2009年02月23日

我が子を介錯した剣豪 黒河内伝五郎

黒河内伝五郎は享和三年、会津藩御側医師・羽入義英の次男として生まれた。黒河内治助兼博の神夢想無楽流の居合術を師事してその養子となり、黒河内伝五郎兼規と名乗った。伝五郎は幕末最強の剣客といわれる所以は居合術のみではあらず、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術とすべての武芸百般に通じる異能の人だったという。会津剣道誌によれば「右手に箸を捧げ持ち、指を離した瞬間に居合によって箸を両断。小銭を柱にかけて一丈八尺(5.4メートル)の距離から手裏剣を打てば、悉くその方孔に命中させ誤ることがない。また、一丈(3メートル)離れて障子に向かい、一寸(3センチメートル)の針数十本を口に含んで針吹を試みれば、針は一本の銀の糸のように途絶えることなく吹き出されて障子の唯一点を穿った。」と記載されている。武芸の傍ら沢田名垂の高弟として和歌にも通じていた。伝五郎は黒河内家を継いで会津藩指南役となり十一石二人扶持を給わった。天保年間に槍の師・志賀小太郎が長州藩に招聘られるや、他の高弟とともに随行し長州藩子弟に槍術を指南したという。また、嘉永五年に吉田松陰が会津藩を訪れた際には伝五郎が日新館を案内した。晩年に眼病を患い失明、したが力量はいささかも落ちることがなかった。伝五郎には二人の子供がいたが、戊辰戦争の際に次男・百次郎は佐川官兵衛隊甲士として北越で奮戦していたが重傷を負い若松城下の自宅に戻っていた。しかし、官軍が若松城下に迫った事を知ると盲目の伝五郎は藩の足手まといになるのを厭い百次郎を介錯した後、自らの命を絶った。享年六十五歳・・・長男・百太郎も二番砲隊として奮戦中に被弾し翌日に戦死した。幕末最強の剣豪といわれた黒河内伝五郎のその剣技が発揮されたのは我が子の介錯の時だけだった。
posted by こん at 15:02| Comment(3) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「合気の発見」の著者です。黒河内伝五郎の子孫は福島県内に在住されておりますが、当時自宅火災になって証拠は何もありません。
 大東流武田惣角の母方祖父というのは、創作されたもので真実ではありません。
 柔術を武田惣角に教えた人物を調査した結果、塩川町に道場を開いた渋川流長尾清a、黒河内伝五郎の内弟子で心妙流前田耕作の可能性があります。
 長尾と惣角の義兄佐藤忠孝は親しい関係があり、長尾道場の演武があれば、前田は招待される地元の有力者でした。
 武田惣角の独特の柔術を考えると、黒河内の秘術を見ていた前田から指導されたと見ています。
 黒河内の秘術が大東流合気柔術に生かされたとしても、不思議ではありません。ちなみに、合気の理論を教えたのは家老の西郷頼母ではなく、塩川町の易者であることも判明しております。武田惣角の生家は農家でした。だから、会津では教えなかった。
Posted by 池月映 at 2010年11月28日 11:00
その後の調査で、武田惣角に武芸十八般を教えたのは、戊辰戦争後、隣りに越してきた藩士(御供番・百石)の佐藤金右衛門です。
 御供番は武芸に秀でた者が選ばれ60名いました。参勤交代、藩主外行の護衛が任務、あらゆる攻撃から守るには武芸十八般が必須科目、御式内という護身術(捕縛術)も教えたことになります。佐藤家の妻は黒河内家で、黒河内伝五郎の親戚になり、孫娘コンが惣角の妻になりました。やっと、真実が判明しました。
Posted by 池月映 at 2013年01月22日 21:11
黒河内伝五郎には三人の子どもがいました。三男伸三郎は西南戦争に参戦し、伝五郎の孫忠孝の子孫もいました。
Posted by 池月映 at 2021年02月03日 16:11
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