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2009年02月22日
幕末の大侠客・会津小鉄 上坂仙吉
上坂仙吉は天保四年、父・水戸藩士・上田友之進と母・大坂島之内の太物商・丹波屋吉兵衛の娘ゆうの子として島之内に生まれる。父の友之進はヤクザの用心棒をしていたが、家督を継いでいた兄が急死した為、水戸へ帰ってしまった。残された母・ゆうと仙吉は父の後を追って水戸に会いに行くが冷たく追い出されてしまう。失意の母子は東海道から大坂に向けて旅立つが途中、母・ゆうは雪駄直しの男性と知り合い内妻となり仙吉も引き取られたという。しかし、苦しい貧乏生活に家を飛び出し七歳で大坂へ帰ったといわれている。その後、十二歳で福知山正覚寺の小僧になりここで剣を浅山一伝流の森山清兵衛に習ったという。嘉永三年に大坂へ戻った仙吉は平井徳次郎に鏡新明智流を修めたという(一説によると)。二十二歳で江戸へ出て安藤対馬守の中間部屋頭・吉右衛門のところに転がり込んだが博打の味を覚え、吉右衛門が手を焼くほどの暴れ者になり刃傷沙汰を繰り返した為江戸へ居られなくなり京都へ上る。京都では公家屋敷の賭場に出入りするうちに、賭場あらしの「じゃがら」という者と喧嘩をしてそれを叩きのめした。この「じゃがら」という名うての悪党を倒した男ということで仙吉は他の博徒から恐れられたという。この頃は喧嘩は絶えず、全身に八十ヵ所の切傷、左手の指は親指と人差し指だけ、右手は小指と薬指が傷で曲がったまま動かなかったという。慶応4年に博徒・上坂音吉親分の盃を貰って二条新地大文字町に一家を構える。文久二年、京都守護職を拝命した会津藩主・松平肥後守容保が上洛すると会津藩の中間部屋の元締め・大沢清八(大垣屋清八)と懇意になって会津屋敷の出入りを許された。会津藩の京都警護に仙吉は輩下の者を指図して尽力しこのときに会津の印半纏を着ていたので「会津の小鉄」と呼ばれたのが始まりらしい。池田屋事変や蛤御門の変にも尽力するが新撰組や会津藩の協力者として討幕派の志士達から命を狙われ、慶応元年に木屋町のお茶屋で会津藩の者と談合中に襲われる。その後、浪人を殺害し入牢し死罪となるが会津藩の助命によって釈放される。明治元年、鳥羽・伏見の戦いには子分五百人を率いて軍夫としたが敗れて大坂へ逃亡、京都に戻って置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を集めて会津藩墓地の黒谷に埋葬し遺品を携えて官軍が犇めく会津若松に潜伏して届けたという。その後、毎日子分を三人ずつやって掃除をさせ、自らも月に一、二度は訪れ菩提を弔った。明治16年、新政府の博徒取締りによって逮捕され禁固十一ヵ月の判決を受け服役、翌年に出獄した時には七千五百人の人たちが祝いに駆けつけたといわれる。明治十八年に白河の自宅で死去した。享年四十二歳・・・本葬では一万三千人の会葬者が集まったと記録に残っている。
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