2011年11月25日
西郷隆盛が師と仰いだ大人物 藤田東湖
藤田東湖は文化三年に水戸学中興の祖で儒学者・藤田幽谷(元は古着屋の息子だがかの有名な水戸藩2代藩主・水戸黄門光圀の一大事業「大日本史」編纂の為に作られた彰考館に勤務)の次男・藤田彪(たけき)として生まれる。(一説によると遠祖は平安時代の学者であり歌人の小野皇{たかむら}「昼は官僚として朝廷に仕え夜は井戸を通って地獄へ行って閻魔大王の補佐として亡者の裁判を助けたといわれる人物」)藤田彪(たけき)は通称・虎之介といい号の「東湖」は生家の東に「千波湖」というみずうみがありこれを号にしたといわれている。東湖は二十一歳の時に父が亡くなりその家督を継いで父の私塾「青藍舎」を引き継ぎ藩内では進物番二百石となった後に父の意思を受け継いで彰考館に勤務して大日本史編纂に尽力し彰考館総裁代理として藩内の地位を築いていく。文政十二年、子供がいなかった第八代水戸藩主・徳川斉脩が亡くなり次期藩主に藩内で大きな力を握っていた附家老・中山信守を中心とした門閥上級藩士らが推す将軍・家斉の第二十子・徳川斉彊を養子に迎えようとしていた(水戸藩から独立して大名になりたかった附家老の中山信守は本家将軍のゴマすりの為に画策したと思われる。)この計画に対抗したのが第八代藩主・徳川斉脩の異母弟・斉昭を推す水戸藩下級藩士たちの中心人物となった藤田虎之助(東湖)は第九代藩主となった斉昭の信頼を得て郡奉行や御用調役を経てお側用人となり「経世済民」(世を治めて民を救う)を掲げ藩政改革に尽力する。(同じく側用人となった戸田忠太夫蓬軒とともに水戸の両田と称された。)しかし弘化元年に藩主・斉昭は鉄砲斉射事件や仏教徒弾圧問題で幕府より家督を嫡子・慶篤に譲り蟄居謹慎の処分を受けると藤田虎之助(東湖)も失脚して禄を剥奪され蟄居幽閉処分を受ける。藤田虎之助はこの次期に「回天詩史」や「正気歌」を著しその尊王論は全国の尊皇攘夷の志士達の信望を集めたといわれる。嘉永三年にようやく水戸に帰国することが出来嘉永五年に罪を許された。翌年、ペリーが浦賀に来航するや諸問題に対応する為に徳川斉昭を幕政参与に復帰指せ藤田虎之助もまた幕府の海防御用掛として斉昭を補佐し御側用人に復帰する。(この次期に虎之助は藤田東湖と改め禄高も二百石から六百石になった。)藤田東湖の名声は各国に伝わり当時薩摩より上京したばかりの若き西郷隆盛も同藩士・樺山三円の紹介で小石川の水戸藩邸の藤田東湖に面会しその学識、人柄、胆力に感銘を受け東湖と越前福井藩士・橋本左内を心の師と仰いだといわれる。安政二年に学校奉行に任じられるがその年の十月に起こった江戸湾北部を震源とする大地震に見舞われ小石川藩邸が倒壊、一旦は家族とも非難したが母親が火鉢の始末を心配して藩邸に戻った為に東湖は母の後を追って藩邸に入るや鴨居が落下し母を庇って柱を肩で受け止め母を脱出させた後に力尽きて圧死したという。享年五十歳・・・この安政の大地震で盟友の戸田忠太夫も亡くなり押さえの効かなくなった水戸藩はまたも保守派と改革派の対立が激化し桜田門外の変や藤田東湖の息子・藤田小四郎が起こした天狗党の乱など幕末の動乱が始まっていく。