2008年05月06日

西郷と対蹠的な大村益次郎

oomura.jpg大村益次郎は文政七年、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村の村医、村田孝益と妻むめの長男として生まれる。天保十三年、防府(三田尻)でシーボルトの弟子であった梅田幽斎に医学や蘭学を習い、翌年に梅田幽斎の推薦で豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園に入門する。弘化三年、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門し、医学、蘭学を修め1年間の長崎留学を経て帰坂、適塾の塾頭になった。嘉永三年、周防に帰り村医になる。この時、村田良庵と名乗り同村の名主の娘を妻に迎える。嘉永六年、宇和島藩伊達家に招かれ、宇和島に夫婦で移住、この間に長崎に赴き、軍艦製造の研究を行ない、提灯屋の紙張職人の嘉蔵(後の前原巧山)とともに日本初の蒸気船の製造に挑戦する。この時村田蔵六と名乗り、シーボルトの娘、楠本イネと知り合う。安政三年、宇和島藩主伊達宗城の参勤にしたがって上京した蔵六は江戸麹町に「鳩居堂」という塾を開き、蘭学・兵学・医学を教え、翌年幕府に招かれ、講武所教授になる。この時期に、蔵六は小塚原刑場にて子殺しの罪で死罪になった女性の腑分け(解剖)をしていた。偶然、同じ時期に長州藩の吉田松陰が処刑され、その遺骸を引き取りに来ていた桂小五郎や高杉晋作に見出され長州藩士となる。蔵六は医者としては無愛想で患者には治療より体の仕組みの説明ばかりするので評判が悪く患者が寄り付かなくなっていた。文久三年、長州萩に帰藩し、明倫館から分離した博習堂の洋学教育教授に就任、慶応元年に長州藩の藩政改革の軍事体制を担当した。この時から大村益次郎と改名、また高杉晋作から「火吹き達磨」とあだ名される。慶応二年、第二次長州征伐が起こると石州口方面の指揮を担当し、わずかな兵を率いて幕府の大軍を撃破し一躍大村益次郎の名を世間に知らしめる。明治二年、上戊辰戦争において当時東征軍大総督府参謀の西郷隆盛が勝海舟と会談し江戸城無血開城に合意し、将軍慶喜が謹慎の態度を示していたが、彰義隊が上野に立て籠もり抵抗していた。西郷ははじめ、出来るだけ被害を出さずに済まそうとしていたが、大村益次郎が皆殺しを主張し、西郷の腹心有村俊斎(海江田武次)と衝突する。結局西郷は腹心有村俊斎を駿府に追いやり全権を大村に譲ることで決着がつき大村の攻撃計画が実行され数時間で彰義隊を壊滅させた。合理主義者の大村と人情派で感情論者の西郷とは戊辰戦争終結まで意見が合うことなく明治維新を迎える。明治二年、新政府の軍制改革で兵部大輔に就任すし近代陸軍化に没頭する(この時仮想敵国を東北ではなく西の薩摩においていたらしい、西郷を第二の足利尊氏にたとえ西南戦争を予期していた)、翌年京都三条木屋町上るの旅館で刺客の襲撃に合い重傷を負い大坂鈴木町の病院で手術を受けるが敗血症のため死去する。大村益次郎襲撃の犯人の処刑が京都で行なわれた時、海江田武次(有村俊斎)が妨害し、襲撃の黒幕は海江田だろうといううわさが広がり政府の取調べを受ける。結局、証拠が無く真相不明のまま終わる。現代の靖国神社、創設当時は招魂社に祭られている。


posted by こん at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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