2010年12月10日

兄の為に半生を生きた妹・正岡律

ritu.jpg正岡律は明治三年、松山藩士正岡恒尚と八重の長女で正岡子規の妹として愛媛県松山で生まれる。幼少の頃から大変勝気で体の弱い子規がいじめられると律は両手に石を握り締めていじめっ子を追いかけまわしたという。小学校を卒業し十五歳で遠縁にあたる陸軍軍人の恒吉忠道と結婚するが僅か九ヶ月で離縁される。その二年後の明治二十二年に松山中学教師・中掘貞五郎(地理や物理などを教えていた。夏目漱石の坊ちゃんの「うらなり」のモデルになった一人とも言われている。背丈が低く歩く時にコットリコットリと音を立てて歩くので生徒からは「こっとりさん」とあだ名されていたという。)と再婚するも(子規が喀血で倒れ夏季休暇中を利用して松山に戻って療養していた)新婚ながら兄の看病でほとんど実家に帰っていたのが一因で僅か十ヵ月で離婚する。兄・子規が東京帝国大学を中退して新聞社に就職したのを機に律は母・八重と共に上京して三人で暮らし始める。しかし、子規が従軍記者として大陸へ渡航中に喀血し脊髄カリエスと診断され歩くこともままならない状態になると律は昼夜を惜しまず献身的に兄の看病をする。脊髄カリエスにより背中から流れ出る膿や便も嫌がりもせずとってる姿は主治医・宮元仲は「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」とその献身振りを賞賛したという。また、子規の容態が悪化するにつれやり場のない怒りを傍で看護している妹にぶつけるしかなかった。律はそんな兄を気づかって少しでも心が癒されるようにと思ってか庭を作り変え子規の目を楽しませ寝返りが打てなくなるほど悪化すると鳥籠を設置して耳を楽しませたりヘチマ棚を作って子規を癒した。子規は脊髄カリエスの痛みや動けない辛さを傍にいる律にぶつけ彼の著書「仰臥漫禄」で木石のような女だの強情で冷淡な女だの書き連ねて不満をぶつけた。しかし「一日にても彼女なくば一家の車は其運転を止めると同時に余は殆ど生きて居られざるなり」と律を頼りにし「 雇ひ得たるとも律に勝る所の看護婦 即ち律が為すだけのことを為し得る看護婦あるべきに非ず」と律に感謝している。明治三十五年、正岡子規はついに苦しく辛い闘病生活に終わりを告げて三十五歳の生涯を閉じる。律と母・八重はその後も子規庵に住み続け律が小学校しか卒業していなかった為、三十二歳の時に共立女子職業学校(鳩山由紀夫元首相の曽祖父ら教育者数名で設立し現在は共立女子学園)に入学して裁縫、家事、修身、国語、算術、理科などを勉強、補習科に進んだ後卒業して母校の事務員を経て家政とくに和裁の専門教師として大正十年まで勤めるが母・八重の看病の為に退職する。その間の大正三年、叔父・加藤拓川の三男・忠三郎を正岡家の養子として迎え入れ家名を継がした。教師時代の律は厳格であるが優しい先生として多くの生徒に慕われ退職後も教え子達との交流は続いたという。その後子規庵にて裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品遺墨と子規庵の保存に努め昭和三年、財団法人子規庵保存会初代理事長に就任した。律の最期の手記「律刀自病床覚」によると律は最期に「もう連れて帰ってください」と残して昭和十六年に七十二歳の生涯を閉じ生前の希望通りに正岡子規の傍らに律は葬られた。・・・余談になるが子規がまだ松山中学在学の頃、子規の周りに多くの仲間が集まって話をしていても律はその中に入ってこなかったが秋山淳五郎真之が来た時だけは喜んでその話の輪に入ってきたので子規は冷やかして「律は淳さんと結婚すればええ」とからかったといい、また子規没後に訪ねてきた真之の姪(秋山好古の次女・土井建子さん)は「お律さんの傍にいてひょっとしたらお律さんは真之叔父さんが好きなのかしらと思った」と述べていたらしい。幼い頃から兄の親友だった男前の秋山真之にほのかな恋心を抱いたとしても不思議ではない。
posted by こん at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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