2008年02月11日

見識高き維新の英傑 木戸孝允

木戸.JPG逃げの小五郎  桂小五郎桂小五郎は長州藩士和田昌景の子として生まれ、後に桂九郎兵衛の養子となる。吉田松陰の門下に入り、江戸へ出て斉藤弥九郎の錬兵館に入り塾頭にまでなる。下田の中島三郎助に造船学を学び、江川塾で砲学も学んだ。早くから水戸藩士と交流を持ち尊皇攘夷運動に入っている。池田屋の変には、時間前だった為、危機を逃れた。また、禁門の変で長州藩が敗退、小五郎は乞食に身をやつし逃亡した。これが逃げの小五郎の名の所以であった。但馬出石に商人となって潜伏していたが、伊藤俊輔(博文)、村田蔵六(大村益次郎)、野村和作(靖)らが帰藩を懇願した。慶応元年に彼は、帰藩するとたちまち討幕抗戦の藩論決定に活躍した。この年、桂小五郎から藩命により、木戸貫治に変名し、後の孝允となる。孝允は藩を村田蔵六の洋式兵制採用し、藩内俗論党の椋梨一派を処分した。中岡慎太郎、坂本龍馬の斡旋により、薩長融和の兆しが見えたが、八・一八の政変で長州勢を御所から追い出した、薩摩と会津を「薩賊会奸」といって長州人は嫌っていたので、なかなか進まなかったが、西郷が禁門の変時に抑留した長州人を長州に送還し、五卿の筑前移転をめぐっても、周旋のため生命の危険を冒した。その命がけの厚意に木戸は誠を感じ、薩長同盟につながる。そして木戸は井上馨と伊藤博文を長崎に派遣、薩摩の小松帯刀の許可を得て藩邸に潜み、英国商人グラバーから新式小銃購入に成功、長州征伐に勝利するが、盟友高杉晋作が病死してしまう。以来、木戸の舞台は政治色を強くし、西郷隆盛を中心とした武力により、戊辰戦争を経て維新となる。維新後、太政官に出仕、五箇条のご誓文草案に関与し後、参与、参議に就任、廃藩置県には西郷と並んで活躍した。米国外交官のアーネストサトウは「桂は、軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔かであった。」と語っている。佐賀の乱、西南戦争には病気を押して折衝に当たろうとしたが、立つことが出来ず「西郷もう大抵にせんか」とうわ言のように呟き息を引き取った。享年四十五歳  晩年、新政府は薩摩閥と長州閥と政争を繰り返したが、木戸孝允は潔癖で不正を許さぬ性格から、女に見境のない伊藤博文や金に汚い井上馨、山県有朋らは大久保利通に近づき、木戸は孤立し、信頼できる友は西郷だけだったので、最期まで西郷を気にかけていたらしい。


posted by こん at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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