尚、寅太郎の妻で隆輝、吉之助の母の実家は元薩摩藩士・園田実徳といい鹿児島から函館へ渡り巨万の富を築いた。また、「北海共同競馬会」の設立発起人に名を連ね、牧場を開設してその経営を弟の武彦七に任せた。彦七は西洋馬術の始祖といわれる函館大経に弟子入りし、馬術を極め、自身も数々の旗手や調教師を育てた。この人のひ孫が現代競馬界のプリンス武豊と幸四郎兄弟で、西郷家とは遠い親戚になるらしい。一方、庶子の菊次郎は二歳で西郷糸子に引き取られ十二歳のときにアメリカへ二年半留学し帰国、十七歳のころ西南戦争勃発し父・隆盛とともに出陣した。菊次郎は延岡・和田越えの戦闘で右足を切断、桐野利秋の計らいで俵野に取り残され西郷の老僕・熊吉をつけた。熊吉は菊次郎を背負って隆盛の弟・西郷従道の下に投降した。西南戦争後、菊次郎は外務省に入り、米国公使館などで勤務した後、日清戦争で台湾を併合した為、台北県支庁長、宜蘭県支庁長に就任して帰国後は第二代京都市長に就いた。現代、陶芸家として高名な隆文氏は菊次郎の四男・隆泰氏の子。菊次郎の妹・菊草は菊子と名を改め大山巌の弟・誠之助と結婚した。明治二十二年、明治天皇の強い意向と西郷を師と仰ぐ黒田清隆の努力によって西南戦争を起こした賊軍の将としての罪が赦され正三位が追贈された。これによって上野の銅像が明治三十一年、高村光雲の作(犬は後藤貞行)で作られたが、除幕式に呼ばれた妻・糸子は「宿んしはこげな人じゃなかったこてえ」(主人はこんな人じゃなかった)といい「浴衣でおもてなんか出なかった」と口を尖らせそばにいた従道に窘められたという。尚、西郷像が連れている愛犬「ツン」は薩摩犬のメス犬だったが、像像はオス犬で海軍中将・仁礼景範が飼っている薩摩犬のオスをモデルにしたという。写真は老後の西郷糸子
2008年11月21日
西郷隆盛の家族
西郷隆盛は生涯三度の結婚をした。一度目は嘉永五年、西郷が二十八歳のときに父母に勧められて伊集院兼寛の姉・須賀と結婚する。しかし、結婚まもなく西郷家では義祖父・竜右衛門、続いて義父・吉兵衛、そして義母・政佐子と立て続けに亡くなった。翌々年の安政元年に西郷が藩主・斉彬に抜擢され参勤交代で江戸へ随行した為、幼い兄弟達を一人で養うことになった。少ない扶持米で大家族の面倒を見ることに耐え切れなくなり実家へ帰ったという。その後、江戸の西郷と伊集院家が話し合い円満離婚となったという。二度目は西郷が安政の大獄で京都を追われ勤皇僧・月照とともに海へ身を投げ月照は死亡したが西郷は蘇生した。(以後、西郷はこれを天命と思うようになる。)薩摩藩は幕吏の眼を欺く為に西郷は死んだことにして奄美大島へ非難させた。奄美大島の龍郷村で扶持米六石の自炊生活をしていた西郷は村の有力者・龍家の一族の佐栄志の娘・とま(後の愛加那)と結婚した。西郷三十五歳の安政七年に長男・菊次郎が誕生し二年後、長女・菊草が生まれた。しかし、時勢は風雲急を告げ、藩父・久光が薩摩兵を率いて上洛することになった為、中央に詳しい西郷が呼び戻された。鹿児島へ帰る際、島妻は連れ帰ることが出来ない規則があった為にまだおなかには菊草が入っていた愛加那と泣く泣く別れたという。三度目の妻は慶応元年、西郷が三十九歳のときに薩摩藩小番・岩山八郎太の次女・イト(糸子)二十三歳と小松帯刀の媒酌で結婚した。糸子は昔に一度他家に嫁いだがすぐに実家へ帰された過去を持っていたが西郷は「よかよか」と気にも留めなかったという。嫡男・寅太郎、次男・午次郎、酉三と三人の男の子を生んだが西郷の島妻・愛加那が生んだ菊次郎(庶子とみなされた)と菊草(菊子)を引き取り我が子と分け隔てなく慈しんで育て上げた。西郷が参議として東京で生活している間も鹿児島から離れず、養蚕の仕事をしながら大家族を守った。西郷家は大家族で隆盛(吉之助)を長男に長女・お琴、次男・吉二郎(戊辰の役の北越戦争で負傷後死亡)、次女・お鷹、三女・お安、三男・信吾(従道、維新後明治政府で陸軍や海軍大臣)四男・小兵衛(西南戦争で戦死)の七人兄弟に祖父と父母、次男・吉二郎の妻と子供と大所帯だった。糸子が嫁いだ頃には祖父と父母、吉二郎、その妻(病弱だった)は亡くなっていた。西南戦争の後、西郷は賊軍の将として官位を剥奪された。しかし、勝海舟や西郷の親友だった吉井友実の働きがけが功を奏し明治天皇の思し召しで嫡男・寅太郎はポツダム陸軍士官学校留学を命じられ、ドイツで13年間生活しプロセイン陸軍少尉になり帰国後に陸軍少尉に就いた。明治天皇の強い意向により大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷は赦され、正三位を追贈された。寅太郎は父・隆盛の維新での功績により侯爵を授けられ貴族院議員に就任する。その後、第一次世界大戦中の大正四年に習志野俘虜収容所長に就任する。大正八年、収容所にスペイン風邪が流行し寅太郎自身も感染し死去する。家督は寅太郎の次男・隆輝が継ぐが二十歳の若さで死去したので三男・吉之助(祖父である隆盛と同名)が家督を継ぐ。吉之助は貴族院議員の後参議院議員になって戦後の第二次佐藤栄作内閣の法務大臣を務めるが自分自身が関係した手形乱発で恐喝事件を起こし自由民主党を離党し議員の辞めた。
尚、寅太郎の妻で隆輝、吉之助の母の実家は元薩摩藩士・園田実徳といい鹿児島から函館へ渡り巨万の富を築いた。また、「北海共同競馬会」の設立発起人に名を連ね、牧場を開設してその経営を弟の武彦七に任せた。彦七は西洋馬術の始祖といわれる函館大経に弟子入りし、馬術を極め、自身も数々の旗手や調教師を育てた。この人のひ孫が現代競馬界のプリンス武豊と幸四郎兄弟で、西郷家とは遠い親戚になるらしい。一方、庶子の菊次郎は二歳で西郷糸子に引き取られ十二歳のときにアメリカへ二年半留学し帰国、十七歳のころ西南戦争勃発し父・隆盛とともに出陣した。菊次郎は延岡・和田越えの戦闘で右足を切断、桐野利秋の計らいで俵野に取り残され西郷の老僕・熊吉をつけた。熊吉は菊次郎を背負って隆盛の弟・西郷従道の下に投降した。西南戦争後、菊次郎は外務省に入り、米国公使館などで勤務した後、日清戦争で台湾を併合した為、台北県支庁長、宜蘭県支庁長に就任して帰国後は第二代京都市長に就いた。現代、陶芸家として高名な隆文氏は菊次郎の四男・隆泰氏の子。菊次郎の妹・菊草は菊子と名を改め大山巌の弟・誠之助と結婚した。明治二十二年、明治天皇の強い意向と西郷を師と仰ぐ黒田清隆の努力によって西南戦争を起こした賊軍の将としての罪が赦され正三位が追贈された。これによって上野の銅像が明治三十一年、高村光雲の作(犬は後藤貞行)で作られたが、除幕式に呼ばれた妻・糸子は「宿んしはこげな人じゃなかったこてえ」(主人はこんな人じゃなかった)といい「浴衣でおもてなんか出なかった」と口を尖らせそばにいた従道に窘められたという。尚、西郷像が連れている愛犬「ツン」は薩摩犬のメス犬だったが、像像はオス犬で海軍中将・仁礼景範が飼っている薩摩犬のオスをモデルにしたという。写真は老後の西郷糸子
尚、寅太郎の妻で隆輝、吉之助の母の実家は元薩摩藩士・園田実徳といい鹿児島から函館へ渡り巨万の富を築いた。また、「北海共同競馬会」の設立発起人に名を連ね、牧場を開設してその経営を弟の武彦七に任せた。彦七は西洋馬術の始祖といわれる函館大経に弟子入りし、馬術を極め、自身も数々の旗手や調教師を育てた。この人のひ孫が現代競馬界のプリンス武豊と幸四郎兄弟で、西郷家とは遠い親戚になるらしい。一方、庶子の菊次郎は二歳で西郷糸子に引き取られ十二歳のときにアメリカへ二年半留学し帰国、十七歳のころ西南戦争勃発し父・隆盛とともに出陣した。菊次郎は延岡・和田越えの戦闘で右足を切断、桐野利秋の計らいで俵野に取り残され西郷の老僕・熊吉をつけた。熊吉は菊次郎を背負って隆盛の弟・西郷従道の下に投降した。西南戦争後、菊次郎は外務省に入り、米国公使館などで勤務した後、日清戦争で台湾を併合した為、台北県支庁長、宜蘭県支庁長に就任して帰国後は第二代京都市長に就いた。現代、陶芸家として高名な隆文氏は菊次郎の四男・隆泰氏の子。菊次郎の妹・菊草は菊子と名を改め大山巌の弟・誠之助と結婚した。明治二十二年、明治天皇の強い意向と西郷を師と仰ぐ黒田清隆の努力によって西南戦争を起こした賊軍の将としての罪が赦され正三位が追贈された。これによって上野の銅像が明治三十一年、高村光雲の作(犬は後藤貞行)で作られたが、除幕式に呼ばれた妻・糸子は「宿んしはこげな人じゃなかったこてえ」(主人はこんな人じゃなかった)といい「浴衣でおもてなんか出なかった」と口を尖らせそばにいた従道に窘められたという。尚、西郷像が連れている愛犬「ツン」は薩摩犬のメス犬だったが、像像はオス犬で海軍中将・仁礼景範が飼っている薩摩犬のオスをモデルにしたという。写真は老後の西郷糸子
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西郷隆盛さんの遠い親戚なんだよね。。。
私のあった事のないおじいちゃんとそっくりなの!
うっっっそくせえええ
そして何がしたいwwwww