2013年07月03日

白虎隊士中二番隊の悲劇を生んだ隊長 日向内記

hinata.jpg日向内記は文久九年に会津藩上級武士・日向三郎右衛門(禄高七百石で会津藩内に十家ある日向家の総本家といわれている)の長男として生まれ諱は次法といい通称を内記といった。会津藩が京都守護職拝命後は京都に滞在、蛤御門の変では番頭組の組頭として戦功をあげ家老附組頭に昇進、会津藩軍制改革で朱雀士中二番隊中隊長になったが山川大蔵が若年寄りに抜擢されたのでその後任として砲兵隊隊長に任命され日光口に配属された。その後、日向内記は藩主警護の任にあった白虎隊士中二番隊中隊長に任命され藩主・容保に従って滝沢本陣に入った。(この人事に関しては不明な点が多く、何か最前線にあった砲兵隊隊長が任務に不手際があったのか更迭のような人事だったという。)新政府軍が迫る中、戸之口原が危ないとの知らせを受け急遽白虎隊士中二番隊は戸之口原に出陣し翌朝の戦に備え夜営を張った。食料調達の為(これは飯沼貞吉の証言のみ)か近くの本営・佐川官兵衛隊との打ち合わせのためか内記は白虎隊の少年達を置いて一人で隊を離れた。(このことが日向内記が少年達を置いて敵前逃亡したとのそしりを受ける)強清水村にある本営での作戦会議?の帰りに翌未明の激戦に巻き込まれ赤井谷湿地で敵弾を頬に受け帰隊出来ないまま指揮官のいない白虎隊士中二番隊はバラバラになり一部が飯盛山での自決した。(このことを内記が知ったのは会津藩降伏後のことだったという)日向内記は士中二番隊を探しながら鶴ヶ城まで戻り籠城戦に加わることとなったがこの時に郡上藩凌霜隊も日向内記の指揮下に入った。(日向内記は戻ってきた白虎隊士中一番隊と二番隊を1つにまとめた合同隊の隊長として西出丸の守備についた。)会津藩が降伏開城後に謹慎を経て明治三年に斗南藩移住の新藩主・松平容大(容保の嫡子で当時二歳)の警護役として従ったという。その後、内記は家族と共に移住したが廃藩置県で斗南藩が消滅すると会津に戻るも知人を頼って喜多方に移住したが定職には就かず六十歳の生涯を閉じた。(会津や喜多方でも二十名近くの少年を死に追いやった敵前逃亡者、卑怯者のそしりを受けたが一切の言い訳をせずその後も会津藩主の名誉回復のために奔走し多という。もし、本当に日向内記が少年を見捨て敵前逃亡をしていたなら鶴ヶ城には戻らず行方不明になっているはずだし郡上藩に見捨てられた「凌霜隊」が志願して日向内記の配下に入ったりはしなかったと思う。やはり日向内記は責任感、人望共にある優秀な指揮官だったのではと自分は思う。ただ、前任の山川大蔵が桁外れに優秀であったためにどうしても比べられ見下されたのだと思った。白虎隊に関しても直ぐに戻るはずがあまりにも新政府軍の侵攻が早く少年兵の心の動揺を考慮出来ずに悲劇を招いた不運が内記の人生を狂わせた。)
posted by こん at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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