2009年01月23日

西南戦争で散った家老 桂久武

01-07.jpg桂久武は天保五年、薩摩藩島津氏の分家・日置島津家当主島津久風の五男として生まれた。長兄は第二十九代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴 、次兄は西郷隆盛に最も影響を与え尊敬した(お由良騒動で切腹させられた)赤山靭負。安政二年、同じ島津家分家の桂家の養子となり桂久武となった。その後、造士館演武係方の要職を務めていたが長兄の島津久徴が島津斉彬派だった為にお由良騒動の煽りを受けて大島守衛方、銅鉱山方となり大島へ左遷させられる。ここで流刑中の西郷隆盛と親交を結び日本の将来について毎晩語り合ったという。元治元年、大目付となり家老の小松帯刀とともに倒幕に向けての藩論統一に尽力した。ついで家老加判役となって役料千石を賜り御用部屋詰を仰せつかる。慶応元年に上洛し翌年に小松帯刀邸で坂本龍馬の仲介で行われた薩長同盟の西郷と桂小五郎の締結に小松とともに同席した。その後、西郷、坂本龍馬夫妻、小松、吉井友実らと大坂を出航して鹿児島へ向かった。鹿児島へ帰った西郷は藩政改革と陸海軍の拡張を進言して許しを得ると桂久武は小松とともに藩政改革に尽力して武力倒幕を推進して会計掛方として出納、勧農、陸海軍を掌った。また、西郷と謀って密かに藩主・忠義に拝謁して西郷に土佐・宇和島の遊説、村田新八に九州諸藩の遊説の許可をもらった。西郷が藩父・久光を奉じて藩兵七百名の精鋭を率いて上洛して四侯会議を開くのを援けたのも桂久武の尽力によるものであった。討幕と会津・桑名両藩の誅伐の密勅が下ると桂は薩摩藩の門閥や討幕反対の保守派を排除して藩論を討幕にまとめた。西郷は鹿児島へ帰るとすぐさま藩主・忠義を奉じて藩兵三千名を率いて鹿児島を出発することが出来た。久武は戊辰戦争で戦陣に立つことは無かったが専ら後方支援に従事して兵器・弾薬・金穀の充実を謀り薩軍の後顧の憂いをなくしたと言われている。維新後の明治三年、西郷とともに鹿児島藩大参事となって藩政の改革や兵制の整備に努め翌年には都城県参事、明治六年には豊岡県権令に任じられ正六位に叙せられたが病気と称して辞任、帰郷する。その後、霧島山麓に広大な土地を買って開拓に従事し、五代友厚と交渉して鉱山開発に尽力した。明治十年、西南戦争が勃発し、西郷が出陣の別れに訪れた際に久武は高齢の為、参加しないとしていたが情義に駆られ家人に刀を取りに帰らせそのまま従軍して大小荷駄本部長となった。久武は情に厚く政府軍小倉十四連隊率いる乃木希典はら分捕った連隊旗を村田三介が戦死した際に戦利品の形見として村田婦人に贈った。(実際は岩切正九郎が分捕って村田に渡したものだった。)政府軍の増援軍が次々と到着し薩軍は劣勢になって後退し兵士と弾薬が不足して戦線の維持が困難になったので桂久武は兵站補給と鹿児島防備の為に鹿児島へ帰った。しかし、政府海軍の川村純義(西郷と親戚の鹿児島人)が上陸して桂久武の帰郷を嗅ぎつけ鹿児島市中を暴力的に探索し始めた。横川に陣営を置いた桂と別府晋介は中島健彦と相良長良を鹿児島の諸方面に配し上陸した政府軍と戦った利が無く敗れ宮崎に退いた。和田峠の戦いに敗れ、長井村へ退いた薩軍は可愛岳を突破して鹿児島へ入った。薩軍残兵が城山に籠城してから桂久武は蓑田伝兵衛宅で大小荷駄隊を指揮していたが政府軍の城山総攻撃が始まると西郷、村田新八、桂久武ら将士40余名は西郷の洞前に整列して岩崎口に進撃した。敵弾が雨のように降り注ぐ中進撃していた桂久武はついに流れ弾に当たり斃れた。享年四八歳・・・幕末維新の三傑として西郷、大久保、木戸孝允(桂小五郎)が挙げられるが小松帯刀とこの桂久武も維新に多大な尽力をした傑人に入るだろう。
posted by こん at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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