治九年に九州にて神風連の乱と秋月の乱が発生、これに呼応した一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと殉国隊を率いて萩で挙兵する。地租改正、対露対韓政策、政府高官の腐敗などを天皇に訴え、朝廷の奸臣を掃う為の東上軍を五百名余りを率いて山陰へ進んだが、残してきた家族が虐待されていると聞き萩へ引き返してしまう。木戸孝允は待ってましたとばかりに大量の軍隊を投入し瞬く間に鎮圧してしまう。事敗れた一誠は島根県宇竜港で捕縛され萩へ連行される。萩で待っていた木戸の前で首を刎ねられる。死に臨んで「これまで よくがんばったなあ」と自分の体をいたわり身を病みながら国事に奔走した人生を振り返った。享年四十三歳・・
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松下村塾の四天王 入江九一

入江九一(杉蔵)は天保八年、長州藩足軽・入江嘉伝次の長男として萩土原で生まれる。十三歳頃から藩の下役として働き始め、安政三年、二十歳の時に父・嘉伝次が死去、家計を助ける為に江戸藩邸へ出て働木ながら学問に励む。安政四年、松下村塾生の中谷正亮から入江九一のことを聞いていた松陰は是非入塾させたいと吉田稔麿を通じて勧誘した。しかし江戸藩邸での勤務の為、帰藩後に弟の野村和助よりも遅く入塾する。松陰は九一の純粋無垢で何事にも一直線に突っ走る性格に自分と同じにおいを感じ、九一をこよなく愛した。松陰門下で吉田稔麿、高杉晋作、久坂玄瑞と並び四天王と呼ばれるほどの成長を見せた。師・吉田松陰は日米修好通商条約締結に激怒し、老中・間部詮勝の暗殺を計画した。この無謀な計画に高杉や久坂など四天王たちは反対したが、九一だけは松陰に賛成し血盟者の一人にに加わる。松陰は「久坂君たちは優秀だが度胸がない。入江は国事の為なら命を惜しまない男である」と評している。この計画は漏洩し失敗に終わり松陰は投獄された。九一は他の門下生達と松陰を救おうと藩の重役達に掛け合ったがそのことで自宅謹慎を言い渡される。獄中の松陰の意思を継ぎ、他の松下村塾生達が尻込みした「伏見要駕策」(参勤交代の藩主を京都の伏見で待ち伏せし藩主を担いで朝廷に幕府の失政を問い質してもらおうという計画)の実行の為、弟の野村和作とともに脱藩をしようとするが、塾生からの情報漏洩により発覚し投獄される。身分の低い二人は牢獄で食事すら与えられない苦しい日々を送り、残された母と妹達は貧窮を極めたという。獄中の松陰は自分が目指す「草莽崛起」を塾生の中でただ一人実行している九一に涙したという。松陰が安政の大獄の最後の犠牲者として処刑された後、九一は久坂玄瑞と行動を共にすることが多くなった。文久元年に藩命により常陸国へ出張、水戸藩内の動向を探る為、乞食に身をやつして情報収集を行ったという。文久三年、釈放された九一は足軽から士分に取り立てられ外国艦隊砲撃の際に下関に赴き、馬関総奉行所列座にあげられる。またこの時、同志・高杉晋作の奇兵隊設立に尽力しその幹部に就いた。元治元年、京都において情報収集活動をしていたが、蛤御門の変が勃発、久坂玄瑞らと天王山に布陣していたが敗走、久坂は自決し九一は何とか脱出しようとしたが、銃弾を受けて負傷してもはやこれまでとその場で切腹して果てた。享年二十八歳・・・維新後、松下村塾出身者が新政府の要職を占めたが松陰が最も信頼した「松下村塾の四天王」は皆、維新前に若くして命を落とした。
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2008年10月29日

長州藩の頑固な急進派 来島又兵衛

kijima.jpg来島又兵衛は文化十四年に萩藩の無給通士・喜多村佐治馬正倫の次男として長州高千帆村に生まれる。天保七年、大津郡俵山村の五十九石八斗取の来島又兵衛政常の婿養子となる。柳川藩の大石進に神陰流剣術や槍を習い、弘化三年に江戸へ出て久保田助四郎の道場に入門し剣術修行に励む。生来の大力巨漢で剣と馬術に優れた人物として知られる。嘉永元年、帰藩し家督を継ぎ二十八歳で手廻り組に加えられ、藩世子の駕籠奉行を勤める。安政二年に大検視、安政六年には所帯方頭人に進み、武芸だけでなく算術にも優れた才を発揮する。文久二年、江戸方用所役兼所帯方となって江戸へ行き蔵元両人役に昇進するも帰藩し馬関攘夷戦では総督の国司信濃の参謀として活躍、藩命により猟師八十余名を集め狙撃隊を組織する。狙撃隊を率いて上洛し政務座に参与するも三か月で八月十八日の政変によって帰藩、高杉晋作が奇兵隊を組織すると藩命により三田尻で久坂玄瑞とともに遊撃隊を組織し力士隊などを合わせた諸隊の総督となる。元治元年、藩主父子の雪冤運動の急先鋒として出立し伏見や嵯峨に駐屯して朝廷説得を始めるが失敗し出軍することに成った。高杉晋作はこの無謀な暴挙を止めようとしたが「臆病者」と罵倒し兵を率いて禁門の変が始まる。又兵衛は嵯峨天龍寺から蛤御門で奮戦中に薩摩藩兵に胸を狙撃され落馬、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら喉を槍で突いて死亡する。享年四十九歳・・・来島又兵衛を狙撃したのは維新後、初代警視総監になった薩摩藩の川路利良だといわれているが定かではない。
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2008年10月28日

有能な嫌われ者 山縣有朋

yamagata.jpg山縣有朋は幕末には山県狂介といい天保九年、蔵元付け中間・山県有稔の子として長州萩の川村庄に生まれる。五歳の頃、母・松子を失い、祖母と継母に厳しく育てられ不幸な人生を送った。安政五年、狂介が二十五歳の時に松下村塾に入門、吉田松陰は彼の気迫や根性を高く評価していたが、優れた人物に使われてこそ真価を発揮すると評している。確かに、狂介は創意においては凡庸ではあるがその代わり実行者としての能力に優れていた。元治元年、幕府による第一次長州征伐の後、長州藩は椋梨藤太率いる俗論党が藩政を握り幕府恭順派の天下になっていた。高杉晋作は功山寺において決起する為、奇兵隊に協力を求めたが、当時奇兵隊総督の赤根武人は俗論党と話合い解決を進めていた為に出兵を拒んだ。軍監の山県は日和見を決め込んでいたが、送られてきた奇兵隊解散命令書を見てやっと重い腰を上げた。しかし、狂介は他の隊長の意見を聞き自分の意見は決して言わず、負けた時の責任者になることを避けた。狂介は解散を受け入れる素振りを見せ時間を稼ぎ、夜半になって俗論党軍の陣に奇襲をかけ用意していた「討姦の檄」を配った。これは洞春公(毛利元就)の御意思を奉載すると書かれ、戦国時代の雄・毛利元就を持ち出して自らの決起を正当化した。狂介は主力部隊を囮にして敵軍をおびき寄せ伏兵をもって側面より攻撃し俗論党軍を撃滅し高杉晋作の決起は成功した。高杉はたいそう喜び狂介に「わしとお前は焼山かつら うらは切れても根は切れぬ」と決起当初は日和見を決め込み袂を分けたがもう水に流そうという手紙を送った。狂介は用心深く誰も信用せず、誰からも嫌われた歪んだ性格だったが、身分の上下に関係なく対等に付き合い、狂介の能力を高く評価してくれた高杉晋作だけは心を許したという。(高杉の死後、自分の住んでいた土地を提供し東行庵を建立)その後、戊辰戦争が始まると恭介は北陸鎮撫総督、会津征討総督などの参謀として転戦したが、北越戦争では長岡藩の罠に掛かり殆ど逃げるような戦いぶりだったという。維新後を山縣有朋と改名し明治二年、渡欧して各国の軍事制度を視察して帰国する。その後、暗殺された大村益次郎の意思を継ぎ、西郷隆盛の協力のもと軍制改革を行い、徴兵制度を取り入れた。明治五年、山縣は元奇兵隊の同志の政商・山城屋和助に陸軍の公金65万円を無担保融資して焦げ付かせる。当時の65万円といえば国家予算の一割以上の額に相当する大汚職事件に関与し罷免される。陸軍の桐野利秋などは山縣を叩き斬るといきりたったが西郷は大村益次郎亡き後、軍政に長じた人材がいなかった為に山縣を庇い続け、明治六年に陸軍卿に任命された。明治十年、西南戦争で山縣自身が作った鎮台兵を率いて出陣、日本最強の薩摩士族集団と戦う。配下の兵に対して「案ずるな、弾が当たれば死ぬ。相手に斬り込まれる前に撃ちまくれ」と命じ、膨大な兵力と火器を投入してジリジリと西郷軍を圧迫する戦法をとる。山縣は自分の才能の無さを痛感していて「自分と西郷とでは井目の差がある」とまで言い切り5ヶ月もかけて西郷軍を慎重に追い詰めていった。最後の城山での戦闘では400人の敵兵相手に50000人の大兵力を投入した。西南戦争終結後、勲一等旭日大綬章を得て名実ともに陸軍の頂点にたった。山縣は政略眼と力関係を見切る能力に優れ、木戸孝允亡き後の長州閥を集結して政界入りを果たす。明治天皇は彼を嫌い、なかなか政界入りを認めなかったし、大正天皇は山縣が参内するとまわりにあるものを次々と与え、早く帰らせようとしたという。これほどたくさんの人たちから嫌われた山縣だが持ち前の慎重さと堅実さで内閣総理大臣に就任、衆議院議員選挙法を改正し小選挙区制から大選挙区制へ改めたり(小選挙区では強大な政党が生まれやすい)して議会勢力と対立する。その後、山縣閥を形成して軍部や官僚の後ろ盾となり政治に関与し、伊藤博文がハルピンで暗殺されると更に発言力が増していった。しかし、大正時代に入り、大正デモクラシーや社会運動の高揚など時代の変化について行け無くなった。また大正十年、裕仁親王(昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(香淳皇后)の家系に色盲の遺伝があるとして元老・山縣有朋がクレームを付け婚約破棄を迫った(宮中某重大事件)しかし病気療養中の大正天皇に代わって天皇家の代表になっていた貞明皇后や良子女王の父・久爾宮邦彦王、元老の松方正義、西園寺公望が婚約破棄に反対を表明し、最終的には裕仁親王本人の意向で婚約破棄は撤回された。この一件で山縣有朋の権威は大きく失墜し失意のうちに逝去する。享年八十五歳・・・山縣の死に際して維新の元勲として国葬が行われたが参列したのは陸軍の軍人や警察関係が殆どで一般参列者は来なかった。これに対し同時期に無くなった大隈重信は同じ維新の元勲であったが、国葬にはならなかった。しかし一般参列者は30万人を超え、沿道の人手は150万人に上ったと言われている。
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2008年10月23日

悲運の三代目奇兵隊総督 赤根武人

akane.jpg赤根武人は天保九年、周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市)の島医師・松崎三宅の次男として生まれる。十五歳のときに妙円寺の海防僧・月性の私塾「清狂草堂」の門人となった。翌年に月性の推薦で長州藩家老・浦靭負の「克己塾」に入門、安政三年には吉田松陰の「松下村塾」に二ヵ月間だけ学んでいる。安政四年に浦靭負の重臣・赤根雅平の養子となって士分に取り立てられる。たまたま長州に来ていた梅田雲浜に従って上洛し、雲浜の私塾「望南塾」に入門する。その後、江戸へ遊学に出るが安政の大獄が始まり武人と雲浜は幕府に捕らえられ投獄される。しばらくして赤根武人だけが釈放となり長州へ帰藩するが梅田雲浜を牢獄から救出しようと計画した。そのことが露見し武人は藩に捕らえられる。安政六年から一年間の自宅謹慎が解けた後、武人は浦靭負に従って上洛する。その後、江戸へ行って高杉晋作や久坂玄瑞ら松下村塾の門下生と尊攘運動に奔走し英国公使館焼討ちにも参加、赤根武人はひとつ年下の高杉晋作とは中がよく御楯組(御楯隊とは別組織)の血盟を結んだ同志であった。その縁で三代目奇兵隊総督に就任する。元治元年、蛤御門の変に敗れた長州藩に第一次長州征伐が始まる。長州藩の藩政は椋梨藤太率いる俗論党(幕府に恭順派)と正義派(奇兵隊など主戦論派)が対立、藩庁は俗論党が実権を握り正義派弾圧をはじめ、奇兵隊にも解散命令を出す。赤根武人は穏便に話し合いで解散命令を取り下げてもらえるように藩庁に乗り込み談判する。ようやく奇兵隊を残すことにまとまった矢先に高杉晋作は功山寺挙兵に出た為、友人高杉を非難し対立、しかし奇兵隊はナンバー2の軍監・山県狂介(山縣有朋)が実権を握り功山寺挙兵に遅ればせながら参戦する。この挙兵により正義派が勝利し藩政は正義派が牛耳ることになる。武人は同志から俗論党のスパイ、裏切り者と疑われ慶応元年、脱藩して大坂へ逃走する。大坂で幕府に捕らえられた武人は獄中で第二次長州征伐のことを耳にする。長州藩が幕府によって滅亡すること御を恐れた武人は「もし、私を釈放してくれれば、長州藩を説得し幕府に従わせることに尽力する」との上申書を提出、新撰組参謀・伊東甲子太郎の斡旋で幕府大目付・永井尚志が武人の願いを聞き入れ、長州尋問のために下向する永井の随員となった。しかし長州藩の強固な抵抗に入国することの出来ない永井は京都に戻るが、武人は故郷の柱島に潜伏し形勢を探って長州と幕府を和解させようと周旋に動くが誰にも相手にされず。岩国に潜伏中のところを長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。武人は山口に送られるが一度も審問がないまま「奇兵隊総督当時に馬関戦争において敵前逃亡した罪」により斬首され、首級は出合河原に晒されて内臓まで引き出された惨い最期をとげた。享年二十九歳 死に望んで赤根武人は獄衣の背に「真はも誠に偽りに似 偽りは似って真に似たり」と書いて悔しさにすすり泣いたという。(赤根武人は実際には敵前逃亡はせず、下関砲台がイギリス人に占拠されるぎりぎりまで部下数十人と守りぬいたと白石正一郎の日記には記されている。これは山縣有朋が軍監時代に部下の給金をピンハネし、それを総督の赤根武人に見つかりけん責されたのを恨みを持っていた山縣の無理押しで処刑されたという。その証拠に、赤根武人処刑の報を聞いた長州長府藩主・毛利元周は自ら藩庁に赴き助命を求めたが間に合わなかったという。また高杉晋作も赤根武人が処刑された翌年、病床で「俺は赤根を救うことが出来なかった」と後悔の言葉を残した。高杉も赤根も同じ長州藩を救いたいという気持ちからとった行動で高杉は英雄となり、赤根は裏切り者として処刑されるという不思議な運命の巡り合せを見た。
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2008年10月18日

高杉晋作の心の拠り所 谷梅処(うの)

baisho.jpg谷梅処尼は明治維新後の名前で通称おうのという。おうのは天保十四年、呉服商の娘として生まれるが幼い頃に没落し十一歳で下関裏町の堺屋に「この糸」という名の遊女となった。文久三年、高杉晋作が藩命で下関の白石正一郎邸で「奇兵隊」を組織し幹部を引き連れ堺屋で宴会を開いたがその席でおうのと出会ったらしい。晋作には萩で雅という美人の妻がいたが、おうのはおっとりした性格で忙しく国事に奔走する晋作の心の拠り所だったという。下関で共に暮らし、あの有名な都都逸「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」を詠ったのもこの頃だと言われている。晋作は下関開港を計画したことから攘夷派と俗論党の両方から命を狙われた時も、おうのを片時も放さず四国の日柳燕石邸に匿われ共に暮らした。しかし晋作は知合って僅か四年で肺結核の為死去し、おうのは二十四歳で独りになった。伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)は相談し、貞操観念の薄いおうのが後に浮名を流すことがあれば晋作の名前に傷がつくと考え、山県狂介(維新後は山縣有朋)が住んでいた無隣庵を贈り僧堂のして、おうのに出家させ梅処尼として晋作の墓を守った。後に伊藤博文、山縣有朋、井上馨の寄付により無隣庵のとなりに東行庵を設立おうのは明治四十二年に六十六歳で亡くなるまで四十二年間晋作の墓を守った。おうのの維新後の名前の谷梅処は晋作が藩主より賜った谷姓を相続し晋作が最も愛した花の梅の字を入れた梅処とした。
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2008年10月17日

高杉晋作の妻・雅

masa.jpg高杉晋作の妻の雅は井上平右衛門の次女として生まれた。井上平右衛門は石高五百石の家柄で山口町奉行を勤めていた。石高二百石の高杉家よりも家格が上だった。雅は萩城下では評判の美人で他家からも多くの縁談話が持ち上がっていたのを決めかねた父・平右衛門は何本かの紙こよりを作り雅に引かせ見事高杉晋作を引き当てたらしい。晋作はあまり乗る気が無く三十歳までは結婚する気がないといっていたが、孝行者の晋作は父・小忠太に説得され安政七年、二十二歳で十六歳の雅と結婚した。新婚初夜を済ますと早々と長州藩が建造中の大型軍艦(とはいっても蒸気機関は備えてない大砲が三門ほどの船)丙辰丸に乗り込み江戸へ遠洋処女航海に出た。雅と晋作の結婚生活は僅か六年ほどで一緒に暮らしたのは二年足らずであった。しかし跡継ぎの嫡男・梅之進(後の東一)が生まれ高杉家は安泰となった。晋作は国事に奔走し、挙句の果てに愛人まで作って雅のことはないがしろにしているかと言えばそうではない。晋作は行く先々で雅に愛情あふれた手紙を送っていた。「読書をしなさい」と本を贈ったり、藩からもらった旅費で反物や帯を買って贈っている。また、武士の妻たるものは和歌を詠めるように細かいアドバイスをした。雅は晋作の死後、二十年経って「文見ても読まれぬ文字はおほけれど なお懐かしき君の面影」という歌を詠んでいる。高杉家は明治維新後、東京に移った。雅は嫡男の梅之進(東一)の養育につとめたが、時々萩から晋作の愛妾・おうの(谷梅処尼)が訪ね来て交流があった。梅処尼は東京に出た時は高杉邸に宿泊し読み書きが出来ないので雅が代書していたという。雅は晋作と死別したのは二十二歳の時でまだ若く美人で評判だったので、何故再婚しなかったのかは解らないが(坂本龍馬の妻・お龍は再婚した。)高杉は生前「私が死んでも再嫁せず高杉家を守ってほしい」と手紙を書き送っていた。都合のいい話だが雅はこの言葉を守り続け、長男東一を看取った後の大正十一年に七十七歳の生涯を閉じた。
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2008年10月16日

維新最大の功労者で革命児 高杉晋作

高杉.jpg高杉晋作は天保十年、長門国萩城下菊屋横丁に家禄二百国取の藩士・高杉小忠太の長男として生まれる。小忠太は上士として藩政に携わる戦国時代から毛利家に仕えた家柄のプライドの高い男であった。晋作は弘化三年に八歳で寺子屋・吉松塾に入り後の親友久坂玄瑞と知合う。嘉永五年、上士の子息が通う藩校・明倫館に入学するが、安政四年に久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入門、両親は何かと問題の多い松陰の塾に通うのを反対したが、晋作は両親が寝静まったのを見計らって夜道を通って猛勉強した。学問を単なる知識としてだけでなく実践すること説いた松陰に傾倒し、生涯の師と仰いだ。万延元年、晋作は二十三歳で山口町奉行井上平右衛門の次女・雅子と結婚。政子の回顧録によると美人で評判の政子は縁談が引く手あまただった為くじ引で晋作の嫁になったらしい。晋作は藩命で江戸へ遊学し大橋訥庵塾や昌平坂学問所に入った。丁度この次期、師の松陰は老中間部詮勝暗殺計画の罪により小伝馬町の牢に投獄されていた、晋作はここで松陰の世話をしながら教えを受けた。「男子たる者の死」について質問の手紙を出し「死は好むものでも憎むべきものでもない、死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業に見込みあらばいつまでも生くべし」との返事をもらい、晋作のその後の死生観に大きな影響を与えた。安政六年に晋作は藩命により帰藩、その後松陰は処刑される。この訃報を聞いた晋作ら松下村塾の者は幕府打倒を涙ながらに誓ったという。文久二年、藩命で幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清国が欧米の半植民地化の実情を見聞し帰国、攘夷の必要性を痛感し、同志と共に品川御殿山で建設中のイギリス領事館を焼き討ちし、また罪人の咎で処刑された吉田松陰の遺骨を白昼堂々と小塚原から運び出し途中の上野の三枚橋にさしかかったとき晋作は真ん中を通った、中央は将軍しか渡れぬ御留橋だったので橋役人が血相を変えて飛び出してきたので「よいか、これは勤皇の志士・吉田松陰先生の遺骸である。勅命を戴いてまかり通る」といって大槍を振りかざし世田谷若林村大夫山に移し改葬する。この過激な行動で幕府を刺激するのを恐れた長州藩は晋作を江戸から召還する。江戸を出立した晋作はまたしても事件を起こした。今度は箱根の関所破りをやってのけた。また京都で将軍家茂が天皇のお供で賀茂神社に攘夷祈願に行幸したが晋作は「よっ!征夷大将軍」と大声で叫び周囲を驚かせたりもした。文久三年、長州藩は関門海峡を通過する外国船の砲撃を行うが逆に反撃に合い惨敗する。下関防衛を任された晋作は廻船問屋白石正一郎邸において身分に拘らない志願兵による画期的な軍隊「奇兵隊」を組織し、開闢総督となるが、教法寺事件(奇兵隊と藩士からなる先鋒隊との殺傷事件)の責任をとり罷免される。京都において八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久四年には来島又兵衛らによる京都進撃説得の為、晋作は京都へ行くが臆病者と罵られ失敗、脱藩して京都に潜伏する。桂小五郎の説得で帰藩するが脱藩の罪で野山獄に投獄、その間に蛤御門の変で敗北し長州藩は朝敵となり来島又兵衛は戦死、親友の久坂玄瑞は自害して果てた。また、外国船砲撃の報復のためイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合が下関を砲撃し砲台を占拠する。晋作は直ちに赦免され善後処理を任され講和条約の正史として仰々しい一等礼服の烏帽子直垂を着込み筆頭家老宍戸刑馬と名乗って条約を締結するがただひとつ「彦島の租借」だけは拒絶した。晋作は古事記を朗々と語り相手が根を上げ諦めたという。長州藩は幕府による第一次長州征伐が迫る中、俗論派が藩政を牛耳り正義派を弾圧し始めたので晋作は身の危険を感じ福岡へ脱走、野村望東尼の平尾山荘に匿われた。しかし、晋作が最も信頼した正義派家老の周布政之助の切腹を聞き急ぎ帰藩、奇兵隊に挙兵を説得するが総督になっていた赤根武人や山県狂介(有朋)に断られ、伊藤俊輔(博文)が率いる力士隊ら少数で功山寺にて挙兵する。後に奇兵隊の加勢(赤根武人総督は逃亡)俗論派の首魁椋梨藤太を追放し藩の実権を握る。晋作は下関開港を推し進めた為、攘夷派と俗論派の両方から命を狙われ愛妾・おうのを連れ四国へ逃走、日柳燕石に匿われる。桂小五郎の斡旋により帰藩した。慶応元年、高杉家を廃嫡され「育(はぐくみ)」扱いになっていた晋作は藩主の命で谷潜蔵の名を頂戴し、知行百石の谷家を興す。(明治維新後、谷家は愛妾おうのが名乗り谷梅処尼となった)慶応二年、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩長同盟が締結されると晋作は伊藤俊輔と共に薩摩へ行き丙寅丸を購入(おてんとうさま丸ともいう)第二次長州征伐(四境戦争)には海軍総督として丙寅丸に乗り込み周防大島沖に停泊していた幕府艦隊に夜襲をかけこれを退け、周防大島を奪還する。小倉方面では戦闘指揮を取り奇兵隊、報国隊を上陸させ幕府軍の砲台や火薬庫を破壊、敗走させた。将軍家茂死去の知らせを受けた幕府軍総督の小笠原壱岐守が戦線離脱したため幕府軍は敗北となった。晋作は勝利の余韻が残る中、血を吐き肺結核が悪化し桜山で療養生活に入った。慶応三年、父母や妻・雅と嫡男・東一が枕元に駆けつけたが、深夜野村望東尼や山県有朋が見守る中息を引き取った。「おもしろき こともなき世を面白く」と辞世を詠んだところで力尽き望東尼が「すみなすものは こころなりけり」と付け加えた。
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2008年10月10日

「草莽崛起」の言葉を残した 吉田松陰

syoin.jpg吉田松陰は天保元年に長門国萩松本椎原台団子岩に父・杉百合之助と母・滝子の次男として生まれる。父・百合之助は長州藩下級武士で後、盗賊改方頭役についた為現代の松陰神社境内にある旧杉家に移った。松陰・幼名は虎之助には吉田大助と玉木文之進という他家に養子に入った二人の叔父がいた。吉田家は長州藩の山鹿流兵学師範の家柄であったが大助には跡取りがいなかったので虎之助が養子に入り吉田寅次郎と名乗る。寅次郎が僅か六歳の時、大助が急死し吉田家を相続することになった。そこで山鹿流免許皆伝の一人の叔父・玉木文之進が後見となって兵学教育を受ける。玉木文之進は大変厳しく、素読中の寅次郎に本の開き方が悪いといって殴り、読書中に顔のにたかった蝿を払ったといって殴り倒した。学問は公の仕事、顔を掻くのは私事、公私を混同しては長じて私利私欲を貪る人間になると説いた。寅次郎はこの厳しい英才教育によって八歳で明倫館の教授見習いとなり、十歳で毛利敬親の前で「武教全書」という兵学書を講じたという。嘉永元年、十八歳になった寅次郎こと松陰は兵学家として自立し藩校制度改革の建白書を提出、嘉永二年には藩庁から異族防御に関する意見を求められると西洋兵学も取り入れるべき戸の意見を述べた。松陰は清国が西洋列強に敗れ植民地のような扱いを受けていることを知り、山鹿流兵法では時代遅れを痛感し九州へ遊学の旅に出る。平戸・長崎・熊本と各地の学識者に会い親交を持つ。特に熊本藩士・宮部鼎蔵とは国防について意気投合し生涯の親友となる。嘉永四年、藩主の参勤交代に従い江戸へ遊学、佐久間象山と出会う。親友の宮部鼎蔵らと「海防」「国防」「水戸学」と学ぶ為東北へ遊学を計画、通行手形が下りるのが遅れ、宮部との約束に間に合わないことを憂い重罪を承知で脱藩し東北方面を廻り、江戸で脱藩の罪で連れ戻される。家禄没収、士籍抹消のうえ実家の杉家で謹慎処分となるが藩主が松陰の才能を惜しんで学問遊学を許す。江戸へ出た松陰は佐久間象山の師事を受け西洋兵学を学ぶ。安政元年、ペリーが浦賀に来航すると松陰は金子重輔とともに黒船密航を企てたが乗船を拒否され失敗に終わる。松陰は直ちに自首し、伝馬町に入牢、在所蟄居の判決を受け萩に送還され野山獄に下る。彼は獄中生活で554冊に及ぶ書物を読破し、続く二年間で1500冊を読み45編の著述を完成させた。やがて出獄が赦された松陰は叔父・玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き継ぎ、僅か三年足らずの時期を過ごす。松下村塾は最年長が小野為八四十歳から最年少の岡田耕作の九歳まで幅広く、また武士や農民、僧侶、医者など身分の隔たり無く受け入れ入門者には子供にまですべて敬語で接し、兄弟のように共に学ぼうと言っていた。塾生の中には高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋など幕末に活躍した数々の志士を輩出した。吉田松陰の教えは「学者になってはいけない、実行しなければならない。」と自らも実行することを止めず、幕府の老中間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしているのを聞き激怒した松陰は中間部詮勝襲撃計画をたて藩に武器調達を願い出た。この行動が藩にとって危険人物ととられ松下村塾は閉鎖、松陰は再度野山獄へ入れられる。その後、幕命により江戸へ護送され伝馬町牢獄にて死を覚悟し家族に「決別の書」を弟子たちには有名な「留魂録」を書き記した。この時高杉晋作からの手紙で男児たるものどう生き、どう死ぬべきかとの質問を受け「死は決して好むべきものではない、なた憎むものでもない。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」という後の晋作の生き方に大きく影響を与えた書を送った。また「留魂録」は多くの志士たちに複写されバイブルとなった。安政六年、松陰は安政の大獄最後の犠牲者として斬首され三十歳の生涯を閉じた。辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」松陰の死を知った高杉晋作は「わが師は幕吏によって殺された、この仇はきっと討たずにはおかない」と倒幕を誓った。この松陰の死によって門下生たちが倒幕に向かって動き始め明治維新の殉教者となった。
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2008年10月04日

長州藩御盾隊 品川弥二郎

sinagawa.jpg品川弥二郎は天保十四年、萩藩の検断人(検死)の父・品川弥市右衛門と母・まつの子として生まれる。安政五年、吉田松陰の松下村塾に入門、安政七年に井伊直弼の安政の大獄の巻き添えで松陰が刑死する。その後、弥二郎は高杉晋作や久坂玄瑞と共に尊王攘夷運動に加わりる。高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨ら11名で御盾組を結成し英国公使館焼き討ちなど過激な行動を起こす。また下駄に「薩賊会奸」と墨で書き、踏みつけて歩いたといわれている。元治元年、禁門の変では八幡隊隊長として戦い敗れるも囲みを破って長州へ帰り山田顕義らと御盾隊を結成する。(御盾組とは別組織)慶応元年、桂小五郎(木戸孝允)と共に上京、薩長同盟の連絡役を務め慶応二年の同盟成立後は薩摩藩邸で人質として滞在する。慶応三年、長州藩三十人通りに昇格した弥二郎は岩倉具視や薩摩の大久保利通と会見し錦の御旗と倒幕の密勅を託される。
戊辰戦争では御盾隊を率いて出陣、奥羽鎮撫総督参謀としても活躍した。維新後は渡欧して晋仏戦争を視察、帰国後外務関係に尽力、明治二十年には師・吉田松陰の遺命を忘れず、京都に攘夷堂を建立する。宮中顧問官・御料局長として皇室の財産形成に力を入れた。明治二十四年、第一次松方内閣の内務大臣に就任、松方の命で管轄下の警察を動員して選挙干渉を行い死傷者を出した。このことで国民から非難され引責辞任をした。渡欧時に学んだ信用組合の設立や独協学園や京華学園の設立などに貢献し明治三十三年に肺炎のため五十八歳で死去する。戊辰戦争のときに歌った「宮さん、宮さんお馬の前でひらひらするのはなんじゃいな・・」で有名なトコトンヤレ節は弥二郎が作ったといわれている。
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2008年06月02日

悲運の周防人 世良修蔵

世良修蔵は天保六年長州で生まれる。長州は周防と長門の二国から成っているが、修蔵はその周防の出身であった。大島の庄屋で中司八郎右衛門の三男で周防人特有の情熱家であった。幼少より秀才の誉れが高く、勤皇僧月性の教えを受けて学識を高めた。向学心が熱く、私費で江戸へ遊学し、「海防秘策」の攘夷論を唱える羽倉用九の塾へ入り、尊王攘夷の志をかためた。帰郷後、世良家を継いで世良修蔵を名乗った。文久三年、高杉晋作が「奇兵隊」を設立した折、同じ大島出身の赤根武人の誘いで入隊する。赤根が総督に抜擢されると世良はその補佐として軍監となった。長州征伐による四境戦争では奇兵隊を率いて故郷大島を占領していた幕府軍を撃破して、領民を救い、指揮官としての名声を高めた。しかし、奇兵隊内で同郷の赤根武人が長門人の山県有朋らとの権力闘争に敗れ処刑され、世良は奇兵隊を辞した。当時、長州藩では松下村塾に繋がる萩の長門人が実権を握っていたため、世良修蔵は三田尻の海軍局に入って西洋兵学を習得し、時節をまった。明治元年、同じ周防人の大村益次郎の推薦があって奥羽鎮撫総督府参謀となり、北陸道先鋒総督府参謀の山県有朋と競うように、武功を求め各地を転戦。最前線に立って松島から仙台へ兵を進め、会津若松城攻略の策を練った。福島に滞在していた世良修蔵に、仙台藩瀬上主膳からの使者が面会を乞うて来た。平身低頭して恭順を申し入れてきたが、武功に焦っていた世良はこれを拒絶した。世良の態度に憤慨した仙台藩兵は金沢屋に妾とともに宿泊していることを突き止め、同衾中を襲撃し斬殺された。享年三十四歳
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2008年05月06日

西郷と対蹠的な大村益次郎

oomura.jpg大村益次郎は文政七年、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村の村医、村田孝益と妻むめの長男として生まれる。天保十三年、防府(三田尻)でシーボルトの弟子であった梅田幽斎に医学や蘭学を習い、翌年に梅田幽斎の推薦で豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園に入門する。弘化三年、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門し、医学、蘭学を修め1年間の長崎留学を経て帰坂、適塾の塾頭になった。嘉永三年、周防に帰り村医になる。この時、村田良庵と名乗り同村の名主の娘を妻に迎える。嘉永六年、宇和島藩伊達家に招かれ、宇和島に夫婦で移住、この間に長崎に赴き、軍艦製造の研究を行ない、提灯屋の紙張職人の嘉蔵(後の前原巧山)とともに日本初の蒸気船の製造に挑戦する。この時村田蔵六と名乗り、シーボルトの娘、楠本イネと知り合う。安政三年、宇和島藩主伊達宗城の参勤にしたがって上京した蔵六は江戸麹町に「鳩居堂」という塾を開き、蘭学・兵学・医学を教え、翌年幕府に招かれ、講武所教授になる。この時期に、蔵六は小塚原刑場にて子殺しの罪で死罪になった女性の腑分け(解剖)をしていた。偶然、同じ時期に長州藩の吉田松陰が処刑され、その遺骸を引き取りに来ていた桂小五郎や高杉晋作に見出され長州藩士となる。蔵六は医者としては無愛想で患者には治療より体の仕組みの説明ばかりするので評判が悪く患者が寄り付かなくなっていた。文久三年、長州萩に帰藩し、明倫館から分離した博習堂の洋学教育教授に就任、慶応元年に長州藩の藩政改革の軍事体制を担当した。この時から大村益次郎と改名、また高杉晋作から「火吹き達磨」とあだ名される。慶応二年、第二次長州征伐が起こると石州口方面の指揮を担当し、わずかな兵を率いて幕府の大軍を撃破し一躍大村益次郎の名を世間に知らしめる。明治二年、上戊辰戦争において当時東征軍大総督府参謀の西郷隆盛が勝海舟と会談し江戸城無血開城に合意し、将軍慶喜が謹慎の態度を示していたが、彰義隊が上野に立て籠もり抵抗していた。西郷ははじめ、出来るだけ被害を出さずに済まそうとしていたが、大村益次郎が皆殺しを主張し、西郷の腹心有村俊斎(海江田武次)と衝突する。結局西郷は腹心有村俊斎を駿府に追いやり全権を大村に譲ることで決着がつき大村の攻撃計画が実行され数時間で彰義隊を壊滅させた。合理主義者の大村と人情派で感情論者の西郷とは戊辰戦争終結まで意見が合うことなく明治維新を迎える。明治二年、新政府の軍制改革で兵部大輔に就任すし近代陸軍化に没頭する(この時仮想敵国を東北ではなく西の薩摩においていたらしい、西郷を第二の足利尊氏にたとえ西南戦争を予期していた)、翌年京都三条木屋町上るの旅館で刺客の襲撃に合い重傷を負い大坂鈴木町の病院で手術を受けるが敗血症のため死去する。大村益次郎襲撃の犯人の処刑が京都で行なわれた時、海江田武次(有村俊斎)が妨害し、襲撃の黒幕は海江田だろうといううわさが広がり政府の取調べを受ける。結局、証拠が無く真相不明のまま終わる。現代の靖国神社、創設当時は招魂社に祭られている。
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2008年04月02日

傍流の名脇役 木梨精一郎

木梨精一郎は弘化二年に萩藩八組士・六十三石四斗の知行を受ける木梨彦右衛門の嫡男として生まれた。精一郎は少年時から剣と筆に長じ、藩主毛利敬親からも将来を嘱望された。先輩・高杉晋作から松下村塾の入門を誘われたが、父の望む藩校明倫館で学ぶ道を選んだ。父親に対する孝行心から進んだ道だが、後の明治新政府において傍流となる境目であった。文久三年、攘夷のさきがけとして、長州砲台は馬韓海峡を通過中のアメリカ戦艦ワイオミング号を砲撃した。精一郎も攘夷戦に参加し、長州軍本隊の副長として下関の阿弥陀寺に陣を敷いたが、翌年米艦ワイオミング号と仏艦二隻が襲来して、砲台を破壊し、下関の前田集落を焼き払った。精一郎たち藩の正規軍はなす術もなく敗走。必死で郷土を防衛したのは、高杉晋作が作った草民からなる「奇兵隊」だった。この後、精一郎は奇兵隊総督の高杉晋作と連携して行動し、高杉の俗論派一掃の挙兵に手を貸した。しかし、松陰門下生達とは距離を置き、萩藩士の立場で行動した。明治元年、戊辰戦争では東海道先鋒総督府参謀に任官。長州軍を率いて善戦し東征大総督参謀に昇進、江戸城収城を援け、仙台兵追討で総軍監となって快勝。永世賞典禄四百五十石を下賜された。しかし、明治新政府において長州系高官は吉田松陰門下生が大半を占め、木梨精一郎のよき理解者だった高杉晋作が病没していたため、重職には就けず山口県小参事を勤めた、その後兵部省に入る。明治十年に陸軍中佐、明治十九年、長野県知事となり、そして元老院議員、貴族院議員を歴任し明治二十九年に男爵を授けられる。幕末、維新にこれだけの活躍をしたにもかかわらず、松下村塾に席を置いていなかったことで、明治において出世街道より外れたのが惜しまれる。木梨精一郎は明治四十三年、旅先の京都御幸町の旅館で病死する。享年六十五歳
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2008年02月11日

見識高き維新の英傑 木戸孝允

木戸.JPG逃げの小五郎  桂小五郎桂小五郎は長州藩士和田昌景の子として生まれ、後に桂九郎兵衛の養子となる。吉田松陰の門下に入り、江戸へ出て斉藤弥九郎の錬兵館に入り塾頭にまでなる。下田の中島三郎助に造船学を学び、江川塾で砲学も学んだ。早くから水戸藩士と交流を持ち尊皇攘夷運動に入っている。池田屋の変には、時間前だった為、危機を逃れた。また、禁門の変で長州藩が敗退、小五郎は乞食に身をやつし逃亡した。これが逃げの小五郎の名の所以であった。但馬出石に商人となって潜伏していたが、伊藤俊輔(博文)、村田蔵六(大村益次郎)、野村和作(靖)らが帰藩を懇願した。慶応元年に彼は、帰藩するとたちまち討幕抗戦の藩論決定に活躍した。この年、桂小五郎から藩命により、木戸貫治に変名し、後の孝允となる。孝允は藩を村田蔵六の洋式兵制採用し、藩内俗論党の椋梨一派を処分した。中岡慎太郎、坂本龍馬の斡旋により、薩長融和の兆しが見えたが、八・一八の政変で長州勢を御所から追い出した、薩摩と会津を「薩賊会奸」といって長州人は嫌っていたので、なかなか進まなかったが、西郷が禁門の変時に抑留した長州人を長州に送還し、五卿の筑前移転をめぐっても、周旋のため生命の危険を冒した。その命がけの厚意に木戸は誠を感じ、薩長同盟につながる。そして木戸は井上馨と伊藤博文を長崎に派遣、薩摩の小松帯刀の許可を得て藩邸に潜み、英国商人グラバーから新式小銃購入に成功、長州征伐に勝利するが、盟友高杉晋作が病死してしまう。以来、木戸の舞台は政治色を強くし、西郷隆盛を中心とした武力により、戊辰戦争を経て維新となる。維新後、太政官に出仕、五箇条のご誓文草案に関与し後、参与、参議に就任、廃藩置県には西郷と並んで活躍した。米国外交官のアーネストサトウは「桂は、軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔かであった。」と語っている。佐賀の乱、西南戦争には病気を押して折衝に当たろうとしたが、立つことが出来ず「西郷もう大抵にせんか」とうわ言のように呟き息を引き取った。享年四十五歳  晩年、新政府は薩摩閥と長州閥と政争を繰り返したが、木戸孝允は潔癖で不正を許さぬ性格から、女に見境のない伊藤博文や金に汚い井上馨、山県有朋らは大久保利通に近づき、木戸は孤立し、信頼できる友は西郷だけだったので、最期まで西郷を気にかけていたらしい。
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