2013年05月15日

八重の桜「新島八重」の兄で砲術家・山本覚馬

111004_YamamotoKakuma.jpg山本覚馬は武田信玄の軍師「山本勘助」の子孫と伝えられ代々兵学家として仕えた家柄で文政十一年に会津藩砲術指南役・山本権八の長男として生まれ、妹に八重、弟に三郎がいる。長男であるため跡継ぎの教育を受け4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦し藩校・日新館で頭角を現し22歳で砲学、特に大砲などを学ぶ為に藩命によって江戸屋敷勤務を仰せつかり勝海舟や武田斐三郎らが通っている佐久間象山の塾に入る。勝海舟らとともに西洋学を学ぶと同時に弓、馬術、槍、剣術、西洋砲術を修め翌年に帰藩して藩主より賞されている。その後、大砲奉行・林権助安定(明治に活躍した林権助は彼の孫)の江戸随行員に選ばれ江戸藩邸勤務を命じられ江戸にて西洋砲術の研究を深めた。28歳で一旦帰藩し日新館教授に就任し蘭学所を開設(この次期に江戸遊学で親しくなった川崎尚之助が訪ねて来て蘭学所経営を助けて山本家に寄宿し八重の最初の夫となる)して会津藩で近代兵器の必要性を説き刀や槍の時代ではないことを訴えるが会津藩の旧守派の反感を買い一年間の自宅謹慎処分を受ける。謹慎処分中も火縄銃から西洋銃入れ替えやペリー来航による動乱を説き大砲奉行・林権助の助力もあって軍事取調役兼大砲頭取に就任して表舞台に返り咲く。その後、覚馬は樋口うらと結婚して長女を儲けるが夭折し2年後に次女の「みね」が誕生するがまもなく藩主・松平容保が今日と守護職に任命され大砲奉行・林権助の補佐役として覚馬は京都へ赴く。覚馬は京都黒谷本陣で西洋軍隊の調練を始めるとともに蘭学所を開設する許可を得て藩士以外の人にも広く門を開いた。元治元年に起こった蛤御門の変に砲兵隊を率いて参戦し鷹司邸に立て篭もっていた長州藩家老の国司信濃らを大砲をもって殲滅した。(後に国司信濃は第一次長州征伐の責任を負って切腹)この時に激戦となり敵大砲の破片を受け、または打った大砲の硝煙によ目に傷を負ったと言われる(持病であった白内障が悪化したとも)覚馬はこの戦の功により公用役にとり立てられ幕府や各藩の名士と交わる機会を得た。慶応2年に覚馬は藩主の許可を得て武器の買い付けのために長崎を訪れドイツ商人のカール・レーマンと商談し1300挺のシュンドナーバルド・ゲベール銃を購入契約を結ぶ。「しかし、このゲベール銃は一部しか在庫がなく戊辰戦争には間に合わなかった。代金も敗戦した会津藩には払えず維新後に訴訟を起こされた」長崎滞在時に長崎養生所「精得館」にてオランダ医師・ボードウィンの治療を受けるが間もなく失明するとの診断が下る。京都に戻ると御所出入りの小田勝太郎の紹介で小田の妹・時恵(当時、13歳)が身の回りの世話をすることになる。この時期に会津藩では妹・八重と親友・川崎尚之助が結婚する。慶応四年、戊辰戦争の前哨戦となる鳥羽伏見の戦いが始まると覚馬は京に残り会津藩が賊名を受けることを憂いて伏見で戦う会津藩兵を説得する為に伏見に急ぐが薩摩・長州の新政府軍に包囲され入ることすら出来ず京都に戻って朝廷に会津に敵意がないことを訴えようとするが薩摩藩兵に拘束され薩摩藩邸に幽閉される。弟・三郎はこの戦いで戦死する。(拘束された当初は会津藩士を殺せという声もあったが覚馬の名声を知っていた薩摩藩幹部の助けもあって比較的優遇されたという)薩摩藩邸内で目が見えないこともあり小田時栄が出入り自由を認められ世話をしたという。また同じく囚われていた会津藩士の野沢鶏一に口述筆記を頼み薩摩藩主に建白書「菅見」を提出。これを読んだ薩摩藩家老・小松帯刀や西郷隆盛は痛く感動し益々藩邸内で優遇され後の明治新政府で参考されたという。明治元年に覚馬は仙台藩邸の病院に移され岩倉具視の訪問を受け翌年に釈放された覚馬は世話をしてくれていた小田時栄(当時16歳)と同棲をはじめる。明治三年、京都大参事・河田佐久馬の推薦もあって京都府庁に出仕、権大参事・槇村正直(後の知事)の顧問として当時天皇が東京に移り衰退した京都のために尽力し明治5年、日本初の博覧会(京都勧業博覧会)を開催して京都を近代都市へと導いた。槇村正直は覚馬を兄のように慕い槇村邸の隣の土地100坪を勧めて自宅を建設し自宅庭に講筵を開き政治学、経済学を講義した。(この土地は徳川慶喜の愛妾「お芳」の父親で江戸火消しの新門辰五郎の邸宅跡だった。明治四年、ようやく連絡が取れた会津に置いてきた母・佐久、妹・八重・娘のみねを京都に呼び寄せた。(父・権八は会津戦争で戦死、妻・うらは夫・覚馬が妾・時栄と暮らしていることを知ってか離婚を主張して会津に残ったという。また、川崎尚之助と八重は会津鶴ヶ城籠城戦でともに戦ったが落城寸前に別れたといわれているが不明)離婚成立後に覚馬は時栄(18歳)と再婚、この時に既に娘・久栄が出来ていた。覚馬は暴漢に襲われ脊髄を損傷して足腰が立たなくなり歩くことも困難で八重が背負って登庁したといわれる。明治八年、大阪で布教活動をしていた宣教師ゴードンから贈られた「天道溯源」を読んで大いに感動したという。ゴードンの紹介でアメリカから帰国したばかりの新島襄が山本覚馬邸を訪ねキリスト教の学校設立の相談を持ちかけ協力の約束を交わした。覚馬は戊辰戦争当時に幽閉されていた薩摩藩邸6000坪の土地を購入していたがこれを安価で譲渡し学校用地とし新島と連名で「学校設立願い」を文部省に提出して認可された。(覚馬が命名した「同志社英学校をこの土地に設立し後に同志社大学今出川キャンパスとして今に残る。)この年に新島襄と山本八重は結婚。明治十年に覚馬は京都府顧問を解任、2年後に京都初の府議会選挙において上京区で51票を獲得して選出され府議会議員となり初代議長にもなったが翌年に辞職して同志社の運営に専念する。明治十四年、覚馬の次女・みねが横井小楠の長男・横井時雄と結婚し翌年には長男・平馬(覚馬にとっては初孫)を生む。明治十八年、覚馬は京都商工会議所会長に就任し妻・時栄とともに宣教師グリーンの洗礼を受けた。(既に妹・八重や母・佐久、娘・みねは明治九年に洗礼を受けている)妻・時栄は受礼後直ぐに体調を崩し自宅に往診を頼んだ医師ジョン・K・ベリーによって思いもよらぬことを報告された。妊娠5ヶ月と聞いた覚馬には身に覚えがなく妻を問い詰めたところ、養子にと会津から呼び寄せ同志社英学校に通わせていた青年との不倫が発覚したが覚馬は年齢57歳、妻・時栄は31歳の女盛り、しかも時栄は13歳のころから目が不自由、半身不随の覚馬の世話をしてくれているので強くは言えず許すこととなったが八重と娘のみねは断固反対、「ならぬものはならぬ」と許さなかった為、山本家から追い出し翌年に離婚が成立し次女・みねが24歳で他界したためその子・平馬を養嗣子として迎える。明治二十三年、大磯で新島襄が病死すると覚馬は同志社英学校臨時学長に就任し学校発展に尽くすが二年後の明治二十五年に覚馬自身が自宅にて病没。享年六十四歳・・・山本覚馬は朝廷が東京と名を改めた江戸へと居を移し(東京遷都)薩長が見捨てた京都の再発展に力を尽くし博覧会の開催によって世界中から日本の京都に注目を集めさせた功績は大きいと思う。
posted by こん at 10:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
武田家の知恵袋・山本勘助の子孫か・・・山本覚馬・・・

Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2014年11月10日 06:48
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