2008年11月05日

松下村塾の四天王 入江九一

入江九一(杉蔵)は天保八年、長州藩足軽・入江嘉伝次の長男として萩土原で生まれる。十三歳頃から藩の下役として働き始め、安政三年、二十歳の時に父・嘉伝次が死去、家計を助ける為に江戸藩邸へ出て働木ながら学問に励む。安政四年、松下村塾生の中谷正亮から入江九一のことを聞いていた松陰は是非入塾させたいと吉田稔麿を通じて勧誘した。しかし江戸藩邸での勤務の為、帰藩後に弟の野村和助よりも遅く入塾する。松陰は九一の純粋無垢で何事にも一直線に突っ走る性格に自分と同じにおいを感じ、九一をこよなく愛した。松陰門下で吉田稔麿、高杉晋作、久坂玄瑞と並び四天王と呼ばれるほどの成長を見せた。師・吉田松陰は日米修好通商条約締結に激怒し、老中・間部詮勝の暗殺を計画した。この無謀な計画に高杉や久坂など四天王たちは反対したが、九一だけは松陰に賛成し血盟者の一人にに加わる。松陰は「久坂君たちは優秀だが度胸がない。入江は国事の為なら命を惜しまない男である」と評している。この計画は漏洩し失敗に終わり松陰は投獄された。九一は他の門下生達と松陰を救おうと藩の重役達に掛け合ったがそのことで自宅謹慎を言い渡される。獄中の松陰の意思を継ぎ、他の松下村塾生達が尻込みした「伏見要駕策」(参勤交代の藩主を京都の伏見で待ち伏せし藩主を担いで朝廷に幕府の失政を問い質してもらおうという計画)の実行の為、弟の野村和作とともに脱藩をしようとするが、塾生からの情報漏洩により発覚し投獄される。身分の低い二人は牢獄で食事すら与えられない苦しい日々を送り、残された母と妹達は貧窮を極めたという。獄中の松陰は自分が目指す「草莽崛起」を塾生の中でただ一人実行している九一に涙したという。松陰が安政の大獄の最後の犠牲者として処刑された後、九一は久坂玄瑞と行動を共にすることが多くなった。文久元年に藩命により常陸国へ出張、水戸藩内の動向を探る為、乞食に身をやつして情報収集を行ったという。文久三年、釈放された九一は足軽から士分に取り立てられ外国艦隊砲撃の際に下関に赴き、馬関総奉行所列座にあげられる。またこの時、同志・高杉晋作の奇兵隊設立に尽力しその幹部に就いた。元治元年、京都において情報収集活動をしていたが、蛤御門の変が勃発、久坂玄瑞らと天王山に布陣していたが敗走、久坂は自決し九一は何とか脱出しようとしたが、銃弾を受けて負傷してもはやこれまでとその場で切腹して果てた。享年二十八歳・・・維新後、松下村塾出身者が新政府の要職を占めたが松陰が最も信頼した「松下村塾の四天王」は皆、維新前に若くして命を落とした。


posted by こん at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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