2009年02月20日

維新の礎を築いた 周布政之助

427b.jpg周布政之助は文政六年、長州萩藩大組二百十九石の周布吉左衛門の五男として生まれる。しかし、父と長兄が相次いで死んだ為に末期養子として生後五ヶ月で家督を相続、禄高を六十八石に減封された。政之助は藩校明倫館に入門して勉学に励み弘化三年、政之助は同年代の来原良蔵や能美隆庵らとともに櫻鳴社という結社を組織して政治を論じた。(薩摩藩の精忠組や土佐藩の勤皇党、水戸藩の天狗党など他藩ではこうゆう組織は藩によって弾圧されるが長州藩だけは政治討論をする若者を寛容、むしろ保護して育成したと言われる。)弘化四年に祐筆だった椋梨籐太の添役として藩に登用され蔵元検使暫役に就任して山口に駐在する。翌年には明倫館の都講(現在の生徒会長)に登りつめる。政之助は村田清風の影響を多大に受け、吉田松陰や松下村塾を支持、応援していたという。(村田清風は海防論者で外夷に勝つには先ず海防が大事と唱え「いくさ爺さん」と呼ばれていた。)しかし、村田清風の政敵だった坪井九右衛門一派で政之助を抜擢してくれた椋梨籐太と対立する。政之助は政務役筆頭となり清風の路線を引き継いで財政改革や軍制改革に尽力し、高杉晋作や桂小五郎ら吉田松陰関係者を熱心に登用した。しかし、藩内の派閥争いに敗れ(村田清風や周布政之助らの正義派と坪井九右衛門や椋梨籐太らの俗論派の政争)閑職に身を置くが直ぐに復帰する。吉田松陰は周布政之助を信頼し老中・間部詮勝の暗殺を打ち明けるが驚いた政之助は松陰の身を案じて監禁するが松陰の言動が収まらず、安政の大獄の最後の犠牲者として処刑される。政之助が最も可愛がった松陰の愛弟子・高杉晋作が幕府に怒り、敵討ちを唱えると政之助は奔走して幕府派遣の上海視察団にいれて渡航させ、頭を冷やさせた。また、伊籐俊輔(博文)や井上聞多(馨)他三名のイギリス密航留学の手助けをし将来の人材を育てた。(これが長州ファイブといわれ維新後の新政府の要職を占めた。)周布政之助自身は酒癖が悪く、慰労の場で酔っ払い土佐藩士の面前で山内容堂を「尊皇攘夷の邪魔をしている。」と非難し、後日山内容堂から毛利広封に抗議された。広封は困って政之助に麻田公輔と改名させ謹慎処分とするなど数々の舌禍事件を起こした。周布政之助は藩の主流となった長井雅楽の航海遠略策に同調し開国派を支持するが、松陰門下の久坂玄瑞や桂小五郎らに説得されて撤回して富国強兵の開国攘夷論を重視する。文久三年に八月十八日の政変が起こり京都を追われた長州藩士が暴発しそうになったので急遽、大坂へ行き、事を収拾しようとしたが藩命によって帰国、京都進発論が浮上する中、周布政之助と高杉晋作はこれを抑えようとするが失敗、高杉は脱藩の罪で野山獄に投獄され、政之助は孤立してしまう。酒に酔った政之助は馬で野山獄に抜刀して乱入した。この罪により免職の上、謹慎処分を受ける。その後、馬関で起こった四ヵ国連合艦隊による攻撃により長州藩は大敗し、蛤御門の変による長州征伐の実行により俗論派の椋梨籐太が藩政を握る。松下村塾出身者の久坂玄瑞や入江九一らは死に正義派は追い詰められて行った。政之助は山口郊外矢原の庄屋吉富簡一邸に仮寓していたが、裏庭に抜け出して自害して果てた。享年四十二歳・・・周布政之助は幕末期に新たな時代を作るいしずえとして将来の有能な人材育成に力を発揮した。周布なくして維新の大業は成しえなかったといわれる。


posted by こん at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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