2008年12月12日

会津藩主の怒りをかった家老  西郷頼母

bannennotanomo.jpg西郷家は藩祖・保科正之と同族で代々家老職の家柄であった。西郷頼母は天保元年、江戸詰家老の西郷近思と母・会津藩士・小林悌蔵の次女・律子の嫡男として生まれる。頼母は幼少の頃から学問を好み、剣は溝口派一刀流を学んだ。また、甲州流軍学を極め大東流合気柔術の後継者でもあった。父が江戸詰のために江戸で過ごすことが多かったが、三十三歳のときに父の後を継いで家老となり会津に帰った。この頃、時勢は風雲急を告げ、京都では尊王攘夷の嵐が吹き荒れて不逞浪士が闊歩していた。幕府は従来の京都所司代だけでは力不足とし京都守護職を置くことを検討し、その重職に会津藩を当てることに決定した。このとき西郷頼母は留守家老として会津にいたが急遽、国家老・田中土佐とともに江戸へ上った。頼母は容保に拝謁して時勢の難局に巻き込まれることの不利を説いて守護職を辞退するように進言した。しかし、藩主・容保は藩祖・保科正之以来の家訓を持ち出し幕府への絶対忠誠をたてに拒絶、頼母は藩主の怒りをかった。禁門の変が起きる直前にも上洛して辞職を諫言したが聞き入れられずに家老職を辞任して若松の東北舟石下の長原村に幽居した。慶応四年、鳥羽・伏見の戦いが起きるや頼母は容保より家老職復帰を許されると江戸へ上って藩邸の後始末を済ませて帰藩、藩主・容保には新政府に対し悔悟恭順を勧めた。しかし、新政府軍の世良修蔵の要求は藩主親子の斬首だったため、会津藩と近隣諸藩は奥羽越列藩同盟を結び徹底抗戦となった。やむなく頼母は白河城にて新政府軍と戦ったが薩摩藩の伊地知正治率いる新政府軍の攻撃を受け白河城落城、母成峠が占領されて敵軍が会津城下へ迫った為に頼母は会津城へ帰参した。西郷頼母は再び藩主に恭順を諫言し主戦派の重役を非難した為に頼母を暗殺をしようという空気が見え始めた為、容保は頼母の身を案じ城外の陣将への伝言役という名目で脱出させた。城内の家老・梶原平馬から二名の刺客を送られたがこれをかいくぐり、僅か十一歳の長男・吉十郎を伴って米沢から仙台へ行き榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流して函館へ向かった頼母は軍艦・開陽丸の船上で会津藩の開城降伏の報を聞いた。函館へ渡って蝦夷共和国で戦ったが新政府軍の黒田清隆の説得で榎本が降伏して頼母もまた敵陣に降った。頼母は一旦江戸へ押送されたが館林藩に幽閉されるが明治五年に赦免されて伊豆月ノ浦に私塾を開き自ら塾長として指導に当る。この頃、西郷頼母は先祖の旧姓・保科に戻して保科頼母と名乗った。また、磐城国の都々古別神社の宮司となったが謀反の疑いを持たれてすぐに辞職した。その後、東京に移り住んだが旧主・容保が日光東照宮の宮司になるや頼母は容保に従って東照宮の禰宜になって補佐した。明治二十年、神官職が廃せられるや一旦会津若松へ帰り、二年後に改めて岩代霊山神社の宮司として赴任する。また、自らの希望で県の師範学校の嘱託として格言の講義などをしたという。元会津藩士の遺児を養子として講道館の四天王といわれた西郷四郎は小説「姿三四郎」のモデルとなった。また、頼母の嫡男・吉十郎は二十二歳の若さで急逝している。明治三十三年、長年にわたった神官生活を辞め故郷の若松に帰って旧藩邸にほど近い十軒長屋に下女のお仲と二人でひっそりと暮らした。四年後の明治三十七年、脳溢血のため七十三歳で没した。  会津藩の白虎隊、中野竹子率いる娘子隊悲劇と並んだ西郷家の集団自決は今も会津三大悲劇として語り継がれている。(新政府軍が会津に侵攻し西郷頼母が嫡男の吉十郎を伴って会津若松城に登城した後、家に残った妻・千恵子、頼母の母・律子と妹・眉寿(みす)、由布の二人、頼母の娘の細布(たえ)、瀑布(たき)、田鶴子、常盤(とわ)、季(すえ)、の九人と西郷邸に訪れていた親戚縁者の合わせて二十一人が藩の足手まといになることを憂いて白装束に着替え一室に集まって自決した。頼母の妻・千恵子は田鶴子(九歳)を刺し、続いて常盤(四歳)、季(二歳)を刺し返す懐刀で自らの喉を突いて絶命した。享年三十四歳)この西郷邸に踏み込んだ土佐藩士・中島信行はこの惨状を目の当たりにした。


posted by こん at 11:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
西郷頼母(身長140センチ)が大東流合気柔術の後継者というのは、近年の研究で否定されています。農民の武田惣角に相談されて、大東流の名前、歴史の仮託、道歌を与えました。
 合気は修験道の気合術の気合・合気から引用し、武田惣角は近村の易者万之丞に真言密教・修験道を学びました。
 会津藩の護身術は柔術で、気を鍛錬する合気柔術ではありません。武田惣角は隣の藩士御供番佐藤金右衛門に教えられました。
Posted by 池月映 at 2021年02月03日 16:30
西郷頼母が藩主の怒りをかった側面があっても、藩、領民を思う頼母の考えは間違ってはいない。白河口の作戦は採用されず、会津敗戦の予想は的中しても臆病者の汚名を着せられた。
明治になって、藩主の助命嘆願、勝海舟との交流があったことで、頼母は都々古別神社宮司、日光東照宮禰宜、霊山神社宮司になった。
日光東照宮は勝海舟が保晃会を作り、頼母との交流があり、松平容保が宮司になった。容保は日光に3度だけ来て、頼母と和解しています。
西郷頼母は『晃山叢書』全11巻の編纂の業績を残し、臆病者の汚名は返上されるべきでしょう。
Posted by 池月映 at 2021年02月03日 16:53
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