2009年03月07日

生麦事件  奈良原喜左衛門

奈良原喜左衛門は天保二年、薩摩藩小番・奈良原助左衛門の長男として鹿児島城下高麗町で生まれる。薬丸半左衛門に薬丸示顕流を学び藩内屈指の剣術の達人といわれ、弓道にも通じた。父・助左衛門は近思録崩れ(八代藩主・重豪の放漫財政から端を発した御家騒動、処罰された秩父季保の名から秩父崩れともいう。)で遠島処分を受け、お由良騒動では謹慎処分を受け貧しい生活を強いられた。藩主・島津斉彬の命で江戸へ行き次期将軍に一ツ橋慶喜擁立の為に奔走するも失敗して帰国。安政六年に近思録崩れの秩父季保が愛読していた近思録の輪読する会が大久保利通や吉井友実、伊地知正治、有村俊斎(海江田信義)らの結成に加盟した。後の「精忠組」となる。喜左衛門は彼ら「精忠組」は当初、尊皇攘夷を唱え脱藩を計画するが藩父・久光の説得を受け断念し公武合体に転じた。文久二年、島津久光が公武合体推進の為、藩兵を率いて上洛する時に喜左衛門ら精忠組のメンバーも随行を許される。しかし、京都では久光公は討幕のの為の上洛という噂が流れ血気にはやった有馬新七ら薩摩藩激派らが寺田屋に集結したことを知った久光の命により喜左衛門や海江田信義らが説得に向かうが失敗し精忠組同志の斬り合いとなった。まだ年少だった西郷隆盛の弟・従道や大山巌らは鹿児島で謹慎、有馬新七ら優秀な藩士の多くは斬死し、維新後薩摩閥の人材不足の一旦を招いた。(西郷下野に伴って多くの人材が鹿児島へ退いたことも大きな原因)その後、勅使・大原重徳卿に随従する久光に従って江戸へ行くがその帰途、武蔵国生麦(現・神奈川県横浜市生麦)にて行列を騎馬にて横切ったイギリス人ノレック・リチャードソンら四人を無礼者と怒鳴りながら真っ先に斬りつけたのが喜左衛門だといわれている。(しかし、最近は弟の奈良原繁が斬り付けたとも言われている。)リチャードソンは肋骨から腹に斬られ内蔵が出るほどの重傷を負い止めをさされて死亡、他のものも重傷を負いながらもアメリカ領事館(本覚寺)に駆け込んだ。薩摩藩側は神奈川宿に宿泊予定だったが程ヶ谷宿に変更して白を切り通した。翌年にはこの報復でイギリス艦隊が鹿児島を攻撃した薩英戦争では喜左衛門は海江田信義らとスイカ売りに変装して小船でイギリス艦船に近づきこれを奪おうとするも失敗する。その後、喜左衛門は京都で国事に奔走し、元治元年の禁門の変では出水隊の隊長として奮戦する。慶応元年に京都二本松の薩摩藩邸にて病没。享年三十五歳・・弟・奈良原喜八郎・後の繁は維新後、島津本家の家令を勤め、静岡県令、沖縄県知事、後には貴族院議員などを歴任し男爵を授与された。繁の次男が三次は明治四十四年に自ら設計して作った奈良原式複葉機で飛行に成功し、日本初の国産飛行機として名を挙げた。(
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posted by こん at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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