2008年06月02日

悲運の周防人 世良修蔵

世良修蔵は天保六年長州で生まれる。長州は周防と長門の二国から成っているが、修蔵はその周防の出身であった。大島の庄屋で中司八郎右衛門の三男で周防人特有の情熱家であった。幼少より秀才の誉れが高く、勤皇僧月性の教えを受けて学識を高めた。向学心が熱く、私費で江戸へ遊学し、「海防秘策」の攘夷論を唱える羽倉用九の塾へ入り、尊王攘夷の志をかためた。帰郷後、世良家を継いで世良修蔵を名乗った。文久三年、高杉晋作が「奇兵隊」を設立した折、同じ大島出身の赤根武人の誘いで入隊する。赤根が総督に抜擢されると世良はその補佐として軍監となった。長州征伐による四境戦争では奇兵隊を率いて故郷大島を占領していた幕府軍を撃破して、領民を救い、指揮官としての名声を高めた。しかし、奇兵隊内で同郷の赤根武人が長門人の山県有朋らとの権力闘争に敗れ処刑され、世良は奇兵隊を辞した。当時、長州藩では松下村塾に繋がる萩の長門人が実権を握っていたため、世良修蔵は三田尻の海軍局に入って西洋兵学を習得し、時節をまった。明治元年、同じ周防人の大村益次郎の推薦があって奥羽鎮撫総督府参謀となり、北陸道先鋒総督府参謀の山県有朋と競うように、武功を求め各地を転戦。最前線に立って松島から仙台へ兵を進め、会津若松城攻略の策を練った。福島に滞在していた世良修蔵に、仙台藩瀬上主膳からの使者が面会を乞うて来た。平身低頭して恭順を申し入れてきたが、武功に焦っていた世良はこれを拒絶した。世良の態度に憤慨した仙台藩兵は金沢屋に妾とともに宿泊していることを突き止め、同衾中を襲撃し斬殺された。享年三十四歳


posted by こん at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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