2009年02月18日

山岡・西郷会談の案内役 益満休之助

s-masumitu.jpg益満休之助は天保十二年、薩摩藩下級武士・益満行充の次男として鹿児島城下の高麗町に生まれる。休之助は熱烈な攘夷論者として江戸で清河八郎や山岡鉄太郎らの「虎尾の会」のメンバーとして伊牟田尚平ら薩摩出身者四名とともに名を連ねた。清河八郎が幕命を受けた佐々木只三郎らに暗殺されると益満休之助は鹿児島へ帰郷する。時代は徳川幕府の大政奉還のよって混沌とする中、薩摩藩が討幕に傾くと西郷隆盛の命を受けて江戸に下り同志・伊牟田尚平らと浪人五百名を集め江戸薩摩屋敷を根城に火付け、盗賊、辻斬りを繰り返して江戸警備を任されていた庄内藩中心の新徴組を刺激した。幕府は当初、庄内藩見廻り組に自重を促したが挑発に乗った新徴組は薩摩藩邸を焼討ち襲撃し、益満休之助、南部弥八、肥後七左衛門の三人を捕縛した。この情報を聞いた京都の会津藩・桑名両藩兵らは鳥羽・伏見の戦いを始め、まんまと西郷の策略に嵌ってしまった。益満休之助ら三人は幕府によって処刑されるはずだったが、勝海舟の助命願いを受けて勝海舟の預かりとなった。慶応四年、勝海舟の命により新政府軍の江戸総攻撃を前に幕府の使者・山岡鉄太郎の案内役として駿府の総督府陣営までいった。山岡は益満の活躍によって無事に西郷との面談を果たし江戸へ戻り、彰義隊の上野戦争に身を投じ流れ弾に当って死亡と伝えられる。(また、維新後に鹿児島へ帰って帰農したともいわれている。)享年二十八歳・・・
posted by こん at 09:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
益満休之助は幕末、表部隊で華々しく活躍しなかったが、面白い場を与えられた男だった。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2013年05月23日 09:28
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