2008年10月29日

長州藩の頑固な急進派 来島又兵衛

kijima.jpg来島又兵衛は文化十四年に萩藩の無給通士・喜多村佐治馬正倫の次男として長州高千帆村に生まれる。天保七年、大津郡俵山村の五十九石八斗取の来島又兵衛政常の婿養子となる。柳川藩の大石進に神陰流剣術や槍を習い、弘化三年に江戸へ出て久保田助四郎の道場に入門し剣術修行に励む。生来の大力巨漢で剣と馬術に優れた人物として知られる。嘉永元年、帰藩し家督を継ぎ二十八歳で手廻り組に加えられ、藩世子の駕籠奉行を勤める。安政二年に大検視、安政六年には所帯方頭人に進み、武芸だけでなく算術にも優れた才を発揮する。文久二年、江戸方用所役兼所帯方となって江戸へ行き蔵元両人役に昇進するも帰藩し馬関攘夷戦では総督の国司信濃の参謀として活躍、藩命により猟師八十余名を集め狙撃隊を組織する。狙撃隊を率いて上洛し政務座に参与するも三か月で八月十八日の政変によって帰藩、高杉晋作が奇兵隊を組織すると藩命により三田尻で久坂玄瑞とともに遊撃隊を組織し力士隊などを合わせた諸隊の総督となる。元治元年、藩主父子の雪冤運動の急先鋒として出立し伏見や嵯峨に駐屯して朝廷説得を始めるが失敗し出軍することに成った。高杉晋作はこの無謀な暴挙を止めようとしたが「臆病者」と罵倒し兵を率いて禁門の変が始まる。又兵衛は嵯峨天龍寺から蛤御門で奮戦中に薩摩藩兵に胸を狙撃され落馬、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら喉を槍で突いて死亡する。享年四十九歳・・・来島又兵衛を狙撃したのは維新後、初代警視総監になった薩摩藩の川路利良だといわれているが定かではない。


posted by こん at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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