2009年03月19日

好色家伊藤博文を支えた妻 伊藤梅子

img_1464807_48398423_3.jpg伊藤梅子は(旧姓木田梅子)嘉永元年、山口県赤間関城ノ腰の木田久兵衛の長女として生まれる。梅子が十七歳の頃、亀山砲台のあった亀山八幡宮境内のお亀茶屋でお茶子として働いていたがここで伊藤博文と知り合う。当時、伊藤博文(俊輔)は前年に高杉晋作が決起した功山寺挙兵に力士隊を率いて参戦して長州藩の俗論派と戦い勝利したがその残党に命を狙われていた。伊藤は長州支藩の長府藩の攘夷派に襲われ、亀山八幡宮の境内に逃げ込んだが、その彼を匿ったのがお梅だった。その美貌にほれ込んだ伊藤はたびたび逢瀬を重ねたという。しかし、伊藤博文(俊輔)には同じ松下村塾門下の入江九一の妹・すみ子という立派な妻が居り不倫であった。(他にも伊藤博文には数々の女がいて稀代の好色家として有名、維新後には明治天皇から注意されたほどで処女喰いとして名を馳せた。)伊藤は桂小五郎の命を受け井上馨とともに長崎へ近代兵器や弾薬の買い付けに行っている間に梅子は父・久兵衛の借金のかたに下関稲荷町の置屋「いろは楼」に身売りされて小梅と名乗って芸者見習いになっていた。しかも伊藤の子供を身ごもっていた為、伊藤は直ぐにでも身請けしたかったが「いろは楼」の主人から本妻のすみ子と別れ再婚するならとの条件付で身請けし結婚したという。その後、梅子は良妻賢母として桂小五郎こと木戸孝允夫人の松子とともに並び称され、明治十七年の宮中制服改め(洋装に改めること)にはその調度の命を受ける栄誉を授かる。また、伊藤博文の漁色ぶりは相変わらずで、高熱にうなされたときでさえ両脇に芸者を寝かせ夜伽を欠かさなかったという。梅子はこんな芸者達が帰るときには玄関まで見送り反物などお土産を持たせて労ったといわれ夫の女性関係には一切口を出さなかった。また、下田歌子に和歌を習い、津田梅子に英語を学び明治政府元勲婦人としての教養を身につけた。ハルピンにて夫・伊藤博文が暗殺された時には動揺する家中をまとめ、「国のため、光をそへてゆきましし、君とし思へど悲しかりけり」と寂しさをを詠んだ。その後、七十七歳で永眠・・伊藤博文の好色ぶりは当時の新聞の格好のネタで鹿鳴館の裏庭で戸田氏共伯爵夫人(大垣藩主婦人極子、岩倉具定の長女)を手篭めにし、夫の氏共をオーストリア兼スイスの特命全権公使に推挙した為に世論の非難を受けた時でさえ梅子は主人をたて、伊藤は女にだらしないが他の政治家のように金銭(賄賂など)には汚れていないとかばい続けた。事実、伊藤が亡くなったあと、井上馨や松方正義らのように莫大な貯えはなかったという。


posted by こん at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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