2013年06月28日
会津戦争で藩を支えた山川家の女 山川二葉・山川登勢・咲子(捨松)
幕末の山川家は会津藩家老・山川重固(家禄1000石)と妻・艶(唐衣)との間に長女・二葉、長男・浩(大蔵)、次女・三和、三女・操、次男・健次郎、四女・常盤、末妹・捨松(咲子)がいました。(十二人の子供をもうけたが会津戦争時に生存していたのがこの七人だった。)長女・二葉は会津藩家老の梶原平馬に嫁ぎ長男・景清を生むが戊辰戦争前に若年寄や家老という執政職に就いたときに水野貞という女性と深い関係となり正妻・二葉と不仲になっていた。会津戦争の頃には二葉は長男・景清を連れて会津に帰っていたらしい。新政府軍の攻撃が激化するにつれ会津藩の子女も鶴ヶ城に籠城して戦ったが二葉もまた長男・景清を連れて籠城戦を戦ったという。母の艶(唐衣)、妹の三和、操、常盤、義妹・登勢(山川大蔵こと浩の妻)なども籠城し炊飯や負傷兵の手当て、不足した弾薬の製造などを行ったという。(また、命がけで敵砲着弾(焼玉)に水布団をかぶせて火事をを防ぐという男子でさえ出来ないことを会津女性はやっていたが敵砲弾にはこの焼玉と実際に爆発する炸裂弾があり見誤ると命を落とす。)山川家嫡男の大蔵(後の浩)の妻・登勢が照姫警護に就いていたが敵の炸裂弾に被弾、全身三箇所に重傷を負い介錯を義母・艶に頼んだが聞き入れられず苦しみながら非業の死を遂げた。(城内での死者は空井戸にまとめて埋葬されていたが登勢は幸いにも夫・大蔵の部下が居たため鎧櫃に納められ懇ろに埋葬されたという。母・艶は照姫付きの城内総取締役として奔走、妹・操は炊事を嫌い銃を持って戦ったと言われている。一方、末妹の咲子はまだ籠城時には八歳だったが焼玉消しなど照姫の側で活躍し義姉・登勢が被弾した時に共に被弾し首に軽症を負った。弟・健次郎は会津白虎隊として籠城戦を戦ったというが定かではないらしい。(あの飯盛山の白虎隊とは別隊)会津藩降伏後は長男・大蔵(後の浩)は猪苗代に謹慎後東京に出て会津藩を立て直す活動をする。会津藩は本州最北端の斗南藩として再建に尽力する大蔵は名を浩と改めた。しかし藩民総島流しのような過酷な生活の中で権大参事として若藩主(旧藩主・松平容保の嫡男・慶三郎)をたすけたが、明治四年の廃藩置県に伴い斗南藩は消滅し青森県に出仕した後に元敵方として対決した元土佐藩士・谷干城の招きを受け東京に出て陸軍に入る。一方、姉・二葉は夫・梶原平馬と戊辰戦争前に別居していたが維新後に夫の妾・水野貞が懐妊したのをきっかけに離婚が成立したという。二葉は一子・景清と共に青森斗南藩に移住した後、兄と共に上京し元会津藩士・高嶺秀夫が校長をしていた関係で女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の生徒取締として出仕、その後二十八年間教育者として功績を挙げ高等官となり従五位に叙せられた。次女・三和は会津戦争前に会津藩士・桜井弥一右衛門政衛と結婚、夫は二本松の戦いで腹部貫通の重傷を負い籠城戦には間に合わなかったが斗南藩移住後は白虎隊隊長として解隊式を行った。青森県で教鞭をとり後に北海道に渡って校長として教育に関わったが妻の三和も共に教壇に立ったという。三女・操は十七歳で籠城戦を戦い降伏後に小出鉄之助(小出光照)と結婚(小出光照は会津藩士で日新館では秀才といわれ藩主の小姓に抜擢されるがこれを辞退し江戸へ留学、古屋作左衛門の私塾に入門し洋学を学ぶが花見の帰りに役人に咎められ揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰国するように命じたが小出は古屋と相談し脱藩、古屋の尽力で海外への留学することになった。横浜で出航を待っている中、鳥羽伏見の戦いで会津藩の敗戦を聞き即刻出航を取りやめて親友だった山川大蔵の元へはせ参じ謝罪して帰藩し籠城戦を軍事方として戦う。降伏後は斬首を覚悟して謹慎中の猪苗代を秋月悌次郎ら共に脱走し秋月旧知の長州藩士・奥平謙輔に面会し会津藩再興の嘆願と書生として少年二人を預ける。(山川大蔵の弟・健次郎と小川亮)斗南藩では司民掛などを歴任し辞職、佐賀県令・岩村通俊の知遇を受け佐賀県に赴任し翌年に佐賀の乱で討死)夫・小出の死後失意の操はロシア留学を決意、帰国後が明治天皇のフランス語通訳、昭憲皇太后附き女官として出仕。三女・常盤は山川家の書生をしていた徳力徳治を婿養子に迎えて山川家を継いだ。徳力こと山川徳治は子供のころから天才の誉れ高く萱野権兵衛の子・郡長正、神保修理の弟・巌之助と共に留学生七人組みに選ばれる。維新後は各地裁判所の検事正として活躍、生後八ヶ月の息子・戈登(ゴルドン)を義兄・浩の養子とした。(名前の戈登「ゴルドン」は浩が敬愛する「太平天国の乱」平定に活躍した軍人・チャールズ・ゴードンから取ったといわれている)養父・山川浩の男爵家を相続した山川戈登も実父・山川徳治に負けず劣らず天才で学者として期待されたが僅か二十四歳で急逝した。弟・健次郎は会津戦争時は白虎隊に入隊したが若年の為に一度離隊?籠城戦に加わった。降伏後は謹慎中にもかかわらず秋月悌次郎らと脱走し長州藩士・奥平謙輔の書生となり後にアメリカへ国費留学を果たす。アメリカでは難関イエール大学を一発合格し日本初の物理学教授となる。その後、東大総長や貴族院勅撰議員など功績を残し山川健次郎男爵家を興す。末妹の咲子は斗南藩移住後、貧困の為に函館の沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟で元・山本琢磨と言い盗んだ金時計を質屋に持ち込んだことで江戸から逃亡し函館で日本人初の正教徒司祭をしていた。)に里子に出され彼の紹介でフランス人夫婦に引取られる。黒田清隆は明治新政府の国費留学の募集に女子も入れるべきとの発案にはじめは誰も応じるものがいなかったが西洋の暮らしに慣れていた咲子(当時11歳)ら5人がアメリカへ留学することとなった。(母・艶は咲子をもう捨てた子と覚悟を決め立派になって帰ってくるのを待つ(松)という意味で「捨松」と改名したといわれている)山川捨松はアメリカでは宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻の家庭に寄宿しそこの娘・アリス(生涯の親友となった)と共に小中高と通い名門校のヴァッサー大学に入学し容姿端麗で英語の堪能な捨松は人気者だったという。卒業後はコネチカット看護婦養成所で上級の甲種看護婦免許を取得(五人の女子留学生の内15歳の年長者ふたりはホームシックで直ぐに帰国、残った9歳の永井繁子と8歳の津田梅子と12歳の山川捨松はその後10年間アメリカに滞在した。)明治十五年、二十三歳で帰国した捨松は二十歳までに結婚するのが当たり前の時代に婚期を逃したアメリカ娘と陰口を叩かれる。この頃既に北海道開拓使も廃止しており働き口がないまま時が過ぎていたがその頃後妻を探していた陸軍卿・大山巌が結婚を申し込む。しかし、兄・山川浩は元薩摩藩士・大山巌は会津戦争当時、鶴ヶ城に砲弾を撃ち込み会津の民を殺した(浩の妻・登勢もこの砲撃で死んでいる)張本人に大事な妹をやれるかという気持ちがあった。しかし、大山巌も粘り強く説得し捨松もデートを重ねるにつれ大山の人柄に惹かれ結婚する決意をする。当時、完成したばかりの「鹿鳴館」で初の披露宴を開き、以来捨松はその美しさ、気品で鹿鳴館の花といわれる。(写真前は山川二葉、後ろは咲子こと捨松)
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