2009年03月20日

芸者幾松から三傑の妻 木戸松子

ikumatu.jpg木戸松子は天保十四年、若狭国小浜藩士・木咲市兵衛を父とし、三方郡神子浦の医師・細川太仲の娘・末子を母の長女として生まれた。(諸説あるが二人姉弟で弟が一人)幼名は計(かず)といった。父・木咲市兵衛はもと弓師の浅沼忠左衛門の次男で木咲家へ養子に入り小浜藩の町奉行祐筆として勤めていたが、藩内の農民騒動で奉行が罷免され、その連座で市兵衛は閉門の処罰を申し付けられた。その後、市兵衛は妻子を残したまま京都へ出奔してしまう。母・末子は子供達を連れ実家の神子浦に戻っていたが、京で父らしい人を見たと聞きつけた母は単身上洛する。(父・市兵衛は京都加賀藩邸に居候していた)計は父母恋しさに一人で小浜から鯖街道を上って上洛する。しかし、父・市兵衛は病に伏した為、貧しい生活の口減らしに計(かず)は七歳で九条諸太夫の次男・難波恒次郎の養女に出された。難波恒次郎は定職を持たない放蕩三昧の生活で元・京都三本木の芸者・幾松を落籍して妻にし実家に居候していた。恒次郎は遊ぶ金欲しさに十四歳の計を三本木の「吉田屋」の芸妓に出し二代目幾松を名乗らせる。嘉永七年、ペリー来航にともない風雲急を告げる時代に入り御所に程近い三本木に多くの勤皇の志士達が集まるようになる。この頃幾松は置屋「瀧中」の芸者で笛と舞の名手として美しく聡明で評判となっていた、十八歳で旦那が付いていた名妓であった。文久元年頃に桂小五郎と知り合い、桂が入れ込んだともいわれている。しかし、幾松には実家の木咲家と養家の難波家を養う為に莫大な借金があった。幾松を身請けするために伊藤俊輔が奔走して金の都合を付け落籍し、京都木屋町御池上るに一戸を構え生活を始める。しかし、幾松は芸妓を続けて勤皇志士たちの為に宴席での情報収集に努めた。(後に桂小五郎が置屋「瀧中」を買い取り、その家賃収入と桂から毎月六両の送金で木咲家は生活し、難波恒次郎は桂の木屋町別邸の管理を任され長州藩の雑用係を主な収入にし、両家とも長州藩京都留守居役の桂小五郎が養った。)元治元年、八月十八日の政変で京都を追われた。さらに桂小五郎は池田屋での会合に遅れた為に新撰組の襲撃は免れた(対馬藩邸に逃げ込み命拾いした。)が新撰組に追われ幾松に匿われた。(近藤勇と幾松との長持でのやり取りは有名)長州藩士達が翌年に蛤御門の変を起こし長州藩は朝敵とされてしまう。桂は一旦、淀に逃げたが、再び京に潜伏して乞食に身をやつして情勢を探り二条大橋のしたで身を隠していたが幾松は長州藩御用達の大黒屋今井太郎右衛門宅で握り飯を作り、二条大橋へ届けた。しかし、新撰組の追及が厳しくなった為、桂は対馬藩邸出入りの広戸勘助の手引きによって
但馬出石に潜伏した。新撰組は大黒屋今井邸を焼討ちして幾松を捕らえて桂の居場所を聞き出そうとした。幾松は対馬藩同志の協力により無事逃げ延び、下関に入った。長州藩では高杉晋作が功山寺挙兵により藩政を握ったので桂小五郎の政治力を必要としていた。高杉は桂に帰藩するように手紙に書き幾松に託した。幾松は但馬出石に着いた頃、桂は小さな店を構え商人に扮して妾まで囲っていた。幾松は店を畳み、妾には手切れ金を持たせて桂を連れ帰った。その後、長州藩主・毛利敬親の命により木戸寛治と改名、後に準一、維新後は孝允と名を変え幾松も松子と変え、長州藩士・岡部利済の養女として正式に入籍した。新婚当時は山口糸米に新居を構えたが木戸孝允が明治新政府の要職に就いたため東京に移転、孝允が参議として外遊に出るなど多忙な日々を過ごしたが、孝允が脳疾患で倒れ、京都で療養することとなった為、松子は京都に掛け付け看病するが間もなくして死去、松子は直ちに剃髪して翠香院となり、上京区土手町に墓守をしながら余生を過ごした。明治十九年に松子は胃病を患い死去する。享年四十四歳・・・松子は木戸との入籍後は夫婦仲は余り良くないといわれている。(忙しい木戸に愛想をつかした松子の浮気が原因とか、木戸の姉との不仲が原因など諸説あり)


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posted by こん at 11:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
二人は晩年まで仲睦まじかったようですよ
一次資料の木戸孝允文書に収録された手紙にはお互いを思いやる内容の往復書簡が納められています。木戸が多忙な時も病に倒れた時も松子は身を案じています。お互いが「寝る前に物を食べるな」と言いあっている様は微笑ましいです。
不仲説は当時の芸者あがりの松子さんへの偏見と、南條とかいう小説家の捏造小説が元でしょう。
とかく木戸に関する資料は司馬遼太郎その他の小説の影響を受け歪められたものが多いので、一次資料またはそれに忠実な文献以外は信じないほうがいいです。
Posted by 通りすがり at 2012年03月13日 14:50
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