2008年10月23日

悲運の三代目奇兵隊総督 赤根武人

akane.jpg赤根武人は天保九年、周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市)の島医師・松崎三宅の次男として生まれる。十五歳のときに妙円寺の海防僧・月性の私塾「清狂草堂」の門人となった。翌年に月性の推薦で長州藩家老・浦靭負の「克己塾」に入門、安政三年には吉田松陰の「松下村塾」に二ヵ月間だけ学んでいる。安政四年に浦靭負の重臣・赤根雅平の養子となって士分に取り立てられる。たまたま長州に来ていた梅田雲浜に従って上洛し、雲浜の私塾「望南塾」に入門する。その後、江戸へ遊学に出るが安政の大獄が始まり武人と雲浜は幕府に捕らえられ投獄される。しばらくして赤根武人だけが釈放となり長州へ帰藩するが梅田雲浜を牢獄から救出しようと計画した。そのことが露見し武人は藩に捕らえられる。安政六年から一年間の自宅謹慎が解けた後、武人は浦靭負に従って上洛する。その後、江戸へ行って高杉晋作や久坂玄瑞ら松下村塾の門下生と尊攘運動に奔走し英国公使館焼討ちにも参加、赤根武人はひとつ年下の高杉晋作とは中がよく御楯組(御楯隊とは別組織)の血盟を結んだ同志であった。その縁で三代目奇兵隊総督に就任する。元治元年、蛤御門の変に敗れた長州藩に第一次長州征伐が始まる。長州藩の藩政は椋梨藤太率いる俗論党(幕府に恭順派)と正義派(奇兵隊など主戦論派)が対立、藩庁は俗論党が実権を握り正義派弾圧をはじめ、奇兵隊にも解散命令を出す。赤根武人は穏便に話し合いで解散命令を取り下げてもらえるように藩庁に乗り込み談判する。ようやく奇兵隊を残すことにまとまった矢先に高杉晋作は功山寺挙兵に出た為、友人高杉を非難し対立、しかし奇兵隊はナンバー2の軍監・山県狂介(山縣有朋)が実権を握り功山寺挙兵に遅ればせながら参戦する。この挙兵により正義派が勝利し藩政は正義派が牛耳ることになる。武人は同志から俗論党のスパイ、裏切り者と疑われ慶応元年、脱藩して大坂へ逃走する。大坂で幕府に捕らえられた武人は獄中で第二次長州征伐のことを耳にする。長州藩が幕府によって滅亡すること御を恐れた武人は「もし、私を釈放してくれれば、長州藩を説得し幕府に従わせることに尽力する」との上申書を提出、新撰組参謀・伊東甲子太郎の斡旋で幕府大目付・永井尚志が武人の願いを聞き入れ、長州尋問のために下向する永井の随員となった。しかし長州藩の強固な抵抗に入国することの出来ない永井は京都に戻るが、武人は故郷の柱島に潜伏し形勢を探って長州と幕府を和解させようと周旋に動くが誰にも相手にされず。岩国に潜伏中のところを長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。武人は山口に送られるが一度も審問がないまま「奇兵隊総督当時に馬関戦争において敵前逃亡した罪」により斬首され、首級は出合河原に晒されて内臓まで引き出された惨い最期をとげた。享年二十九歳 死に望んで赤根武人は獄衣の背に「真はも誠に偽りに似 偽りは似って真に似たり」と書いて悔しさにすすり泣いたという。(赤根武人は実際には敵前逃亡はせず、下関砲台がイギリス人に占拠されるぎりぎりまで部下数十人と守りぬいたと白石正一郎の日記には記されている。これは山縣有朋が軍監時代に部下の給金をピンハネし、それを総督の赤根武人に見つかりけん責されたのを恨みを持っていた山縣の無理押しで処刑されたという。その証拠に、赤根武人処刑の報を聞いた長州長府藩主・毛利元周は自ら藩庁に赴き助命を求めたが間に合わなかったという。また高杉晋作も赤根武人が処刑された翌年、病床で「俺は赤根を救うことが出来なかった」と後悔の言葉を残した。高杉も赤根も同じ長州藩を救いたいという気持ちからとった行動で高杉は英雄となり、赤根は裏切り者として処刑されるという不思議な運命の巡り合せを見た。


posted by こん at 17:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
真の正義はどうしてこんな最後を遂げるのか。
会津藩をみたきがした。
Posted by あああ at 2013年12月15日 16:14
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