2010年06月08日

龍馬の親友で槍の達人 三吉慎蔵

miyoshi.jpg三吉慎蔵は天保二年、長州支藩長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男・友三郎として長府横枕に生まれた。天保八年に田辺惣左衛門の養子となったが後に復籍する。嘉永二年に萩の明倫館に入学、長州本藩の師範・小幡源左衛門から宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け名前を慎蔵と改める。安政四年、長府藩士・三吉十蔵の養子となり藩主・毛利元周の近侍扈従役として江戸へ随従する。江戸では江川太郎左衛門について西洋砲術を学び文久三年、馬関の外国船砲撃事件で大砲鋳造掛御締方兼精兵隊肝煎に就任する。慶応二年、長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬と知り合った。慎蔵は京都の情勢を探るよう長府藩主の命を受け龍馬とともに馬関を出発し入京する。伏見の寺田屋で龍馬と会談中に伏見奉行所捕方百数十人の襲撃を受ける。後に龍馬の妻になるお龍の機転によって脱出し龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦、左手指に重傷を負う。慎蔵は得意の槍で応戦しながら龍馬を材木小屋に隠し単身薩摩藩邸に走り龍馬の危機を知らせ助けた。薩摩藩に匿われた龍馬とお龍、三吉慎蔵らは大坂から薩摩藩の軍艦・胡蝶丸に乗って鹿児島を目指した。途中、下関で慎蔵は下船し藩主に京都の情勢を報告した。慎蔵は寺田屋の功により長州藩主・毛利敬親より刀を下賜され長府藩からは二十石の加増、同藩目付役に任ぜられた。第二次長州征伐が始まると慎蔵は長府藩五番大隊軍監兼応接、六番遊撃大隊軍監に就任した。高杉晋作の指揮の下で幕府軍小倉藩と戦い勝利した。慶応三年、いろは丸事件の解決のため長崎から土佐に向かう途中に寄港した龍馬は海鮮問屋の伊藤家にお龍、君枝姉妹を預けもしもの後事を託した遺書らしき内容の書を親友・三吉慎蔵に残した。龍馬の死後、約束通りにお龍、君枝姉妹を実家に引取って面倒を見、龍馬の希望通りに妹君枝を海援隊士・千屋寅之助に嫁がし、お龍を土佐の坂本家に送り届けた。(後にお龍は坂本乙女と気が合わず家を飛び出す)維新後は豊浦藩(長府藩)権大参事を務めた後、長府藩主毛利家の家扶となり上京、廃藩置県後は毛利家家扶のまま北白川宮家御用掛として出仕し北白川宮家家扶後に家令として明治二十三年まで務め辞任。毛利家当主・元敏の帰郷に伴い慎蔵は長府江下に居を移す。明治三十四年に三吉慎蔵は病没、享年七十一歳・・・三吉家は代々法華寺に墓所があるが藩主・元敏より功山寺に墓所を給う。慎蔵はそれほど藩主の信頼が厚い人物であったと推測される。


posted by こん at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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