2013年05月19日
八重の桜 山本八重の妹分 日向ゆき
日向ゆきは寛永五年に会津藩御旗奉行四百石の日向左衛門と母・ちか(飯沼粂之進の娘で姉は西郷頼母の妻知恵子)の2男2女の長女として生まれる。山本八重とは六歳年下、家も直ぐ近所で小さい頃から兄弟のように育った。(八重は実妹が二歳の時に死別しているのでゆきを妹のように思っていたらしい。)ゆきは子供のころは日向よし子と名乗っていた三歳の頃に実母・日向ちかが病死したので父・左衛門は後妻に会津藩士・有賀豊之進の妹・秀が入り男子を4人もうけた。ゆきは義母にいじめられもしなかったが可愛がられもせず近所の八重や時尾と姉妹のように育ったという。父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが戊辰戦争の直前に町の風紀が乱れているの憂いて自ら志願して町奉行になったという。(御旗奉行より町奉行は身分が低く普通はやらないが父・左衛門は望んで降格を願い出た。)慶応四年ゆきが18歳になったころ、戊辰戦争が勃発、会津に向って新政府軍が侵攻してくるとゆきは籠城するために鶴ヶ城に入ろうとしたが既に城門は閉ざされ入ることが出来なくなった。ゆきは盲目の祖母や継母・秀、弟妹らと敵兵が真っ只中を突ききり市外に逃れ御山在の肝煎り・栗城伝吉の家に非難し終戦まで暮らしたという。一方、父・左衛門は町奉行として大町口郭門を守っていたが敵兵の狙撃を受けて落馬、それでも戦い続けたがついには負傷し敵に首を取られるくらいならと左衛門の母方の実家である加須谷大学(八百石取)の屋敷内の竹やぶで自害して果てた。兄・新太郎(20歳)は遊撃二番隊の中隊長として敵兵が占拠している飯寺奪還の為に進軍し材木町の柳土手で銃撃戦となり負傷、肩を打ち抜かれ撃てなくなると部下に介錯を命じて自刃する。日向ゆきは会津兵の埋葬がようやく許されると早速父・左衛門の遺体を捜し加須屋邸の竹やぶからボロボロの紋付と白骨化した遺体を発見し浄光寺に埋葬した。その後、兄・新太郎の部下から会津戦争時の様子を詳しく聞き兄の首をくわえてきた野良犬を追い払った村人からその首を発見し父の墓の隣に葬った。会津藩が斗南藩に転封が決まると日向ゆき達家族は徒歩で移住し裁縫などをしながら暮らしていたが義母・秀が青森での仕事の為移住したがゆきは北海道函館の元会津藩士・雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が二人とも体調が悪くなり困っているので手伝いに来て欲しいと頼まれ函館に奉公に出た。(雑賀繁村の妻・阿佐子は元会津藩家老・簗瀬三佐衛門の娘で日向ゆきとは旧知の仲だった)ある日、札幌から開拓使・内藤兼備(かねもと)が訪ねてきて日向雪を妻に貰い受けたいといってきた。(内藤は旧薩摩藩士で会津戦争にも従軍し会津の女性の奮迅の働きを見て嫁を貰うなら会津女性と決めていたという)最初は会津を踏みにじった薩摩を憎んで拒んでいたゆきだが内藤の情熱にほだされ結婚を承諾し札幌で祝言を挙げた。会津女性が仇敵・薩摩藩の男子と結婚した一番初めとされ山川咲子(山川捨松)と大山巌の結婚はその11年後となる。明治二十年、新島襄と結婚していた新島八重(山本八重)は仙台東華学校の開校式に夫婦で出席しその後避暑のために北海道函館に行って四日間滞在した。新島襄は幕末アメリカへ密出国する際に協力してくれた恩人・福士卯之助に会う為、札幌に移動したがそこで函館から札幌へ移り住んでいた雑賀繁村夫妻と会う。雑賀阿佐子の話から日向ゆきが札幌にいることを聞いた八重は二十年ぶりにゆきと再会を果たす。ゆきは生涯、会津に帰ろうとしなかったという(元薩摩藩士と結婚したことがゆきは後ろめたかったのかもしれない)老齢になったゆきは驚くべき記憶力で幼少期のことを息子に口述筆記させ「万年青」と書き上げたという。昭和19年に94歳の生涯を閉じた。
この記事へのコメント
会津戦争、私も時代小説書きますので、2、3作品ありますが、日本人は身の処し方美しいですね。
Posted by 根 at 2013年06月25日 01:48
コメントを書く
この記事へのトラックバック