2008年11月02日

仙台藩の衝撃隊鴉組 細谷十太夫直英

hosoya.png細谷十太夫直英は天保十一年、仙台藩の禄高五十石の仙台藩大番組士・細谷十吉直高の子として生まれた。三歳で父と死別、七歳で母を亡くし、祖父の三十郎に育てられる。しかし、祖父は孫の養育にまったく関心が無く十六歳で元服し家督相続するまで、塩釜の注連寺の寺小姓として過ごす。性格は豪胆にして直情型であらゆる武器・兵器に精通していたという。その後、作事方や普請方役人となり、元治元年には御所御警備兵として上京、下立売御門の警備に当たった。翌年の正月、四条通りの芝居小屋で「先代萩」が上演され大評判と聞き、「史実と異なり仙台藩伊達家の名誉を傷つけた」と押しかけ小屋をめちゃくちゃに破壊し取り締まりに来た藤堂藩士と衝突、所司代に引き渡され御番明けとして国許へ返される。戊辰戦争が始まる、慶応三年に近隣諸藩の状況把握が緊要であると進言し、山形や米沢の様子を観察し報告した。これにより十太夫は軍事方探偵周旋方に任ぜられ、福島県を調査して帰藩したが、この過程で地元の博徒や目明し達と顔見知りとなった。その後、会津討伐が始まり総督府下参謀の世良修蔵殺害がきっかけとなり、奥羽越列藩同盟が結ばれた為、十太夫の偵察範囲が奥羽から江戸へ変わった。江戸へ向う途中の二本松で仙台藩と会津藩が共同で守る白河城が新政府軍に落とされたと聞き、郡山の本陣に軍監・瀬上主膳を訪ねたが、敗戦で打ちひしがれた仙台藩兵を見てショックを受ける。武士に失望した十太夫は本陣近くの蕎麦屋で掛田の善兵衛と桑折の和三郎という顔見知りの博徒と出合、二人を引き連れ須賀川に向った。途中で三人の無頼の徒を加え、須賀川の妓楼柏木屋を貸切「仙台藩細谷十太夫本陣」と書いた紙を貼って兵員を募集し五十七名が集まった。これを衝撃隊として、はじめは変装して情報収集や偵察活動をしていたが、やがてゲリラ活動を主体として活動する。隊員の服装はは少数で戦果を上げる為の夜襲を想定して黒の筒袖小袴、紺の股引脚絆に鉢巻とした。この黒ずくめの服装が衝撃隊=鴉組として敵兵に恐れられ。衝撃隊は矢吹沢まで進み、ここの博徒頭・渡辺武兵衛とその手下十二名を加え、武藤鬼一、新妻新兵衛、蓬田仁蔵、笠原安治らがそれぞれ小隊長として再編成し進軍する。小田川駅周辺で大垣藩斥候と遭遇戦、太田川駅では薩摩、長州、大垣の三藩の斥候と戦火を交えた。地元の猟師を案内に立て地の利を生かした攻撃に敵兵は震え上がったという。白河城奪還を期して仙台、会津、二本松の三藩合同攻撃には根田和山から千台藩の先鋒として出陣したが戦果が上がらず初めて戦死者五名を出した。この頃から新政府軍の中で「細谷カラスと十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」(十六ささげとは棚倉藩脱藩兵十六名で結成された精神隊のこと)という俗謡が流行ったといわれる。しかし、衝撃隊が数々の戦功を上げるに従い夜襲のみの戦いに固執することが許されなくなった。その後の転戦先でも命知らずの博徒を味方に付けよく戦ったが、三春、守山藩など脱盟する藩が相次ぎ白河城奪還を断念、二本松まで後退したがここも落城する。仙台藩も旗巻の戦いを最後に降伏、衝撃隊は藩命により仙台に引き上げ王城寺村に屯所を置いた。しかし、隊員は皆元無頼の徒であった為敗戦後は目的を失い統率が取れなくなった。明治二年、佐幕派狩りが厳しくなり十太夫は知り合いの商人に事情を話し大枚千両を借り受け、主だった隊長を料理茶屋に集め、この金子を手渡し解散を言い渡した。その後、十太夫は西南戦争に陸軍少尉として参戦、日清戦争にも軍夫千人長として従軍した。後年は林子平の墓所がある仙台市の伊勢堂下龍雲院住職となり「鴉仙」と名乗った。十太夫は荒れ果てた龍雲寺の再興に尽力するが果たせぬまま明治四十年に亡くなった。享年六十七歳・・・十太夫の死後、意志を受け継いだ三男・小杉辰蔵が復興を成し遂げたという。


posted by こん at 11:34| Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
矢吹沢の渡辺武兵衛とありますが、矢吹沢とは、どの辺でしょうか
教えて下さい。

渡辺武兵衛親分の墓碑を探しています。よろしくお願いいたします。
Posted by 植田憲司 at 2018年08月11日 20:36
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