2008年11月22日

美人がゆえに人生を翻弄された女医 楠本いね

kusumotoine.jpg楠本いねは文政三年、オランダ東インド会社の商館医のドイツ人フィリップ・シーボルトと楠本瀧との間に生まれた。一説によるとシーボルトが来日早々、長崎奉行所の計らいで出島の外の蘭学医・楢林家に出張し日本人の診察、治療を行った。そこへ今小町と噂されるほどの美人が診察を受けに来てシーボルトと恋に落ちたという。その美人は薩摩藩御用達の服部という商家に小間使いとして働いていた十七歳の楠本瀧である。瀧とシーボルトは日本人の一般女性は出島に入れないので、丸山の遊郭「引田屋」の引田卯太郎に相談し遊女「其扇」(そのぎ)という名義を借りて出島に入り、シーボルトと暮らした。イネが生まれて二年後にシーボルト事件で日本を永久追放されてしまう。(シーボルトが5年間の任期を終え一旦帰国する際、乗った船が台風で座礁し持ち出し禁止の地図や葵の紋入りの着物などが見つかり取調べを受けた)シーボルトは残された瀧とイネを思い、弟子の二宮啓作らに二人を託し十分な生活費を置いて旅立った。しばらくの間、瀧とは文通で思いを伝え合ったが、瀧の美しさに結婚の申し込みが後を絶たず、とうとう二十五歳の時に海漕業者の俵屋時次郎と再婚した。やがて、シーボルトの血を引くイネは背の高い美しい娘に育ち、伊予宇和島の二宮啓作の下で外科などを習ったが「産科医」になりたいとの志を持って十九歳のときに岡山の石井宗謙を紹介される。七年間、石井の下で産科医の修業を行った。しかし、師の石井はイネを強姦し妊娠させてしまう。イネは産科医を目指す者として堕胎を嫌い、長崎に帰って一人で出産を決意する。二十五歳で女の子を出産したイネはこの子に「ただ」と名付けた。(後に高子と改名する。ただは思いもよらないかたちで天からただで授かった子供という意味らしい)未婚の母となったイネは長崎で医学の修行を続けていたが、二十九歳のときに二宮啓作と再会した。二宮は自分が紹介した石井宗謙とのいきさつを聞き、深く後悔してイネを宇和島へ連れ帰る決意をする。イネは高子を長崎の母・瀧に預け宇和島で産科と外科の修行を重ねる一方で長州藩から逃れてきた医師・村田蔵六(後の大村益次郎)にオランダ語を習い惹かれあったという。二宮が体を壊した為、三十一歳になったイネは二宮と二宮の甥の三瀬周三とともに長崎へ帰郷し開業する。安政五年、日蘭修好通商条約締結を契機にシーボルトの追放が解け長崎で瀧とイネ、高子の三人はシーボルトと感激の再開をする。シーボルトはイネに最新の西洋医学を教え、オランダ海軍軍医による医学伝習に参加できるように取り計らう。イネは医者としての評判を上げ伊予宇和島藩主婦人の診察依頼を受け、毎年宇和島に出向いて診察を行った。また、二宮啓作の世話で娘の高子も宇和島藩の奥女中といて奉公し、イネも度々宇和島に呼ばれて藩主・伊達宗城の厚遇を受けた。この頃、二宮の甥の三瀬周三は二宮の推薦でシーボルトの通訳兼イネの異母弟・アレキサンダーの家庭教師をしていたが、公儀の役人を差し置いて通訳したことや医者でありながら宇和島藩士を名乗ったことを咎められ投獄される。イネは宇和島藩主・伊達宗城に働きかけ釈放されるのを機に娘の高子と結婚させる。周三と高子は大坂で医学学校設立に尽力した。ちょうどその時、京都で大村益次郎(村田蔵六)が襲撃され重傷を負って大坂の三瀬周三の治療を受ける。イネはすぐに駆けつけ大村の看病に努めたが最期を看取った。また、偉大な父・シーボルトが息子二人をおいて帰国し、その年には師である二宮啓作が中風のため死去する。母・瀧も子宮ガンを患い死去すると、異母弟のアレキサンダーとハインリッヒ、二人の兄弟の援助で東京の築地に産科医院を開業し、福沢諭吉の妻との縁で宮内庁御用を拝命する。明治天皇の権典侍葉室光子の出産を扱った。また、娘の高子は夫の周三が胃腸カタルで先立たれると東京に出て異母兄・石井信義に産婦人科を学ぶ。しかし、その美貌がゆえに同僚の医師・片桐重明と情を通じ懐妊し、医道を断念する。怒った師匠の石井信義は弟子の山脇泰助と再婚させる。(片桐との子はイネが養子として引き取る。)明治八年、医術開業試験制度が始まり、女性であったイネは受験資格が与えられなかっった為、東京の医院を閉鎖して長崎へ帰る。その後、女性の開業も認められるが、時代はイネのオランダ医学からドイツ医学へと移り五十七歳になっていたイネは医学を諦めて産婆として再出発する。六十一歳のときに異母弟・ハインリッヒが東京の麻布に洋館を建てた為、長崎の助産所を閉鎖してそこへまたも未亡人となり三人の子供を抱え途方に暮れていた高子とともに移り住む。そして再度、宮中よりお呼びがかかり狸穴に移った。明治三十六年、七十七歳になったイネは生涯独身を通して亡くなった。死因はウナギと西瓜を食べた食あたりという。お瀧、イネ、高子(タダ)と三代続いた美人の人生は決して幸福だったとはいえなかった。余談だが「宇宙戦艦ヤマト」など数々の名作を生んだ松本零士先生の先祖が三瀬周三の同僚で高子とあったがその清楚な美貌が印象に残り、子や孫に話をし無意識のうちに現代の松本先生の作品の女性を描く時のモデルになったといわれている。下の写真は娘・高子
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posted by こん at 23:13| Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本日シーボルト展(江戸東京博物館)に行き、今迄知らなかったシーボルトに出逢い、感銘受けましたが、イネさんや高子さんのことをもっと知りたくて、サーチし、この記事を見つけたところです。美人の宿命というか、波乱万丈な人生ですが、異母兄弟との縁は良かった事が分かり、救われた思いです。
Posted by TOKYO黒猫 at 2016年11月03日 00:43
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