2008年10月28日

有能な嫌われ者 山縣有朋

yamagata.jpg山縣有朋は幕末には山県狂介といい天保九年、蔵元付け中間・山県有稔の子として長州萩の川村庄に生まれる。五歳の頃、母・松子を失い、祖母と継母に厳しく育てられ不幸な人生を送った。安政五年、狂介が二十五歳の時に松下村塾に入門、吉田松陰は彼の気迫や根性を高く評価していたが、優れた人物に使われてこそ真価を発揮すると評している。確かに、狂介は創意においては凡庸ではあるがその代わり実行者としての能力に優れていた。元治元年、幕府による第一次長州征伐の後、長州藩は椋梨藤太率いる俗論党が藩政を握り幕府恭順派の天下になっていた。高杉晋作は功山寺において決起する為、奇兵隊に協力を求めたが、当時奇兵隊総督の赤根武人は俗論党と話合い解決を進めていた為に出兵を拒んだ。軍監の山県は日和見を決め込んでいたが、送られてきた奇兵隊解散命令書を見てやっと重い腰を上げた。しかし、狂介は他の隊長の意見を聞き自分の意見は決して言わず、負けた時の責任者になることを避けた。狂介は解散を受け入れる素振りを見せ時間を稼ぎ、夜半になって俗論党軍の陣に奇襲をかけ用意していた「討姦の檄」を配った。これは洞春公(毛利元就)の御意思を奉載すると書かれ、戦国時代の雄・毛利元就を持ち出して自らの決起を正当化した。狂介は主力部隊を囮にして敵軍をおびき寄せ伏兵をもって側面より攻撃し俗論党軍を撃滅し高杉晋作の決起は成功した。高杉はたいそう喜び狂介に「わしとお前は焼山かつら うらは切れても根は切れぬ」と決起当初は日和見を決め込み袂を分けたがもう水に流そうという手紙を送った。狂介は用心深く誰も信用せず、誰からも嫌われた歪んだ性格だったが、身分の上下に関係なく対等に付き合い、狂介の能力を高く評価してくれた高杉晋作だけは心を許したという。(高杉の死後、自分の住んでいた土地を提供し東行庵を建立)その後、戊辰戦争が始まると恭介は北陸鎮撫総督、会津征討総督などの参謀として転戦したが、北越戦争では長岡藩の罠に掛かり殆ど逃げるような戦いぶりだったという。維新後を山縣有朋と改名し明治二年、渡欧して各国の軍事制度を視察して帰国する。その後、暗殺された大村益次郎の意思を継ぎ、西郷隆盛の協力のもと軍制改革を行い、徴兵制度を取り入れた。明治五年、山縣は元奇兵隊の同志の政商・山城屋和助に陸軍の公金65万円を無担保融資して焦げ付かせる。当時の65万円といえば国家予算の一割以上の額に相当する大汚職事件に関与し罷免される。陸軍の桐野利秋などは山縣を叩き斬るといきりたったが西郷は大村益次郎亡き後、軍政に長じた人材がいなかった為に山縣を庇い続け、明治六年に陸軍卿に任命された。明治十年、西南戦争で山縣自身が作った鎮台兵を率いて出陣、日本最強の薩摩士族集団と戦う。配下の兵に対して「案ずるな、弾が当たれば死ぬ。相手に斬り込まれる前に撃ちまくれ」と命じ、膨大な兵力と火器を投入してジリジリと西郷軍を圧迫する戦法をとる。山縣は自分の才能の無さを痛感していて「自分と西郷とでは井目の差がある」とまで言い切り5ヶ月もかけて西郷軍を慎重に追い詰めていった。最後の城山での戦闘では400人の敵兵相手に50000人の大兵力を投入した。西南戦争終結後、勲一等旭日大綬章を得て名実ともに陸軍の頂点にたった。山縣は政略眼と力関係を見切る能力に優れ、木戸孝允亡き後の長州閥を集結して政界入りを果たす。明治天皇は彼を嫌い、なかなか政界入りを認めなかったし、大正天皇は山縣が参内するとまわりにあるものを次々と与え、早く帰らせようとしたという。これほどたくさんの人たちから嫌われた山縣だが持ち前の慎重さと堅実さで内閣総理大臣に就任、衆議院議員選挙法を改正し小選挙区制から大選挙区制へ改めたり(小選挙区では強大な政党が生まれやすい)して議会勢力と対立する。その後、山縣閥を形成して軍部や官僚の後ろ盾となり政治に関与し、伊藤博文がハルピンで暗殺されると更に発言力が増していった。しかし、大正時代に入り、大正デモクラシーや社会運動の高揚など時代の変化について行け無くなった。また大正十年、裕仁親王(昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(香淳皇后)の家系に色盲の遺伝があるとして元老・山縣有朋がクレームを付け婚約破棄を迫った(宮中某重大事件)しかし病気療養中の大正天皇に代わって天皇家の代表になっていた貞明皇后や良子女王の父・久爾宮邦彦王、元老の松方正義、西園寺公望が婚約破棄に反対を表明し、最終的には裕仁親王本人の意向で婚約破棄は撤回された。この一件で山縣有朋の権威は大きく失墜し失意のうちに逝去する。享年八十五歳・・・山縣の死に際して維新の元勲として国葬が行われたが参列したのは陸軍の軍人や警察関係が殆どで一般参列者は来なかった。これに対し同時期に無くなった大隈重信は同じ維新の元勲であったが、国葬にはならなかった。しかし一般参列者は30万人を超え、沿道の人手は150万人に上ったと言われている。


posted by こん at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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