2011年11月27日

ドラマJIN−仁ーでも活躍 緒方洪庵と妻の八重

Ogata.jpg緒方洪庵は文化七年、備中国足守藩の下級藩士(三十三表四人扶持)・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれ八歳の時に天然痘に罹ったといわれる。十六歳で元服し田上セイ之助惟彰(この田上は佐伯家の先祖が一度だけ名乗った姓を用いた)文政八年に足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父に同行して初めて大坂の土を踏む。洪庵は生来体が弱く武士よりも医学で身を立てようと決意し翌年には蘭方医で蘭学者・中天游の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学や西洋医学を学び翻訳書を読みふける。(その間に父の転勤に伴って一旦帰藩するが藩の許可を得て上坂し改めて中天游に弟子入りをして名を緒方三平と名乗る。)天保二年、洪庵は二十二歳の時に師匠・中天游の勧めにより江戸へ出て蘭方医・坪井信道の「安懐堂塾」に入門し医学やオランダ語を学びローゼが著した「人体生理学書」を翻訳した「人身窮理学小解」は医学を志す若者達に多く読まれた。洪庵は按摩など今で言うアルバイトをしながら苦学を続け師匠の坪井は見かねて自分の着ていた服をそっと洪庵に着せてやるという師弟愛を見せた。後に坪井信道の紹介で坪井自身の師である宇田川玄真にも学び名を「緒方判平」と改める。その後、備中足守に帰ったが恩師・中天游の死の知らせを受け上坂し恩に報いる為「思々斎塾」で教鞭をとる。その後。天保六年、名を緒方洪庵と改め中天游の嗣子である中耕介を伴って長崎へ遊学の旅に出る。(この費用は「思々斎塾」の先輩で名塩で開業医をしていた億川百記が出した)長崎ではオランダ商館長で医師でもあるニーマンにオランダ医学を学び青木周弼や伊藤南洋とともに「袖珍内外方叢」という薬剤所を翻訳したといわれるが長崎修行時代のことはあまり記録に残っていないらしい。(勉強不足ですみません)天保九年、二十九歳で大坂に帰った洪庵は大坂瓦町に医業を開き「適々斎塾」(適塾)の看板を掲げ蘭学を教える。(恩師・中天遊の「思々斎塾」にあやかって適々斎塾と名づけた。)同年に先輩・億川百記の娘・八重(十七歳)を嫁に迎え後に六男七女の子を儲ける。洪庵は開業二年目にして大坂の医者番付で大関に昇ったその名声に「適塾」には多くの弟子が集まり村田蔵六(後の大村益次郎、維新後の日本陸軍創設者で維新十傑のひとり)や福沢諭吉(慶応義塾の創立者、学問のすすめの著者)、大鳥圭介(幕末の函館政権では陸軍奉行「土方歳三は陸軍奉行並で有名」維新後は学習院院長)佐野常民(日本赤十字の創始者)橋本左内(福井藩主・松平春嶽の懐刀で安政の大獄で処刑)高松凌雲(函館戦争時の函館病院長で敵味方の区別なく治療して同愛社を創始して後の赤十字先駆者となる)、手塚良仙(天然痘治療の為のお玉ヶ池種痘所{東大医学部の発祥地}の創設者のひとりで昭和の大漫画家手塚治虫の曽祖父)など数々の偉人達を輩出し明治元年の適塾閉鎖までに名簿に残された者だけで636人に及び教えを請うた者を含めると数千人もいたという。 弘化二年、瓦町の適塾が手ぜまになった為に過書町(現・大阪中央区北浜三丁目)の商家を買い取り移転した。多くの死者を出した天然痘の予防や治療を研究し嘉永二年、京都で佐賀藩の医師・楢林宗健から種痘を譲り受け大坂古手町(現・道修町)の除痘館を設立して切痘を開始し翌年には出身藩である足守藩からの要請で足守除痘館を開設。ワクチンの不足を補う為に全国186箇所の種痘株分苗所を作ったが闇で牛痘種痘を行う医者が増え医療事故が増えるのを恐れた洪庵は幕府に働きかけて除痘館のみを幕府公認の免許制となる。また大坂にコレラが流行するや「虎狼痢治準」を出版し「家塾虎狼痢治則」をまとめる。(人気テレビドラマ「Jin 仁」では武田鉄也演じる緒方洪庵は南方仁のペニシリン培養に協力した)文久二年、再三固辞していた幕府からの奥医師の要請を受諾し江戸へ出て伊藤玄朴宅に単身赴任し幕府の西洋医学所頭取となり仮屋敷に移り妻と子供達を呼び将軍家茂より「法眼」に叙せられる。(法眼はもともと僧侶の地位を示す法眼和上位の略だが江戸期には絵師や儒者、医者などに与えられる今で言う人間国宝のような物らしい)文久三年、西洋医学所頭取役宅にて喀血しその血を喉に詰まらせて窒息死する。享年五十四歳・・・緒方洪庵の妻・八重は洪庵が二十九歳のとき十七歳で嫁ぎ六男七女(内の四人は早世)を育てながら苦しい生活の為に名塩の実家に仕送りを頼み生活費を助けた。また、血気盛んな塾生をあるときは叱り、ある時はほんとうの親のように接した姐御肌の豪気さを持った女性といわれている。福沢諭吉は「母のような人」といって慕い、日本赤十字創始者の佐野常民は彼女から受けた恩を忘れられず墓碑銘を自ら書いたという。八重は夫・洪庵の死後二十三年後の明治十九年享年六十四歳で亡くなるがその葬儀には門下生は勿論、政府関係者や在野の著名人、一般人など2000名もの参列者がいたがその葬列の先頭が日本橋に差し掛かった頃にはまだ八重の棺は2500メートル離れた北浜の自宅を出ていなかったといわれている。日本陸軍の創始者である大村益次郎は京都木屋町の料亭で暴漢に襲われ重傷を負い大坂の病院で左大腿部切断の大手術をしたがその足は益次郎の意向により緒方洪庵・八重夫妻の墓の横にこっそりと葬られたという。(大村益次郎はその後、敗血症をおこして死去した。)
posted by こん at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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