2009年02月24日

会津藩最強の助っ人 森要蔵

森要蔵は文化七年、熊本藩士・森喜右衛門の六男として江戸芝白銀台の細川家中屋敷に生まれる。神田お玉ヶ池の玄武館に入門して千葉周作に北辰一刀流の剣を学ぶや、忽ち頭角を現して、稲垣文次郎・岡田金平・海保帆平とともに「千葉道場の四天王」と呼ばれた。後に脱藩(一説によると藩主のお供先で飲酒による失態をおかした為といわれる。)して江戸麻布永坂に道場を構えて剣撃を指南して門弟数百人を抱えた。天保十二年、三十二歳の時に上総飯野藩二万石の御前試合で勝利して七両二分四人扶持で召抱えられ、安政四年には七十石取りにまで出世し「保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵」と世間では謳われたという。飯野藩保科家は元信州高遠藩主であった保科家分流で本流の保科正之以後会津藩松平家となって幕末を迎えていた。その九代藩主・容保が戊辰戦争に於いて最大の朝敵とみなされた。支流の飯野藩は本家・会津藩の窮地を助ける為、密かに森要蔵を会津に派遣した。この時、要蔵は五十八歳で彼に従ったのが次男の虎雄十六歳と二十五人の藩士達だった。彼らは当初、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城攻防戦に参加、その後、白河口方面に出撃したが官軍に押し返され阿武隈川北方に引いて抵抗を続けた。彼らは白河西北の下羽太に陣を敷いたが官軍の土佐藩八番隊が肉薄すると虎雄は「お爺さん、斬り込みますよ!」と叫び、小太刀をかざして吶喊(とっかん)した。日の丸の軍扇を掴んで指揮を執っていた要蔵も息子を討たせてはならじと抜刀して突撃する。しかし、虎緒は敵銃隊の連射を浴びて倒れ、要蔵も二、三人まで斬り伏せたが敵弾に斃れた。はじめ虎雄が「爺さん」と呼んでいた為、孫と祖父だと思っていたが、土佐藩済武隊半隊指令として参戦していた川久保南鎧が江戸の森要蔵の道場で立ち会った経験があったので森親子の首を貰いうけ土佐藩士で森要蔵に教えを受けたもの二,三人を招いて下羽太の大龍寺に埋葬したという。

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posted by こん at 11:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「幕末の剣豪森要蔵の真実」を『会津人群像44』(歴史春秋社2022.8)に投稿しました。7月1日、原田主馬は新選組、森要蔵隊を率いて白河天神山を攻撃、一時占拠したが土佐隊の反撃で後退。退却の途中、戸ノ内で土佐隊の銃撃で森親子など5名が戦死した。現地調査の結果、雷神山で戦った(会津戊辰戦史)、板垣退助(6月24日棚倉城を陥落させ白河には戻らない)が見たというのは誤記、創作でした。
 当日、同盟軍本営から会津隊、幕臣伝習隊の援軍が遅れ、合戦に間に合わなかった。敗戦が続き同盟軍の連携が悪く、間に会っていれば森親子は戦死しなかったでしょう。
Posted by 池月映 at 2022年12月20日 16:03
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