2011年09月14日

名門のイケメン武士 池田長発

IkedaNagaoki.gifJapanese_Mission_Sphinx.jpg池田長発(ながおき)は天保八年、幕府直参旗本七千石・池田長休の四男として生まれ幼少時から神童と呼ばれ幕府の学問所・昌平黌に入学すると秀才といわれ和漢洋のすべてに精通し槍術、馬術、鉄砲術などにも優秀な成績を残した。十五歳で同族で名門の備中井原千二百石領主・池田長溥の養子となり十九歳で将軍から吹上御庭で御目見えを許される。長発は禄高が低かった為に小普請組入り小十人組頭から二十五歳で目付、翌年には火付盗賊改め、京都町奉行と出世を重ね、家柄と勤勉、忠誠心の篤さが認められ外国奉行に抜擢され筑後守に叙された。丁度この次期、攘夷論が強まり孝明天皇が攘夷勅命を発し長州藩の下関戦争や薩摩藩の薩英戦争など各地で諸外国との軋轢が高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後に横浜近郊の井土ヶ谷村でフランス陸軍の士官三名を攘夷派(長州藩浪人といわれている)の浪士三人に襲撃されてアンリ・カミュ少尉が惨殺される事件が起きた(結局犯人は見つからず迷宮入りとなった)フランス公使・ベルクールの勧めもあり幕府は事件の解決と謝罪の為にフランスへ外国奉行の竹本甲斐守を特使を派遣しようと考えたが病気を理由に体よく断られてしまう。幕府はフランス側の非難と国内攘夷派の圧力の両方に押されて横浜再鎖港(既に諸外国の圧力により開港していたが朝廷や攘夷派の顔を立てるため)の交渉に当たらせるために池田筑後守長発を弱冠二十七歳の若さで大抜擢され欧米諸国へ派遣することを決定する。(幕府は何人もの正使候補に断られた為に忠誠心が篤く外国事情にあまり詳しくない池田筑後守に白羽の矢を立てたといわれている)池田長発は文久三年に三十四名の遣欧使節団を率いてフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出航して上海、インドを経由してスエズから陸路でエジプトのカイロにむかった途中でギザの三大ピラミッドやスフィンクスを見学、記念撮影をして翌年にフランスのマルセイユに入港後パリに到着して皇帝ナポレオン3世に謁見してフランス政府に事件の謝罪と遺族への扶助金(慰謝料)を支払った。長発はフランス外相と鎖港交渉に入るが猛烈な反論にたじたじになった。また西洋文明の強大さ思い知らせれた長発は開国論に考えが傾き交渉を途中で打ち切っただけでなく長州藩によるフランス船砲撃の賠償金問題や馬関海峡(下関)の自由航行の保障などの「パリ条約」を勝手に締結し2〜3年の西欧歴訪予定を取りやめわずか8ヶ月で帰国してしまう。(生来、生真面目で勉強熱心、幕府に対する忠誠心の熱い長発は進んだ西洋文明を目の当たりにして攘夷だ鎖国だといっている日本のことが心配でいてもたってもいられなかった)帰国後直ぐに開国の建白書を幕府に提出し熱心に開国開港を唱えたが幕府は「パリ条約」を破棄して長発の禄高半減と蟄居謹慎を命じた。(攘夷や鎖国の愚かさ開国の必要性は勝海舟ら開明派の幕臣は既に承知していたが早急に進める困難さもまた理解していたが池田長発はストレート過ぎた為に気が違えたかのような扱いをされた)その後池田長発は実兄・池田長顕の五男・長春を養子に迎えて家督を譲り隠居を願い出た。慶応三年に罪を許されて軍艦奉行並に再登用されるが数ヶ月後に病気を理由に辞職して以後政治には関わらず明治維新後は岡山に引き揚げた。領地の井原で学問所を作って青少年の育成を夢見ていたが岡山藩主の引止めにより井原には戻らず同地で病に倒れ四十二歳の短い生涯を閉じた。写真で見る限り池田長発は名門のお坊ちゃまでイケイケのやんちゃなイケメン青年だがパリから帰国時に物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造など多数の書物や資料を持ち帰り日本に多くの西洋文明を伝えようという真面目で努力家の一面が垣間見えるが幕末の乱世ではこの純粋な男には荷が重かったような気がする。
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2010年10月05日

誰が坂本龍馬を殺したか?2 渡辺篤

watanabe_atsushi.jpg坂本龍馬が近江屋で暗殺したことを自供した今井信郎(前述)は共犯者として七名の見廻り組を供述したが今井以外は既に戊辰戦争で戦死していた為に官軍はこれ以上の追及は出来ず結局今井をただの見張り役として処理した。(西郷隆盛の口添えがあり今井の言葉を鵜呑みにせざる終えなかった)しかし三十三年の時が過ぎ「近畿評論」の取材には自分が龍馬を殺害したと供述を変え、他の仲間についていまだ存命の者の名は明かせないといっていた。また時が流れ大正四年に死の床についていた一人の剣客が身内の者に坂本龍馬殺害を告白した。その剣客は渡辺篤(見廻り組時代は渡辺一郎と名乗り、今井が自供し既に戦死していた渡辺吉太郎とは別人物)といい天保十二年に京都二条城御門番組与力・渡辺時之進の長男として生まれ、京都所司代御門番組見習となり西岡是心流剣術を修め十八歳で免許皆伝、他に円明流剣術や無辺流槍術、荻野流砲術、日置流弓術、大坪流馬術など様々な武芸を修めたという。元治元年、二条城上覧試合に出場し将軍・徳川家茂から白銀五枚を賜り、同年に京都文武場剣術指南となる。蛤御門の変には二条城の警備を担当し慶応三年にその腕前を買われ京都見廻り組に編入し肝煎に昇格する。そして見廻り組与頭の佐々木只三郎の招集によって龍馬暗殺の為に近江屋に向かったといいその後暗殺成功の恩賞として十五人扶持を賜ったという。しかし、渡辺篤の告白と先の今井信郎の供述には数々の矛盾点があり信憑性を疑われた。今井の供述にはない世良敏郎なる人物の名があがったが後年調べた資料に世良なる人物が実際に見廻り組に在籍していた。(渡辺の話によると世良敏郎なる武芸未熟な者が刀の鞘を忘れたので自分が世良に肩を貸し刀を自分のはかまの中に隠しながら酔った振りをして帰ったと具体的な内容だったという)話は少しずれたが渡辺は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで敗れ大和、紀州を経て江戸へ逃れた。維新後は薩摩藩の口添えで奈良県警の監察官になり後に本部長に昇進する。晩年は京都に戻って剣道場を開き後進の育成に努め大正四年、死の床についた時に弟・渡辺安平と愛弟子・飯田常之助を呼び件の告白をおこなったという。しかしこの時期は第一次坂本龍馬ブームが続いており売名当為だという評判が立ったといわれている。(第一次坂本龍馬ブームとは維新から明治前期には土佐藩脱藩者の坂本龍馬はほとんど無名でその功績は世に知られていなかったが日露戦争が懸念され世界最強といわれたバルチック艦隊の攻撃を恐れていた時、明治天皇の后である昭憲皇后の枕元に背が高く総髪で白装束の侍が現れ私は日本海軍を守護する者なりといって日本の勝利を誓ったという。翌朝に皇后は田中光顕を呼びこの事を尋ねたのでもしやと想い坂本龍馬の写真を見せた。皇后は写真を見るやこの人物ですといったので一躍龍馬ブームが巻き起こったという。(田中光顕は土佐藩出身なので坂本龍馬を売り込んで土佐藩の名を高める為に仕組んだといわれているが田中光顕は陸援隊幹部で中岡慎太郎の信奉者だったので名前を出すなら中岡慎太郎の写真を出すべきだろうと思う。・・・)
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2010年10月03日

誰が坂本龍馬を殺したか? 今井信郎

imai.gif坂本龍馬の暗殺には諸説があり未だに確実なことは解っていないといわれています。一説によると龍馬のよき理解者であり最も信頼する薩摩藩の西郷隆盛が命令を出したという説、(薩摩藩は武力による倒幕を主張したが龍馬は日本人同士の殺し合いを嫌い大政奉還から王政復古と無血倒幕を目指したので西郷は龍馬が邪魔になったという説で実際に近江屋付近で鹿児島弁を話す侍が多数いたとの証言もあったという)また、土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬の船中八策の大政奉還論を自分だけの手柄とするため龍馬の暗殺を命じたという説(しかし、船中八策を書いた時には龍馬と後藤のほか数名の海援隊士が同席していたので龍馬一人を殺したところで無駄)、また新撰組説や新撰組から分離した高台寺党一派(新撰組はこの時高台寺党の伊東甲子太郎暗殺を計画中で龍馬にまで手が廻らなかったといわれた。)、紀州藩説(いろは丸事件の報復)など様々ですが幕臣京都見廻り組の佐々木只三郎らが一番有力とされたが当時幕府は坂本龍馬を殺害してはならないと各幕吏に通達していたといわれ定かではない。前置きはここまでとして龍馬の暗殺を自供した今井信郎は天保十二年、三十五俵取旗本・今井守胤の子として江戸湯島天神下に生まれた。十歳で御中間として出仕、十八歳で直心陰流の榊原健吉に弟子入りし二十歳で免許皆伝(片手打ちという独自の技を編み出したが某水戸藩士との試合で相手の頭蓋骨を叩き割り死なせてしまった為に師匠から以後この技の使用を禁止された)となり講武所剣術師範を拝命する。二十三歳で神奈川奉行所取締役・窪田鎮章の配下となり鎮章の父・窪田鎮勝から扱心流体術という柔術を習う。慶応三年、龍馬が暗殺される僅か一ヶ月前に遊撃隊頭取として上洛し京都見廻組に編入された。今井自身の供述によると見廻組与頭・佐々木只三郎の指揮の下、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、結城無二三ら七名が近江屋に向かったという。(今井自身は見張り役で実際に二階へ斬り込んだのは渡辺吉太郎、桂隼太郎、高橋安次郎の三人だと供述するも実行犯に名指しされた三人は鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争で既に戦死していたため真実かどうかは不明、その後の明治三十三年の近畿評論の取材に対して自分が実行犯だと供述を変えている)今井信郎は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで斬り込み隊として参戦するが敗北、江戸へ戻って古屋佐久左衛門が隊長を務める「衝鋒隊」(鳥羽伏見で戦死したかつての上司・窪田鎮章が率いていた十二連隊の残兵と十一連隊の残兵で組織)の副隊長として函館戦争(函館政府では海陸裁判役兼軍監に推された)まで戦い抜いた。しかし、明治三年、五稜郭陥落後に降伏し先の坂本龍馬暗殺を供述した。処刑を覚悟した今井だが薩摩藩の西郷隆盛の助命嘆願により禁錮刑を受けると獄中では大鳥圭介に英語を教わったという。(この西郷の口添えが西郷が龍馬暗殺の黒幕説を疑わせた)明治五年、函館降伏者の赦免が始まると今井も釈放される。今井は旧幕府の転封先の静岡に移住し静岡城の敷地内の藩校を払い下げてもらい私学校を設立、英語や数学、農業を教えたが軍事教練も行った為に静岡県庁に怪しまれた。今井は速やかに学校を県庁に無償で献納したので県庁は感心して官吏として今井を雇い入れたという。明治九年、十等出仕の伊豆七島巡視を命ぜられたが翌年に西南戦争が勃発すると今井は依願退職して東京に出る。今井は衝鋒隊時代の部下を集め警視徴募隊一等中警部心得となると部下を率いて九州に乗り込み官軍としてではなく命の恩人で西郷に合流しようと考えていたが出発前に西郷自決の報を受け部隊は解散、警部の職を辞しては静岡県榛原郡初倉村に帰農し村長として牧ノ原台地で他の幕臣達と開墾に励む。この頃、静岡にキリスト教の宣教師が盛んに布教活動を行っていたがこのことを不愉快に思っていた旧士族たちは宣教師を斬ろうと話し合った。今井はその斬り役に選ばれ宣教師に会うがこの言葉に感銘を受けキリスト教に入信し以後静かな余生を送った。大正七年に脳卒中によりその生涯を終えた。享年七十八歳・・・坂本龍馬の養子となった元海援隊の高松太郎(養子後は坂本直)もキリスト教に改宗し龍馬の法要に今井信郎を招待した
というが今井が本当に暗殺犯ならどういう気持ちで龍馬の墓前に立ったのか今では知るよしもない。
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2009年12月04日

海舟や龍馬からも慕われた幕臣 大久保一翁

0054_l.jpg大久保一翁は文化十四年、西ノ丸留守居役旗本(五百石)大久保忠向の子として生まれる。初名は忠正後に忠寛と改め通称は三市郎という。天保元年に十一代将軍家斉の小納戸として初出仕、その後小姓となる。天保八年に新将軍家慶の小納戸となり翌年に家督を継いだ。嘉永六年一翁が三十七歳の時に浦賀にペリーが来航後、老中首座の阿部正弘の抜擢により目付兼海防掛に任命される。この時期、勝海舟が提出した海防意見書に興味を持ち、老中首座の阿部正弘に紹介して海舟の出世の道を開いた。また、訪ねてきた海舟の愛弟子の坂本龍馬に大政奉還や諸侯会議制の持論を話し、後の「船中八策」のアイデアを与えたと云われている。安政三年、貿易取調御用、蕃書調所頭取を兼任して講武所の創設に尽力する。翌年、長崎奉行(貿易が許されている唯一の町である長崎では商人たちによる賄賂が横行しており、長崎奉行を一年務めれば蔵が幾つも建つといわれるくらい美味しい職であった。)に任命されたが一翁は「長崎奉行は数千石の裕福な旗本なら務まるが、私のような五百石の小身では賄賂の餌食になるだけだ。」と言って頑なに拒んだ為に駿府奉行に左遷されてしまう。安政五年、老中首座の阿部正弘が死去した後大老に就任した井伊直弼によって禁裏付に翌年に京都町奉行となる。井伊は大久保の剛直な性格を利用して京都に跋扈する志士たちを一掃しようと考えた。しかし、一翁は安政の大獄には否定的であり、京で志士たちを取締まる捕吏の横暴を赦さずこれを処罰した。井伊は一翁の安政の大獄に消極的姿勢を見せた為に京都町奉行を罷免し西ノ丸留守居に左遷、翌年にはこれも罷免して旗本寄合に降格される。文久元年、桜田門外で井伊直弼が暗殺されると幕府は情勢不安に対応する為、一翁を再び呼び戻し蕃書調所頭取に再任、文久三年に大目付兼外国奉行に就任する。この時期に松平春嶽や横井小楠等と面談し「もしも朝廷が攘夷断行を撤廃しないのなら徳川幕府は大政を奉還し旧領の駿河・遠江・三河の三州に帰り諸侯による議会制にするべきと自説を説いた。(実際に大政奉還する五年も前のこと)この話を伝え聞いた将軍・家茂の後見人をしていた徳川慶喜は激怒して大久保一翁を罷免し講武所奉行に左遷された。その後、勘定奉行に任命されるがここでも老中と衝突して僅か五日で罷免となり旗本寄合となる。大久保は四十九歳で早々に隠居し、一翁と名乗り再三の出仕命令を拒んだ。第二次長州征伐が始まるがなかなか兵の士気が上がらず、困り果てた老中たちは意見を聞くために大久保一翁を大坂に呼び出した。一翁は長州征伐の無意味さを説き、兵を引くことを提案したがこれを却下され家茂亡き後将軍職に就いた慶喜は京都にあって一人息巻いていた。大久保一翁は慶喜の凡庸さに失望し江戸へ戻る。鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まると徳川軍は賊軍のレッテルを貼られ将軍慶喜は慌てて大阪城から撤退、多くの幕府軍兵士を残したまま江戸へ逃げ帰る。幕府瓦解後の困難を乗り切る為、大久保一翁は若年寄、会計総裁に選出され陸軍総裁となった勝海舟と共に恭順謹慎している将軍慶喜の意を受けて徳川家救済に奔走する。またこの時期、朝廷からも静寛院宮(和宮)、薩摩藩から天璋院(篤姫)の身の安全を頼まれたという。大久保一翁は幕府からも朝廷からも信頼されていたといえる。一翁は江戸城無血開城に向けて勝海舟と共に尽力、勝と山岡鉄舟が実行部隊として東征総督府参謀の西郷隆盛と会談する一方で一翁は江戸城にあって徹底抗戦を叫ぶ幕府軍残党を説得し、特に新撰組を甲陽鎮撫隊として軍資金を与えて江戸から追い出すことに成功した。また、新政府軍に武器を供給していたイギリスの公使パークスを説得(もしも内戦によって江戸が火の海になったらイギリス人が居留している横浜にも被害が出ると説得し、恭順している者を死罪に処するは道理に反すると言って新政府との仲介を頼んだ)パークスが江戸総攻撃に反対していると聞いた西郷は勝海舟と二度目の交渉を行い江戸城無血開城が決定し、一翁は東征総督府から江戸の鎮撫取締りを命ぜられる。後年、大久保一翁と勝海舟と山岡鉄舟は江戸幕府の三本柱と讃えられた。維新後は徳川宗家を継いだ徳川家達が駿府七十万石に封ぜられると一翁は家達の補佐をして藩政を取り版籍奉還後には静岡藩権大参事となる。明治四年に廃藩置県が行われ静岡県参事に就任、翌年には文部省二等出仕、東京府知事になり東京会議所の設立を図るが旧幕臣による自治は認められないと大久保利通に反対され潰されてしまう。また、江戸時代からある寺子屋の存続を巡って文部省と対立し知事を退任。その後、教部少輔、明治十年に元老院議官に任ぜられる。明治二十年に子爵を授けられ翌年に七十二歳の生涯を閉じる。徳川家康の三河以来の武将であった大久保一翁の先祖は戦において常に殿(しんがりは軍の最後尾に位置し常に敵と接し前方の見方を無事に逃がす役を担ったもっとも危険な場所)を務め武勇を誇った。時代が下り江戸幕府崩壊の折、最後まで徳川家を守り幕府の幕を引いた一翁の役割もしんがりのような大久保家の因縁かも知れない。
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2009年11月13日

ビールを片手に微笑む侍 立石斧次郎(長野桂次郎)

beer400.jpg立石斧次郎は天保十四年に江戸小石川の小日向馬場東横町(現・新宿区東五軒町)に直参旗本の小花和度正(後に日光奉行)と母・クル(直参小姓組・米田藤太郎の娘)の次男として生まれた。しかし、病弱で今にも死にそうだったので出生届けを幕府に出していなかった。斧次郎が三歳の頃、病弱を理由に下総松戸の豪農・横尾金蔵方に里子に出され横尾為八と呼ばれた。嘉永六年頃、為八は母の実家米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となる。(実際は小花和家の祖母が養育したという)嘉永七年頃(為八十一歳)米田家の叔父で幕府のオランダ語通弁の立石得十郎のもとで語学を学んだ。安政二年には下田奉行所に所属した立石得十郎は家族と共に下田に住んだので為八は住み込みでオランダ語を本格的に習った。下田の森山栄之助から英語を学び、安政四年には幕府の許可を得てアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を教わった。翌年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に為八は長崎へ英語の勉強に出る。長崎には姉の寿賀とその夫・加藤金四郎(長崎奉行所組頭)が居り為八の面倒を見てくれたという。幕府が長崎に英語伝習所を設立し英国人のフレッチェル等が教授を勤めて英語を教えていたので為八はここへ入学する。(しかし、為八の英語のレベルが進んでいて生徒というより教授の助手を務めている)為八が十五歳の頃に幕府は外国の圧力に屈し長崎と神奈川、函館の三港を開き貿易を許した。為八は長崎から呼び戻され神奈川の運上所(港の税関)の通訳見習いとして採用される。安政七年、為八十六歳の時に幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討、為八は母方の叔父・立石得十郎の養子となり立石斧次郎と改名し使節団の随行を許された。遣米使節団はアメリカ海軍の蒸気船ポーハタン号に乗り正使 外国奉行兼神奈川奉行 新見(しんみ)豊前守 副使 外国奉行兼神奈川奉行・箱館奉行 村垣淡路守 監察目付 小栗豊後守忠順(後の小栗上野介・使節の実質的な最高責任者)に養父・立石得十郎と共に乗り込んだ。養父・得十郎は斧次郎のことを為八から「タメ、タメ」と呼んでいたのでアメリカ人乗組員は斧次郎のことを「トミー」と呼んで可愛がったという。(他に諸説あり)この正使が乗ったポーハタン号の護衛兼外洋航海演習として勝海舟が艦長を務める咸臨丸が随行した。斧次郎ことトミーはサンフランシスコ到着までの航海中、毎日十数回もアメリカ人士官室に出入りしては愛嬌を振りまいて英会話を習得したという。また、乗船していた牧師・ウッドから毎日二回英語を教わった。サンフランシスコ港に入港後使節団は鉄道に乗りワシントンに到着、熱烈な歓迎を受けたがとりわけ「トミー」こと斧次郎は巧みな英会話でアメリカの婦人たちからもてはやされた。当時の新聞によると「トミーは若き日本の美しい代表」など新聞によっては大きな肖像を載せて「お忍びのプリンス」と掲載した。当時アメリカでは「トミーポルカ」なる歌まで作って歓迎されたという。「トミー」こと斧次郎は帰国後の万延元年に十七歳で十人扶持の御雇い通詞として幕府に取り立てられ、翌年にはハリスの通訳官ヒュースケンが攘夷派の薩摩浪士に暗殺されてしまう。斧次郎はヒュースケンに代わりアメリカ公使館にハリスの通訳として勤める。十八歳から二十歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、外国奉行御書翰掛としてフランス語通訳・田辺太一や益田孝(後の三井物産社長)や英語通訳・福沢諭吉等と共に働く。この間、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き半年の住み込みで英語以外は話すことを禁止した教育を行った。文久二年十九歳の時に十八歳の妻・照との間に長男をもうけるも妻・照は三十三歳の若さで亡くなっている。翌年、実兄・小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され名を「米田桂次郎」と改め、「立石斧次郎」の名は消滅する。慶応元年の動乱の時には兄・小花和重太郎と共に長州征伐に向かう将軍・家茂に騎馬軍装で随行する。慶応三年に兄の小花和重太郎とビールを片手に微笑んでいる当時としては珍しい写真が撮影された。(大阪城駐屯中に将軍・慶喜とアメリカ公使ヴァン・ファルケンバーグとの内謁見で通訳を無事に果たした祝いにアーネスト・サトウから贈られたイギリスビールを兄と酌み交したときの写真)慶応四年に鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まり桂次郎は兄・小花和重太郎と共に将軍・慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰る。その後、官軍の板垣退助が日光東照宮を焼き払う命令を出したと聞くや兄・重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流、父が奉行を勤めた日光を守る為に戦う。宇都宮でゲリラ戦のような苦しい戦いの中、兄・重太郎が敵弾を腹部に受け死亡、桂次郎は兄の遺体を背負って三日間山中を戦い日光の浄光寺に葬ってもらう。桂次郎はその後も戦い続けるが大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負い落馬失神してしまう。一命ととり止めた桂次郎は大鳥圭介と共に仙台へ脱出、武器商人のプロシア人ヘンリー・シュネルと共にフランス船で上海に渡る。桂次郎は旧幕府軍の為に武器を調達しようと奔走するが、その時パリ万博に将軍名代として行っていた徳川昭武一行が急遽帰国途中に立ち寄った上海で偶然遭遇する。桂次郎は一行に随行していた旧知の渋沢栄一に事情を説明し協力を要請するが渋沢にもうそんな時代ではないと強く諭され武器調達を断念して帰国する。明治二年頃に帰国した桂次郎は小日向水道町の実家に戻るが新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていた。父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主の長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名、以後桂次郎の子孫は「長野姓」を名乗る。明治三年の二十六歳の頃、桂次郎がかつて下谷七軒町の英語塾教えていた愛弟子の三宅秀が教授を勤めていた金沢の英学校を辞職するにあたり後任を探していたところ、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で後任に就くことになった。三宅秀はかつての恩師が後任と聞いていたく喜び自分の家財道具一式を贈って帰京したという。翌年、桂次郎に明治政府から帰京命令を受けた。政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになった。一行はアメリカ号に乗船して出港、十二年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、今回は革命政府の通訳として洋服で訪米した為に使節団は歓迎されず、しかも天皇の委任状を持っていなかった為に面会も許されなかった。大久保利通と伊藤博文が委任状を取りに戻っている間、無駄に時間を過ごし大した活躍も出来ぬまま桂次郎は二等書記官の職を解任され工部七等出仕に格下げされる。(船内で誰にでも気軽に声をかける性格が災いし無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われているが詳細は不明)帰国後の明治五年頃には工部省鉱山寮七等出仕として伊藤博文の下で働くが明治十年に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。官職に見切りをつけた桂次郎は家族を連れて北海道石狩へ移住する。石狩では英国スコットランドで実験された缶詰事業を興すが後に開拓使に接収され、一家は札幌郊外の軽川で開拓に従事する。明治十四年には亡兄・小花和重太郎の妻・直子と長男太郎が加わる。この頃、炭田事業が始まり開拓使に採用される。しかし、翌年には開拓使は廃止され農商務省の管轄になり炭鉱鉄道之部所属岩内炭山の主任になる。しかしこれも廃坑となり収入の道は閉ざされ帰京、明治二十年にハワイ移民監督官となって一家でハワイ王国に移住する。明治二十二年、四十五歳の時に生活が困窮して帰国、一家は麻布三ノ橋に家を買った。明治二十四年に大阪控訴院に招かれ単身赴任し中ノ島の官舎に雪という女性と暮らす。その間に東京に残してきた二度目の妻・わかが死去。明治四十二年、六十六歳で退官した後西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、大阪控訴院時代に身の回りの世話をしていた雪を呼び寄せて再婚、大きな愛犬ジム(ラブラドールレトリバー)と共に暮らした。大正六年に七十七歳で死去。長野桂次郎の先祖は平安時代には三十六歌仙の一人・在原業平で時代が下り戦国時代では武将で上州長野原箕輪城主長野業正といい武田信玄等と戦い勇名を馳せ、現代では長野家の当主は長野和郎氏で同じひ孫に前フジテレビの女子アナで現フリーアナウンサーの長野智子がいる。
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2009年04月08日

最期まで忠誠を尽くした幕臣 永井玄蕃頭尚志 

永井玄蕃頭尚志は文化十三年、三河奥殿藩藩主・松平乗尹と側室との間に生まれた。しかし、晩年の子であった為に家督は養子の松平乗羨が既に継いでいたので二十五歳の頃に旗本・永井尚徳の養子となった。弘化四年、小姓組番士に登用され、御徒士頭を経て嘉永五年に幕府から御目付役に任命され、安政元年に長崎海軍伝習所総監督となる。(この時の生徒に勝海舟や榎本武揚らがいた。)この間にスターリン率いるイギリス艦隊やオランダと条約締結について交渉を行った。一年後、江戸へ呼び戻された尚志は築地の軍艦教授所の開設を任される。その後、外国奉行や軍艦奉行を歴任し幕府海軍の強化に尽力し、また松平春嶽に呼応して一橋慶喜の将軍擁立に協力する。しかし、井伊直弼が大老に就任すると安政の大獄が始まり、開明派幕僚の岩瀬忠震らとともに家禄没収、隠居、差控の重い処分を受ける。その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると松平春嶽が政治総裁に就任すると永井も再び復職して京都町奉行に任命され上洛、開国派の永井は京都の攘夷運動を抑えることに尽力する。八月十八日の政変で松平容保らとともに長州藩と攘夷派公家の
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2009年03月06日

最後のエリート幕臣 川路聖謨

kawaji.jpg川路聖謨は享和元年に豊後国日田代官所の属吏・内藤吉兵衛の長男として生まれるが、文化九年に十二歳で小普請組・川路三佐衛門の養子となり、翌年には元服して小普請組に入る。その後、勘定所の筆算吟味に合格して支配勘定出役に登用された後、勘定所評定所留役に昇進して旗本に列せられる。寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向して奉行の脇坂安薫に命じられ但馬出石藩の「仙石騒動」を裁いて実力を認められ、老中・水野忠邦の推挙によって勘定吟味役に任命され大出世する。この時期、向学心ゆたかな聖謨は江川太郎左衛門英龍や渡辺崋山、藤田東湖、間宮林蔵らと交流し江川、渡辺らと「尚歯会」に参加して西洋技術や海外事情を研究した為、「蛮社の獄」で目付の鳥居耀蔵に狙われる。水野は聖謨の才能を惜しんで佐渡奉行として遠国へ行かせて危険を回避させ、一年間の遠国生活の後に呼び戻され小普請奉行に任じられた。しかし、老中・水野忠邦の「天保の改革」が挫折し失脚した為、政争に巻き込まれることを恐れた次の老中首座・阿部正弘の配慮によって聖謨は奈良奉行に任命、その後大坂東町奉行を経て嘉永五年に公事方勘定奉行に就任し五百石知行取となる。翌年にペリー艦隊が来航した時に開国を唱え、長崎にロシア使節プチャーチンが来航した時には交渉を担当してその翌年の下田での日露和親条約の調印をした。安政五年、堀田正睦に同行して日米修好通商条約の締結に調印した。しかし、阿部正弘の下で働いていた聖謨は一つ橋派と見られ井伊直弼が大老に就任するや二千石の石高こそ変わらないが月に二、三回出るだけの西丸留守居役という閑職に左遷され、それも罷免されて蟄居差控えを命じられる。文久三年に外国奉行に復帰するも病気を理由に役を辞して引退する。その後、中風による半身不随や将軍・家茂の急逝、孝明天皇の崩御、鳥羽伏見の戦いの惨敗を聞き、茫然自失する。聖謨は幕臣として新政権下に生き延びるを潔しとせず、徳川幕府の滅亡に殉じようとした。勝海舟と官軍の西郷隆盛の会談で江戸城開城を伝え聞くと厠に立って腹を切り、白布を巻いて寝室に入り妻・高子に白湯を持ってくるように命じると喉をピストルで撃って絶命した。享年六十八歳・・・
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2009年02月19日

近藤勇上洛中の試衛館世話人 福田平馬

福田平馬は生年不詳、幕臣・神奈川奉行所の御先手与力として勤める。江戸試衛館の近藤周助の弟子、天然理心流の使い手であり性格は温厚、近藤勇を兄・父のように慕っていたという。文久三年、近藤率いる試衛館一門が浪士組として上洛した後、道場の世話役の一人として留守を預かった。留守中の道場は広すぎる為、牛込二十騎町に小さな家を買って近藤勇の妻・つねと娘・たまが暮らしていた。慶応三年に師である近藤周助の葬儀に参列後、勇の依頼によって勇の妻・つねと娘・たまを江戸郊外中野村本郷の成願寺に移した。(ここには京都から帰ってきた沖田総司が来て京都の出来事を語ったと言う。)牛込二十騎町の家は平馬が貰いうけ住んだという。江戸へ戻った新撰組は甲陽鎮撫隊として甲州に向かう時に福田平馬もこれに加わる。近藤は大久保剛と改名し、故郷に錦を飾って宴会を開いてる間に甲府城は新政府軍の手に落ちていた。福田平馬は近藤の命を受けて新政府軍と話し合いに赴くが途中、発泡されて引き返した。また、元神奈川奉行所与力の伝手を使って神奈川警備の菜葉隊(なっぱ隊)に援軍依頼をするが菜葉隊は動かず近藤勇は新政府軍に投降、捕縛されて板橋に監禁されてしまう。このことを成願寺の家族に知らせた後、土方歳三と相談の上、江戸の勝海舟に救護を懇請するが流山で勇は斬首されてしまう。その後、府中定役となって駿府に移住、維新後は神奈川県庁役人となるが詳細は不明。
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2009年02月05日

幕府遊撃隊隊長 人見勝太郎

Katsutaro_Hitomi.jpg人見勝太郎は天保十四年、二条千本の十軒長屋に京都文武場の文学教授を務めていた幕臣・人見勝之丞の長男として生まれた。初名を寧(やすし)といい、十歳の時に儒学者・牧百峰に入門、剣を西岡是心流の大野応之助に習う。文久三年、勝太郎が二十一歳の時に二条城で滞在中の将軍・家茂に孟子を講義し白銀三枚を、剣撃の上覧試合に於いても白銀三枚を賜り「知勇の人」と呼ばれた。大政奉還後、幕府が奥詰、講武所師範が中心になって結成された「幕府遊撃隊」に勝太郎は抜擢され入隊する。慶応三年、鳥羽・伏見の戦いに従軍し幕府軍が敗走、東帰後に置き去りにされた負傷兵の救出や敵情の視察などを行った。江戸へ入った人見勝太郎ら遊撃隊は将軍・慶喜が上野寛永寺での蟄居謹慎に警護としての任に就いた。しかし、慶喜が水戸へ退去することになると千住大橋まで見送ると人見、佐久間兵一郎、旗本の岡田斧吉、伊庭八郎、和田助三郎ら抗戦派の三十六名と脱走、海軍副総裁・榎本武揚ら旧幕府軍と共に海路房総半島の館山へと行く。だが、榎本が勝海舟の説得に応じて品川沖に待機すると人見と伊庭らは榎本と決別して木更津へ上陸、請西藩主・林忠崇と会見し伊豆韮山、相州小田原の兵を束ねて東海道へ出陣して官軍を迎え撃つ計画を立てる。江戸を脱走した頃の人見と伊庭らは僅か三十六名だったが請西藩兵、館山、勝山の諸藩兵、岡崎藩脱藩兵が同盟を結び三百名を超える同盟軍が再結成された。(人見と伊庭は隊長で請西藩主の林忠崇が名目上の大将)しかし、小田原藩の去就が定まらないまま箱根へ出陣、江戸上野で彰義隊開戦の知らせが入ると一部の部隊が突出して小田原藩兵と開戦状態になり大混乱に陥る人見は旧幕府海軍に援軍を要請しにいっている間に伊庭八郎が片腕を斬りおとされる重傷を負い敗退してしまう。熱海で敗軍と合流した人見達は重傷の伊庭を置いて奥州に向かう。白河口に出陣準備中に平潟に官軍が上陸したとの知らせを受け出兵し敗北を喫する。米沢から仙台に入ったところで請西藩の林忠崇らが恭順と決したため、人見や岡田斧吉らは榎本艦隊に合流して蝦夷地へ渡航する。鷲ノ木浜に上陸した榎本艦隊で人見と岡田は旧幕府軍の軍監に選ばれ遊撃隊から一時離脱、函館を目指した人見は伝習歩兵一小隊を率いて先発し途中で敵兵と遭遇するが是を討破る。函館占領後、人見は入り札(日本初の選挙)による函館政府の閣僚十三人の内の松前奉行に選出された。松前に赴任すると熱海で別れた伊庭八郎と再会し合流する。しかし、翌明治二年に新政府軍が上陸、函館で迫り周辺各地で旧幕府軍が敗北、遊撃隊も奮戦するが叶わず伊庭八郎は木古内の戦いで重傷を負い五稜郭に運ばれるがモルヒネを飲んで自害する。人見は七重浜の戦いで爆風に吹き飛ばされ顔面から落馬して大怪我をして降伏(チョッと情けない気もするが・・)明治三年に赦免された人見は勝海舟から十両の旅費と西郷隆盛宛の紹介状をもらって鹿児島へ遊学の旅に出る。鹿児島では西郷の側近達が人見は西郷を暗殺するつもりかと警戒するが逆に西郷に心酔して東京に帰ってくる。西郷に会ったことで気持ちを切り替えた人見は勝の援助を得て静岡に私立英語学校を経営、明治九年には大久保利通内務卿の推挙を受けて明治政府に出仕、勧業寮の製茶業務に就く。明治十二年に茨城大書記官を経て翌年には茨城県令に就任する。その後、官を辞して民間に転じ、鉄道ブームで沸き返る日本で海運業に目をつけ運河の必要性を説いて利根運河株式会社の初代社長に就任する。また、サッポロビールの会社設立にも関与するなど先見の明を発揮して実業家として成功を収める。しかし、決して過去を忘れた訳ではなく函館戦争の往時を偲んで早雲寺に遊撃隊隊士の墓の建立なども行った。大正十一年に八十歳の生涯を終え遺言により生まれ故郷の京都出水千本の長遠寺に墓に葬られた。函館戦争の折、七重浜の戦いで落馬して重傷を負った時に手に持っていた辞世の句が書かれた指揮旗が爆風で吹き飛ばされた。それを拾って持っていたのが敵陣にいた長州藩士・品川弥次郎で維新後に品川から手渡されたという。その後人見と品川との交流が始まり敵と味方が時を越えて友情を深めたという。
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2009年02月04日

旧幕府脱走軍の美男子 春日左衛門

春日左衛門は弘化二年に三千石の旗本の家に生まれ、幼い頃から朱子学を学び剣の腕前も相当で道場を構える程といわれている。また、「美麗にしてもっとも強気なり」と評され「容姿端麗で尚且つ豪気な男」であった。慶応四年に旧一橋家の家臣や奉行所同心達が輪王寺宮を奉じて彰義隊が結成されると春日左衛門は天野八郎に誘われて第二黄隊隊長となりその後、頭並に就任する。上野戦争が始まり敗走すると自棄を起こして切腹しようとするが止められ陸軍奉行松平太郎らと合流して再起を図り江戸を脱走して海路奥州へ向けて出航し平潟(現・茨城県北茨城市)に上陸した。この頃、新撰組の相馬主計や野村利三郎も合流した春日は陸軍隊隊長として奮戦するが奥羽越列藩同盟が瓦解、仙台藩は降伏し、陸軍隊は敗走する。海軍副総裁の榎本武揚や土方歳三と合流して蝦夷地へ向かった。蝦夷上陸後は土方歳三ら新撰組と函館に入り五稜郭入城の順番を巡って新撰組の野村利三郎と斬り合い寸前の喧嘩をしたといわれる。函館政府の榎本政権下では歩兵頭並、陸軍隊隊長として松前攻略戦に参加し奮戦する。また、どういう経緯か新撰組時代の土方歳三の小姓を務め、函館では榎本総裁附になっていた少年・田村銀之助と養子縁組をしている。(一説には男色関係か?といわれている。)蝦夷地平定後は遊撃隊と共に春日左衛門率いる陸軍隊は松前警備を任された。明治二年、新政府軍が乙部に上陸し江差を制圧し松前に迫る。陸軍隊は遊撃隊と迎え撃つが兵力に圧倒的な差があり、間もなく松前城が陥落、春日は知内、木古内を転戦するが亀田新道の戦いで重傷を負い五稜郭へ担ぎ込まれる。同じ頃、伊庭八郎も重傷を負い五稜郭の同部屋に収容された。新政府軍がいよいよ函館総攻撃に入るという前日に、榎本武揚総裁は春日と伊庭がいる部屋を訪ね湯の川に移って療養するように説得するが二人は断固拒否する。榎本は仕方なく彼らに致死量のモルヒネを渡して服毒自害を勧めたという。春日左衛門 享年二十五歳・・・養子の田村銀之助は五稜郭落城前に逃亡するように榎本から諭されたが拒絶し最期まで春日の看病を続けた後降伏し大正まで生き延びた。
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2009年01月24日

幕末三舟の一人 高橋泥舟

高橋泥舟は天保六年、旗本・山岡正業の次男として生まれる。山岡家は槍の自得院流の名家で百石取りであったが長男・山岡静山が家督を継ぎ、次男の泥舟は母方の家督を継ぎ高橋包承の養子となった。泥舟は精妙を謳われた兄の静山について槍の修行をし、海内無双、神業に達したと評されるほどの実力をつけた。しかし、山岡家を継いだ兄・静山が二十七歳で早世してしまい泥舟も他家に養子で出ていたので妹の英子が道場の門人だった小野鉄太郎を婿養子に迎え山岡家を継いだ。(この人が山岡鉄舟で泥舟の義理の弟となった。)泥舟は小石川鷹匠町に百四十坪の拝領屋敷を構え、二十一歳で幕府講武所槍術教授方出役、二十五歳で槍術師範役を経て二の丸御留守居格布衣を仰せつかる。文久三年、一橋慶喜に随行して上洛し御徒頭となり従五位下伊勢守に叙任された。この時、清河八郎の立案で「浪士組」が結成され将軍・家茂の上洛中の警備を名目として江戸より京へ同行、泥舟は家茂よりこの「浪士取扱」を命じられる。しかし、清河ら浪士組の一部は浪士組を尊王攘夷運動を画策していることが露見し江戸へ呼び戻される。(この浪士組の中から芹沢鴨や近藤勇らが京都に残り後の新撰組となる。)泥舟は清河と親しかったことで幕府から倒幕派と繋がりがあると疑われ清河は佐々木只三郎に暗殺され、泥舟は任を解かれ小普請人差控となる。その後、講武所槍術師範に復帰し、講武所が廃止されると新設の「遊撃隊」頭取兼槍術教授頭取となる。慶応四年、幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ逃げ帰った将軍・慶喜に恭順を説いて江戸城から上野東叡山に退去恭順した慶喜の護衛をした。徳川幕府の全権を任された勝海舟は今後の徳川家処分問題の交渉に於いて官軍の西郷隆盛への使者に「誠実かつ剛毅な人格」を見込んで高橋泥舟に白羽の矢を立てた。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られ、情勢不安の中で片時も主君・慶喜の側を離れるわけにはいかなかった。泥舟は自分の代わりに生家・山岡家を継いだ義弟の山岡鉄舟(元・小野鉄太郎)を勝海舟に推薦し、鉄舟がその大役を見事に果たした。江戸城無血開城後、慶喜が水戸に退去する時にも護衛し、徳川家が静岡に移住する時にも従って地方奉行を務めた。廃藩置県後に職を辞して東京へ戻り隠棲して書画骨董の鑑定で後半生を過ごした。明治新政府から高給での任官の誘いがあったが、泥舟は主君の前将軍が一生世に出られない身になっているのに自分が官職について出世栄達や叙爵を求めることは出来ないという姿勢を貫いた。また、義弟の鉄舟が没した時に山岡家にかなりの借金が残った。泥舟はその返済を引き受けたが勿論泥舟にもそんな金は無かったので金貸しに借金を申し込んだが「担保は何か」とたずねられ「わしの顔が担保だ」と返答したところ金貸しは「泥舟先生がおっしゃるなら」と借金の全額を引き受けたという逸話が残っている。高橋泥舟は明治三十六年に牛込矢来町の自邸で六十九歳の生涯を閉じた。「幕末の三舟」として有名な勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人の幕臣の中で一番知名度の低い高橋泥舟は槍一筋に生き、主君・慶喜が最も信頼し片時も離さなかった為に歴史に名を残すことが出来なかったが間違いなく幕末偉人の一人だと思う。
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2008年12月25日

幕末最後の剣客 榊原鍵吉

s0244l.jpg榊原鍵吉は文政十三年、江戸麻布の広尾に御家人・榊原益太郎友直の長男として生まれる。天保十三年、十三歳で広尾からほど近い狸穴に道場を構える直心影流男谷派の男谷精一郎信友に入門する。しかし、同年に母が死去し父・益太郎は鍵吉たち五人の兄弟を連れて下谷根岸に移住することに決めた。しかも、母に代わって長男の鍵吉が家の雑務や四人の弟の面倒を見ることになり狸穴の道場へ通うのに大変不便であった。見かねた師匠の男谷は根岸に近い千葉周作の玄武館や斉藤弥九郎の練兵館への移籍を促した。しかし、鍵吉は一旦入門した以上変えるつもりはないといって通い続けた。鍵吉の剣はめきめき上達したが、家が貧乏なため切紙や目録など費用のかかる免許状を求めることが出来なかった。事情を知った師匠の男谷精一郎は一切の費用を取らずに免許皆伝を与えたという。安政三年の二十七歳の時、師匠の男谷の推薦で築地講武所の剣術教授方となり、後に師範役へと進む。四年後、講武所が神田小川町に移転した際、開場式に将軍・家茂や大老・井伊直弼らが臨席しての模範試合が催された。鍵吉は槍の達人・高橋謙三郎(号を泥舟といい、勝海舟の義兄で山岡鉄舟と幕末の三舟と呼ばれた。)と立ち会い見事に勝利した。この試合を見ていた将軍・家茂は大いに気に入って将軍の個人教授を務める。文久三年、将軍・家茂が上洛する際の警護役となって京都に随行、二条城内で新規召抱えの天野将監と試合をする。天野は新規召抱えの意地もあってなかなか「参った」と言わなかったので鍵吉は強烈な諸手突きで打ちのめしたと言う。また、この時期京都四条河原で鍵吉は三人の土佐浪士を斬ったといわれる。慶応二年、将軍・家茂が大阪城で没すると鍵吉は江戸へ戻るが講武所が廃止となり遊撃隊頭取となる。しかし、直ぐに職を辞して下谷車坂に道場を開く。慶応四年、上野戦争が始まると彰義隊には加盟せず輪王寺宮公現入道親王の護衛を引き受ける。鍵吉は土佐藩士数名を斬り倒し、越前屋佐兵衛と二人交代しながら輪王寺宮を背負って三河島まで脱出した。維新後、鍵吉は新政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、「二君に使える」を良しとせずこれを断り、代わりに弟・大沢鉄三郎を推挙した。明治五年、士分以下の帯刀が禁じられると道場の経営が立ち行かなくなり、多くの武芸者が職を失う。鍵吉は武芸者救済のため「撃剣会」を組織して浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行を始める。これが評判となり反対していた武芸者たちも加わり東京四十箇所で行われた。また、明治二十年に天皇が伏見宮邸を訪れた際には愛刀・同田貫で名工・明珍鍛三によって作られた南蛮鉄桃形の兜を見事に斬り割った。晩年は講釈席や居酒屋を営んだがうまく行かず車坂の道場で後進の指導に当たったと言う。(道場にはシーボルトの子ハインリッヒや英国領事館員、ドイツ人の東京帝大講師、陸軍学校のフランス人剣術教授など様々な人たちが榊原鍵吉の教授を受けた。明治二十七年脚気衝心の為、六十五歳で死去した。鍵吉は死ぬまでちょん髷を切ることを拒んだと言う。
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2008年12月18日

勝海舟のライバル 小栗上野介忠順

Oguri_Tadamasa.jpg小栗忠順は通称・又一といい、上野介で有名、文政十年に旗本二千五百石の禄高で新潟奉行の小栗忠高の子として江戸駿河台に生まれる。八歳の頃から屋敷内の安積良斎塾に漢学を学び、剣を直心影流の島田虎之助に学んだ。文武に抜き出た才能を発揮して自分の意思をはっきりと主張する性格で十二歳で煙草を燻らせながら大人と対等に論議したことから「天狗」と呼ばれた。小栗家は「三河以来」の譜代の家臣であった。家康の頃、数々の戦で「又も一番槍をつけた。」ということで家康より代々「又一」という名を賜ったという。忠順は十七歳で登城し、その文武の才を発揮して将軍直属の親衛隊となり手腕を振るう。しかし、その率直で見下すような言い方が疎まれて、官職をたらい回しにされるが、忠順の才能はどこででも力を発揮したという。安政二年、父が死去したために家督を相続、目付に就任する。大老・井伊直弼が日米修好通商条約の批准書をアメリカ大統領に贈る遣米使節団を結成した。小栗忠順は正史・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正に次ぐ監察目付に選抜された。安政七年、アメリカ船「ポーハタン号」で築地を出航、ハワイに寄航にてカメハメハ大王の歓待を受けた。その後、サンフランシスコに上陸、護衛艦としてついてきていた勝海舟ら「咸臨丸」は帰国したが使節団一行は船を乗り継いでワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークと巡りブキャナン大統領と会見した。アメリカ中が「サムライ」訪問に沸きかえっている中、小栗忠順は自ら持参した天秤ばかりで日米金貨の金銀含有率を測定し、それまでの通貨の交換比率の改善を迫った。アメリカ政府は日本を文明の遅れた未開の国とたかをくくっていたが小栗の知識に驚愕したという。また、忠順はアメリカの造船所を見学して日本との製鉄技術の差に驚いたという。その後、大西洋航路でアフリカ喜望峰、インドを経て帰国した。しかし、既に大老・井伊直弼が暗殺され攘夷の嵐が吹き荒れて時代は逆行していた。小栗忠順は帰国後、加増の上「上野介」の官位を賜り、外国奉行、書院番頭、歩兵奉行並、陸軍奉行、軍艦奉行、江戸町奉行と転々と役を変えられた。特に三度も就任を繰り返した勘定奉行の時には幕府の財政難から諸外国の賠償金問題や皇女和宮降嫁、長州征伐などの多大な出費の捻出に力を発揮した。幕府最大の出費は瓦解するまで四十四隻の軍艦購入にあったが忠順はフランス公使レオン・ロッシュとの繋がりを作り、造船所の具体的提案書を練った。文久三年、この提案書の提出によって、多少の反対があったものの建設予定地が横浜に決定、慶応元年に「横須賀製鉄所」(後の石川島播磨重工の一部)の建設が始まった。また、榎本武揚ら有能な若手を海外に留学させたり、アメリカ南北戦争終結に伴って大量の軍艦放出を見込み買い付けを急がせた。小栗忠順は四方を海に囲まれた日本の防衛には海軍力の強化(大海軍構想)が最重要点と見ていた。また、慶応三年には陸軍奉行となりフランス師軍事顧問団を招いて指導を受けさせフランス洋式陸軍を取り入れる。また、各豪商の出資を募って日本初の株式会社「兵庫商社」の設立に尽力した。慶応三年、将軍・徳川慶喜が大政を奉還した後、鳥羽・伏見の戦いで敗走、戊辰戦争に突入して慶喜が江戸へ逃げ帰ってきた。絶対恭順を唱える勝海舟に対して小栗忠順は徹底抗戦を主張した。小栗の作戦は征討軍を箱根あたりで迎え撃ち足止めさせている間に東洋一といわれる幕府艦隊を沼津に集結して一斉艦砲、別の艦船で歩兵を乗せて京都に回りこみ都を占拠するという作戦だった。後に江戸でこの作戦を知った官軍の大将・大村益次郎は驚き、もしこの作戦が実行されていたら薩摩・長州は滅んでいただろうといっている。幕府が滅んでも新しい政府を作るという発想の勝海舟に対して新しい政府の必要性を感じつつ「両親が病気で死のうとしている時にもうだめだと思っても看病の限りを尽くすもの。」といって最期まで幕府を守る考えを貫いた。そもそも、小栗家は神君・家康公から又一という名前を賜り代々継承してきた家柄に対し勝は盲目の高利貸しが金で買った御家人株によって徳川幕府に使えるようになった家柄なので幕府には愛着はなかったと思われ、立場の違いが対立を生んだ。結局、勝海舟が提唱する無血開城案の受け入れを決定した将軍・慶喜は主戦派の小栗忠順を罷免した。慶応四年、小栗忠順は帰農許可を幕府から得て上野権田村の東善寺に移住、水路を整備したり学習塾を開いたりして平穏な生活をしていた。しかし、上州に進軍してきた新政府軍によって捕縛され、取り調べもされないまま、烏川の水沼河原で三人の家臣と共に斬首されてしまう。近隣の農民が小栗に対する仕打ちに抗議して新政府役人と口論となったが小栗が「お静かに」と一喝し、それが最期の言葉となった。享年四十二歳・・・
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2008年12月15日

江戸城無血開城の立役者 勝海舟

a1989905.jpg勝海舟は文政五年、父・勝小吉の実家・江戸本所亀沢町の男谷家で生まれた。父・小吉は旗本小普請組の無役の小身の旗本だったが実家の男谷家は祖父・銀一は盲目ながら高利貸しで巨万の富を得た。その金で検校の位を買い男谷検校または米山検校と呼ばれた。その子の平蔵が御家人株を買って幕臣・男谷家を興した後、旗本に昇進した。平蔵の長男が男谷精一郎信友の父で三男が小身旗本の勝家に養子に入った勝海舟の父・小吉であった。海舟、幼名・麟太郎は幼少の頃、男谷家の親類の阿茶の局の紹介で十一代将軍家斉の孫・初之丞(一橋慶昌)の遊び相手として江戸城に呼ばれた。このまま、麟太郎は一橋家の家臣として出世の糸口を掴もうと思っていたが慶昌が急逝してしまったのでこの話は立ち消えになったという。また、麟太郎は従兄弟の男谷精一郎に直心陰流を習うが精一郎の高弟・島田虎次郎が独立した際、島田の弟子となり道場に通い二十一歳で免許皆伝となる。その間、師匠・島田の薦めで禅を学び、江戸で評判の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りするが断られる。麟太郎は福岡藩屋敷に住む永井青崖の弟子となり蘭学修行をする一方、和蘭辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年がかりで翻訳して二冊書き写した。一冊を自分の物としもう一冊を十両で売って苦しい生活費に当てた。蘭学を通じて信濃松代藩の蘭学者・佐久間象山と親交を結び、象山の薦めで西洋兵学を修めた。また、麟太郎は象山の書にあった「海舟書屋」から海舟を号としたという。(この縁で象山は歳の離れた勝の妹・お順を妻にした。)麟太郎は嘉永三年、赤坂の田町に蘭学と西洋兵法を教える私塾を開き自らも最新兵器研究に勤めた。嘉永六年、浦賀沖にペリー艦隊が来航(黒船)開国を迫ると幕府の老中首座・阿部正弘は異例の意見書を幕臣はもとより、諸大名から町民に至るまで広く募った。麟太郎はこれに「海防意見書」を提出、総数七百通の中から老中・阿部正弘の目に留まり当時の幕府海防掛・大久保一翁の知遇を得ることになる。安政二年、三十三歳にして異国応接掛蕃書翻訳御用として登用され、念願の「お番付」となった。その後、日本初の海軍兵学校の長崎伝習所が創設されると入門しオランダ語が出来たことから伝習生監督として五年間在籍する。この時期、薩摩藩藩主・島津斉彬の知遇を得て勝の人生に大きな影響を受けた。その後、江戸へ帰って軍艦操錬所の教授方頭取となり、安政五年に日米修好通商条約が調印されると特使をワシントンに送るため日本人で初めて太平洋を横断する。勝は咸臨丸艦長として暴風雨に悩まされながらジョン万次郎の協力のもと無事にアメリカの地を踏んだ。アメリカの優れた文化や技術を見聞して帰国。その功績により文久二年に軍艦奉行の要職に就任する。しかしこの頃、安政の大獄の報復の為、大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺され、攘夷派が跋扈するようになる。勝も洋行帰りの開明派として刺客に狙われる。ある日、勝海舟を斬ろうと土佐藩脱藩浪士・坂本龍馬が屋敷に訪ねてきた。勝は龍馬に世界の現状と日本が置かれている立場を話して聞かせた。龍馬はすっかり勝に惚れ込んで弟子入りしたという。また、龍馬は勝の用心棒として土佐の武市半平太の部下・岡田以蔵をつけたという。元治元年、将軍・家茂を軍艦に乗せ大阪湾上に誘った勝は海軍の重要性を説き、神戸港は水深が深く、海底が砂地の為に碇が降ろしやすい利点を説明して神戸に海軍操錬所の設立を建白する。神戸海軍操錬所設立後、ここで初めて薩摩藩の西郷隆盛と会談し欧米に対する日本国家の弱体ぶりを話、長州征伐の愚を説いた。西郷は幕府の重臣でありながら日本の為に幕府を倒すことも辞さない勝の考えに大変驚き大久保へ勝を賞賛する手紙を送った。しかし、幕府の神戸海軍操錬所に土佐の脱藩浪士や薩摩藩の浪士などが入門していることを咎められた勝は役職を解かれ、江戸赤坂の氷川町の屋敷に一年半の間謹慎蟄居させられた。慶応二年、第二次長州征伐の敗北によって権威を失墜した幕府は事後処理に当たらせるために勝を再び海軍奉行に任命した。翌年、将軍・慶喜は大政奉還を奏上したが、薩長軍はあくまでも武力倒幕を目指し鳥羽・伏見の戦いに持ち込んだ。数で優る幕府軍であったが薩長軍の最新銃器の前に敗走、大阪城へ撤退した。そこへ錦の御旗は翻り幕府軍は賊軍にされてしまう。驚いた慶喜は多くの兵を残したまま僅かな側近だけを連れて江戸へ逃げ帰った。薩長の官軍はこれを追って江戸へ攻め上って来る勢いだった。江戸城では大騒ぎとなり大奥の天璋院に呼ばれて登城した勝は将軍・慶喜の絶対恭順を誓わせ、事後処理の全権を委任される。勝は江戸城総攻撃中止条件を聞き出すため、静岡まで来ていた征討軍の西郷に会うために山岡鉄舟を派遣する一方、交渉が決裂した際に江戸を火の海にして徹底抗戦をするように侠客の新門辰五郎に依頼、また榎本武揚率いる幕府海軍を品川沖に待機させた。また、江戸の住民を戦火から逃れさせる為に江戸湾にある大小の舟を準備させたという。その後、勝は旧知の西郷と談判する。将軍・慶喜の処遇と徳川家の今後を話し合うため、江戸薩摩藩邸にて勝と西郷が再度会談して無血開城が決まった。維新後、旧幕臣としては異例の外務大丞、兵部大丞、参議、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し伯爵位を叙された。しかし、新政府に出仕しながら、まったく仕事に興味を持たず。元将軍・慶喜の赦免運動を晩年の生きがいとした。その努力が実って慶喜は明治天皇に拝謁が許され特旨をもって公爵を授爵した。勝は幕府終焉の責任者でありながら維新後は明治新政府の要職に就いたことなどから世間の批判にさらされたが、意に返さず。黙って旧幕臣の就労の世話や資金援助、生活保護を三十年間に渡って続けた。晩年は赤坂氷川で過ごすことが多く「氷川清談」や「開国起源」「海軍歴史」などを執筆、編纂したがその内容の大きさから「氷川の大法螺吹き」と揶揄された。明治三十二年に脳溢血で倒れ「もうおしまい」という最期の言葉を残して亡くなった。享年七十七歳・・・勝海舟は九歳のとき、多羅尾七郎三郎宅へ読書の勉強へ通う帰りに野犬に襲われて睾丸の片方を食いちぎられた。道に倒れている所を通りかかりの町人が発見、七十日間生死の間をさ迷ったという。父・小吉は水垢離をして寝ずに看病をしたと小吉の著「夢酔独言」に書き残している。また、勝小吉が十四歳の時、家出をして一人でお伊勢参りに行ったが途中崖から転落して睾丸の片方を潰してしまったとも書いている。子母澤寛の「父子鷹」で有名な勝小吉と海舟親子は不思議にも睾丸でも繋がっていた。
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幕末の剣聖 直心影流 男谷信友

otani.jpg男谷信友は通称精一郎と呼ばれ寛永十年、男谷新次郎信連の子として生まれるが、後に同族の男谷彦四郎忠果の婿養子となった。男谷彦四郎忠果は男谷検校の孫で男谷検校はもともと越後三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎)の貧しい農民の出身でしかもまったく目が見えない男だった。ある雪の夜、奥医師の石坂宗哲の門前で行き倒れたところを助けられた。これが縁で宗哲から一両二分の資金を借り受けて生業を始めた。これが大当たりで江戸府内十七箇所に土地を買い地主となって財を貯めて検校の位を金で買い大名貸しを始めた。(検校とは盲人の官職で最高位。下に別当、匂当、座頭がある。)この男谷検校は末子の平蔵に幕府の西丸持筒与力{将軍直属の鉄砲隊与力}の御家人株を買い与える。平蔵は仕事に精を出し勘定方に昇進して旗本となった。この平蔵の長男が男谷彦次郎で三男が勝海舟の父・小吉だったので男谷精一郎信友と勝海舟は従兄弟同士であった。男谷精一郎は八歳の時、本所亀沢町の直心影流十二世・団野源之進に入門した。また、平山行蔵に兵法を習い、宝蔵院流槍術や吉田流射術にも熟達した。二十七歳の時に麻布狸穴に道場を構えるが、三十三歳で彦四郎の婿養子として幕臣となった。天保二年、三十三歳で書院番に昇進し、嘉永二年に御本丸徒士頭となった。安政二年、師匠の団野が亡くなり遺言により本所亀沢町の直心影流道場を譲り受ける。また、幕府講武所の開設にともない講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。文久二年、下総守に叙任されて講武所奉行三千石の高禄となった。男谷精一郎は「幕末の剣聖」と呼ばれ「その強さは底が知れない。」とまで言わしめた。また、島田虎之助、大石進とともに「天保の三剣豪」とも呼ばれたという。弟子に勝海舟(勝は後に信友の紹介で島田虎之助の弟子となった。)島田虎之助、榊原鍵吉などがいる。文久三年に将軍・家茂の上洛に際して旗奉行となったが翌年に死没する。享年六十七歳・・・
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江戸三大道場B鏡新明智流 桃井春蔵

naniwa080308.jpg桃井春蔵は文政八年、駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれる。(桃井春蔵という名は「士学館」で代々受け継がれている名前)本名を田中直正、幼名を甚助という。十三歳で江戸へ出て三代目桃井春蔵直雄に入門、鏡新明智流を学んだ。その後めきめきと剣技を上達、師匠に見込まれ婿養子の話が決まり二十三歳で免許皆伝となった。鏡新明智流とは開祖は江戸中期の浪人・桃井八郎左衛門直由で京橋アサリ河岸の「士学館」を開いた。戸田居合流を基本に柳生流、一刀流、堀内流を学んで開眼、鏡新明智流を開いたという。しかし彼は「勝つことはなかったが絶対負けない術を身につけた。」といわれた剣法だった。また、「士学館」は貧しくて授業料の払えない者や他の道場には入れて貰えないような不器用者でも手取り足取り丁寧に指導した為に一躍有名になった。だが、そのためにやくざ者や町人ばかりが多く入門して優れた剣術者が出てこなかった。また、ガラが悪く、道場の評判はすこぶる悪かったという。しかし、幕末に四代目桃井春蔵直正が養子として「士学館」を継ぐとそのすらりとした長身と容姿端麗を併せ持つ貴公子然とした姿と背筋をピンと伸ばし「片手上段」の構えからの鋭い一撃で相手を倒すその気品のある姿が「位の桃井」と評判になって千人を遥かに超える門弟を抱えるに至った。「士学館」が土佐藩上屋敷に近かったこともあって土佐藩士が多く通うようになり武市半平太(瑞山)や中岡慎太郎、岡田以蔵などを輩出した。また、四代目桃井春蔵は幕臣にも取り立てられ江戸三大道場主の中でも最高禄高の与力格二百俵で講武所剣術方出役で召抱えられた。その後、遊撃隊頭取並として将軍・家茂に随行して大阪城に入った。家茂が急逝した後、将軍となった慶喜が大政奉還したあと幕臣としての籍を離れた。戊辰戦争時は大坂市中取締りの為、浪花隊が結成され、その軍監兼剣術師範に新政府から職務に勤めた。明治十年、大坂大洪水の後、コレラが流行したが、春蔵はコレラに罹りあっけなく没した。享年六十一歳・・・
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2008年12月14日

江戸三大道場A神道無念流 斉藤弥九郎

saitoh.gif斉藤弥九郎は寛政十年、越中氷見郡の郷士の長男として生まれる。十五歳の頃、江戸へ出て旗本の下男となり働く傍ら神道無念流の剣豪・岡田十松利貞の「撃剣館」に入門して剣術の修行に励んだ。腕を磨き師範代として館の運営に尽力した。師の没後は同門の韮山奉行・江川太郎左衛門の援助を受けて九段俎橋に「錬兵館」という道場を創設した。しかし、天保九年の火事で道場が消失し、現代の靖国神社敷地内に新道場を開いた。ある時、長州藩の藩士数十名がこの新道場に道場破りに押しかけたが弥九郎の三男・斉藤歓道が只一人で立会い全員を打ち負かした。このことが縁で長州藩は「錬兵館」の強さに驚愕し、長州藩士を道場に通わせたといわれる。門下生には桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)などが神道無念流を学んだ。また、「錬兵館」斉藤弥九郎の門下生ではないが、神道無念流を使う幕末剣士は新撰組の永倉新八が有名。門弟が三千人におよび江戸三大道場の「力の斉藤」と呼ばれる一方、早くから道場の運営は長男の新太郎に譲り自らは水戸藩に招かれて弘道館で藩士に剣術の指南を任された。また、幕命により高島秋帆が武蔵野で錬兵を行った時には弥九郎が砲術の教授をしたという。嘉永六年、江川太郎左衛門が江戸湾に台場を築造した時には工事監督をして協力、「錬兵館」創設援助の恩を返した。明治元年、新政府軍が江戸へ迫った時には彰義隊の首領に推されたがこれを断り、弟子たちにも軽挙を慎むように戒めた。明治維新後は新政府に出仕して徴士会計官試補に任じられ、徴士会計権判事に栄転して大坂に赴任、造幣局権判事に転じて東京在勤を命じられたがまもなく死去する。享年七十二歳・・・斉藤弥九郎の「錬兵館」と新撰組の近藤勇の天然理心流「試衛館」とは多摩代官だった江川太郎左衛門との縁で親交がありたびたび「他流試合」を行ったという。
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江戸三大道場@北辰一刀流 千葉周作・定吉・佐那子

thiba.jpg千葉周作は寛政五年、岩手県陸前高田市気仙町字中井の天満宮下に生まれた。(定かではないが有力説)曽祖父は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れた為に役を辞して宮城県大崎市古川に移り住んだという。父は千葉忠左衛門といい、はじめ指南役に推挙されたがこれを辞退して千葉県松戸で馬医者を開業した。しかし周作が五歳の時に父は妻と別れて周作を連れて家出し宮城県大崎の祖父・吉之丞の元に身を寄せる。(祖父・吉之丞は北辰夢想流剣術を創始した剣豪といわれている。)その後、周作は親元を離れて中西派一刀流の流れを汲む浅利義信に入門して腕を磨き浅利義信の師匠の中西子正の指南を受けるまでに成長した。師匠・浅利義信に見込まれ娘(養女)の婿となって道場を継ぐことを期待されたが、浅利と意見が合わないことがあり妻を連れて独立、北辰一刀流を創始した。その後、武蔵、上野を廻って他流試合を行い門弟数を増やした。しかし、伊香保神社に奉納額を掲げようとしたが、地元の馬庭念流が反発して騒動となった為、周作は上野進出を諦めて江戸へ帰る。文政五年、日本橋品川にて剣術道場「玄武館」を開き、後に有名な神田於玉ヶ池に移転した。「玄武館」は主に竹刀を使用し、今までの8段階階級を3段階に簡素化したことなどから多くの門人を抱えた。「玄武館」の人気は絶大で「力の斉藤」(練兵館・斉藤弥九郎)と「位の桃井」(士学館・桃井春蔵)と並び「技の千葉」といわれ幕末の江戸三大道場と呼ばれた。天保三年、水戸藩の前藩主・水戸斉昭に招かれて水戸藩剣術師範となり馬廻役百石の扶持米を受けた。また、弟の千葉定吉は兄と共に「玄武館」創設に携わり経営が軌道に乗ったのを見計らって独立し京橋桶町に道場を構え「桶町千葉」や「小千葉」といわれ兄の千葉道場と区別した。定吉もまた兄周作に匹敵する腕を持ち、道場には新撰組参謀・伊東甲子太郎や坂本龍馬が入門した。坂本龍馬は定吉の高弟として「北辰一刀流長刀兵法目録」(薙刀)を授けられ定吉の長男・重太郎とは親友で重太郎と共に開国論者の勝海舟を暗殺するために勝邸に乗り込んだ。しかし、勝に説得され話を聞いているうちに勝海舟に弟子入りしたことは有名。また、定吉の次女で重太郎の妹・千葉佐那子は北辰一刀流小太刀の免許皆伝で長刀師範を務めた。その美貌は江戸中に響き渡り「千葉の鬼小町」や「小千葉小町」と呼ばれた。十六歳の頃、桶町道場に学びに来ていた坂本龍馬に恋心を抱き交際が始まった。後に婚約したといわれている。(結婚とも・・)しかし、坂本龍馬が勝海舟の弟子として国事に奔走するにあたり龍馬は自分の紋付の片袖を破り佐那子に形見として与えたという。龍馬暗殺の報せ聞いた後も龍馬を思い続け一生独身を貫いた。佐那子が亡くなった後、身寄りがないまま無縁仏となるところを哀れに思うものがおり山梨県甲府の日蓮宗妙清山清運寺に納骨され墓碑名に「坂本龍馬室」と彫られている。
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2008年12月06日

蝦夷共和国 陸軍奉行  大鳥圭介

ootori.jpg大鳥圭介は天保四年に播州赤穂細念村の医師・小林直輔の子として生まれる。十四歳の頃、岡山の閑谷学校に入学して儒学、漢学、東洋医学を修める。嘉永二年、十七歳で町医者・中島意庵の薬箱持ちとなり遊学費を稼ぎ、嘉永五年に大坂に出て緒方洪庵の適塾に入塾して蘭学を学ぶ。その後、適塾の同志とともに江戸へ出て翻訳や技術指導をしながら坪井塾に入塾して塾頭になる。この頃、医学から工兵学へ比重を移し薩摩藩の知遇を得て薩摩藩邸で大砲の模型を据えつけたり、蒸気船模型を品川に周遊させ、これが縁で勝海舟の知遇を得る。安政四年、江川塾の教授に招かれる傍ら自らはジョン万次郎に英語を習ったり西洋砲術を学んだ。また、ここで榎本武揚と知り合う。一時知人・服部元彰の紹介で摂津国尼崎藩の松平忠興に仕え尼崎藩士となる。また、亜鉛と錫の合金から日本初の金属製活版を発明し大鳥活字を使って「築城典刑」を出版する。(後に篭城する五稜郭で役立てる。)文久元年、江川英敏の推薦で御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として幕府に出仕し、文久三年に海陸軍兵書取調方 となる。この頃、江川塾にて黒田清隆や大山巌たちに砲術の指導をした。元治元年、正式に幕臣として歩兵差図役勤方。富士見御宝蔵番格となり五十俵三人扶持役金八百両の旗本として取り立てられる。慶応三年に歩兵差図役頭取となって横浜でフランス式陸軍の伝習を荒井郁之助とともに受け歩兵頭という異例の出世をし2千石取りとなった。その後、歩兵奉行となって大坂から逃げ帰ってきた将軍に拝謁して小栗上野之介とともに主戦論を説くが退けられる。江戸城開城が迫ると大鳥は浅草報思寺に旧幕府軍五百名を集め江戸を脱走し、市川で新撰組の土方歳三や会津藩の秋月登之助らと合流した。兵力は二千人の大部隊となり、これを三部隊に再編成して日光へ進軍した。下野小山へ向かう途中で官軍と衝突しこれを破る。一足早く土方率いる別働隊が宇都宮城を陥落させていたため、大鳥隊はここに入城した。その後、会津に進み若松に入り藩主・松平容保に農兵を集めることを進言するも拒否される。会津城が落城すると松島湾に入っていた幕府海軍の榎本武揚と合流して函館へ向かう。函館に入り蝦夷共和国を建国。大鳥は入れ札(選挙)によって陸軍奉行に就任したが、軍事理論に精通していたものの、実戦で鍛え上げた土方歳三ほどの活躍も出来ずに全戦連敗を重ねた。しかし「また、負けたよ」と笑って言い放った態度は大物の器といわれたらしい。明治二年、新政府軍の黒田清隆が五稜郭を包囲して蝦夷共和国の敗北が決定的となり榎本武揚総裁は自決を決意したが大鳥の「死ぬことはいつでも出来る。ここは一番降参と洒落こもうではないか」との言葉に一同は官軍に降った。降伏後、東京に送られ獄舎に入り明治五年に出獄してすぐに新政府に出仕、開拓使御用掛に任命され、学習院院長にも就任した。明治二十二年、駐清国特命全権公使として赴任し朝鮮公使も兼任した。後、枢密顧問官を務め男爵位を授かり明治四十四年、神奈川県国府津において食道癌で永眠する。享年八十歳・・・  幕末ファンにはあまり良い評価はないが、低い身分から勉学で上り詰め、負けても負けても前向きでポジティブな性格は評価に値すると思う。
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2008年11月04日

宮古沖海戦で散った回天艦長 甲賀源吾

kouga.jpg甲賀源吾は天保十年、遠州掛川藩士・甲賀孫太夫の第四子として江戸藩邸で生まれる。安政二年十七歳の時に佐倉藩士・木村軍太郎に就いて蘭学を学び、一旦帰藩する。安政五年に航海術を学びたくて江戸へ再び出て、築地の幕府軍艦教授所の教授頭を務めていた矢田掘鴻に学び、後に矢田掘に従って長崎へ行く。長崎ではカッテンディーケを筆頭に第二次オランダ海軍伝習教師団が長崎海軍伝習所に来ていた。甲賀源吾の兄・郡之丞や勝海舟、矢田掘鴻らは第一次長崎オランダ海軍伝習を受けていたが、今回は幕臣以外は受けれないことになっていた。しかし矢田掘が源吾を長崎まで連れて行ったということは源吾は非公式に伝習を受けていたかもしれない。その後、矢田堀鴻の甥の荒井郁之助とともにオランダ語で高等数学を研究、艦隊操練の書を翻訳した。そして英語もこの時に習ったという。安政六年、幕臣に取り立てられ軍艦操練方手伝出役に任ぜられ、神奈川港警衛、文久元年には軍艦操練教授方出役、御軍艦組出役となり、江戸湾の測量を任せられる。文久二年、幕命により小笠原諸島への移民や食糧輸送のため、千秋丸に荒井郁之助とともに御軍艦測量方として乗込んだ。文久三年、将軍徳川家茂が陸路で上洛する際に護衛の為、江戸・大坂間を往復する航海に従事し大阪湾の測量を命じられる。その後、昇進を重ねお目見え以上の格式となった。長州藩が行った外国船砲撃の馬関戦争において朝陽丸艦長として長州と小倉の二藩に幕府の使者を乗せて下関へ向う。甲賀源吾は長州藩から攘夷戦のための朝陽丸借受を迫られるがきっぱりと拒んだ。元治元年、将軍の海路帰東に従いこれを警護、第一次長州征伐において安芸や豊前に航海した。元治三年に小十人格軍艦役勤方に昇進し築地海軍伝習所にイギリス海軍軍事顧問団が着任すると伝習所軍艦役に就任、伝習生取締を兼務する。慶応四年、軍艦頭並に昇進するが、戊辰戦争が勃発し江戸城明け渡しが勝海舟と新政府軍との話し合いで決まり、幕府軍艦も引き渡す約束が出来ていた。これを幕府海軍副総裁・榎本武揚は拒み、荒井郁之助とともに甲賀源吾も同調した。榎本達は徳川家の駿府移転を見届けた後、艦隊を率いて脱走を決意し、開陽丸を旗艦に輸送船に旧幕府陸軍を乗せ品川沖を出航し、甲賀源吾は回天丸の艦長としてこれに加わった。源吾が艦長の回天丸は速力の出ない咸臨丸を曳航していたが、台風にあい曳綱を切ったが、回天丸も前部と中央のマストを失ったが無事仙台藩の松島湾に入港した。その後、単独で北上していたところ気仙港で仙台藩に貸し出され行方不明になっていた千秋丸を拿捕した。そして、奥羽列藩同盟の各藩が次々と降伏し、まだ抵抗を示す兵士達や旧幕府陸軍を収容しながら蝦夷地を目指した。榎本艦隊は函館北方の鷲ノ木に到着し回天丸は蟠竜丸とともに翌日、函館港を偵察し水兵を上陸させて占領する。それを知らずに入港してきた新政府軍側の秋田藩軍艦高雄丸を回天丸と蟠竜丸で拿捕した。また、甲賀源吾は松前藩との戦いでは陸軍の後方支援をし、江差で座礁した開陽丸の救援に向ったが失敗、以後回天丸が旗艦となった。明治二年、春を待って新政府軍は函館征伐に大軍を送って来たとの報を聞いた源吾は海軍奉行となった荒井郁之助やフランス軍人、土方歳三達新撰組と協議し敵艦「甲鉄艦」奪取作戦を決行する。甲賀源吾の指揮する旗艦・回天丸は蟠竜丸、高雄丸とともに宮古湾を目指すが途中、悪天候のために蟠竜がはぐれ、高雄は故障したため回天丸一艦で宮古湾に突入しアメリカ国旗を掲げて甲鉄艦に接近し近づくとすぐさま日章旗に揚げ変えるアボルダージュという外国では認められている珍しい作戦(卑怯にも見えるが)で甲鉄艦の側面に乗り上げるが高低差が3メートルも出来てしまった。しかも敵艦には新型兵器のガトリング砲を搭載していたが甲賀たち旧幕府軍はものともせず刀を抜き斬り込んだ。甲賀源吾は左足や右腕に銃弾を浴びながら甲板の上で猛然と指揮していたという。しかし側面よりの銃弾でこめかみを撃ち抜かれ戦死した。享年三十一歳・・その後、回天丸は荒井郁之助が舵を取り函館へ帰還した。
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