2008年11月05日

萩の乱の首謀者 前原一誠

issei.jpg前原一誠は天保五年、萩藩士・佐世彦七の長男として長門国萩土原に生まれた。天保十年、父の厚狭郡船木村出役に従い移居し武術を幡生周作に習い、学問を岡本栖雲に学んだ。嘉永二年に福原冬嶺に入門したが、翌年に萩に帰る時落馬し長病を患い再び船木村に戻る。病弱な体になった為、武術を棄て写本を始める。安政四年に父に従って萩に帰り吉田松陰の松下村塾に入門、村塾四天王と並ぶ学力を身につける。その後、長崎に遊学に出て英学を修める。帰藩後も博習堂において西洋学を学ぶ。久坂玄瑞の影響で尊王攘夷派となった一誠は公武合体推進派の直目付の長井雅楽を暗殺する為に久坂玄瑞とともに脱藩し上京する。しかし長井雅楽は奸物として藩命により切腹してしまったため計画は頓挫してしまう。その後、倒幕運動に奔走した後、八月十八日の政変で京都を追放された三条実美ら七卿が長州藩を頼った時の用掛と右筆になった。元治元年、外国艦隊との戦いに参加し、高杉晋作の功山寺挙兵に加わり藩政権を掌握、これ以降一誠は前原姓を名乗る。第二次長州征伐の際には参謀心得として小倉口に出陣し活躍、慶応三年には小姓筆頭と海軍頭取を兼任する。戊辰戦争では萩から柏崎に上陸し会津征討軍越後口総督の参謀として長岡城攻略に尽力し、会津若松城(鶴ヶ城)陥落の折、城を枕に討死してゆく会津武士に共感を覚え涙したという。明治二年に越後府(新潟県)判事となり戊辰戦争の功により永世賞典禄六百石を賜り参議となり、大村益次郎が死去すると兵部大輔を兼任する。一誠は占領地行政に携わり有能な行政官として様々な事業を行おうとしたが、新政府は財政難を理由にことごとく彼の計画を却下してしまう。人々に仁政を敷くことを夢見ていた一誠は新政府に失望し病気を理由に故郷萩へ帰ってしまう。また、一誠は戦は武士がするもので一般国民を巻き込むものではないとの持論を展開し徴兵制度に反対し木戸孝允(桂小五郎)と対立する。(一誠と木戸は義理の叔父と甥の関係)明治四年の夜半に一誠の自宅に六発の銃弾が打ち込まれ怪我を負う。一誠はこれが木戸の密命を受けた者の犯行と思い込み敵視するようになる。一誠のまわりには藩閥政治に不満を抱く士族たちが集まり新政府はこれを警戒し監視する。明治九年に九州にて神風連の乱と秋月の乱が発生、これに呼応した一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと殉国隊を率いて萩で挙兵する。地租改正、対露対韓政策、政府高官の腐敗などを天皇に訴え、朝廷の奸臣を掃う為の東上軍を五百名余りを率いて山陰へ進んだが、残してきた家族が虐待されていると聞き萩へ引き返してしまう。木戸孝允は待ってましたとばかりに大量の軍隊を投入し瞬く間に鎮圧してしまう。事敗れた一誠は島根県宇竜港で捕縛され萩へ連行される。萩で待っていた木戸の前で首を刎ねられる。死に臨んで「これまで よくがんばったなあ」と自分の体をいたわり身を病みながら国事に奔走した人生を振り返った。享年四十三歳・・


posted by こん at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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