2009年02月14日
幕末を気儘に生きた勝海舟の妹 佐久間順
佐久間順は天保十七年、旗本小普請組・勝小吉の娘、勝海舟の妹として生まれる。お順が十七歳の時に兄・海舟の師である佐久間象山と結婚する。佐久間象山は自信家で優秀な自分の子孫を残す為、お菊とお蝶という二人の妾とお菊の生んだ格二郎という男児とともに暮らしていた。しかし、お菊は我が子を置いて幕府御典医・高木常庵の後妻として家を出た。お順はその三ヵ月後に後妻として佐久間家へ入ったという。お順の父・小吉や兄・海舟はこの奇妙な生活に猛反対したが、お順は天下一の学者の妻になることは私のかねての夢だったと言って聞き入れなかったという。奇妙な新婚生活を送って一年が過ぎた頃、吉田松陰が鎖国の禁を破って西洋に密航しようとして幕吏に捕縛される事件がおきる。松陰の密航に協力したとして師である佐久間象山は伝馬町の牢に入る。半年後に出獄が許されるが出身藩の松代で蟄居を言い渡され鍵付の駕籠に乗せられて松代へ護送された。お順は姑と妾のお蝶、象山の息子の格二郎を伴ってこの駕籠の後を追ったという。蟄居が解かれるまでの九年間を松代で過ごし、姑の死を見取ったお順は父・小吉亡き後床に伏せっている母に会う為に江戸へ戻る。一方象山は蟄居が解かれると幕命によりすぐさま格二郎を伴って京都へ上る。元治元年に夫の佐久間象山は肥後の人斬り河上彦斎に暗殺されてしまう。お順は象山の一人息子・三浦格二郎(三浦は義母・お順の母の姓を名乗った)に仇討ちするように説得し、兄・海舟の周旋で会津藩士・山本覚馬を通じて新撰組に入隊させるが、親譲りの傲慢な態度で沖田総司に目をつけられ命の危険を感じ脱走し維新後は勝海舟の人脈を通して司法省へ入り松山裁判所に赴任後食中毒で若死にする。お順は勝海舟の屋敷で暮らすが勝の腰巾着のような村上俊五郎と同棲し再婚した。しかし、お順の奔放な性格の為、村上も手に負えずに離婚、また、海舟の屋敷に戻って生活を始める。(村上も粗暴な振る舞いが多く、お順も粗暴で手がつけられないので夫婦喧嘩が絶えず離婚したといわれる。)一説には山岡鉄舟の弟子で剣豪であった村上俊五郎に佐久間象山の敵討ちを頼んだが聞き入れなかったので離婚したとも言われているが定かではない。明治四十年に七十三歳で没したという。
この記事へのコメント
こちらは、品川区旗の台の香蘭女学校に勤務するものです。実は当校に勝海舟の妹が通学していたという情報が寄せられましたが、確認できません。順さん以外にも妹がいたのでしょうか?なにかご存知の方は是非お知らせください。
Posted by 内野明和 at 2010年07月20日 11:36
勝海舟の妹順子は、兄に似て奔放な女であった。小説にしたら面白い女です。
Posted by 根保孝栄石塚邦男 at 2010年10月25日 16:07
天保は15年までですよ。
Posted by 佐久間 at 2024年08月02日 11:04
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