2008年04月02日

傍流の名脇役 木梨精一郎

木梨精一郎は弘化二年に萩藩八組士・六十三石四斗の知行を受ける木梨彦右衛門の嫡男として生まれた。精一郎は少年時から剣と筆に長じ、藩主毛利敬親からも将来を嘱望された。先輩・高杉晋作から松下村塾の入門を誘われたが、父の望む藩校明倫館で学ぶ道を選んだ。父親に対する孝行心から進んだ道だが、後の明治新政府において傍流となる境目であった。文久三年、攘夷のさきがけとして、長州砲台は馬韓海峡を通過中のアメリカ戦艦ワイオミング号を砲撃した。精一郎も攘夷戦に参加し、長州軍本隊の副長として下関の阿弥陀寺に陣を敷いたが、翌年米艦ワイオミング号と仏艦二隻が襲来して、砲台を破壊し、下関の前田集落を焼き払った。精一郎たち藩の正規軍はなす術もなく敗走。必死で郷土を防衛したのは、高杉晋作が作った草民からなる「奇兵隊」だった。この後、精一郎は奇兵隊総督の高杉晋作と連携して行動し、高杉の俗論派一掃の挙兵に手を貸した。しかし、松陰門下生達とは距離を置き、萩藩士の立場で行動した。明治元年、戊辰戦争では東海道先鋒総督府参謀に任官。長州軍を率いて善戦し東征大総督参謀に昇進、江戸城収城を援け、仙台兵追討で総軍監となって快勝。永世賞典禄四百五十石を下賜された。しかし、明治新政府において長州系高官は吉田松陰門下生が大半を占め、木梨精一郎のよき理解者だった高杉晋作が病没していたため、重職には就けず山口県小参事を勤めた、その後兵部省に入る。明治十年に陸軍中佐、明治十九年、長野県知事となり、そして元老院議員、貴族院議員を歴任し明治二十九年に男爵を授けられる。幕末、維新にこれだけの活躍をしたにもかかわらず、松下村塾に席を置いていなかったことで、明治において出世街道より外れたのが惜しまれる。木梨精一郎は明治四十三年、旅先の京都御幸町の旅館で病死する。享年六十五歳


posted by こん at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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