2009年03月09日
新撰組一途に生きた 横倉甚五郎
横倉甚五郎は天保五年、武蔵国多摩郡八王子堀之内村・横倉良助の次男として生まれる。幼少の頃から地元多摩で天然理心流を習い、池田屋事件後の元治元年に近藤勇の隊士募集に応じて新撰組に入隊し上洛し、武田観柳斎率いる六番隊に配属された。慶応三年の幕府召抱えの際には平隊士として見廻組並御雇として名を連ねた。御陵衛士として新撰組を分離した伊東甲子太郎一派の殲滅を謀った油小路の変では「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎とともに奮戦した。その一ヵ月後、近藤勇が二条城から伏見に向かう途中に御陵衛士の残党の三木三郎に狙撃された時にその護衛に付いていた。鳥羽・伏見の戦いで敗走した後江戸へ引揚げ、近藤勇ら新撰組の甲陽鎮撫隊として勝沼の戦いに参加、宇都宮、会津戦争を経て仙台で榎本艦隊と合流し蝦夷地へ渡航して函館新撰組の三分隊嚮導役となる。明治二年、弁天台場で降伏した後、青森の弘前で謹慎処分を受ける。その後、元・京都見廻組の今井信郎らとともに東京へ送還されて辰ノ口兵部省事務局糾問所に留置される。明治三年、新撰組同志の相馬主計や大石鍬次郎らと刑部省に引渡され、坂本龍馬暗殺の容疑者として取り調べを受け、獄中にて病死したという。しかし、一説には大石鍬次郎とともに油小路の変の実行犯として小塚原にて斬首されたともいう。享年三十七歳・・・弁天台場での降伏時に詠んだ辞世の句は「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ 」
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「義の為につくせしことも水の泡打ちよす浪に消えて流るる」と胸に仕舞い打ち首に合ったと伝えられる。獄死したというのは間違い。