2009年05月02日

西郷隆盛の評価

西郷隆盛は維新の三傑の一人で最大の功労者ではあるが、一方では倒幕の為にはいかなる手段も厭わない非情さを持っていたといわれているが、西郷と接した人々は皆一同に「情」の人といっている。幕末の日本で新しい時代の夜明けを迎えようとしていた頃の坂本龍馬は西郷のことを「大きく撃てば大きく響き、小さく撃てば小さく響く釣鐘のような人物」と言っていた。これは相手によって態度を変えることではなく、相手の器量に合わせて、すべてを飲み込み、大きく包み込む度量の大きさを表現した言葉といわれている。部下の不始末の責任は自分の責任とし、自分の功は部下の功にするという生き方に表れているという。江戸城無血開城を西郷とともに決めた勝海舟は「従容として、大事の前に横たわるを知らない態度に、俺もほとほと感服した。」と会見後に語った。西郷にか達観的に物事を観れる力量があり、どんな重要な要件であっても、緊張の色見せずに当たれ、部下はその態度を見るだけで落ち着き、持てる力を存分に発揮できる。何があろうと慌てず騒がず、悠然としている西郷の姿に部下はもちろん、敵将でさえ魅了した。幕末に「人斬り半次郎」と恐れられた中村半次郎。維新後に日本陸軍で初の将官待遇を受けた武闘派の桐野利秋は西郷を「我が運命、我が生命」といって西郷が征韓論に敗れ下野したときに将官の地位を投げ捨てて西郷とともに鹿児島へ帰った。また、日本の将来を担う人物と高い評価を受け欧州留学に出ていた薩摩藩士・村田新八は帰国後、西郷の下野を聞き留める大久保を振りきって鹿児島へ帰り運命を西郷とともにした。西南戦争の時には他藩であった旧中津藩士・増田栄太郎は「一日西郷に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくのあらず。ただ死生をともにせんのみ」とまるで初恋をした少女のような台詞を吐いた。西南戦争後、福沢諭吉は「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」という追悼文を書いた。また、時代は昭和に入って三島由紀夫は「西郷は日本の地霊の如く、年をへだてては地上に現れる」と神霊の如く偉大さを評価した。現代は日本中に西郷隆盛の銅像が建立されているが、鹿児島では大久保利通が西郷を裏切り鹿児島を見捨てたと嫌われ、銅像が建立が遅れたといわれている。維新三傑の中で木戸孝允(桂小五郎)は「萩の乱」で同志だった前原一誠を残酷な殺し方で処刑したり、自分の故郷の山口を焼き野原にし、大久保利通も親友・西郷隆盛を西南戦争で死なせ、鹿児島を焼き払ったといわれている。西郷だけは最期まで鹿児島を愛した。
posted by こん at 09:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
色々な資料を読んでも分からないのは、西郷隆盛が担ぎ上げられたとはいえ、なぜ西南戦争の指揮官になることを受諾したのか、です。本気になって中央政府を倒す気であったのか。隆盛の真意が今ひとつ理解できかねるのです。
Posted by 根保孝栄石塚邦男 at 2011年01月09日 20:41
はじめまして。 天輪0416と申します。
管理人さんのブログを拝見させていただきました。
大変歴史にお詳しいですね。勉強になりました。
これからもよろしくお願いします。また来ます。
Posted by 天輪0416 at 2011年05月07日 01:21
西郷隆盛先生を、理解するためには、西郷隆盛と同じ器でなければ、力量にならなければ、無理です。観客席の評論家の意見は、参考にもなりません。
Posted by 中野 at 2015年11月23日 18:08
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