2008年12月31日

「維新の三傑」のひとり 木戸孝允

木戸孝允は天保四年に長門国萩呉服町の萩藩医・和田昌景の長男として生まれ、幼名は小五郎という。和田家は戦国武将・毛利元就の七男・毛利元政の末裔で小五郎の母は昌景の後妻であった。先妻には二人の娘がおり、小五郎が生まれた時から病弱な為に成人までの成長が望めず長姉に養子(文譲)を迎えて和田家の存続を考え、長姉が亡くなった後は次姉がその後妻となった。小五郎が七歳の時、向かいの桂九郎兵衛(家禄百五十石)の末期養子に迎えられ長州藩大組士の武士の身分と家禄を得る(しかし、小五郎が幼少だった為、家禄は九十石に削られる)。しかし、翌年に養母が亡くなった為に実家で養育を受けることになり十四歳で藩校・明倫館に入学するが十六歳の時に実母と次姉が相次いで病死する。小五郎は悲しみのあまり病床に伏せて出家を口にするほどだったが周囲に説得され思い止まったという。また、翌年に明倫館で兵学を教えていた吉田寅次郎後の松陰と出会い師弟関係を結ぶ。(小五郎は松下村塾の門下生ではないが松蔭から「事を成す才あり」と評され「桂は我の重んずるところなり」といって師弟というより親友のような関係だった。)弘化三年、長州藩の剣術師範代を務めていた柳生新陰流の内藤作兵衛に入門して腕を磨いた。嘉永二年、元服して桂家を正式に相続、大組士・桂小五郎となり実父から「元は武士ではないのだから人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と言い含められ、剣術の稽古に熱を上げる。嘉永五年、江戸へ剣術修行に出る為に藩の許しを得て出発、江戸三大道場の一つ斉藤弥九郎の錬兵館に入門する。入門一年目で神道無念流の免許皆伝を得て九段下の錬兵館塾頭になる。同時期、桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)の塾頭に土佐藩士・武市半平太(瑞山)、千葉定吉の北辰一刀流桶町道場塾頭に坂本龍馬がなっている。小五郎は剣術修行の傍らペリーの再来航に刺激を受けて師匠の斉藤弥九郎の紹介を得て伊豆代官の江川太郎左衛門の付き人としてペリー艦隊を見聞する。また、兵学家でもある江川太郎左衛門から西洋兵学や砲台築造術を学び、浦和奉行所の与力だった中島三郎助から造船術を習うなど常に時代の最先端技術を吸収した。また、師の吉田松陰が密航を計画した時には積極的に協力を申し入れたが、松蔭は小五郎の身を案じてこれを拒んだ為、連座の罪を免れたと言う。桂小五郎はペリーの来航以来、幕府の対処の仕方や鎖国による西洋との格差を痛感して尊王攘夷の急先鋒となっていった。吉田松陰が老中暗殺を計画した時には江戸にいた高杉晋作とともにこの軽挙を抑え門人たちとの連絡を絶とうとした為「桂は事を成す才あれども胆略と学問が乏しいのが残念」と怒りを買う。安政五年、師匠の松蔭が安政の大獄で刑死した後、小五郎は江戸藩邸大検使になり諸国の志士たちと交流して尊攘のリーダーとなった。藩政においても重きを成し藩の重臣・周布政之助や久坂玄瑞とともに松蔭が唱えた「航海雄略論」を採用し、藩の大目付・長井雅楽の「航海遠略策」(幕府を擁護するような策)を排除して藩論を開国攘夷に導いた。小五郎が周布政之助の尽力によって藩政の中心的役割を持つと英語やオランダ語に通じていた村田蔵六(大村益次郎){宇和島藩の御雇となっていた}を長州藩に呼び戻した。また、桂小五郎は周布政之助の協力によって藩費で伊藤博文、井上馨(聞多)ら長州五傑といわれた五人を秘密留学生としてイギリスへ出航させる。(


posted by こん at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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